リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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4-3 水に溢れる、人に流れる

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、起きろよ碇」

 

その声にシンジはふ、と目を覚ました。

 

赤い。

 

赤い?

 

机から上半身を起こして周りを見回す。

気がつけば、夕方の教室。

 

「お前、転校初日から居眠りってすげえな」

 

その眼鏡に茶髪の少年はからかい半分という感じで面白そうにそう言った。

 

「あ…うん、昨日寝不足で…」

「ふうん?」

 

やっぱりその少年は眼鏡を光らせ興味深そうにシンジを観察した。

それに何かもぞもぞするような感覚があったので口を開く。

 

「あ…起こしてくれてありがとう…ええと」

「相田。相田ケンスケ」

「あ…ごめん、相田君」

「呼び捨てで良いって。俺も碇って呼ばせてもらうから」

「うん…」

「で、どうせだから一緒に帰らね?」

「…うん」

「…何か、ぼんやりした奴だなあ…碇って」

「そうかな…?」

「ああ。ほら、先生に怒られるから早く行こうぜ。残ってんの俺らだけだぞ」

 

シンジは改めて見回す。

 

確かだった。誰も、居ない。

机の横にぶら下げていたバッグを取ると、そっと席を立った。

 

長い影が、ただシンジの歩むその先をなぞるように伸びていた。

 

 

 

「んでぶっちゃけ、碇ってエヴァのパイロットなのか?」

 

その不意打ちに、下駄箱から靴を取り出す手が思わず止まってしまった。

 

「…なんで?」

「だってほら、こないだ避難警報あったろ?でその直後に引っ越してきた転校生。」

 

ここまで条件揃えばお約束だろ、とケンスケは言う。

 

「だから…どうして?」

 

そのシンジの疑問ももっともだった。

エヴァという巨大ロボット、もとい生物の存在を知っていたって、そのパイロットが中学生など普通は発想しない。

そんな発想を出来るということは、つまり。

 

「ああ、そりゃ親父がネルフ関係者だからさ。あれが子供しか動かせないのは結構皆知ってるぜ。

 どうしてなのかまでは流石に分からなかったけどな。」

 

まあ、親父のPC盗み見てそれを広めたのは俺だけど。と言葉を続ける。

それにシンジは納得した。

 

「で、実際どうなの?お前がそうなの?」

 

シンジは沈黙して。

その様子にケンスケは顔色を変えた。

 

「…お、おいおいまじか?」

 

シンジはちょっと迷いつつ、うん、と肯定した。

 

「…そ、う、なのか…」

 

何か、落ち込んだような、あるいはショックを受けたような。

その声のトーンの理由が良く分からなくて、シンジはぼんやりとケンスケを眺めた。

 

結局、その後ほとんど会話もせず、帰り道を歩いた。

 

 

翌日。

 

 

がきん、という音が顔の中で鳴ったような気がした。

その衝撃に思わず倒れこんで。

 

「…すまんな転校生。俺はお前を殴らなあかんねん」

 

シンジを殴りつけたそのジャージの少年は吐き捨てると、それで満足したかのように背を向けた。

 

「あー、悪いな碇…その、こないだのあれで…クラスメートが怪我してさ」

 

ケンスケは目を逸らしながらそう呟いて。

 

「…今度から、もう少し上手く操縦してくれよ」

 

そして、ジャージの少年の後を追って去っていった。

 

シンジは屋上のコンクリートの床に寝そべって空を見上げた。

殴られたのなんて生まれて初めてだなあ、とぼんやり考えた。

でも、こないだの痛みに比べれば大した事はなかった。

 

まあ、いいか。

 

シンジはそう思った。

 

 

だって、空はとてもとても綺麗だったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅲ『水に溢れる、人に流れる』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、新婚生活はどう?」

 

赤木リツコはコーヒーを啜りながらミサトに呟いた。

リツコの研究室で入れるそれは上等な豆を使っていて割りと美味しかった。

 

