リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

16 / 41
6-1《水族たちの行き着く処》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんど夜に成りかけの空は美しかった。

 

 

上は夜で、視線を下げると青い空で、地平線は赤い夕日。

 

三つの空を同時に楽しめるその成りかけの時間、一日でたった数十分だけのその時間はきっと最も美しい時間だった。

その空を眺めながら、ふとシンジはどんなものも中間の、つまり“成りかけ”が一番綺麗なのかもしれない、とぼんやり考えた。

 

くしゅ、とくしゃみ。

 

ずずずと鼻をすする。

日が暮れて急激に気温が下がって、更に上から下までずぶ濡れのシンジは寒さにぶるりと震えた。

 

「風邪を引くといけないから、急ぎましょ」

 

先に階段を上がっていた彼女が踊り場で振り向いた。

シンジは見上げて、限りなく黒に近い赤の色に染まっている彼女は、やはり何か別の世界の人のように思えてしまった。

うん、と頷いて一段抜かしで階段を上る。

 

彼女の部屋がある階について、改めて人の気配の無い団地だな、と彼は思った。

その団地の廊下はやっぱり赤黒く、電球すら点いていなくて仄暗く、目を凝らさないと良く見えなかった。

なのに地平線は赤く輝いていて、一秒ごとに色が変わっていくその様子は、シンジの琴線に触れて、りん、と鳴らした。

 

まるでその音を再現したようにひぐらしが鳴いていた。

 

シンジには、その声はやはり、この成りかけの一番短く、一番綺麗な仄暗い景色を演出するために鳴いているように思えた。

 

がちゃり、とその音が大きく響いた。

 

相変わらず鍵はかけていないようだった。

こんなに暗いんじゃ、きっと鍵がかかっていたら鍵穴に通すのは難しかったろうな、などと心底どうでもいいことを考えてしまった。

 

ぐしゅ、とまたくしゃみ。

 

「入れば」

 

涼しい声で彼女は振り向かずに言った。

 

彼はおじゃまします、とおずおず言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青Ⅳ“ReiⅡ”

 

   《水族たちの行き着く処》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅰ

 

 

 

 

 

シンジは七歳以前の事はさほど鮮明には覚えていない。

 

もちろん幼なかったからでもあるし、逆に言えば、幸せだったからでもあるのだろう。

つまり記憶に残るだけの強烈な出来事がなかったという事だからだ。

それは確かに平凡だが幸せな幼少期だったという証拠だった。

 

少なくとも七歳以前は、だが。

 

だが、やはりぼんやりと覚えてる事はある。

例えば母のあったかい温もりや、心地の良い香りや、やさしい声や。

そして、父が向ける眼差しや。

 

実は、七歳以前でもっとも鮮明に覚えてるのがその、父の眼差しだった。

 

シンジにとってゲンドウはまさに未知の人だった。

 

覚えてる限りでも寡黙で、あまり感情を表に出さない人で、基本仕事であまり帰ってこない。

大抵の幼子がそうであるように、母と子の完結した関係の中で父ははっきりとした異物だ。

ゲンドウも同じく、幼子のシンジにとっては最初の未知、つまり他者であったのだった。

 

だが、幼い自分はゲンドウを嫌っていなかった、と振り返って思う。

嫌悪どうこう以前に、ただただひたすらに未知で、だからこそ興味深い対象だったのだ。

 

あの、眼差し。

 

例えばシンジが一人で本を読んだり、遊んでいると、ふと視線を感じる。

そういう時、大抵ゲンドウがシンジを見ているのだ。

目があっても、別に視線を逸らすでもなく、ただシンジには良く分からない色彩でシンジを見てる。

 

それは母が向けてくれるような情愛の篭った眼差しではない。

だが、じゃあ冷たい眼差しか、といったらそうでもない。

 

ただ、見ているのだ。

ただ、じっと、シンジを見つめるのだ。

 

その眼差しの意味がシンジには分からなくて、まさに理解できない、把握すら出来ない未知の瞳で、じっと見ているのだ。

 

 

あの眼差しは、何なのだろう。

 

あの眼差しに篭っていた感情は、何なのだろう。

 

あの眼差しで僕を見ながら、父は何を思っていたのだろう?

