リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
見えたのは、右手だった。
その右手を、にぎにぎと、そしてきゅっと握る。
白い少女はベッドから起き上がった。
左手を動かそうとして、まだ痛む。
だから改めて右手の人差し指と中指で目をこすった。
カーテンすら無いその窓は、まるで唯一の光源のように部屋を薄く照らしていた。
少しずつ、日が昇っていくのを無表情に眺めた。
包帯と下着のままの少女の身体が浅い光に白く幻想的に輝いているようだった。
夜が朝に汚染されたのを確認すると、ふと、小さなタンスの上に置かれたそれが目に入った。
壊れた、眼鏡。
でもすぐに逸らして、音も無くベッドから立ち上がる。
そして水道口から透明なコップに水を満たし。
それを、こくりと、飲み干した。
・青Ⅲ“ReiⅠ”
《硬質な水、
切り裂かれそうな無垢》
Ⅰ
綾波レイは美しかった。
だがそれは例えばアイドルだとか女優だとかに形容される美人、綺麗とは少し違う。
彼女は顔立ちも十分端正な少女だったが、その程度の容姿なら都会ならさほど珍しくもないだろう。だが彼女は、下手すると見た人に一生忘れられないような強烈な印象を与える。
勿論その外見的要因が一番大きい。
アルビノ。先天性白皮症。
肌と髪で髪の方が色素が薄い、その外見が与える印象は鮮烈であった。
多種多彩な人種が住む外国ですらそうだろう、なら日本人には言うまでも無かった。
そして目。
アルビノと言っても段階があり、多少色が薄いだけの人も居る。
そういう軽度のアルビノの瞳は青や水色が多い。
だが彼女の瞳は赤いのである。それは目の色素が薄すぎて血液が透けて見えるからだった。
つまり彼女は最重度のアルビノだった。
その肌より白い髪と、血の色をした瞳、そして身に纏うどこか硬質な冷たい雰囲気。
そう、彼女が纏う美はそれはもう、本来生身の人が持てない種だった。
人形であるとか、あるいはおとぎ話の中の妖精みたいな。
赤以外に色素、色彩と言うものを知らない天才画家が描いたような。
これだけ美しいのに、同年代の異性からその種の対象にあまりならないのはそんな理由もあったのだろう。
生身の女、つまりエロスを宿すように思えないのだ。
彼女は確かに人ならざる何かのように思えた。
神々しいとは大抵畏怖や恐怖とワンセットである。
レイに誰も近づこうとしないのは、あるいは子供達が本能でそれを知っているのかもしれない。
(古来より、常にアルビノが人に限らず神聖視されたのも納得するわ)
神秘という言葉を具現したような美しさ。
リツコはそれを認めるのにやぶさかではなかった。
だが同時に思う。
アルビノ、つまり色素の欠落、と言う事実に感じる神性の根源は何なのだろう?と。
そういう概念が昔から作られていたからその固定概念が出来てしまった、ではきっと無いだろう。
なら古今東西、それこそ地球が丸いどころか、海の向こうにどんな大陸があるのかすら知らない時代、そんな古くからあらゆる人種文明でアルビノが神聖視(または悪魔視)されてきた理由が納得できない。
それともやはり異形だからだろうか?
自分達とあまりに違う外的要因、つまり未知への恐怖ゆえにか。
だが、それでは哺乳類や爬虫類のアルビノまで神聖視していた理由にはならない気もする。多分、恐らく。
では本能的な部分、生命の根源的な部分で、『色を宿さない』または『白』。
それに共通する神性があるのかしらね、とリツコはぼんやり考えた。
そういえば絵画でも神聖を具現した存在は常に白い。
何でかしら、やっぱり意味があるのかしら?
それとも光に色を与えるとしたら白しかないからとか?