「良好よ~ん。シンジ君のおかげで部屋もすっかり綺麗になったし」

 

台詞に対してずいぶん気の無いその口調に、ふむ、とリツコは口を開けた。

 

「あら、新婚早々何か問題があったみたいね?」

「ううん…問題っていうかね…あのさ、シンジ君の報酬」

「足りない?なら碇司令に掛け合うわ。多分許可するでしょう」

「いや、それがね、まるっきり興味無さ気なのよ。中学生には相当な大金なのに」

「ふうん…なら、資料通りの子なのね。」

「うん…だから、その、ちょっと心配になっちゃってさ」

 

リツコは思わず笑った。

 

「あによ?」

「いえ?貴方もしかして一緒に暮らしてたった数日で情移っちゃったの?」

「いや、ううん、それもあるんだけど…その、実はね」

 

ミサトはおずおずと言う。

 

「何考えてるのか分からないのよ。あまり心開いてくれてない感じで…」

「あら、もうギブアップ?そりゃ年頃の子なんて簡単に心開いてくれるわけないでしょ」

「そりゃ、そうでしょうけどさ…」

 

もうちょっと甘えてくれても良いんじゃないかしら?と呟いたその言葉にリツコは珍しく目を丸くさせる。

 

「…驚いた。貴方結構シンジ君のこと気に入ってるのね?」

「そりゃ好感持てない子と一緒に暮らそうなんて思うわけないじゃないの?」

「ふうん?」

 

リツコは面白そうにミサトを観察しつつ割と真面目な口調で言った。

 

「だからっていきなり引き取るなんて無茶だと思うけどね…。」

「だってさ…そもそも碇司令はなんで一緒に暮らさないの?実の息子にいくらなんでも冷たくない?」

「色々事情があるんでしょ。親子なんて、当人達以外には理解できやしないわよ」

「そりゃ…まあ、そうでしょうけど…」

 

ミサトは無意識に左胸上をなぞる。

その昔から見慣れたミサトの癖を横目に、少し真剣な口調でリツコは言った。

 

「あまり、シンジ君に踏み込まない方が良いと思うわよ」

「どうしてよ?」

「貴方わかってるの?シンジ君は正式に貴方の部下になるのよ」

「だったら尚更」

「つまりもしかすると死地に送らなきゃいけないかも知れないって事でしょう」

 

ミサトは痛い所を突かれたように沈黙する。

 

「なのに不必要に情を移してどうするの。それで正常な判断力を失ってしまったらどうするつもりなの」

 

やはり、ミサトは沈黙したままだった。

その様子にリツコはため息混じりに言葉を紡いだ。

 

「…悪い事言わないわミサト。今からでも別々に暮らしなさい。それが多分貴方達のためよ」

 

結局、ミサトは黙ったまま口を開かなかった。

リツコは言いたい事を言って満足したのか、話題を変えた。

 

「ところで、もうそろそろ集合時間のはずだけど、遅いわね、彼」

 

 

 

 

 

 

シンジは適当に治療すると、洗面所で口をゆすぐ。

 

口の中が切れて痛かった。

おかげでただでさえ細い食欲がさらに細くなってぷつんときれた。

せんずがあればいいのになあ、などととぼんやり考えた。

一粒でおなか一杯、栄養満点。

 

素敵。

 

そういえばネルフ本部に呼び出されていた事を思い出して時計を見る。

もうそろそろ出なきゃ間に合わない。

 

しかたない、と支度しよう、と、ミサトさんの部屋が開けっ放しだった。

ミサトさんてずぼらだなあ、と思い閉めようとして、机の上のそれを見つけてしまった。

 

サードチルドレン観察日誌。

 

シンジは目を瞬かせた。

そのまま、別段手に取る事も無く部屋を出る。

 

寸前、もう一度振り返った。

 

 

サードチルドレン観察日誌。

 

 

もちろん題名が変わったりはしていなかった。

 

今度こそ部屋を出て窓を見た。

とてもとても綺麗な青空だった。

 