 

 

あるいは。

 

つまりシンジはもしかすると、それを知りたくてその都市に足を踏み入れたのかもしれなかった。

その先にまっている運命など知る由もなく。

 

ただ父のその眼差しの意味を、知りたくて。

 

ただその感情を、知りたくて。

 

 

ただ知りたくて。

 

 

 

ただ、一歩。

 

 

 

 

 

 

 

 

サア、と窓からいい風が吹いた。

 

干した彼の制服とパンツが窓のふちに当たって、かつ、と鳴った。

どうやら乾くには大して時間はかからなそうだった。

 

と、バスタオルがズレ落ちそうになって慌てて阻止する。

流石の彼も、裸体を彼女に見せるのは何となく、恥ずかしかった。

 

シンジは不思議だな、と思った。

 

彼女の肌は昼間はとてもひんやりしているのに、こうして日が暮れて、気温が下がるとほんのりと暖かかった。

その肌に包帯を巻きながら、彼女はやはり成すがまま、無表情にシンジを見上げていた。

シンジも彼女の瞳を覗き込んで、でもやっぱり彼女は逸らす事もなく彼の瞳を見つめた。

 

何?とシンジは目で語りかけた。

 

彼女は一つ瞬きして、別にと目で返事した。

 

と、シンジは心持ち首をかしげた。

数時間前見たときより、その傷口が少しだけ薄くなっているように思えたからだ。

 

もちろん、気のせいに違いなかった。

 

「もういいわ」

「そう?」

「ええ。後は自分でやれる」

 

彼女はベッドから立ち上がる。

 

「何か、飲む?」

 

うん、と遠慮がちにシンジは頷いた。

すると彼女は制服を脱ぎ、シャツ一枚になると、それを無造作にハンガーにかけて台所に消えていった。

 

ぽつりと取り残されて、彼は部屋を見回した。

 

薄暗いその部屋はやっぱり殺風景だった。生活の匂いがまるでなかった。

廃墟と言われても素直に納得出るようなもの悲しさだった。

 

窓を見ると、もう地平線は赤くなく、すでにどちらと言えば夜に違いなかった。

それでもその青黒い空はまだゆるりと明るさを保っていたが。

 

でも、電気をつけようなどとはお互いに言わなかった。

この短く最も綺麗な時間を電気の光で追い払ってしまうのはあまりに愚かすぎた。

 

魔法の時間。

 

この時間をそう言ったのは誰だったっけ?とシンジは考えた。

叔父さんの古い本の中に合った、確か、フラニーとズーイーって小説だったっけ。

ああ、違うか、でも、そのグラース一家を書いた短編の一つだった気がする。

でもそんなのはどうでも良い事だった。

 

ひぐらしの鳴く声が妙に響いた。

 

それを聞いてるうちに、ふと、シンジは世界に独りっきりのような気分になった。

 

この世界には、僕しか居ないんじゃないか。

彼女は実は自分の見た幻で、最初から存在しないんじゃないか、そんな事を考えて、寂寥感にぶるりと振るえた。

つい綾波、と声を上げたくなって、でも流石に恥ずかしいのでそれを飲み込んだ。

 

すると、タンスの上の数冊の文庫本が目に入った。

 

この廃墟のような世界で、その文庫本だけが人が存在する証に思えた。

バスタオルに包まりながらベッドから立つと、その寂寥感を誤魔化すようにぼんやりとそれを眺めた。

 

シンジの知らない名前ばかりだった。

せいぜい知ってると言えば宮沢賢治くらいだろうか。

 

どれもカバーはかかっていなかった。

なのに綺麗に折りたたまれたカバーが一つだけ本の間に挟まっていた。

つまり、読むときだけそのカバーをつけるのだろうか、とシンジは考えた。

 

あの本を、手に取った。

 

ウィリアム・ブレイク。

 

もちろんシンジは聞き覚えがなかった。有名な人なんだろうか?

