普段は激しく響く剣戟と、何かに叩きつけられる音が響く道場は少しの音だけを残してその存在感を表していた。
常に何かしらの教導があるにも拘らず、今に限ってはそんな気配は微塵も無い。だからなのか、僅かに聞こえる剣戟の音に誰もが気がつく事は無かった。
普段の竹刀に比べ、僅かに短いそれは、常に攻撃を続けるからなのか、回転が早く、相手の攻撃を許す事は無かった。
常に少し先を予測するからなのか、其れとも攻撃させる事を目的としているからなのか、防御に回った側は反撃の素振りは見当たらない。
既に数える事すらしていない攻撃はまだ未成熟な肉体のスタミナを容赦無く奪い去る。気が付けば攻撃をしていた側は肩を激しく動かす程に、身体が要求する酸素を強引に取り込んでいた。
「取り敢えずは一旦休憩だ」
「まだやれます」
「ダメだ。まだ身体が出来てないんだ。無理にすれば良いって訳じゃないぞ」
「でも……」
道場に居たのは、何時もの子供達ではなく、一組の親子だった。父親は既に休憩だと言わんばかりに仰々しい籠手が付けられた方の手で竹刀を片付けている。そんな状況を見たからなのか、子供もまた竹刀を片付けていた。
「まだ時間は沢山あるんだ。この後はまた違う事をすれば良い」
「本当ですか?」
「ああ。今日1日は完全な非番だ。子供がそう気を使うな」
父親が子供の頭を激しく動かすと髪がクチャクチャになっていた。本来であれば真っ先に直す所だが、生憎とここには2人以外に誰も居ない。
そんな父親の言葉に子供は改めて笑顔を浮かべ、次にやる事を決めていたからなのか、母親の声を聞くと直ぐに道場を後にしていた。
「姉上がですか?」
「先程連絡があってね。どうやら無事に産まれたらしいよ」
何時もと変わらない任務を遂行し、リンドウは簡単な報告書をサクヤに提出していた。
元々今回は教導を終えたばかりの新人に随行した為に、それ程難易度が高いミッションでは無かった。
監督の為にリンドウ自身は余程の事が無い限り手は出さない。そんな事があるからなのか、報告書もかなり簡素な内容となっていた。
そんな中で飛び込んできた榊からの話にリンドウは改めて妻でもあるサクヤにも確認をする。既に情報が届いていたからなのか、サクヤもまたリンドウを見ていた。
「リンドウ、今日はこれで終わりよ。折角だから義姉さんの所に顔を出さない?」
「それは構わんが、サクヤの方はどうなんだ?」
「私の方も今日はこれで終わり。緊急事態が無ければね」
「ま、大丈夫だろ?今日はエイジも居るみたいだしな」
そんなリンドウの言葉にサクヤも改めてロビーの方を見ていた。
そこには既にミッションから戻ってきたからなのか、エイジだけでなくアリサと珍しくソーマも居る。今日のミッションの内容が何だったのかはともかく、現時点での最高戦力が居るのであれば気にする必要は無いだろうと考えていた。
既に時間もそれなりに経過しているからなのか、太陽は大地へと沈みかけている。サクヤが言う様に、この後に緊急の何かが無ければこれで終わりなのは間違いなかった。
そんな中でリンドウは改めて冷静に思い出す。2人が一緒に終わったり、非番になるなんて事はここ最近の中では数える程しかない。
久しぶりの家族水入らずと判断したからなのか、いつもの様に息子のレンを迎えに行ってではなく、姉の所に顔を出す事を決めていた。
「お~い。今日は俺達ちょっと姉上の所に行くから後は頼んだぞ」
「了解しました。偶には家族水入らずで過ごして下さい」
「悪いが、そうさせてもらうぞ」
リンドウの言葉にエイジも理解したのか、そのまま応諾している。エイジも同じく榊から連絡が入ったからなのか、特に何も言う事は無かった。
「義姉さん。お疲れ様でした」
「ああ。まさかああまで痛みを伴うとはな。あれならアラガミと戦っていた方が何倍もマシだな」
出産後もあってか何時もの様に凛とした雰囲気を持つことが無かったからなのか、ツバキはどこか疲れ切った表情のままだった。
別室には産まれたばかりの子供が居るからなのか、この部屋にはツバキ以外に誰も居ない。本来であればここに無明が居るはず。にも拘わらず、この屋敷の当主でもある無明は席を外していた。
「そう言えば、無明の姿が見えないが、何処に?」
「今はここには居ない。産まれた直後に任務に出たからな」
「せめて産まれた時位は居れば良いだろうに」
「そう言うな。あれも忙しい身なんだ。実際にここ最近は仕事が滞っているのも事実だからな」
ツバキの言葉に何か思い当たる事があったのか、リンドウではなくサクヤが僅かに思案顔をしていた。
ここ最近に限った話ではないが、サテライトにどんな物を優先するのかを検討する際に、アリサだけでなくエイジもまた無明と相談するケースが多くなっていた。
農業と建築のプラントがフル稼働する事になれば、当然の事ながら人も金も大きく動く。幾らサテライト計画の責任を考えているとは言え、完全に調整する事は不可能だった。
入植者全員が善人ばかりではない。時折自分の都合だけを主張する人間を見る機会が多くなっている事から、その対策を練る為にどうしても確認すべきことが幾つも存在していた。
幾らクレイドルと言えど権謀術数に長けている訳ではない。世間から見ればゴッドイーターとしての実力はあれど、策謀に関しては素人の域でしかない。
折角サテライト計画を聞きつけて自身の命の危険を顧みずに来ている人間を放り出す事は出来ない。だからなのか、イレギュラーな対応をする為の対策がここ最近になって急増していた。
