リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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“序曲”
1-1《雪消し、海鳴り、夢隠し》


 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪が海面に溶けていった。

 

 

白が舞うその冬の海はまるで寂寥感で出来ているようだった。

だがそれゆえ、その寄せ返す波はぞっとするほど美しかった。

 

少女は少しだけ息を吐いた。

 

白い。

 

幼い頃、寒いとどうして息が白くなるのか不思議だった。

 

外に出ると必ず大きく息を吐いて、その白い空気がすっと溶けて消えていくのを眺めていた。

消えたそれは何に溶けて、一体何処へ行ってしまうのだろう、などと考えながら。

 

ふと首に巻いた蒼いマフラーの片方がまた落ちた。

 

煩わしく左手でそれをぽいと肩に戻し、またセーラー服のポケットに手を戻す。

流石の彼女でも少しだけ寒かった。それでも耐えられないほどでも無かったが。

 

彼女はぼんやりと灰色の空を見上げた。

その赤い瞳には覆い隠すように雪が映っていた。

 

何時ものメロディーを頭で鳴らす。

彼女は頭を振った。

もう少しのはず、なのに。

右手にもった棒切れで、砂浜に描いたその音符に×をつけた。

 

メロディーは何時もここで途切れている。

 

どれだけ思い出そうとしても、瞑想しても。

この先のメロディーは彼女には分からなかった。

まるで、失われた欠片だ。

 

彼女にはどうしても、その欠片が見つからなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼はそっと目を開けて空を見た。

 

彼の少しだけ青い瞳には覆い隠すように雪が映っていた。

ゆっくりベンチから上半身を起こす。

 

右手の人差し指と中指で目をこすり、慣れた手つきで小さな煙草を取り出し火を点けた。

それは吸うというより飲むと言う表現の方が合っていた。

どうやら随分長く煙草を嗜んでるようだった。

彼のどこか中性的で繊細な風貌に、煙草とその吸い方は不思議と似合っていた。

 

息を吐く。

 

白い。

 

それの何割が煙草のそれで寒さゆえの息なのか判断つかなかった。

その煙、もしくは息の混ざった白が、すっと溶けて消えていくのを彼はぼんやりと眺めた。

 

足元にはかなりの吸殻が合った。

 

その短く清潔な印象を与える黒い髪をかき上げる。

そして煙草の火の先をじっと見た。

迷いが、あるようだった。あるいは躊躇だろうか。

 

ただぼんやりと火を見つめ。

そして根元まで短くなった煙草は自然と消えた。

青年は目を伏せた。

しばらくの後、そっと目を上げるとゆっくりと立ち上がる。

 

そして、一歩、前へ。

 

その入り口を出た先には、雪降る寒々とした海。

街の一部を飲み込んだ事を証明するように、数多くのビルや電柱が海面から覗いていた。

その波打ち際に、独りぽつりと誰かが居た。

 

黒い長袖のセーラー服、黒いタイツ、こげ茶色の靴に、鮮烈なほどに蒼いマフラー。

そして、雪のように真っ白な髪をした若い娘だった。

 

彼は、その寂寥感で出来たような海と、美しく降る雪と、

遠くに立つその白い少女の後ろ姿を無表情に、青い瞳でまんじりともせずただ見つめ。

 

一歩、足を踏み出した。

 

ただ一歩。

 

ただ。

 

 

前へ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新世紀エヴァンゲリオン

 

『リヴァイアサン・レテ湖の深遠』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さくり。

 

 

砂浜が鳴った。

 

足音?ありえないと彼女は思い直す。

だが今度はボッという音が聞こえて、体がぴくりと動いた。

 

恐らく、ライターの音。

 

「よくそんな格好で寒くないね」

 

それは男にしては柔らかで、どちらかと言えば女性的な声質だった。

だが、それに反してその口調はそっけなく、どこかひんやりとした冷たさがあった。

 

彼女は腰の物に意識を向けつつ、すっと横目で後ろを見た。

 

「慣れてる」

「若いって良いね」

 

その男は彼女の隣に大分距離をとって並び、咥えタバコで海を眺めた。

 

すると不思議な臭いが鼻をついた。ああ、これが煙草の臭いかと得心する。

煙草を吸う人など彼女は映画の中でしか見た事が無かった。

想像よりも臭くない、というより、どちらかというと嫌いな香りではなかった。

 

彼女はそっと男を観察した。

 

