リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
「なあトウジ。外出てみないか?」
「なんでや」
シェルターの中でクラスメート達が談話していた。
普段から数えられないほど避難訓練している事もあり、誰も緊張した様子は無かった。
もちろん、それはただの現実感の消失でしかなかったが。
「だってさ、きっとシンジはこれから戦うんだぜ?」
「なんや下の名前で。お前らそんな仲良くなったんか」
「なあトウジ…本当にいい加減にしようぜ。あいつ俺らのために戦ってくれてるんだぞ?」
トウジは相変わらずムスッとして聞き流した。
その様子を眺めながらケンスケは真剣な口調で言った。
「なあ…もし委員長なら、あいつの事責めると思うか?」
ぴくり、とトウジが動いた。
「そんな訳ないよな。何せ洞木だぜ?むしろ邪魔して悪かったって思うんじゃないか」
「そりゃ…」
トウジは反論出来なかったらしく、もごもご口を動かす。
「だからさ、見に行こうぜ。お前が殴ったせいで何か影響あったらどうするんだよ?
俺達にはあいつの戦いを見守る義務があるんじゃないか」
ちなみにこれはケンスケの本心だった。
もちろん使徒やエヴァを直接見たい、という下心もあったが、シンジが心配なのも本当だったのだ。
むう、とトウジは唸った。
そして空に浮かぶ巨大な六角形のそれを見たとき、二人はあんぐりと口をだらしなく開けた。
その映像はあまりにも現実離れしていて、それこそ想像の埒外だった。
「す、すげえ!」
遅れてケンスケが写真を取り捲る。
トウジはまだ自失したままだった。
と、振動。
二人は思わず顔を見合す。
すると現れたのは、ビルを超える高さの、紫の巨人だった。
今度こそ二人は何も言えなかった。
それは、あまりに神々しく、禍々しく、まさに神話の世界の神か悪魔に見えて。
そして光と熱波が二人を襲ったのだった。
咄嗟に倒れこんで、見えたのは巨人が光の線に襲われる姿だった。
数秒後、来た時のように巨人が地面に吸い込まれて消えた。
ビルの間から熱が、放出されていた。
景色を歪ませ、地面を赤く染めていた。
こんな距離ですら熱く火傷しそうだった。
二人はただ、あまりにスケールの大きすぎるそれに呆然として。
「シンジ…やばいんじゃないか…」
呟かれたケンスケの台詞に、トウジは、はっと顔を歪ませた。
・
「難しいわね」
赤木リツコは研究所でコーヒーを飲みながら呟いた。
「そうでしょうね」
ミサトもコーヒーを啜りながら相打つ。
「それでも、無茶は承知でやるしかないわ」
「…せめて、零号機があればね」
リツコはやはりため息をついた。
そうすれば勝率は遥かに上がったでしょうに…。
ミサトが立てた作戦はシンプルだった。
初号機によって使徒のATフィールドを中和し、丸裸になった使徒に通常兵器で攻撃する。
確かに、エヴァが一機しかない以上それしかないだろう、とリツコも思う。
だが問題は山済みだった。
「レイのATフィールドで果たして中和できるのか、が最大の問題よ」
ミサトが低く言う。
出来ればシンジに乗って欲しがっているのは明白だった。
シンクロ率、ATフィールドの出力共彼のほうがレイより二周りは上なのだから。
何より、レイは実践でのATフィールドの使用経験がないのだ。
つまり場合によっては使徒のそれが強力すぎて中和できない可能性もある。
出来たとしてもどこまで接近すれば良いか…。
そして使徒は初号機のATフィールドをやすやす貫くような強力無比な遠距離攻撃が可能。
スペースシャトルの部品を使って盾を製作中だが、MAGIの計算では20秒持たない。
失敗した場合、レイは無駄死にになるだろう。
だがどちらにしても、負けたらサードインパクト…。
「シンジ君の様態は?」
「さっき一時的に目が覚めたけど、今も昏睡状態」
「…念のためシンジ君のプラグの換装準備もしといて」
リツコはミサトをまじまじと見た。