空と雲の割合が絶妙で、今日はきっとすばらしい夕日が見れるに違いなかった。

 

 

 

 

 

 

シンジは未だ現実感が無かった。

 

あの使徒との戦闘での激痛も、過ぎてしまえばやはりおぼろげで、まるで夢の出来事みたいで。

シンジはまだ不思議の国で迷っていたのだった。

もっとも、それは必ずしも第三新東京市に足を踏み入れてから、という訳ではなかったのだが。

 

そして葛城ミサトという女性もやはりこの時のシンジには実像を感じない、まるで夢の人のように思えたのだった。

 

だからだろう。

そのまさに陽炎のような、幻のような、その白い少女の方がよほど実像を感じたのは。

 

50メートルくらい先。

 

そこに無造作に立っている彼女は、その儚さゆえ、唯一この不思議な世界の本当の住人のように思えたのだ。

やっぱり蜃気楼のように思えて、目を瞑って、しばらくして、ゆっくり目を開ける。

 

すると目の前に、少女が居た。

 

「何してるの、貴方」

 

初めて声を聞いた。

とても涼やかで、やはり綺麗な水面の傍に居るような、そんなずっと聞いていたいと思わせる声だった。

 

シンジは改めて少女を見た。

 

左目に包帯、左手にはギプス。

それ以外にもそこらに包帯が巻かれていた。

なのに、その少女は汗一つ掻いていなかった。

 

そしてやっぱり、白い。

 

肌も驚くほど白く、なのに、髪はその肌より白く。

まるで色を塗るのを忘れた絵画のようだった。

なのにその瞳だけが、思い出したかのように色彩を宿していた。

 

「何を、してるの」

 

少女はもう一度涼やかに囁いた。

シンジはようやく意識を戻したように、あ、と口を開いた。

 

「あ、あの…ええと…」

「今日は1600よりネルフ本部発令所に集合。そっちは逆の方向よ」

「あ、うん…」

 

別段その台詞ほどには冷たい声ではなかった。

ただ事実確認するだけのような。

やはりその声質は冷たいというより、涼しい、という表現の方が合っていた。

 

シンジはぼんやりと、無表情にうなだれる。

やっぱり、その年齢を考えれば驚くほど幼く見えた。

 

彼女は少し、困惑のような雰囲気を醸し出した。

 

いやもしかしたらシンジの勘違いだったかもしれない。

彼女は能面のように無表情なままだったから。

 

少しの後、彼女はそっけなく言った。

 

「先、行くわね」

 

そのまますれ違って、消毒や包帯の残り香がシンジの鼻腔をくすぐった。

すん、と何となく鼻を啜って。

見上げた空はやっぱり綺麗で、見上げたまま一歩足を踏み出した。

 

すると。

 

「…そっちじゃ無いわ」

 

シンジは思わず振り返って。

少女が、今度ははっきりと困惑の空気を醸し出して、でも無表情に、シンジを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

巨大な入道雲が少しずつ形を変えていった。

 

相変わらず蝉の音はうるさく、アスファルトは空気を歪ませていた。

 

強い太陽が形作る影は濃く。

その白い少女が作る影すらも、その白さと反比例するように黒かった。

 

「これが、見たかったの?」

 

少女が、その高台から街を見下ろしながら囁いた。

その熱い気温が一瞬だけ涼しくなるような、やはりとても心地良い声だった。

 

「…うん」

「なら、もう行かないと集合時間に遅れるわ」

 

シンジは何か口を開きかけて、でも結局黙って街を見下ろした。

やはり、その都市はまるでミニチュアのようだった。

 

少女は無表情に呟いた。

 

「好きにして。私は、行くわね」

「…あ、あの」

 

踵を返した少女は止まって、肩越しにシンジを見た。

 

「何?」

 

シンジはもごもごと、でもやっぱり何をどう言えば良いのか分からず、うなだれてしまった。

少女は少しの間の後、静かに囁いた。

 

