リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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4-1《かつて竜神の一柱だった鯨から神性が剥奪される、その経緯》

 

 

 

 

 

 

 

可愛い、男の子。

 

それがミサトのシンジに対する第一印象だった。

 

14歳にしては顔つきも身長も雰囲気も全てが幼い。

写真で顔は知っていたが、実際会ってみると想像以上だった。

簡潔に言うと、シンジは小学生のベリーショートの髪の女の子が男装しているように見えたのだ。

 

ミサトにそっちの趣味など無い。

それでもこういう清潔感のある可愛い男の子に好印象を持つのはまあ当然ではあった。

 

「…ところでシンジ君、貴方荷物は?」

「あ…」

 

さっきから心ここにあらず、という感じでぼんやりミサトを眺めてた少年は、ようやく少し意識を取り戻したかのように。

 

「…忘れちゃった」

「…まさか、家に?」

「いえ、多分、公衆電話のところに…」

 

とシンジは右手を見る。

 

「そう…まあ良いわ。後で部下に回収させるから。さあ、乗って頂戴」

 

ミサトは愛車の助手席のドアを開ける。

少年は右手を見ながらにぎにぎさせ、ぼんやりと、はい、と返事をした。

 

ミサトは流石に様子が変な事に気づいて、少し眉をひそめる。

一連のやり取りはまさに、身も蓋もない言い方をすれば、足りない子なのではないか、と思わせるには十分で。

でも、資料では知能はいたって平均、まったく問題なかった事を思い出す。

 

…何か、あったのかしら?

 

と、少年がミサトの影を踏む瞬間、何かぴくり、と一瞬動きをとめて。

 

 

でもおずおずとミサトの影を踏んだ。

 

 

 

 

突然そんな説明をしたって理解出来る分けなかった。

 

そんなことはミサト自身十二分にわかっていた。

それを承知で、長い、驚くほど長いエスカレーターに乗りながら言葉を紡ぐ。

 

「もう一度説明するわね」

 

出来るだけ静かに、落ち着いた声が出るように。

 

「使徒、という、化け物が後数時間でやってくるの。

 それを迎撃するために作られたそのエヴァンゲリオンは特定の資質のある子供しか動かせない。

 シンジ君、貴方にはその資質があるのよ。それが判明したのはその、最近で、突然こんな事になってしまったのだけど」

 

その建物は無機質で、ある種、廃墟などに近い色彩を放っていた。

あいかわらず温かみの感じない施設ね。

ミサトはどこか弁解するような言い方に自分で嫌気が指して、ふとそんな風に思考を逸らしてしまった。

 

「化け物って…鯨…ですか」

「クジラ…?」

 

そのあまりに意味不明だったシンジの言葉にミサトはきょとんとして。

代わりに、先ほど名乗ったまま黙って二人の様子を眺めていた金髪に白衣の女性が口を開けた。

 

「いえ、人型の巨人よ…すでに姿は確認してる。今のペースなら約2時間後に第三新東京に進入するわ」

 

赤木リツコは白衣に手をつっこんだまま興味深そうに観察し。

 

「何故、鯨と思ったの?」

 

シンジは何か言いかけて、でもそのまま口をつぐんでしまった。

ミサトとリツコは思わず顔を見合わせた。

 

「…ミサト?」

「うん…何か会った時からこんな様子なのよ。ぼんやりして、こっちの話も右から左みたいでさ…」

 

ふむ、とリツコは改めてシンジを見る。

幼い子供。その受ける印象は14歳とはとても思えない。

 

「シンジ君」

 

シンジはぼんやりと顔を上げて黒々とした、どこか子犬を連想させるような瞳でリツコを見た。

 

「とにかく、見て欲しいのよ。これから貴方が乗る兵器をね」

 

まるですでに少年が乗るのが決定してるかのようにリツコはクレバーに言った。

それにミサトは心持ち眉をひそめる。

 

リツコはその様子を観察して、少し呆れた。

どうやら、ミサトはまだこの少年に納得させる形で乗ってもらいたいと思ってるらしい。

 

時間の無駄なのに。

 

使徒やらエヴァやら、そんな事突然説明されて納得できるわけがない。

本当だったら数日かけて、説得力のある資料を提示させながらじっくり噛み砕いて説明しなければいけないはずだ。

 