まだ若く、20そこそこぐらいだろうか。

細身でやたら背が高い。彼女はその男の胸元ぐらいしかなかった。

着古した薄茶色のフードつきのコートに、同じく着古したデニムに黒い靴。

一言で言えば貧乏臭いが、スタイルが良いせいかそんな格好も似合っていた。

 

顔立ちも端正だった。

 

すっと通った鼻梁や細い顎はいかにも繊細で、髪は鴉のように黒く艶やかだった。

ベリーショートのその短髪は、顔の造詣も相まって清潔さを醸し出している。

全体的に、どこかすっとした印象を与える美青年だった。

 

だが、まつ毛の長いその瞳はひどく冷たく、近寄りがたかった。

 

「貴方、ここで何をしてるの」

「ん?ただの廃墟探索だよ」

 

青年は海を眺めたまま答えた。

台詞は優しげだが、口調にはやはりひんやりとした冷たさが滲んでいた。

 

「第三新東京市といえば廃墟マニア憧れの街だからね。念願叶ったよ」

「カメラ、持ってないわ」

「目に焼き付ける派なんだ。プロならともかくね、素人が写真取ったって意味無いよ」

 

青年は彼女には目もくれず、とても穏やかに、だがやはりそっけなくそう言った。

彼女は咄嗟に嘘だな、と直感した。

 

「ありえない」

「何が?」

「ここの警備は厳重よ。普通の方法じゃ入れない」

「なら君はどうしてここに居るのさ」

「私の事は関係ないわ。どうやって入ったの」

 

青年はようやく横目で彼女に目を合わせ、口の端でそっと笑った。

 

「第三新東京がどれだけ巨大な都市か知ってる?厳重に封鎖したって全てをカバー出来るわけない」

 

彼女は一瞬その言葉に説得力を感じて、でも、とやはり否定する。

 

「…やっぱりありえない。ここの警備は完璧なはずよ」

「この世に完璧な物は無い。って理解するには君はまだ若すぎるかな」

「信じられないわ。ここの警備システムの管理はマ…とにかく、ありえない」

 

その言い直した彼女の言葉を青年はスルーして、どこか面白そうにこう言った。

 

「じゃ逆に聞くけどさ、本当に完璧ならどうして僕がここに居るのさ?その時点で矛盾してるだろう」

「それは…」

「どんなものにだって抜け道はあるのさ」

 

青年はふ~と白い煙を吐き出しながら、興味を無くした様に視線を海に戻す。

その横顔を観察しながら、彼女はそっと口を開いた。

 

「…貴方みたいな人が毎年、それなりに居るって聞いたわ。

 やっぱり廃墟好きの人達で、何とか封鎖を突破しようとして何時も捕まっている」

 

「そりゃあね、何せ都市全部が丸ごと廃墟なんだから。

 世界の廃墟好きが死ぬまでに一度はと夢見る、まさに理想郷って奴だよ。

 だから進入に成功した人がいちいち報告するわけないじゃない。

 むしろ本当に一部の仲間以外には黙ってるね。抜け道がばれたら元も子もない」

 

彼女はまたしてもその言葉に説得力を感じてしまった。

 

「…本当に抜け道があるの?」

「ある。って言ったら?」

 

少しの沈黙の後、彼女はポツリと呟いた。

 

「…外に、行って見たい」

 

その言葉に、青年は顔ごと彼女に視線を向けた。

少しの後、瞬きして、青年は同じようにポツリと呟く。

 

「…どうして」

「別に。冗談よ」

 

彼女はひどくそっけなく、無表情にそう言った。

 

「…そっか」

「それで、抜け道あるの?」

「ごめん。実は無いよ」

「…ならどうやって?」

「君が言ったろ?普通の方法じゃ無理だって。なら答えは出てる」

 

彼女は少しだけ青年から距離を取った。

 

「何物なの、貴方」

「君の想像通りの類だったとしよう。答えると思う?」

 

確かにそうだな、とまたしても彼女は説得力を感じてしまって、少し目を鋭くする。

 

「…報告するわ」

「そう?出来たら良いね…」

 

さくり。

 

青年は彼女に振り向き、一歩近寄った。

その表情はまるで能面のようだった。

 

さくり。

 

彼女は咄嗟に持っていた棒切れを捨てると、更に後ろに距離を取る。

そして腰に手を回して、腰に手を…無い。

 

無い、無い?

どうして!?