などと暇つぶし以外の何物でもない空想に飽きてリツコはコーヒーを啜った。
科学者の自分がこんな事考えてどうするんだか、とリツコは嘆息する。
でもその内そっちの造詣が深い人の意見も聞いてみたいわね、などと思いつつ時計を見た。
遅い。
はあ、とため息をついた。
「レイといいシンジ君といい…どうなってるのかしらね」
「まあそんな時もあるっしょ」
ミサトがコーヒーおかわり、と紙コップを差し出す。
じろりと睨んで。
「子供じゃないんだからそれぐらい自分でやりなさい。」
「いいじゃない別に…あんたが煎れた方が美味しいのよ、なんか」
「…結構いい豆使ってるのよ。貴方みたいな味覚音痴にはもったいないわ」
「ど~ゆ~意味よ?」
「そのままの意味よ?」
はあ、とまたため息。幸運が逃げていきそうだった。
時計を見て、集合時間になったのを確認する。
「…レイが、遅刻なんて初めてだわ。」
「何かあったんなら、保安部から速攻で連絡来るでしょ?」
「にしたって…ねえ、シンジ君に電話してみたら?」
「うーん、そうね…もう一回電話してみるわ」
その時ドアが開いた。
ようやく見えたその姿に嘆息する。
「貴方が遅刻なんて珍しい事もあるのね、レイ」
「申し訳ありません」
向こうで少年に携帯をかけ続けてるミサトを横目に、リツコはレイを観察した。
袖なしの白いプラグスーツに着替えた少女にはまだ包帯が巻かれていた。
数日前より遥かに良くはなったが、まだ痛々しい印象を見る者に与えた。
「…何かあったの」
「特に」
少女は相変わらず無表情で。
長年少女の面倒を見続けたリツコにも未だその内面を推し量る事は出来なかった。
多分誰でも無理だろう、と考え、いや、と否定する。
きっと、あの人には分かるんでしょうね。
リツコはその泣き黒子のある瞳を少しだけ細めた。
「擬似シンクロモード安定。シンクロ率38%」
伊吹マヤのその報告にリツコは少し不機嫌そうに眉をひそめた。
「…下がってるわね?」
「はい…やはり先の事故の影響でしょうか?」
「精神的な影響があったとしても擬似シンクロよ?…レイ」
『はい』
モニターに写る少女は目を瞑ったまま答えた。
そのテスト用プラグにLCLは満たされていない。
「シンクロ率5%も下がってるわ。」
『…はい』
「思い当たる事は?」
『ありません』
「…本当に?」
『はい』
リツコはため息をついた。
どれほど幸運が逃げたかしら、とくだらない事を一瞬考える。
「いいわ。実験続けるわね。ハーモニクス深度下げるわ」
『はい』
その様子を眺めながら、マヤは小さく呟いた。
「今の調子だと…レイちゃん」
「そうね。肝心の初号機の処遇はまだ正式に決まってないし…零号機だけが頼りだけど」
「…また失敗…するかもしれませんね」
「ええ…やっぱり、シンジ君と零号機のシンクロ試したかったわ。まったく」
そしてリツコからまた幸運が逃げていった。
「ふむ、問題だな」
「…はい」
一連の報告を聞いて冬月副司令はあごに手をあて嘆息した。
「赤木博士、零号機とレイのシンクロテスト、今日にでも無理かね?」
「…今日、ですか?」
「ああ。一応碇の息子とのシンクロ準備は済んでいるのだろう。ならさほど手間はかかるまい」
「それは可能ですが…怪我も治っていませんし、先の暴走事故の影響もまだ十分にケアされているとはいえません」
「リスクが高いのを承知で言っている」
「つまり…初号機の処遇が?」
冬月は肩をすくめた。
「ああ、流石の碇もやや手間取っている。まあ時間の問題だろうが、その間稼動できるエヴァがゼロというのはね…」
「…わかりました。これから準備します。実験は夜になると思われますが」
「かまわんよ。後サードチルドレンも発見次第テストしてくれたまえ」
「それなら、彼を先にテストした方がよろしいのでは?保安部はとうに把握してるのでしょう」
「出来ればこの程度で保安部を駆り出したくないからね。葛城君にまかすさ。
それに、彼にはどちらにしろ初号機に乗ってもらう可能性が高いだろう。
現時点でシンクロ率はレイより上だからな。そうである以上、零号機はレイを最優先にしてくれ」
「…今日は徹夜ですね?」
「苦労かけるな赤木君。何、私も付き合うよ」
リツコはその飄々とした冬月を改めて観察する。
綺麗な白髪をバックに流し、ぴんと背筋の伸びたその佇まいは、確かに老いだけが醸し出せる魅力を宿していた。
彼とも長い付き合いだが、実を言うとリツコにとってこの冬月という人物は一番の謎だった。
「お聞きしてよろしいですか」
「何かね」
「エヴァに生まれ得ないはずのS2機関…初号機の処置はあまりに軽いと思われますが」
「そうでもないさ。エヴァのS2機関搭載実験は使徒のそれを入手次第行われる予定だったからね。
逆に言えば、今回の事で机上の空論だったS2の搭載が可能だと判明したわけだ。
まあ、あんな方法があるとは誰も想像しなかったろうがね。使徒を捕食、とはな」
「副司令でもですか?」
「もちろんだとも」
どうだか…。とリツコは心持ち目を細めた。