でもすでに時間が無い。

 

その巨人を見てすら、シンジはぼんやりしたままだった。

 

あまりにも現実感が無さ過ぎるのだろう、とリツコは傍目に納得する。

それはそうだ、自分が同じ立場でも現実感がなくてきょとんとするだけだろう。

 

でも、逆に都合が良いかもしれない。

このままなし崩しに、とリツコは思い。

 

だがその声が響いた時、はっきりとシンジの様子が変わった。

 

 

『久しぶりだなシンジ』

 

 

少年がピクリと震えた。

 

「父さん…?」

 

そしてシンジは改めて回りを見回す。

まるでたった今初めて会ったかのように、リツコやミサトを見つめ。

どこか震えるように、もう一度声を上げた。

 

「…父さん…」

『話は聞いたな』

 

ゲンドウは冷徹に、感情の篭らない口調で重々しく言葉を紡ぐ。

 

「どうして…?」

『お前には適正があるからだ。詳しい話は赤木博士に聞け』

「…つまり、父さんは…そのために僕を呼んだの?」

 

やはりぼんやりとシンジは呟いて。

 

「これに乗せるために、僕を呼んだの?」

『そうだ』

 

その言葉には何の感情も篭められておらず。

 

『乗るなら早くしろ。でなければ帰れ。』

 

シンジはぼんやりと父と、巨人を交互に眺め。

 

そして、無表情にうなだれた。

 

それはまるで幼子のような無垢なそれで、自分がどんな目にあっているのか理解していないような。

少年の外見的幼さと相まって、その姿は大人に保護欲を抱かせるには十分だった。

 

もちろんリツコはその女性的本能を理性の豪腕で隅に放り投げる。

だがミサトは?とリツコは目の端で友人の様子を眺めて、やはり、彼女は情に流されかけてるように思えた。

すると、ゲンドウはそのシンジの様子に業を煮やしたのか、あっけなくこう言った。

 

『…そうか。では帰れ。赤木博士、レイのシンクロ準備を』

 

そしてゲンドウは背を向けた。

リツコは、思わずため息をついた。

だが所詮、リツコにとってこの結果も予想できた事だった。

 

「シンジ君、送るわ。ここはもうすぐ戦場になるだろうから、早く帰りなさい」

 

リツコは同じく背を向ける。

賽の目が決定したのならこれ以上頭のリソースを割くのは無駄だった。

ミサトはその様子をどこか葛藤するような様子で、黙ったまま眺め、でも何か声をかけようとし。

 

すると、そのベッドが運ばれて来た時、シンジは大きく目を見開いた。

 

包帯を巻かれた白い少女。

その少女が痛みを堪えるようにうめき声を上げる。

 

ふと、少女と視線がかち合う。

 

 

それはやはり。

 

 

 

まるで、血のような紅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・青Ⅱ

   

   《かつて竜神の一柱だった鯨から神性が剥奪される、その経緯》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葛城ミサトは色々な意味で矛盾とギャップのある女だった。

 

例えば見た目。

実年齢より大分若く見えるが、童顔と言うほどではない。

 

それでも彼女の顔立ちは若々しく、少し額で分けつつ前髪を下ろしたその髪型もあって、

ミサトは黙っていれば(あくまで黙っていれば)古き良き大和撫子のようなおしとやかな外見をしているのだった。

それでいてそのやや厚めの唇はとても柔らかそうに艶やかで、目がとても大きく、

どこか稚気のある子供っぽさとその肉感的な絶妙なアンバランスさは、確かに一種危険な性的魅力を醸し出していた。

 

そして何よりもその葛城ミサトのギャップを物語る上で一番象徴的だったのが。

その豊かな左胸の上を覆いかぶさるように大きく刻まれた、植物をイメージした刺青だった。

 

「気になる?」

 

タンクトップに着替えたミサトは、そう言ってその左乳房の刺青をなぞり、豊かな胸が指跡にたゆんだ。

 

その部屋は大変に汚かった。ごみ、ごみ、ごみの山。

レトルトの容器なども洗わず袋に入れているようで変な匂がした。

あの白く無機質な病院に一泊した(らしい)シンジにはその部屋は色々な意味でちょっと強烈だった。

 

「刺青、ですか?」

 

でも何とかその刺激に我慢しつつ、シンジはさっきから気になっていた疑問を口に出した。

 