「貴方、どうしてエヴァに乗ったの」

 

その唐突な質問にシンジはきょとんとし、悩んだ後おずおず口を開く。

 

「…自分でも、良くわからない」

「そう」

 

そして顔を背けて、少女は言った。

 

「逃げるなら、好きにすれば」

 

ぴくり、とシンジの体が震えた。

やはりそれは台詞より冷たくは無くて、そんな言葉ですら心地よく涼やかだった。

 

「貴方の事言わないでおくから。エヴァは、私が乗るわ」

 

今度こそ、少女は振り向きもせず去っていった。

シンジはただ、自分の濃い影を見下ろした。

 

その影すらも、どこか頼りなく見えた。

 

 

 

 

 

 

「おっかしいわね…携帯出ないわ」

 

ミサトは何度目かのそれにため息をついて、携帯を仕舞う。

リツコは少し不機嫌そうに煙草をふかした。

 

「初めてのシンクロテストだって言うのに…シンジ君どういうつもりかしら?」

 

貴方知ってる?とリツコは白いプラグスーツに着替えた綾波レイに話を向けた。

 

「いいえ」

「そりゃそうよね」

 

リツコは深く煙を吐き出した。

そしてミサトを横目で睨む。

 

「GPSを調べたかぎり、シンジ君の携帯は貴方の家よ、ミサト」

「リツコ、私ちょっと見てくるわ」

「そうしてくれる?シンクロテストだってただじゃないし、このままキャンセルじゃこっちも大迷惑よ」

 

そう言ってまだ半分も吸っていない吸殻を灰皿に押し付ける。

 

「しかたないわ…レイ、貴方だけでもテストするわよ」

「はい」

「事前に説明したとおり、貴方の怪我は治ってないから、今回は零号機との擬似シンクロテストだけするわ」

 

少女は、そのリツコの話に耳を傾ける。

シンジ君で零号機のテストしたかったのに、と。

ふと呟かれたその言葉に。

 

彼女はすっと、目を伏せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジの心は何時も空と共にあった。

 

 

次に強いて言えば、海だろうか。

 

もっとも、住まいからはやや距離があったので、やっぱり傍らに居てくれたのは常に空だった。

 

 

シンジが明日を迎える理由は一つだった。

 

 

 

『明日は、どんな色の空なんだろうか』

 

 

 

 

 

 

日が暮れるとシンジの心は夜と共にあった。

 

 

夜の街は静かで、人気が無く、哀愁があって。

 

夜の帳が落ちた時だけ、その世界はシンジを優しく受け入れてくれるように思えた。

 

 

シンジがその日を終わらせる理由は一つだった。

 

 

 

『次の夜も、優しく迎えてくれるんだろうか』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その景観はシンジには不思議で、そして魅力的に写った。

 

振り返ると高層ビルの群れ。

つまり、その都市の中心は第三新東京という名に恥じない大都会。

 

前を向く。

 

なのに少しその大都会を離れると驚くほど人気が無く、とてもとても豊かな自然が広がっているのだった。

その人工物と自然のグラデーションは、まさにその都市が急造されたのだと言う事を雄弁に物語っていたが、シンジにとってはもちろんそんな事は無関係で、ただ、そのギャップはシンジの心をときめかせるのに十分だった。

 

だから、顔を綻ばせながらその夕闇の草原を凪ぐように歩く。

 

「い、碇…」

「あ、相田君…」

 

と、突然のその声に驚いて変な声を上げてしまったのだった。

 

 

 

「ほら、インスタントだけど」

「ありがとう…」

 

草原のテント。

 

そこで焚き火しながら作ったレトルトのカレーの香ばしい匂いに、シンジのお腹がく~と鳴った。

ケンスケは少しだけ、でもどこか気まずそうに笑う。

 

「腹減ってるなら、もっとあるぜ」

「あ、うん…ありがとう」

 

ぱくりと一口頬張って、そのあまりの痛さに変な声を上げてしまった。

 

