リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

25 / 41
9-1《少年×少女》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洞木ヒカリは花瓶に入れられたその花びらをそっと撫でた。

 

どこか安心するような、穏やかな香りが鼻をくすぐる。

白い花瓶に活けられたそれは控えめで美しくたおやかで、それ自体がその贈り主の人となりを物語っているように思えた。

 

誰がくれたんだろう。

 

ドアの前に置かれていたらしいそれは、当然名前なんて書かれているわけも無くて。

まさか、鈴原じゃないわよね?と一瞬よぎったその考えを笑う。

 

ありえない。

 

鈴原がそんな事するとは思えないし、万一鈴原だったとしても、こんな花を選ぶ繊細さがあるとは思えなかった。

そもそもしょっちゅう見舞いに来てくれていた(らしい)のだから、黙ってドアの前に置く必要も無い。

 

なら、きっと別の誰かなのだ。

誰だろう?もちろん彼女に心当たりなどありはしなかった。

 

すると、おじゃまします、とおずおずと関西弁が聞こえた。

来た、と咄嗟に髪を撫でて、身だしなみをさっとチェックして、問題ないと頷いて。

 

彼が姿を現すのをじっと待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

・青Ⅶ 《少年×少女》

 

 

 

 

 

 

・Ⅰ

 

 

 

 

「おーす洞木」

「相田君!久しぶり」

 

登校中。

よく聞き慣れた男子の声にヒカリは振り向いた。

 

「意外と元気そうだな。皆心配してたんだぜ」

「そう?」

「もちろんトウジの奴も」

 

彼女はやんわりとはにかんだ。

 

「うん…それは知ってる」

「ああ、あいつよくお見舞いに行ってたもんなあ」

 

ふふん?とケンスケは悪戯っ子のように。

 

「トウジと何か進展あった?」

「ないわよ!そんなの…」

「マジで?そんな事言ってあんな事やこんな事あったんじゃないの~?」

「…だって、鈴原よ?」

「……あー……」

 

すまん、聞いた俺が馬鹿だった、とケンスケは素直に非を認めた。

ヒカリはくすりと笑った。

 

「相変わらずねえ相田君」

「そーゆー委員長もな。一時意識が戻らないって聞いて本当に心配してたんだぞ」

「うん、もう大丈夫。それより、学校の方はどうだった?」

「あー、色々会ったよ。主に転校生が二人。しかも」

 

と、言ってケンスケは口をつぐんだ。

 

「…しかも?何?」

「あーいや、その内わかるさ…」

 

何となく言い難そうに、ケンスケはそのまま黙った。

 

と、噂をすれば。

ケンスケは大声で前を歩くその二人を呼んだ。

 

「シンジ、惣流!」

 

二人はまったく同じタイミングで振り向く。

ケンスケが一足先に駈け寄った。

 

「お前らも久しぶりだなあ。ここ何日か休んで何やってたんだよ」

「あんたには関係ないでしょ」

 

彼女が緋色の髪を手で後ろに流してそっけなく言った。

その様子に、シンジに顔を近づけてこそこそ小さい声で尋ねる。

 

「やっぱ…エヴァか」

「うん、訓練とかしてたんだ」

「そっか…」

 

すると、後ろから相田君と、ヒカリの声。

 

「もしかすると、転校生の人たち?」

「そ。紹介するよ、こっちが碇シンジ」

 

シンジはとっさにペコりと頭を下げた。

ヒカリも吊られてペコりと下げた。

 

そしてその少年を改めて見た。

華奢で背もヒカリと同じくらいしかなく、小学生ぐらいにも見える。

短い髪をした女の子のような整った顔をした少年だった。

 

「で、こっちが」

「惣流アスカラングレー。であんた誰よ」

 

その険のある言い方にちょっとびびりつつ。

すんごい美人、とヒカリは思わずため息をついた。

まさに和と洋いい所取りという感じで、そこらのハーフタレントよりよっぽど綺麗だった。

 

「あ、でこっちが内の委員長で」

「洞木ヒカリです。よ、よろしく」

 

と、シンジの動きが止まった。

まじまじとヒカリを見て。

 

そして、顔を伏せた。

 

 

 

 

「あれ、碇君」

「あ、洞木さん」

 

教室にはもう誰も居なかった。

当然だろう、クラス委員の仕事が遅くなってもう下校時間ぎりぎりだったから。

 

「その、あの…用があって」

 

彼はおずおずそんな事を言って。

 

「実は、あの僕、その」

「…エヴァのパイロットなんでしょ?」

 

彼は目を丸くした。

 

「…鈴原から聞いてる」

「あ、そうなんだ」

 

少し間があって、それからヒカリは静かに口を開いた。

 

「…碇君が悪いんじゃないから」

 

彼女のその言葉に彼は顔を上げた。

 

「むしろこっちこそごめんね。なんか鈴原が碇君のこと殴ったって…」

「あ、それは別に…」

「私からみっちり叱っといたから。ごめんなさい…」

「そ、そんなの」

 

と、言いかけて、もごもごと口をつぐんだ。

ヒカリはその様子を眺めながらそっと口をきった。

 