そして冬月は背を向け窓の景色を眺めた。
その後姿は、やはりリツコには把握すら出来ず、謎に満ちていた。
・
「あーまいったわこりゃ…」
発令所に入ってくるなりミサトは唸った。
「その様子だと、彼見つからなかったの?」
「うん。ケータイも台所に置きっぱなしでね…」
「保安部は把握してるはずだから聞いて見たら?」
「…それは…最後の手段にしとくわ」
「どうして?」
「なんかね…やっぱりね。保安部から報告来ない以上誘拐されたわけでもないんだし…」
そのままミサトは沈黙した。
ふうん?と面白そうにリツコは口の端を上げた。
「大切にしたいのねえ?シンジ君との関係。」
「そりゃ…監視されてる、なんて、気持ち良いもんじゃないでしょ?」
「シンジ君は知らないの」
「あたりまえじゃない」
「黙ってこそこそ監視してるほうが、知られた時ショック受けるかもよ」
「ううん…」
するとミサトはごまかすように話を逸らした。
「ところで何か騒がしいわね。どうしたの?」
「レイと零号機のシンクロテスト行うのよ。その準備中」
「は?なんで!?」
「初号機の処遇の決定が長引きそうだからよ。副司令じきじきの命令」
「ああ…」
ミサトは納得したように頷くと、声を潜めて言った。
「ねえ…初号機、だけどさ」
「もう、何度も言ってるでしょう。貴方が心配するような事無いわよ」
「…あの戦闘を見て、そう思えっての?」
はっきり顔をしかめて。
「使徒を、食ったのよ?私には正直…使徒なんかより初号機の方がよっぽど禍々しく見えたわ」
「でも貴方の心配が正しかったら、とっくに本部ごと初号機に破壊されているわよ」
「そりゃ…まあ、そうでしょうけどさ」
少しの後ミサトはぽつりと言った。
「エヴァって…使徒がベースなのよね」
「そうよ。」
「なら…S2機関が搭載されたエヴァと使徒の違いって、何?」
「全然違うわよ」
「どうしてよ」
リツコはそっけなく言った。
「人の意思が、込められているもの」
・
零号機のその特徴的な一つ目は顔の半分を占めるほど大きく、どこかつぶらですらあった。
オレンジ色に塗装されたその装甲はつい先日新調されたばかりで、きらびやかな光沢を放っている。
「はあああ…」
それを実験室から見ながら煙草休憩をしていたリツコは、そのため息が移ったように同じくため息をつく。
「その様子だと、シンジ君は?見つかったんでしょう」
「うーん…」
ミサトはがりがり、と髪を掻いて。
「…全然わかんないわ。どういうつもりなのかしら、彼」
「しっかりしなさい、保護者でしょうに。ところで保安部使ったそうね?」
「うん…どうしても見つかんなくて、やむなくね」
コーヒー頂戴リツコ~とほざいたので自分でやんなさい、とそっけなく言う。
「で、シンジ君は?」
「…その、今日一日独房よん」
リツコは目を丸くする。
「あらあ、結構シビアなのね貴方。」
「いや、というより勢いでつい、というか何というか…」
どこか慎重な口調でミサトは言葉を重ねた。
「なんか、全然反省してない感じでさ…理由も話してくれないし」
「意外ねえ…そんな子には見えなかったし、報告書にも書いてなかったけど」
「…後、口元にうっすらあざ出来ていてね」
「誰かと殴り合いの喧嘩でもしたの?本当に意外ね」
「うん。それも話してくれないし…」
ミサトは、小さい声で呟いた。
「…全然、欠片も心開いてくれてないのね…シンジ君」
リツコはそんなミサトの様子に少し神妙な顔をした。
「焦ったってしょうがないわよ。じっくりシンジ君の信頼を勝ち取るしかないでしょう?」
「…まあ、そうでしょうけどね」
しょうがないのでコーヒーを煎れてやる。
心地の良い香りが部屋に充満した。
「で、そっちは?」
「ようやく準備すんだわ。しばらく休憩して、遅い夕食を食べて、一段落ついたら実験開始」
「その様子じゃ徹夜ねえ?ご愁傷様」
「貴方は居てもしょうがないんだから、これ飲んだら帰んなさいな」
「…うん、今日はそうさせてもらうわ」
何か独りでじっくりしたいし、と、ミサトはけだるく囁いた。
・
少女は制服を脱ぐと、包帯を解いた。
まだ縫い口は痛々しく、彼女の新雪のような肌に不釣合いなゆがみを作っていた。
そしてそのケースを手に取り、そっと開ける。
壊れ歪んだ眼鏡。
彼女は目を伏せて。
そして、すっと上げた。
・
「ではこれより零号機のシンクロテストを開始します」
リツコがそう宣言すると、実験室は騒がしく動き始めた。
「ではレイ。準備、良いわね?」
『はい』
その涼やかな声にリツコは頷いた。
海に帰ってきたのでゆっくりと深呼吸をした。
それこそ幼い時から数え切れないほど潜ってきたその海は、彼女にとっては確かに帰るべき処だった。
でも、それは慣れ親しんだ初号機の海ではない。
本来、廃棄予定だったプロトタイプ、零号機。
彼女は慎重に奥へと辿って行った。
初号機とはまるで違う。
あれが生命に満ち満ちた海だとするなら、零号機は例えば生命の居ない、波すら止まった忘れられた湖のような。
どうしてこんなに違うの?