 

「はい」

 

と青年がそれを差し出した。

彼女の小さめの銃、その柄を親切に彼女側に向けて。

 

一瞬虚を突かれ、だがすぐ気を取り直し銃を奪ってその銃口を青年に向けた。

それなりに様になっている構えだった。どうやら訓練を受けているようだった。

 

だが青年は無頓着に煙草をふかしていた。

彼女は凛とした表情でトリガーに指をかけた。

 

「安全装置」

 

その青年の言葉にやはりきょとんとし、あっ、と急いで安全装置を外しもう一度構えて。

 

「弾」

「弾?」

 

彼女はおずおずと銃の柄の底を見る。

空だった。

 

空?

 

「へい、パス」

 

青年は弾倉を彼女に放り投げた。

彼女はあっけに取られ目を瞬かせる。

その表情に青年は少しだけ目を細め、背を向けた。

 

「…一体、どうやったの?」

「あんまり隙だらけだからさ。君をどうにかするつもりなら出来たよ。危害を加えるつもりは無いさ」

 

そう言って彼はふ~と旨そうに煙草の煙を吐き出した。

 

彼女はその背を観察しながら少しだけ迷い、何度か目を瞬かせた。

そして、おずおずと、でも今度こそきっちり銃を腰にしまうと、

青年に背中を見せないよう、警戒しつつ距離を取ってそっと向き合った。

 

「ところで伊吹副司令は元気?」

 

青年のその不意打ちに彼女は目を丸くした。

 

「あれ?副司令だよね。もう司令になっちゃったとか?」

「…知ってるの?」

「まあ古い知り合いなんだ。彼女昔はただのオペレーターだったんだよ」

「本当?」

「本当」

「…貴方、何者なの」

「だから答えると思うの?当ててみたら」

「関係者?」

「どうして」

「それなら納得できるわ。ここに居る理由も、副司令を知っている事も」

「君は僕を見た事があるの」

「顔の知らない関係者は大勢居るわ」

「良い線かもね」

 

と青年はすっと彼女の目を真っ直ぐ見て、無表情に呟いた。

 

「でも、君が『アヤナミレイ』だって知ってる関係者は、あまり居ないと思うよ」

 

彼女ははっきりと目を見開いた。

今度こそ躊躇無く腰に手を回し銃を無い、無い?

 

銃が無い!?

どうして!?

 

「はい」

 

何時の間にか目の前に青年が居た。

先ほどのように銃を彼女に差し出して。

 

やっぱり一瞬で銃を奪い返すと、構えて

「安全装置」

はっ、と彼女は外そうとして

「外れてる」

と銃を構えなおす。

「弾」

騙されないぞ、と彼女は思い、だが平然としている青年を見て、もしやと

「入ってる」

きっ、ともう一度銃を構えるが

「ごめん嘘」

と、青年は弾倉を投げて寄越した。

咄嗟に受け取って、銃の柄の底を見る。

 

空だった。

 

彼女は今度こそあっけに取られて目と口を丸くした。

表情に乏しい彼女にとってその顔はかなりのレアだった。

やはり、青年は目だけでくすりと笑う。

 

「ほら、もう二度もチャンスあったよ」

 

そう言って背を向ける青年を、彼女はじっと見つめた。

周辺を見回し誰も居ないのを確認する。

 

息を吐く。

もちろん白かった。

 

それが溶けて消えるまでの逡巡。

 

そして、力を抜いて銃を腰にしまった。

もう一度だけ周辺を見回すと、マフラーの片側がまた落ちた。

煩わしくぽいっと肩に放ると、両手をスカートのポケットに入れる。

 

どうやら、好奇心が勝ってしまったようだった。

 

「貴方、さっきのどうやったの」

「手品みたいなものだよ」

「…どうやって?」

「種をばらすわけ無いじゃない」

「何考えてるの、貴方」

「何って…」

 

青年はきょとんとした感じで彼女に視線を向けた。

 

「君をからかってるに決まってるじゃないか」

「…貴方…嫌な人ね…?」

「割と言われちゃう」

 

そして青年は今気づいたように浜辺に描かれたそれを見た。

 

「へえ…砂浜に楽譜描くなんて詩的だね。趣がある」

 

その楽譜はやや大きめに描かれていて、数メートル先まで続いていた。

と、それを眺めている内に青年の表情が僅かに変化した。

 

それは多分、驚愕だった。

 

ふ、と目を伏せて青年は静かに言葉を重ねた。

 