「…あの日丁度妹が具合悪くて寝込んじゃっててね。

 妹はまだ小学生だし、でも電話も通じなくて、それでシェルター抜け出して…」

 

少しの沈黙。

 

「…だからね、碇君が悪いんじゃないの」

「…でも、妹さん」

「うん…頭強く打っちゃって、その」

 

彼は、うなだれた。

 

気まずく、とてもとても長い沈黙が流れた。

 

 

 

 

 

 

シンジは、一人で帰り道を歩いた。

 

今日の夕日ももちろん綺麗だったが、雲が無いので60点と言ったところだった。

夕日も青空も、月の出る夜空でさえ、それをより美しく引き立ててくれるのは常に雲だったから。

 

第三新東京市は不思議な街だった。

 

これだけ発展した大都会なのに、奇妙なほど人が少ないのだ。

今も帰宅の時間のはずなのに、見渡してもぽつり、ぽつり、としか人影は無かった。

 

そして、少し都心を離れると驚くほど豊かな自然が広がっている。

そのギャップはやはり少年の何かに触れてくるのだった。

 

この街が、好きかも知れない。

 

少年はぼんやりと、そう感じ始めている自分を自覚していた。

 

でも。

 

ビルとビルの狭間から見える夕日が綺麗だった。

都会のビルや、そういった人工物も空を美しく見せてくれるのだな、と彼はこの街に来てから学んだ。

 

でもやっぱり空は狭かった。

そしてだからこそ、ビルの間の夕日は驚くほど大きく見えた。

 

少し道を逸れて、途中にある、目当ての書店に入る。

ようやく頼んでいた本が届いたのだった。

 

“ブレイク詩集”

 

カバーをつけてもらって、書店を出る。

すぐにぱらぱらとめくった。

 

『無心の歌』

『有心の歌』

『セルの書』

『天国と地獄の結婚』

『永遠の福音』…

 

目当ての詩が収録されてるのを確認してうん、と頷いた。

本当は白い少女が持っていた無心の歌、有心の歌という題の古い方が欲しかったのだが、在庫が無いらしかった。

 

高台の公園からは湖が見えた。

 

異様に静かだった。

都心のせいか蝉すら鳴いていないようだった。

でも夕日の赤はやはりそれ固有の音を鳴らしていた。

 

ぽーん、と音が鳴った。

 

周りを見回す。

人っ子一人居なかった。

 

ベンチに座って、楽譜を手に取って、シャーペンで幾つかの音を書いた。

また少し、寄せ集まったようだった。

楽譜をカバンの奥にしまって、湖に沈み行く夕日を見た。

 

ふと、買ったばかりの詩集を手にとって、ぱらりとめくり、目に入ったそれを読んだ。

 

 

 

 

 “よろこびという名のおさなご”

 

 

 『「わたしに 名は無い

   生まれて たった二日だもの」

 

  なんとおまえを わたしは呼ぼう

 

  「わたしは しあわせ

   よろこびが わたしの名」

 

  たのしい喜びよ!おまえの上にあれ!

 

  いとしい喜び うまれてたった二日の

  たのしいよろこびと わたしはおまえを呼ぶ

  おまえはにこにこ笑う

  そのあいだ わたしは歌う

  たのしいよろこびよ おまえの上にあれ!』

 

 

 

気がつくと不覚にも黄昏の時間は過ぎて、青黒く、でも美しい、まるで水の底のような空が視界を埋めていた。

 

そろそろ帰らないと、と彼は思った。

でも、少年はまんじりともせず、灰暗く過ぎていく空をひた向きに見つめ続けた。

 

 

もう帰らないと。

 

帰らないと。

 

帰らないと…

 

 

『何処に』

 

 

彼は、唐突に思った。

綾波に、会いたいな。

 

夕日の残滓すら湖に沈んで、空を暗く照らした。

 

それでも青黒い空はまだ僅かに夜に抵抗していて美しかった。

でもそれも最後の足掻きだった。公園の電灯がぱ、と点いてしまったからだ。

こうなってはもう無理だった。

完全に夜に敗北して、それでも少年はまんじりともせず、ただ空を見続けていた。

 

すると涼やかな気配がした。

 

静謐で清く、まるで水面のような、あるいは夜を纏うような。

ふと、空から視線を外して気配の方向を見る。

 

あ、と彼は思わず漏らした。

 

「何してるの、貴方」

 

涼やかな声が、彼の琴線を優しく撫でた。

白い少女が、涼やかにベンチに座る彼を見下ろしていた。

 

ゆっくりと、二人で高台の公園を歩いた。

 

もう完全に夜になっていた。

電灯の人工的なジジ、という音だけが鳴っていた。

 

まったく同じ歩調で隣を歩く少女とはやはりあまり話さなかった。

でも、当然彼女との間の沈黙は、いつだって心を落ち着かせてくれた。

 

彼は彼女の横顔を見た。

夜と、淡い電光に照らされた彼女は何故か、ひどく儚く見えた。

 

「あの、綾波今日学校休んでたけど…」

「本部で色々実験してたの」

「そうなんだ…」

 