「そう。昔思うところあってね、消えないの覚悟の上で入れたの」

 

見てみる?などと言いつつ、ダイニングテーブルを挟んで向かい側に腰をかける。

 

「いえ…でも、プールとか」

「無理ねえ。温泉なんかも貸切にでもしない限り断られるでしょうね」

「一生、消えないんですよね?」

「そーよ。そういうのぜーんぶ覚悟の上でね。全部承知した上で入れたの」

 

ミサトは陽気に柔らかい声で呟く。

 

「まあけじめみたいな物でね、人間、色々線を引いたり、誓いを何かに刻んだりする必要があるのよ。

 もちろん、刺青として刻む必要はないけどね」

 

私には必要だったの…と。

 

「刺青の入ってる女なんて恐い?」

 

彼女はちょっといたずらっぽく聞いてきた。

 

「よく、わかりません」

「正直なのね。嫌いじゃないわよ、そういう子」

 

あ、と突然ミサトは声を上げる。

 

「そうそう、貴方が忘れた荷物、見つかったわよ」

 

と部屋の一室から持ってきたショルダーバッグをシンジに渡す。

 

「いつまでも学生服じゃあれだから、着替えるついでにお風呂入っちゃいなさい」

「はい…」

 

あー、それと、と声を上げる。

 

「その…シンジ君、お父さんからの手紙、見させてもらっちゃ駄目かしら?」

「…捨てました」

 

少しの間の後。

 

「…お父さんの事、苦手?」

「…よく、わかりません」

「そう…」

 

そしてミサトはポツリと言った。

 

「私とおんなじね」

 

 

 

 

その僅かなシャワーの音に耳を傾けながら、ミサトはビールの缶を開けた。

ぐびり、と一口。

心地のいい喉越しに一日の終わりを実感して、ふう、と安堵の息をつく。

 

「碇シンジ君、か」

 

つい独り言を呟いた。

 

そして昨日会ったばかりのあの少年と一緒に暮らす、というめぐり合わせに人の世の不思議さを痛感する。

 

それはもうほとんど衝動だったのだ。

碇司令があの少年と暮らす事を拒否したと知って、本当に衝動的に言ってしまったのだ。

 

なら私が引き取るわ、と。

 

何故そんな事を口走ってしまったのだろう?

彼女は珍しく内省してみた。

 

下心が無いと言えば嘘だろう。

もちろんそっちの意味でなく、今後上司として、彼と親しい関係を持つのは悪い事ではない。

そういう打算も確かにあったのだ。己の復讐を果たすには、あの少年の力がどうしても必要だったから。

 

彼女は無意識に左胸の刺青を指でなぞる。

 

だが、それだけでもないな、と改めて己の内面を観察してみる。

 

確かに、今後良い関係を築くためには仲良くなるべきだし、だからこそ作戦部長の自分が直接迎えに行きもしたのだ。

だが、流石のミサトもいきなり会ったばかりの少年と暮らすだなんて発想もしない。

そんなつもりはまったく無かったのだ。

 

じゃあ何故?

 

恐らく。

 

ああ、そっか、と。

 

「私、あの子嫌いじゃないと思っちゃったのね?」

 

むしろ好ましい子だ、と思っちゃったのね?私。

そう、碇シンジという少年は確かにミサトの琴線に触れたのだ。

 

だって。

 

彼は、ファーストチルドレン綾波レイを庇って、エヴァに乗ったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…僕が、乗ります」

 

 

その突然の少年の言葉はあまりに意外過ぎた。

 

その呟きを聞いたその場の全員が一瞬動きを止めたのだ。

実に、あの碇司令ですらも。

 

「シンジ君?」

 

ミサトは思わず聞き間違いか、と声を出して。

 

「僕が、乗ります…」

 

だが彼はもう一度そう言った。

ミサトはその視線をたどる。

その視線の先には、包帯だらけの、白いプラグスーツを着た少女。

 

綾波レイ。

 

ミサトは視線を戻す。

彼はその白い少女をひたむきに見つめていた。

ただただ、ひたむきに見つめていた。

 

つまり、この子、状況から考えて、レイが自分の代わりに乗ると直感したの?

だから、自分が乗ると言ったの?