「…どうして、こんな所で作曲してるの」

「別に。それに作曲とは少し違うわ」

「ふうん?…この先で途切れてる。煮詰まってるんだ」

「…部屋でするより、外の方が良いと思ったの」

「分かるよ。閃きがあるかもしれないものね」

「話を逸らさないで。貴方何?」

「人に答えを聞く前にまず自分で考えてみよう」

 

その言葉に、彼女は素直に考え込んだ。

彼はその様子に一瞬だけ眼差しを向けると、彼女が捨てた棒切れを拾い、砂浜に何か描き始めた。

 

「やっぱり、関係者?」

「でも君を知ってる関係者は極一部だろう?なら当然君はその顔を知っているはずだ」

「新しく昇進した人かも知れない」

「ふうん。だから事前に君に接触してみようって?そうだとしたら随分人が悪いな」

「そうでなくても貴方人が悪いと思う」

「否定できない。しかし寒いね。もっと厚着してくるんだった…君本当にそんな格好で平気なの」

 

彼女のその格好は側から見ているだけで寒くなりそうだった。

黒のセーラー服とマフラーだけの姿は、とてもじゃないがこの気温と不釣合いすぎた。

 

「…寒いのなんて、慣れてる」

「若いって素敵」

 

と青年は指で弾くように吸殻を捨てようとして。

 

「やめて。ここ気に入ってるの。良い大人がぽいぽいゴミ捨てないで。みっともないわ」

 

青年は目を瞬かせて、苦笑いつつ携帯灰皿を取り出した。

 

「ごもっとも。子供に説教されちゃった」

「子供じゃないわ」

「おいくつ?」

「…14」

「ふうん。サードインパクトの年に生まれたんだ。じゃ君は冬しか知らないんだね」

 

納得、と言って青年は頷く。

 

「僕は若い頃ずっと夏だったから未だにこの寒さには慣れないよ」

 

青年は懐から小さな箱を取り出した。

ホープ、と読めた。

そこから短い煙草を取り出し火を点ける。胸いっぱいに吸い込むと、美味しそうに煙を吐いた。

彼女はその様子を眺めながら、あの白い煙の何割かはきっと寒さのそれなのだろうなとぼんやり考えた。

 

「サードインパクトの時ね、僕も君と同じ14歳だったんだ…いや、もう15になってたっけ?」

 

あれ、思い出せない…と青年は首を傾げる。

彼女は少し目を丸くした。

 

「あの時生まれた子がもう14歳か。もうそんな経つか…」

 

早いな、と青年は独り言の様に呟いた。

 

「ちなみに…君はなんでちょっと驚いてるの?」

「…もっと若いかと思った」

「そう?残念だけど見た目ほど若くはないよ。来年30だからね。君ぐらいからすればもう立派なおじさんだ」

 

目を細めて青年は僅かに笑った。

ふと、彼女はその青年の瞳が青い事に気づいた。

 

暗い青だ。

 

まるで深海のような、水の底のような、深みのある青。

黒に近い、だから良く見なければ気が付かなかったのだろう。

ハーフだろうか、とぼんやりその顔を観察した。

 

どこか冷たさすら感じるほど端正な顔立ちの青年だったが、

その造詣も肌の色も完全に日本人のそれで、傍目には外国の血が入ってるようには見えなかった。

ではクウォーターだろうか。そうかもしれない、だから何?そこまで考えて彼女は興味を無くした。

 

それよりも青年が先ほどから浜辺に何を描いてるかの方が気になった。

ゆっくり、そっと彼女は青年に近寄って地面を見た。

 

音符?

 

いや、楽譜の続きを、描いている?

 

「どうして?」

「何がさ」

 

予想以上の近距離から声が聞こえてはっと顔を上げる。

すぐ隣で彼が見下ろしていた。

思わずさっと距離を取る。その様子に青年はにっこり微笑んだ。

 

「好奇心猫を殺す、という格言をまごころを込めて君に送ろう」

「どうして」

「ん?主語ははっきりと」

「…この曲、知ってるの?」

「どうだろうね。出来たよ、確かめてみたら」

 

彼女はやや青年を警戒しつつ、その楽譜の続きを頭で鳴らしてみた。

彼女の顔色が、変わった。

 

駆け足で、彼女自身が描いた楽譜の最初に戻る。

そこから順を追って歩きながら楽譜を真剣に読んで行った。

 

青年が一仕事終えたような雰囲気すら醸し出してぷか~と煙を吐いた。

仕事の後の一服は最高だなあ、という声が聞こえてきそうなほど旨そうに煙草を吸う男だった。

 