数時間前の心の振るえをまざまざと思い出して、恐る恐るその本をもう一度めくった。

 

すると、ある題名の詩を目の端に捕らえて。

やはりシンジの琴線を撫でたので、ページを戻す。

 

そしてゆっくりと、その寄せ集まった言葉に視線をなぞらせた。

 

 

 

 

 

 

 “失われた少女”

 

 

 『未来を遠く

  私が予見するのに

  大地は眠りから覚め

  (この句を深く心にえりつけよ)

   

  立ち上がり 探し求めるだろう

  柔和な創造主を

  そして荒れ果てた砂漠も

  のどかな花園となろう

 

  真夏のさかりが

  いつまでも続く

  南の国に

  うるわしいライカは横たわっていた

 

  すでに七つの夏を

  うるわしいライカは数えていた

  思えば長い間 野の鳥の

  歌聞きながら ライカはさまようた

 

  「甘美な眠りよ この木の

   陰にいるわたしにおとずれよ

   父 母 が泣くなら

   どこにライカは眠れよう?

 

   荒れ果てた砂漠に父母よ

   あなたの幼児はゆき迷う

   どうしてライカは眠れよう?

   母が泣き悲しむなら

 

   母の心がいたむなら

   ライカは眠らずにいよう

   母がやすらかに眠るなら

   ライカは泣くまい

 

   眉をひそめる 眉をひそめる夜よ

   このかがやかしい砂漠一面に

   あかあかとおまえの月を立ち上らせよ

   わたしが目を閉じてるあいだ」

 

  ライカは身を横た

 

 

と、気配がしてシンジは振り返った。

 

彼女が湯気の立つコップを持ってうっすら立っていた。

だからまだ途中だったその詩を中断して、棚に戻した。

 

「ココアで良い?」

「あ、ありがとう」

 

受け取ってベッドに座り、ゆっくりとすする。

 

あったかい。

 

冷えていた身体と一緒に気分までほっとするようだった。

視線を感じて、同じく隣に座った彼女と視線が合う。

やはり目を逸らしたりはしなかった。

 

電気もつけてない部屋では彼女の顔もよく見えなかった。

でもその薄く暗く黒い影の中で、何故か彼女の血のような赤い瞳ははっきり見えた。

 

「あの…綾波は飲まないの?」

「コップ、一つしかないもの」

 

それを聞いてシンジは、おずおずカップを渡してみた。

 

彼女は少しの間の後それを受け取って、こくりと一口飲んだ。

そして真似るように差し出されたそれを受け取って、シンジもこくりと飲んだ。

 

 

りん

 

 

りん

 

 

りん。

 

 

どうしてこんなもの悲しい声なんだろうとシンジは思った。

 

こんなもの悲しい声で、最ももの悲しいこの時間にだけ鳴く虫が居るという事実。

それは偶然ではなく、もしや虫にも心や魂があるのかもしれない、とシンジにある種の確信を抱かせるには十分だった。

 

だからその感覚に押されるように、どうして、と口を開こうとした。

でも、やっぱり、喉まで出掛かったそれを飲み込んだ。

 

それは触れてはいけないような気がしたから。

そしてこの時のシンジには触れる勇気も無かった。

 

だからシンジは、その変わりにこう、紡いだ。

 

「その…父さんとは、その、一緒に暮らしてないんだ」

「ええ」

 

やはり涼しい声で。

 

「…どういう、理由で、父さんは綾波の保護者になったの…?」

「そうするより他に、なかったもの」

 

その返答に、首を傾げた。

 

「…よく、分からない…」

「そうね」

 

彼女は囁いた。

 

「…お父さんの事、気になる?」

 

シンジは少し目を伏せて、声をひそめて言った。

 

「七歳の時、母さんが居なくなって、その後父さんも居なくなって、それで叔父さんの家に預けられることになったんだ」

 

彼女は無言で続きをうながした。

 

「でも、理由がわからなくて、叔父さんもはっきりと教えてくれなくて…だから」

 

だから、と彼はもう一度言った。

 

「…聞きたかったんだ、理由…父さんの口から、直接」

「…それで、貴方ここに来たの」

 

少しの沈黙が流れた。

ひぐらしの鳴き声が十を数えた後、シンジはポツリと言った。

 

「そう、だったのかも…知れない」

 

でも、と彼は重ねた。

 

「でも、聞く必要無いかもしれない」

「どうして」

「だって」

 