 

もしかしたらリツコか碇司令の計画かしら?少年の英雄願望に訴えるという、あこぎな、と一瞬考え。

だが、そうだったとしても、その少年が大人のあこぎさに乗せられたのだとしても。

その行動は確かに、ミサトの何かを柔らかくなぞったのだった。

その柔らかく触れてくる感触の気持ちよさに、あるいは罪悪感にミサトは不覚にも一瞬目を泳がせてしまった。

 

同じく驚いていたリツコが、やはりクレバーに言う。

 

「いいのね?シンジくん」

 

そこでシンジはようやくリツコに視線を合わせ、ついでミサトを見て。

そして、やはりレイを見つめて、躊躇を感じさせる声で、でもはっきり言ったのだった。

 

はい、と。

 

 

 

 

 

 

海の中なのに、息が出来る。

 

その羊水の海に満たされた時、シンジの内面はある種の感嘆で満ちていた。

 

最初は苦しかったが徐々に息が出来るようになる。

それは何か、それこそ自分が魚になったような、あるいは魚だった事を思い出したような。

そんな郷愁に近い不思議な感覚すらシンジに抱かせたのだった。

 

『ではシンジ君、今からエヴァとのシンクロを始めるわね。』

 

スピーカーから鮮明な、どこか初々しい声。

 

『ああ、あの、私は伊吹マヤって言うの。よろしくね、シンジ君』

 

もしかしたら10代でも通るような、とても若々しい声だった。

シンジはこんな若い人もいるんだ、とぼんやり思いながら、よろしくお願いします…とおずおずと返した。

 

『説明は一通り聞いたと思うけど、あまり緊張はしないで。別に苦しかったりする事はないから』

 

はい。と、まるであつらえた様にぴったりなそのダイバースーツの胸を上下させて答える。

 

『では、A10神経接続します…シンクロ開始』

 

 

「シンクロ率安定、67%…ハーモニクスも異常ありません」

 

ほう、と感嘆のような息がそこかしこから漏れた。

 

「…初めてで、このシンクロ率?」ミサトが驚愕しつつ。

 

リツコも感嘆を滲ませながら、予想以上ねと呟いた。

 

「…行ける。」

 

ミサトは小さく囁いた。

そして、司令塔を見上げる。

 

「…よろしいのですね?碇司令」

「かまわん。やりたまえ」

 

では、とミサトは声を上げた。

 

「エヴァ初号機、リフトオフ!」

 

 

 

 

まるでジェットコースターみたいな上昇感覚の後。

 

見回せばミニチュアのような街。

不思議な感覚だった。

 

全てが鮮明。

 

まるで感覚が拡大したような、鋭敏になったような。

あるいは、遠い昔に無くして忘れていた感覚を思い出したかのような。

もしくは、実は最初から自分はこの巨人の一部だったかのような。

 

やはり、ようやく戻ってきたのだ、というような奇妙な懐かしさを感じて、その思惟の意味不明さに頭を振った。

 

『シンジ君、まずは歩く事だけ考えて』

 

その言葉に、シンジはとりあえず一歩前へ足を踏み出した。

おお、と発令所がどよめいて、するとオペレーターの一人、日向マコトは声を上げた。

 

「使徒…上空へ…?あ、使徒進路変更!飛行しながら初号機にまっすぐ向かってきます!」

「なんですって!?」

 

シンジはそれが舞い降りたときもやはり現実感は無かった。

 

それは人型の巨人だった。

髑髏のような、でも不思議と怖い感じはしない顔。

 

体は黒く、ぬめりとしていて、ところどころに骨らしきものがむき出しで。

そして胸の真ん中にはとてもとても綺麗な赤い色の球体。

 

確かに化け物だった。

だがシンジはそれに、やはり海に住んでる未知の巨大生物のような印象を持った。

 

この時シンジは、不思議な事にその使徒という怪物にまったく恐怖や嫌悪のような感情を抱かなかったのだ。

 

そしてそれは、使徒というその相手も同じゃないか、とシンジには思えた。

もちろんそれは現実感の喪失ゆえだったのかもしれないが。

 

その髑髏のような白い顔をかしげる。

初号機を見て、これは一体なんだろう?とでも言うように。

 

この時の、その直感、使徒という生物に第一印象で抱いた感想をシンジは生涯忘れなかった。

 