と、彼女が楽譜を追って青年の隣に来ると、邪魔だとばかりに彼を両手で押し出した。

彼は少し苦笑いして素直にどいた。

彼女は、もう一度最初の地点に戻り最初から繰り返し。

 

そして、深く息を吐くように洩らした。

 

「…これ、よ」

「そう?」

「…どうして」

「主語をはっきりと」

「どうして、知ってるの?」

「変な事聞くね。ただ適当に君の続きをでっち上げただけだよ。一応趣味で音楽を嗜んでるんだ」

「嘘よ、これだわ間違いない。貴方この曲知ってるのね?」

 

彼女は真剣な様子で彼の目の前に立った。

どうやら彼に対する警戒などすっぽりとどこかへ置き忘れたようだった。

 

「だから変な事聞くね。君が作曲したんだろ?それに僕が手を加えただけだ」

「違うわ。ずっと子供の頃から知ってる曲なの」

 

その言葉に青年の目がすっと細められた。

 

「何時聴いたのかわからないの。きっと物心つく前に聴いて、メロディーだけずっと残ってる。

 本当に小さな時からずっと…でもメロディーの一節しか思い出せなくて…」

 

青年は能面のように無表情になった。内面が何も覗けなかった。

彼女はそんな様子に気づくことなく言葉を紡いだ。

 

「…どうしても、続きを聴きたかったの。そのために音楽の勉強して、楽譜の読み書きも出来るようになって。でも、どうしても、何年かけても、分からなかったのに…」

「…そっか」

「貴方、知ってるのね?」

「知ってるよ。何せ僕が作った曲だからね」

 

一瞬、何を言ってるのかわからなくて、彼女は虚をつかれた。

 

意味が染み込むにつれ、彼女の目が驚愕に見開かれた。

やはり彼女にしては相当レアな表情だった。

 

「…本当、に?」

「流石にそんな嘘は吐かないよ。まあ正確には合作だけど、作曲者なのは間違いないね」

「つまり貴方は、音楽家さん?」

「まさか、そんな大層なもんじゃないよ。ただの廃墟マニアの怪しいおじさんさ」

「でも私はこの曲知ってるのよ。幼い時どこかで聴いたはずなの、間違いなく」

「僕は29歳だよ。もちろんさばなんて読んでない。なら、君がこの曲を聴いたのは僕がまだ十代の頃って事になるだろう?そんな歳でプロになれると思う?」

「じゃあどうして私は知ってるの?」

「もしかしたら全部嘘で、実は有名な曲なのかもしれないよ。で、君をからかってる」

 

彼女は少し目を伏せて考えると、きっぱりと違う、と言い切った。

 

「私だって探したわ。それこそ何年もかけて、色々な思いつく限りの方法で探し続けたのよ。

 でも見つからなかった。なら、貴方の曲よ。貴方の言う事が本当なんだわ。きっとそうよ!」

 

青年は少しだけ笑って、息を吐いた。

 

「…そうだね。不思議な事があるんだね…本当に」

 

彼はもう一本煙草をつけると、しみじみと、心底から煙と一緒に言葉を吐き出した。

 

「これはね、僕が14歳の頃に、ある人と二人で作った曲なんだ」

 

その静かな語りに、彼女は黙って続きを促した。

 

「でも、その人以外に聴かせた事もないし、楽譜だってとっくに捨ててしまったんだ。

 その人も…その後すぐに帰らぬ人になってしまった。だからね、君が知ってるはずが無いんだよ…」

 

その睫毛の長い瞳には深い哀愁があった。

彼女はその青年の言葉に嘘がないと直感した。

紛れも無く本当の話だと、彼女は信じた。

 

「じゃあ…どうして私は知ってるの?」

「分からない。僕にも本当に…分からない…」

 

沈黙が流れた。

 

気が付くと雪は止んでいた。

少しだけ積もった雪化粧が、砂浜や、海の底から突き出すビルの廃墟などを彩っていた。

 

 

ざざあん。

 

 

ざざあん。

 

 

すっかり意識の外にあった海鳴りが、改めて彼女の内面をゆらす。

 

彼女はその音に耳を傾けながら、静かに聞いた。

 

「…この曲の題名は、何て言うの」

 

同じくその音に耳を傾けていた青年は、どこか憂いのある表情で彼女を見つめた。

 

 

そして同じようにそっと、静かに、囁いた。

 

 

 

「…『雪』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・序曲《雪消し、海鳴り、夢隠し》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/6/13


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