彼は少し笑って言った。

 

「父さんは、僕より、綾波を選んだんでしょ?」

 

彼女は、それでも無表情に彼を見ていた。

 

「…そうするより他になかったから、と言ったわ」

 

その囁きは仄暗く、この暗い部屋に溶けていってしまいそうだった。

それに何か感じるものがあって、シンジは彼女の顔をうかがった。

でも、やはり、窓の光は薄く、その表情は良く見えなかった。

 

ふと、ココアが大分冷めてしまっている事に気づいた。

彼女にコップを差し出してみる。

彼女は黙って受け取ると、一口飲んで、コップに視線を落としながら静かに言った。

 

「お父さんの事、恋しい?」

 

シンジは少し考えて、まるで自分の心を確かめるように、ゆっくり言った。

 

「わからない…」

 

でも、と。

 

「多分、恋しいとか、そういうのより、多分、僕は…」

 

彼はもう一度確認するかのようにこうささやいた。

 

 

…帰りたいんだ。

 

 

彼はもう一度言った。

 

「帰りたい、だけなんだ…」

 

「何処に」

 

涼しい、でもどこか柔らかい声で彼女は囁いた。

彼は彼女を見た。

彼女は彼を見ていた。

 

赤と黒の瞳が一瞬絡みあって。

 

彼は、静かに、とても静かに、呟いた。

 

「…何処かに。」

 

ひぐらしの声がうっすらとしか聞こえなくなっていた。

 

流石に暗く、もう電気つけた方が良いんじゃないかな、とぼんやり考えて。

彼女が、コップを差し出した気配がした。

 

だから受け取ろうとして、ぱし、と手首を引かれた。

 

目の前に赤い瞳が合った。

 

額がくすぐったかった。

どうやら彼女の前髪が彼の額をくすぐっているようだった。

その意味が良く分からなかった。

 

微かに良い匂いがした。

消毒と包帯の匂いに混じって、確かにとてもとても心地良い香りがした。

 

それよりも、唇の感覚が気になった。

 

初めての、想像した事も無い感覚だった。

なんて柔らかくて、心地良い。

彼の琴線がはっきりと、ある音を鳴らした。

 

その柔らかい感触が離れると、彼女の囁きが目の前で聞こえた。

 

「泣いてるの」

 

息がかかってこそばゆかった。

でも、ココアのとてもとても甘い香りがした。

 

彼は、そっと自分の頬を触った。

濡れていた。

 

「どうして、泣いているの」

 

その言葉に、彼は首をかしげて。

 

「分からない…」

「…そう」

 

首筋に、手の感覚があった。

やはり、そっと引き寄せられると、頬に柔らかい何かが触れて。

 

ちゅ、と、涙を啜る音がした。

 

 

彼の心から何かが溢れ出した。

 

 

その痺れのような、熱のような何かに流されるまま、手を伸ばし彼女の背に手を回した。

すると、彼女もそっと、やんわりと、背に手を回して。

 

どれほど時間が経ったろう。

もう、部屋は真っ暗で何も見えなかった。

 

頬に触れる、彼女の頬はすべすべあったかかった。

浅く触れ合った身体からは彼女の呼吸と鼓動が聞こえた。

いつからかまったく同じリズムを奏でていて、どちらがどちらの呼吸で鼓動なのか良くわからなかった。

 

彼はゆっくり、静かに、何かを壊さないように囁いた。

 

「…どう、して?」

「何が」

 

耳元で囁かれて、吐息がこそばゆかった。

 

きゅ、と無自覚に少しだけ強く彼女を抱きしめた。

すると、彼女もきゅっと、やんわりと彼を抱きしめ返してくれた。

やはり彼の中で激しく音が鳴り響いて、それっきり何も言えなかった。

 

気がつくと、ひぐらしはもう鳴いていなかった。

つまり、もう魔法の時間も終わりだった。

 

それが合図のように、彼女は何事も無かったかのように手を離した。

 

…ココア、もう一杯入れるわね。

 

そう言って、彼女はそっけなくベッドから立ち上がって、台所に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジはぼんやりしながら自分の部屋の電気をつけるとベッドに横たわった。