「…本気?」
「失敗したらサードインパクトでみんな死ぬわ。」
「…確かに、なりふり構ってられる状態じゃないわね。いいわよ」
「それとさ、使徒はどうして初号機をピンポイントで狙撃したの?」
それまで通常兵器で散々攻撃したのに、使徒は反撃するでもなくそれらをまったく意に返さなかったのだ。
だからミサトは油断してしまったのだった。
にもかかわらず初号機が現れたとたん…。
「学習、してるのかもしれないわね」
リツコは思案しながらそんな意見を言った。
「…使徒同士に、何かしらのネットワークがあるってこと?」
「そんな可能性も否定できないでしょう。何せ未知の生物なんだから。
つまり、先の使徒戦で初号機をはっきり敵性と判断したのかもしれないわ」
ふむ、とミサトは唸った。
すると備え付きの受話器が鳴った。
リツコはそれに出て幾つか相槌を打つと、受話器を置きざまミサトに振り向いた。
「碇司令が帰ってきたわよ」
「ようやく?ずいぶん会議が長引いたのね」
「でも、手土産もあるみたい」
リツコは少しだけ明るく言った。
「ドイツのエヴァ弐号機、セカンドチルドレン共にあと3時間で到着だそうよ」
青Ⅴ“AsukaⅠ”《緋色は金色を内包する。
まるでライオンのたてがみのように見えた》
・Ⅰ
「ご苦労だった、葛城三佐、赤木博士」
「はっ!」
指令室で重く響いた声に、ミサトは緊張しつつ敬礼をした。
それに反して隣のリツコは自然体だった。
実はミサトはゲンドウが苦手だった。
正確には接する機会があまり無いため、その威圧感を含め未だ慣れていないのだ。
ゲンドウははっきりとある種のカリスマを持つ男だった。
髭にサングラス、さらに長身な体躯はそれだけでも威圧感を与えるには十分だった。
さらにはその低い声やどんな事にも動じないその姿勢が与える緊張感と言うのは、最高司令という肩書きは伊達ではない、とミサトに納得させた。
「かまわん、楽にしろ。詳しい報告を」
それにリツコが淡々と報告する。
「したがって現在のペースであれば約8時間34分で使徒はセントラルドグマに到着します」
「よかろう。エヴァ弐号機とセカンドの到着は十分間に合う。葛城三佐、急いで作戦の練り直しを。
赤木博士、念のため直ちにレイと初号機のシンクロテストを」
はい、と揃って声を上げた。
「赤木博士、冬月から大体のことは聞いた。」
「はい」
ミサトが去った後の司令室で二人は言葉を重ねた。
「計画は…白紙以外に無い、と?」
「使徒化のリスクに目を瞑るなら継続は可能ですが…」
「かまわん。計画は継続する」
リツコは目を見開いた。
「…よろしいので?」
「ああ。どちらにしろ零号機は破棄、初号機もシンジが乗る、ならレイは計画に集中させろ。」
「新しいエヴァの建造はどうなっているのでしょうか」
「参号機、四号機がロールアウト直前だが…こちらに回すには渋るだろうな」
「…わかりました。この作戦が終わり次第、レイは計画に集中させます」
「ああ」
リツコは少しの躊躇の後、低く呟いた。
「…ご子息、今は意識を失っているだけですが、一時命が危ぶられました」
「そうか。他に用件は」
「ありません」
「では急げ。時間が無い」
…はい、とリツコは返事をして、そっと踵を返した。
・
『…碇司令が?』
「ええ、ようやく帰ってきたわ」
その報告に、白い少女は肩の力を抜いた。
その様子を眺めながら、リツコは事務的に続ける。
「ではこれよりシンクロテストを開始します。レイ、慣れてる初号機だから緊張する必要は無いわ」
『はい』
「では、シンクロ開始」
何時もの海に潜る。
やはり、懐かしい、郷愁のようなものを感じて、でも、何か違和感があった。
何?とレイは首を傾げる。
生命に満ち満ちた海。
初号機の海はいつだってそんな印象を彼女に与えていた。
なのに生命が居ない。
これではまるで。
死海だ。
すると、奥に潜っていく内に何か白いものが見えた。
いや、白じゃない、銀?
銀色の、鯨?