彼女はゆっくり慎重に奥へ奥へと潜り。
すると、何か白いものが見えた。
きっと奥へ到達したのだ、と思い、だが彼女は、目を見開いた。
何故なら、深き深きその湖の深遠には。
夥しい数の、アヤナミレイの残骸。
・
「パルス逆流!!!」
日向マコトのその絶叫に実験所が騒然となった。
「せき止めて!」
「駄目です!止まりません!」
リツコはマヤの報告に絶句した。
「また、なの…?」
「…あ…」
青葉シゲルが何か言いかけて。
「あ、あの…」
「何!?はっきり言いなさい!」
「パターンブルーです…」
場が一瞬沈黙した。
「…今なんて?」
シゲルは絶叫した。
「だから零号機からパターンブルー!使徒です!!」
そして零号機が咆哮した。
その咆哮にすくみあがってしまったリツコは、零号機がやすやすと壁を破壊して姿を消した瞬間、自失から立ち直って叫んだ。
「見失わないで!MAGIで探知して!」
と、その命令にいち早く立ち直ったマヤがコンソールを叩く。
「零号機、あ、いえ使徒、第一層を破壊!東へ直進…この方向は…」
「…初号機?」
リツコははっと声を上げた。
「初号機ジオフロントに射出して早く!」
「で、ですが凍結命令…」
「いいから早くなさい!!」
初号機がリフトから発進される。
「使徒、侵攻停止!いえ進路変更!セントラルドグマへ直進しています!」
「第二層到着時点でありったけのベークライト注入!」
「使徒第二層へ到着!」
「今よ!」
そして赤い液体が零号機を埋めるように注入される。
「使徒侵攻停止!封じ込め成功です!」
そしてため息をつく。
「プラグ射出は?」
「間に合いました!救護班急がせます」
「お願い」
リツコは身体の芯から吐息と共に声を出した。
もうきっと幸運は逃げ切ってるわね、と馬鹿みたいな事を考えながら。
・
無事か、レイ?
碇、司令…?
レイ。
司令…。
レイ!
「レイ!無事なのね?」
彼女は目を瞬かせた。
プラグのドアから覗いたのは赤木博士。
「…どうやら無事みたいね」
「はい」
その意味するところは、つまり。
「また、駄目だったのね」
その小さな呟きは、誰にも聞かれず消えていった。
・
「しかしパターンブルーとはな」
冬月は苦々しく言った。
そしてリツコに話を振る。
「MAGIの解析は?」
「恐らくエヴァが変質したと」
「つまり、厳密には使徒ではない、と?」
「はい。エヴァはもともと使徒のコピーです。つまり暴走により…」
「…使徒化した、という事か?」
「はい…」
リツコは少し目を伏せた。
冬月は深く嘆息する。
「先の初号機に次いで今回の一件…由々しき事態だな。委員会にどう報告するべきか」
「碇司令はしばらく帰れそうにありませんね」
「ああ、私に一任するそうだ。だが、エヴァが使徒化する事がわかった以上…」
「それは問題無いと思われます」
「何故かね?」
「零号機のコアは…あの子です」
ふむ、と冬月は唸った。
「なるほど…つまり、今回の元凶はエヴァそのものではなく、それか」
「はい。それに使徒化の事実は隠蔽可能です。なら今回の『暴走事故』は」
「ふむ…だが…どちらにしろ回収には初号機が居るな?」
「はい」
少しの間の後。
「よかろう…初号機の一時凍結を解除。『暴走』した『プロトタイプエヴァ』を回収。
また、エヴァ零号機はこれをもって破棄する」
「…ご苦労かけます」
「いいさ。こういう時の為の責任者だからね。だが、それが使徒化の原因だとするなら」
「はい…ダミープラグの計画、見直す必要があるでしょう」
リツコはため息まじりに呟いた。
どうやら逃げる幸運はもう残っていないらしかった。
・
少女は、ゆっくりとプラグスーツを脱いだ。
更衣室の外ではまだどこか騒がしい気配に満ちていた。
その喧騒が聞こえないようにロッカーにそっと寄りかかる。
そして、そのケースを取って開く。
それをそっと閉めて。
まるで何かに凍えるように、ゆるりと自分を抱きしめた。
15/7/18