 

ミサトさんは残業だから、今日は一人か、と思った。

そんなのは慣れていた、というより彼には誰かと暮らす事の方が慣れなかった。

 

ただ、ぼんやりと天井を見上げた。

その天井はまだ、シンジには馴染みを感じられなかった。

 

まだ、ある音が鳴っていた。

忘れたくない音だった。

 

だからそれをしっかり記憶に焼き付けようとして、そっと、唇に指先で触れた。

と、その指先が少し黒くなった。

どうやら唇の端にココアが着いていたらしい。

それを、舌で舐めた。

 

ほんのり甘く、苦かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンカンカンカン…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い。

 

赤い。

 

見渡す限り赤かった。

 

 

 

ガタン

 

ゴトン

 

電車が揺れた。

 

 

だから、彼は目の前に座っている彼女にそっと問いかけた。

 

 

 

――それで、ライカはどうなったの?

 

 

 

「ライカは身を横たえると、眠り、すると獣が深い洞穴から出てきて、眠る彼女を見たわ」

 

 

ガタン

 

ゴトン

 

 

「すると王のような獅子は立ち上がって、清められた地面を喜び、跳ね回ったの」

 

 

赤い。

 

赤い。

 

ああなんて眩しい。

 

 

「豹も虎も、獣たちは彼女が横たわっている横で、遊んだわ」

 

 

カンカンカンカン…

 

 

「すると年老いた獅子も彼女の胸を舐め、そのうなじに炎のような瞳から紅い涙を流した」

 

 

眩しい。

 

紅い。

 

影だけが人の姿をしていた。

 

 

「つれそう雌の獅子は彼女の服を脱がし裸のまま彼女を連れ去ったわ」

 

 

ただ唯一はっきりと見えていたのは。

 

 

「眠る彼女を、深き、深き、いと深き洞穴へ…」

 

 

 

まるで血の様な、紅い瞳。

 

 

 

 

 

 

 

 

ぐちゃ、ぐちゃ

 

ばきん、ぐちゅ、ぐちゃ、じゅ、ずるずる

 

くっちゃ、くっちゃ

 

 

ごくん。

 

 

 

 

 

 

むせ返るような血の匂い。

 

 

その白い何かから長い長いピンクの紐がそこらじゅうに散らばっていた。

 

糞尿の臭いがした。

どうやらその紐は腸のようだった。

もしかしたら脂肪の臭いもまじっているんだろうかと思った。

 

獣はばきばきと彼女の胸を開き、肋骨を噛み砕いた。

じゅるじゅると淫靡な音をたてて血を飲み干し、心臓をねちゃねちゃ租借した。

 

ふと、その獣が動きを止めた。

 

彼の気配に気づいたかのようにゆっくりと振り返る。

その獣の姿は。

 

 

紫色の、巨人。

 

 

 

 

 

 

天井が見えた。

 

ああ、僕の部屋だ、とシンジは思った。

うとうとしちゃっていたんだな、と思い、上半身を起こす。

変な夢見ちゃったなあ、と。

 

そしてヒキガエルのような声で胃の中の全てをぶちまけた。

 

黒かった。少しだけココアの甘い臭いがした。

夥しい量のココア色のげろを吐き出し、でも止まらず、呼吸が出来ないほど吐いて、吐いて、吐いて。

 

ただ、何かが引きつったような、シンジの泣き声と嘔吐の音だけが響き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は冷水でシャワーを浴びると、彼の使ったバスタオルで適当に身体を拭いた。

 

バンホーテンのココアがもう切れ掛かっているので、買い足さなければ、と考えた。

ぺたぺたと素足で風呂場から出て、何となくそれに視線を合わせた。

 

あの人の、壊れた眼鏡。

 

ほんの少しだけ視線を止めて、目を伏せた。

 

彼女はもう必要の無い包帯をゴミ箱に捨て、制服に着替えると、そっと、その桜色の唇をなぞった。

それから玄関のドアを開けると、もう一度だけその眼鏡に視線を絡め。

 

そして、がちゃり、と、ドアを閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/7/26

参考文献

ウィリアム・ブレイク著作『無心の歌 有心の歌』


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。