歌が聞こえた。
その鯨が歌っているようだった。
それが、少しずつレイに近づいて。
その、大きな口を開けた。
「パルス途絶!」
「なんですって…?」
そのマヤの報告にリツコは絶句した。
「駄目です、神経断絶!シンクロ出来ません!」
「これは…」
リツコは愕然としながら呟いた。
「初号機が、拒絶してるの…?」
レイはエントリープラグの中で必死に嘔吐を我慢していた。
そして確信した。
ああ、つまり。
「もう…駄目なのね…」
彼女はゆっくり背もたれに身を預けて。
息継ぎするように、喘いだ。
・
何か呼ぶような声が聞こえて、ふっとシンジは目を覚ました。
歌が、聞こえたような気がした。
とてもとても綺麗な歌だった。
もう一度聞きたいな、と思い耳を澄ませた。
だが聞こえてきたのは、雨の歌だけだった。
・
「シンジ君、今度ははっきり目を覚ましたわ。衰弱してるけど、シンクロなら問題ない」
リツコはミサトとオペレーター全員が揃った発令所でそう告げた。
「…まさかレイが初号機とシンクロできないなんてね」
そのミサトの言葉にマヤが答えた。
「初号機は最初の使徒戦でS2機関を得ています。
私たちには認識できない領域で何かしらの変質が起こっていても不思議ではありません」
「初号機がレイを拒絶したのかもしれない、と聞いたけど…」とミサト。
「あくまで憶測よ。ただパルスの途絶も神経接続の切断もエヴァ側が行っている。
状況を考えるに、やはり拒絶した、と考えるのが自然ね」
リツコの言葉にミサトはため息をついた。
「シンジ君には悪いけど、すぐにシンクロテストしてもらいましょう。これでシンジ君も乗れないなんてなったら…」
重い沈黙が場を一瞬支配した。
「…まだ時間はあるわ。アスカと弐号機は?」
「もうすぐよ。一時間もしないで来るわ」
「いいわ。最悪弐号機だけの作戦も織り込んで…リツコ、ちょっぱやでシンクロ準備たのむわ」
・
まだ、雨は激しかった。
病室の窓にいくつもの水滴がぶつかって、何かしらの音楽を奏でているようにすらシンジには聞こえた。
この音楽もきっともう二度と永遠に再現されない音に違いなかった。
その病院は相変わらず白く無機質だった。
例によって例のごとくやっぱり世界に独りきりになったような気がして、まあそれもいいかな、と考えた。
すると、静かな足音が聞こえた。
やっぱり杞憂のようだった。
ドアを開けて入ってきたのは、トレイをもった綾波だった。
無事だったんだ、とその姿に安堵する。
一瞬見詰め合って、椅子に座った。
と、シンジは横になったまま聞きたかったそれを口に出した。
「あの、使徒は…?」
「いいえ、まだよ。継続して進行中」
シンジは少し顔を傾けて。
「綾波が、乗って倒したんじゃないの?」
「いいえ」
彼女は無感動に言った。
「私にはもう、初号機も乗れないもの」
意味がわからなくて目を瞬かせる。
すると、彼女は相変わらず涼やかな声で言った。
「食べて。貴方はこれからシンクロテストしなければいけないから」
「…僕が?」
「ええ。初号機には、きっともう貴方以外乗れない」
「ど、どうして?」
「初号機がそれを望んでるから」
その意味は当然シンジにはわからなくて。
変わりに、声を少しだけ震えさせながら言った。
「…僕、僕一人だけで、あの使徒と…?」
シンジは、あの内臓が焼けるような激痛を思い出して、思わず震えた。
「その心配は無いわ。もうすぐエヴァ弐号機とセカンドチルドレンが来る」
「…ドイツに居るっていう…?」
「そう。だから、貴方は一人で戦うわけじゃない」
彼は今一実感がわかなくて、顔を伏せた。
「…食べて。すぐにテストがあるから」
あ、うん…、と彼は上半身を起こそうとして、ぐにゃっと横たわった。
「あ、ご、ごめん、なんか力が入んないや」
「…怖い?」
その唐突な質問にシンジは正直に答えた。
「…うん」
「…そう」
すると、彼女はスプーンにお粥を乗せると、シンジに差し出した。
きょとんとして、でもシンジは素直に口を開けた。
「おいしい?」
「…あんまり味がしないや」
「そう?」
彼女はスプーンで一口食べてみた。
「…まずいわね」
「…でしょ?」
シンジは微かに笑った。
「…ごめん、あまり食べたくないや。食べにくいし」
「そう」
彼女は少し彼を見つめた。
どれだけ見てもやっぱり綺麗な目だった。
すると何を思ったのか、彼女は耳にかかった髪をかき上げると、椅子を立ち、ベッドの隅に腰掛けた。
重みでベッドが歪む。近くに座ったので彼女の静謐な良い香りが鼻をついた。
すると、彼女はお粥を口に含み咀嚼した。
変わりに食べてくれるのかな、と思っていると、彼女がこちらを向いた。