「あ!そうか、口の中切れてるんだな」

 

ケンスケはあわてて紙コップの麦茶を差し出す。

シンジはそれを飲んでようやく息を整えた。

 

すると、ケンスケが突然声を上げて笑った。

うん?とシンジは首を傾げた。

 

「碇…お前って変な奴」

 

シンジは、何が?とでも言いたげに更に首を傾ける。

 

「だって…お前屋上に誘い出したの、俺なんだぜ」

「ああ…」

 

すっかり忘れてた、シンジはぼんやり言った。

ケンスケはそれに更に可笑しそうに呟く。

 

「お前殴ったジャージの奴、俺の友達でさ…その」

「クラスメートの人が、怪我したって言ってたけど…?」

「ああ、同じクラスの委員長でさ」

「…うん」

「まあ、その子も、友達だったからさ…その」

 

と、ケンスケは突然、がばっと頭を下げた。

 

「…ごめん!碇」

 

シンジは目を丸くしてきょとんとする。

 

「…どうしたの?」

「え?いや、どうしたのってお前…」

「…僕の操縦が下手なせいで、その人怪我しちゃったんでしょ?」

「いや、お前のせいというかあの化け物のせいって言うか…」

「実は途中から気絶しちゃったんだ」

 

その言葉にケンスケは神妙な顔つきをした。

 

「だから、ほとんどエヴァが勝手に動いたらしくて…その、こっちこそ、ごめん」

 

ケンスケは、まじまじとシンジを見て。

そして顔を歪ませてながらうなだれて、真剣な声で言った。

 

「碇…ごめん。ジャージの奴にも俺から言っとくよ…本当に、ごめん」

「相田君…」

「許して…くれる、か?」

「えっうん」

「そっか…じゃ、俺の事はケンスケで良いよ」

「え?…じゃ、じゃあ僕もシンジで…?」

「おう」

 

そしてケンスケは照れくさげに笑った。

シンジも無意識に、はにかむように笑った。

 

 

「カメラが趣味なんだ?」

「そう」

 

すっかり夜はふけて。

 

焚き火、と言うものがこんなに落ち着かせてくれるなんてシンジは初めて知った。

どれほど眺めていても一向に飽きないのだ。

 

それも当然だろう。炎が形作るその姿はもう二度と同じ形にはならないのだから。

自然は常に、見る者に最初で最後の初めての姿を見せてくれるのだった。

 

「野鳥撮ったりさ。後この辺結構綺麗だろ?写真の鍛錬にもなるし」

「それで、野営?って、言うの?」

「そう、月に一回くらいだけどな。結構楽しいぜ」

 

ケンスケは星空にシャッターを合わすと、ぱしゃりと写真を撮る。

シンジも見上げて、驚くほど鮮明な星々に感嘆の声を上げた。

 

「ところで、シンジはどうしてここに?」

「うん…」

 

ぼんやりと夜空を見上げながら。

 

「…よく、わかんないや…」

 

その要領を得ない返事に、やはりケンスケは神妙な顔で言った。

 

「そっか」

「うん」

「なら泊まってくか?」

「いいの?」

「おう、狭いテントで良ければな。ああ、天気良いから外でも良いか」

「…うん」

「…ところでエヴァの事聞いていいか?」

「あ、一応守秘義務とかあるけど…」

「それに触らない範囲でいいからさ!な、頼む!」

「うん、良いよ」

 

煎れてくれたコーヒーをとても暖かかった。

いかんせんブラックだったので大変苦かったが、何故だか少し大人になった気分だった。

 

「へえ…そんないきなりだったのか」

「うん。なんか…実を言うと今でも良く実感わかないんだ」

「適格者かあ…俺とか無理かなあ?」

「凄く珍しいって言ってたけど…乗りたいの?」

「あたりまえじゃん!巨大ロボットなんて男の夢だろう!?」

「…そう…なの?」

「シンジ…お前ちょっと感覚ズレてる」

「そう?」

「そうだよ…自分を殴った仲間とこんな風に喋ってたりさ」

「そうかなあ…」

「そうだよ」

「そうかなあ」

「そうだよ」

 