そしてつくづく痛感したのだ。

己に囁くその声、その直感は、常に正しいのだと。

 

そして夥しいミサイルが使徒に降り注いだ。

 

 

 

 

『シンジ君、とにかく距離をとって!』

 

シンジは唖然と爆発に巻き込まれる使徒を見つめた。

そのミサイルが止んだ時、はっきりと使徒の様子は変わっていた。

 

何故か体に傷はまったくなかった。

頑丈なんだなあなどとのんきな事を考え。

 

だが確かに先ほどとまるで雰囲気が違うその使徒に、頭の中で警報が鳴り響いた。

あるいは、それはシンジではなくエヴァの脳内で響いていた警報だったのかもしれない。

 

ただ使徒は右手を初号機に向け。

 

 

光。

 

 

そして頭蓋骨を抉られた様な激痛がシンジを襲った。

 

 

 

 

その少年の叫び声が響いた時、不覚にもミサトはすくんでしまった。

 

改めて自分が年端もいかない少年を戦わせてる、という現実の実像の重みがミサトに乗りかかって。

その想像以上の重さに愕然としてしまったのだった。

 

「ミサト!」

 

リツコが叫ぶ。だがミサトは呆然としてる。

馬鹿!とリツコは心で罵って、どうにか援護しようとする、が思いつかない。

 

「ミサト!しっかりなさい!貴方の仕事でしょう!」

「かまわん。しばらく様子を見る」

 

その重く響いた碇ゲンドウの言葉に、リツコやミサトだけでなく発令所の全ての職員がゲンドウを見上げた。

思わずといった感じで伊吹マヤは声を上げる。

 

「司令…?ですが!」

 

だがゲンドウは顔の前で手を組んだまま何も答えなかった。

その内面を推し量る事が出来る人間など、この場所には居なかった。

 

 

 

 

シンジは、その生まれて初めて経験する痛みに朦朧としていた。

スピーカーからは誰かの声が聞こえたがもちろん意識の外だった。

 

痛い、痛い、痛いよ、やめて。

 

白くなっていく意識の中で、シンジはぼんやりと考えた。

 

ああ、死ぬのかな。

 

 

どんどん、意識が遠く…。

 

 

ああ、死ぬの?

 

 

死ぬ…?

 

 

 

そしてシンジは意識を手放す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…まあ、いっか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を見た。

 

 

 

 

何かがこちらに泳いでくる。

 

ゆったりと、巨大な何かが泳いでくる。

 

 

鯨だ。

 

 

とても美しい、銀色に輝く鯨。

 

 

それがゆるりとシンジを抱くように体をくねらせ、その巨大なヒレで、やさしく、シンジを撫でた。

 

 

その時の自分の感覚が分からなかった。

 

 

ただ、シンジは本能的に思ったのだ。

 

ただ衝動的に口走っていたのだ。

 

 

 

『お母さん』と。

 

 

 

 

これよりシンジの記憶は完全に途絶えてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミサトはバスタオルで髪を拭きながらその部屋の前でうろうろしていた。

 

シンジは、布団にもぐってその気配に気づきながら。

何となく、指でドレミファと枕の端を鍵盤に見立てて弾いてみた。

 

「…シンジ君、入るわね」

「どうぞ」

 

ようやく覚悟を決めたらしいミサトがそっとふすまを開ける。

そして何かこそこそ話のような小さい声で。

 

「シンジ君。貴方…良くやったわ。貴方のおかげで使徒を倒せたんだもの」

「僕が倒したんですか」

「ええ…やっぱり覚えてないのね」

「どうやって倒したんですか」

「うん…それは明日にしましょ。…でもこれだけは覚えていて」

 

ミサトは少し間を空けて。

 

「貴方は人に褒められる立派な事をしたのよ。…誇っていいわ、シンジ君」

「…そうですか」

 

沈黙が流れて。

 

「…それじゃ、おやすみ、シンジ君」

「おやすみなさい、ミサトさん」

 

そして静かにふすまが閉められる音。

しいん、と耳が痛くなるくらいの静寂だった。

 

この辺はあまり蝉の声がしないんだなあ、とどこか寂しく思った。

だからシンジはうつ伏せになると、やはりまくらを鍵盤に見立て。

 

その静寂の中で、幻の鍵盤が鳴る音だけがシンジの中で響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/7/10


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