後頭部に彼女の手の感触。
きょとんとしていると、ゆるりと引かれる。
斜交いに、口と口が合わさった。
やはり彼女は目を細めるだけで瞑ろうとしなかった。
と、シンジの口に何かが流し込まれて。
何故か、それはほんのり甘かった。
口を離すと、彼女の唇と彼のそれに唾液の橋が出来ていた。
でも一瞬で、ぷつりと途切れる。
彼女はまるで何事も無いようにもう一度お粥を口に含むと、咀嚼した。
彼はようやくの事、りんごのように赤面した。
「あ、の、あやな、あや、あやなみっ」
の途中やはり後頭部を引かれて、口移し。
不思議だった。やはり、彼女が咀嚼した後のそれはとても甘かった。
ごく、と喉を鳴らす。ちゅ、と音がして彼女が唇を離した。
彼の胸が疼く様な、と同時に爆発するようなほど鼓動が高鳴った。
「あ、あの、綾波、やっぱり食べる、一人で食べる…」
と、上半身を起こそうとするが、やっぱりまるで力が入らなかった。
「嫌?」
「そ、そうじゃなくてっ」
「なら静かにして」
やはり彼女は、今度は魚の切り身を咀嚼して。
結局、甘く味付けされたそれを食器が空になるまで、口移しで食べさせられた。
最後の一口で、彼女がそっと唇を離す。
そして至近距離で寝そべったままの彼を見下ろした。
彼も彼女の瞳を見上げて、でも彼女はやっぱり無表情で、照れても居ないようだった。
それに反してきっと自分は目も当てられないぐらい赤面してるだろうなあ、と彼は考えた。
ふと、シンジは彼女の紅い目を見つめたまま、衝動で彼女の首筋におずおず手をやって。
彼女は抵抗もせず。そっと、唇と唇が触れ合った。
数秒の触れるだけのくちづけをすると、どちらからとも無く離した。
「…どうしてなの、綾波…」
「何が」
やっぱり彼女ははっきりとは答えてくれなくて。
「そろそろシンクロテストの時間よ。発令所まで手を貸すわ」
彼女は今までのそれが無かったかのようにクールに言って、立ち上がる。
そして彼女は、背を向けたまま、こう答えたのだ。
「貴方が死んでも、代わりはいないのよ」
忘れないで。
当然、彼女がその言葉に込めた意味などシンジにわかるわけもなく。
彼はただ、真摯に彼女の背を見つめるしかなかったのだ。
・
彼女はエヴァキャリアーの窓をぼんやりと眺めていた。
そしてその天気の悪さにむかっとくる。
このアタシがわざわざ遠くから来てやったってのにどういう了見よ。
などと無茶な抗議を空に対して内面でぶちまける。
「流石に初の使徒戦、緊張するか?」
その男臭い良い声が聞こえた瞬間、その不機嫌さが嘘だったかのように明るい声で口を開いた。
「加持さん!」
と、その無精ひげに後ろで髪を結んだ男と腕を組む。
「別にそんなんじゃないわ。遅かれ早かれ経験することだし」
「だが、あの初号機が一撃でダウンしたんだぞ。相当に強い使徒だ」
なにせ初号機は単機で二体の使徒を倒したんだからな、と内心で独り言ちる。
「わかってるわよ。だからこのアタシが呼ばれたんでしょ?」
ふふんと自信満々に宣言する。
「大丈夫よ。このアタシが一瞬でけちょんけちょんにノしてやるわ。
で、そのぽっと出のサードに格の違いを見せてやるわよ」
もちろん、そこに強がりがあるのを加持という男が洞察出来ないわけが無い。
初の実戦である以上怖いに決まっていた。無論、加持はそれに気づかない振りをして。
「そのサードチルドレン、どうやら意識が戻ったらしくてな、初号機には彼が乗るそうだ」
「なんで?あっちにはファーストチルドレンも居るんでしょ?」
「ところがな。シンクロ率、ATフィールド共にサードの方が上らしい」
彼女が目を丸くした。
「…ぽっと出のサードの癖に!?」
「ああ。何せ彼の初シンクロ率は67%だったからな」
おっと、これは一応機密だから皆には秘密だぞ、と付け足す。
だが、それを聞いたとき彼女の顔がはっきりと歪んだ。
「…初めてで67!?」
彼女は震えると、キッと別人のような顔つきになった。
「…ふざけんじゃないわよ」
アタシがそこまでいくのにどれだけ…!
ぎりっと唇を噛む。
ふざけんな!
「いいわ。見てて加持さん。アタシが本物のチルドレンの実力を世界に見せつけてやる。」
まるで気力で満ち溢れたようだった。
彼女の誇り高さが彼女を支えていた。
初の実戦の不安など彼方に消えていた。
それを見て加持は微笑んだ。
「ああ…アスカならきっと出来るさ。」
「もちろんよ!」
やってやるわ。
見てて、ママ。
そして彼女は目を光らせその嵐を眺めた。
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