ケンスケは面白そうに笑う。

そして、何か暖かい声でこう言った。

 

「なあ…今度お前ん家遊びに言って良い?ああ、俺ん家でもいいぜ」

「うん。あ、でも家はミサ…上司の人が居るけど」

「へえ、上司と住んでんのか」

 

何故親族と住まないのか、と野暮な事をケンスケは聞かなかった。

 

そんな風に話しながらシンジは無自覚に笑っていた。

そんな柔らかい笑みはきっとこの都市に来てから初めてだった。

 

「碇シンジだな」

 

だが、その突然聞こえた大人の声に、その笑みは最初から存在しないかのように消えていった。

 

 

 

 

 

 

「それで…どういうつもりだったの、シンジ君」

 

ミサトは厳しい瞳でパイプ椅子に座ったシンジを見た。

 

「今回のシンクロテストはとても重要でね。準備にも手間がかかるし、費用だってただじゃあ無いの」

 

シンジは黙って聞いていた。

 

「貴方のその無責任な行動で、どれだけの人に迷惑が掛かったかわかる?」

「…ごめんなさい」

 

その言葉にミサトは眉をひそめた。

 

「シンジ君…貴方、エヴァに乗るって言ったわね」

「はい」

「なら、ちゃんと自分の発言に責任を取りなさい。そんな気のない謝罪ならしない方がましよ」

「…はい」

 

ミサトの表情にはっきりと怒りがにじみ出る。

 

「いい加減にしなさい!」

 

その怒声にシンジの体がびく、と揺れた。

 

「…いいわ。今日一日独房で頭冷やしなさい」

 

 

 

 

 

 

ミサトは着替えもせず、かしゅ、とビールの缶を開ける。

ぐびりと飲んで、でもその喉越しは苦かった。

 

ため息をつく。

 

驚くほど綺麗になったリビングは、独りで居るには少し広すぎる気がした。

そんな思考を頭を振って打ち消す。

 

着替えるため部屋へ向かうと、ふすまが開けっ放しだった。

あちゃ、独りで暮らしてた癖が抜けてないわね、とミサトはやや反省し、その机のそれを見た時真剣に自分に呆れた。

 

サードチルドレン観察日誌。

 

うっかりしまい忘れてた。

つまり、もしかすると。

 

「ああ…もう!」

 

そう自分に悪態をつきながら、ミサトはもう一度着替えるため勢いよくタンクトップを脱いだ。

 

 

 

 

 

 

シンジは体育座りでずっと独房の壁を見つめていた。

 

静かだった。

あまりに音が無くて耳が痛くなった。

 

目を瞑って瞼の裏に今日見た景色を思い浮かべる。

 

ふと、欲求が湧き出て、そっと空想の鍵盤を鳴らす。

 

何かの音を、紡げそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジの心は音で出来ていた。

 

 

情動や感情に音がある事をシンジは知っていた。

 

いや、それどころか自然や景色や人の作った人工物にすら固有の音が宿っているのを知っていた。

 

 

シンジがその透明な鍵盤を鳴らす理由は一つだった。

 

 

 

『きっと、一生…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を見た。

 

 

また鯨の夢だった。

 

 

でも海ではなく空を泳いでいた。

 

鯨が空を泳ぐ理由なんて単純だった。

 

 

海を、追い出されたからだ。

 

 

なら、空を泳ぐしかないに決まっていた。

 

当然の事だった。

 

 

 

 

 

 

何か騒がしくて、ふと目を開けた。

 

それは一種のサイレンのように思えた。

何かあったのかなあ、とぼんやり思い、中指と人差し指で目をこすった。

 

振動が、あった。

地震?いや、違う…。

 

シンジは、不安げに眉を下げた。

 

気のせいか、あるいは幻聴か。

 

 

何かが咆哮するような声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/7/15


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