すると、ぽつりと彼女が囁いた。

 

「貴方、帰らないの」

「…帰るよ、その、」

 

もう少し後で。

そう、と彼女は言ってまた沈黙した。

 

風が吹いて、二人の輪郭を柔らかく撫でた。

それに押されるように彼は口を開いた。

 

「綾波は…どうして、あそこに暮らしてるの?」

 

まるで廃墟のような、あの寂しくも美しい団地。

 

「必要だからよ」

「…どうして?」

「警備にも、私を隠すのにも、きっと便利だから」

 

意味がよくわからなくて、首を傾げる。

そしておずおず、彼は言葉を重ねた。

 

「…どうして、父さんと暮らさないの…?」

 

僅かな沈黙。

やはり彼女は涼やかに言った。

 

「貴方はどうして、碇司令と暮らさないの」

 

今度は、彼の方が沈黙した。

 

そういう事よ、と彼女は静かに囁いた。

彼は、少しうなだれた。

彼女はそんな彼の様子を眺めて、ぽつりと言った。

 

「何か、あったの」

 

その言葉に彼は目を丸くした。

 

「…どう、して?」

「別に」

 

彼女は涼やかに言って視線を前に戻した。

今度は彼がその様子を眺めて、同じくぽつりと。

 

「あの、委員長さんがね、今日登校したんだ」

「そう。意識戻ったのね」

「うん…でも…」

「何か言われたの」

「ううん…むしろ謝られたんだ」

 

彼は静かに言葉を重ねて。

 

「でも、妹さんは頭強く打ったらしくて…まだ、意識戻らなくて」

「そう」

「でも、なのに、謝ってくれて」

「それで、どうしたの」

「だって…僕、僕がちゃんとしてれば」

「貴方のせいじゃ無いと言ったわ」

「でも…」

「責めてもらいたかったの?」

「…ううん」

 

わからない、と言って。

 

「でも…なんか、頭がぐちゃぐちゃしちゃって」

 

彼女は突然立ち止まった。

当然彼も歩みを止めて。

 

「貴方、私の事、守ってくれたでしょ」

 

彼は目を瞬かせた。

 

「貴方は、誰かに罪悪感を持つ必要なんてないわ」

「…でも」

 

彼はそっと彼女を見つめた。

すると、ぱしり、とゆるやかに手首を引かれた。

 

やっぱり前髪がこそばゆかった。

 

そしてやっぱり、彼女は猫のように目を細めるだけで瞑らなかった。

湿った、とてもとても柔らかい彼女の唇が、彼の何かを愛撫するようだった。

 

彼女とのくちづけは何時も、シンジの何かを波のように深く揺さぶって、

何故か、暖かいような悲しいような感覚が寄せ返して、目頭が熱くなってしまうのだった。

だから、目が潤み始めた自分を感じて、彼はゆっくりと唇を彼女のそれから離した。

 

そして、彼女の視線が恥ずかしくなって、彼はほとんど無意識に浅く彼女を抱き寄せた。

彼女も、ゆるりと彼の背に手を回してくれた。

それに彼の琴線が震えてしまって、つい吐息を漏らした。

 

「…綾波」

「何」

 

彼女の声が耳をくすぐって、彼は改めてその声質を不思議に感じた。

 

一見冷淡で、でも決して冷酷ではなく、涼やかで、なのに。

どこか柔らかくて、優しさすら感じるのだ。

とても不思議で魅力的な声だった。

ずっと聞いていたいな、とシンジは思った。

 

この先も、ずっとずっと、何時までもずっと、聞いていたいな、と彼は思った。

 

だから彼はそっと、口をきった。

 

「綾波を、エヴァに乗る理由にしちゃ、駄目、かな…」

 

すると、彼女がすこし首を傾げる気配がした。

 

「綾波を、理由にしちゃ、迷惑かな…」

「…どうして?」

 

どこか不思議そうなトーンで、彼女はそう答えた。

 

「…やっていけそうな気がするんだ」

 

彼は静かに紡いだ。

 

「綾波が理由になってくれるなら、僕は…この先もエヴァに、乗っていける気がするんだ…」

 

彼女が沈黙した。

僅かに、彼女から困惑のような空気がした。

 

「嫌、かな…?」

「…別に、嫌じゃない」

「…いい?」

「…ええ」

 

それが嬉しくて、シンジはきゅ、と少しだけ強く彼女を抱きしめた。

彼女も、きゅ、と彼の背を抱きしめ返してくれた。

 

すると、涼やかな何かが彼に覆いかぶさるような気配がした。

その不思議な感覚に目を瞬かせる。

何か、透明な膜のような物の中に、自分が居るような感じがした。

ああ、これはきっと彼女が何時も纏っている空気の中なんだ、と脈絡も無く直感した。

 

僕は今、彼女の内側に居るんだ。

 

彼は、この時の感覚を忘れなかった。

そして後になってこの感覚の意味を理解した時、もう何もかもが手遅れだったのだ。

 

それはまだ、未来の話だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/8/29

 

参考文献

ブレイク詩集 岩波文庫


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。