「確かに、最近のサテライト計画を順調すぎる位だしね。昨日もアリサが少しぼやいていたわよ。時間が足りないって」
「そうか……最近は俺も新人の事が殆どで、サテライト関係の事はノータッチだったからな」
アリサだけでなくエイジもまた同じく何かにつけて対応を迫られる事が多くなっていた。
只でさえ極東の上位戦力を持つ人間は万が一の事を考え、現場に置いておきたい。しかし、クレイドル計画の最大の目標でもある人類救済は未だ道半ば。
エイジがラウンジに入る回数も少しづつ少なくなっている事をリンドウも思い出していた。
「こっちの事は気にするな。それよりもお前たちが夫婦揃ってここに来るのは随分と久し振りじゃないのか?幾らレンがここに普段から居るとは言え、もう少し親らしく過ごしたらどうだ?」
「その件はまぁ……おいおいと」
ツバキの言葉にリンドウは苦笑するしかなかった。
確かに屋敷では同年代の子供も多く、何事も気にする様な事は無い。実際にここでの環境は色々な意味で恵まれていると思える分が多分にあった。
一番の理由は外部居住区ではないからなのか、誰もが自分の理想を掲げている点だった。
そもそも屋敷に住まう子供の大半は何らかの理由によって自分の親と一緒に生活する事が無く、また、遊ぶ子供の年齢に差はあっても、それが元で何らかの差別は一切発露しない事だった。
子供は自分の産まれを望む事は出来ない。
大半の人間はアラガミからの強襲を逃れ、常に糊口をしのぐ生活を余儀なくされている。
仮に外部居住区やサテライトであれば人間としての最低限の生活は送れるが、それ以外の人間に関する待遇は格差を通り越して呆れるしかない。
どんな時代も犠牲になるのは常に弱者。そんな子供達を保護しているからこそ、有事の際にはしっかりとした対策を練る必要があった。
傍から見れば家庭を犠牲にしているともとれるが、それがあるからこそ今に至る事を知っているツバキからすれば、そんな時に不在にするのは些細な事だと判断していた。
一方でツバキから不意に言われた事により、リンドウもまた改めて自分の事を考えていた。
派兵に行っていた頃はある意味仕方ない部分があるものの、今は完全に極東支部内に居る。しかし、アラガミの強襲の際には駆り出される事も多く、実際に息子のレンとは通信はする事が多くても触れ合う機会はそれほど多くは無かった。
「まぁ、良いだろう。無明からの伝言だ。明日が非番ならここで一日ゆっくりと過ごせとな」
「なるほど……それならお言葉に甘える事にしますよ」
ツバキの言葉にリンドウだけでなくサクヤもまた同じ事を考えていた。
レンに関してはツバキが居る事もあってか、居住区画で生活するのと屋敷で生活する割合は殆ど同じ様になっていた。
まだ小さい子供が居ると言うのはあくまでも平和な世界だった頃の話。確かにゴッドイーター同士の婚姻は増えているが、それに伴う規制や規律は未だ出来上がっておらず、戦力の低下を考えれば、暗に子供は難しいと言外にしている部分もあった。
そんな事を考えればレンは随分と恵まれているのかもしれない。今の2人は同じ事を考えている様だった。
「本当に!」
「ああ。明日は休みだ。いつもかまってやれなくてすまんな。その分一緒に遊ぶか」
部屋に戻った際にリンドウがレンに対しての第一声にレンは珍しくはしゃいでいた。
元々ここでは大人びた口調で話す子供も多く、またそれぞれが何かしらの特技を持っているからなのか、小さな子供からすれば10歳前後の年齢は随分と大人びた印象を与えていた。
元々誰かが教育した訳では無い。ここでは規律を正しく守る事と、自分達が大人になってから何が出来るのか、何がしたいのかを考えるだけの環境があった。
食だけではなく、アラガミの脅威に怯える機会が少なくなれば、その事に関しての考えを持つ必要性は希薄になる。
もちろん、世間を何一つ知らない訳では無いが、それでも小さな子供達が自分の将来をゆっくりと考える事を可能にしていた。
そんな自分よりも年上の子供を見ているからなのか、レンもまた年齢の割に大人びた発言をする事が多かった。
そんな中でのリンドウとサクヤの休日はこれまでのレンの口調を変える程だった。屋敷の中でも数少ない自分の親が居る子供。だからなのか、レンは思わず何時もとは違い、年相応の言動となっていた。
「だったら、朝は道場に行きたいです」
「道場?」
「毎日稽古してるんで……」
「そうか……じゃあ、明日は早起きだな」
「はい!」
レンの顔には自分がどんな事をしているのかを知ってほしいと言っている様にも見えていた。
リンドウとて大よその事はサクヤから聞いては居るが、実際にこの目で確認した訳では無い。何となく聞いていたからなのか、レンの言葉にリンドウもまた実際に目で見た方が早いだろうと判断していた。
「あら?随分と楽しそうな話をしてたみたいね」
「明日の朝は父様と道場に行くんです」
「そう。だったら今日は早く寝ないとね」
サクヤの言葉にレンは改めて明日の事を楽しみにしていた。既に自分の中でやりたい事が決まっているのか、興奮して中々寝付かない。
本来であればそんな様子を見て窘めるが、夫婦そろって忙しい日々を過ごしたからなのか、今のレンを見て窘めるつもりはどこにも無かった。
昨晩寝付けなかったのが嘘の様にレンだけでなくリンドウもまた早朝から目を覚まし、身支度を済ませた後に道場へと足を運んでいた。
既にナオヤが自主鍛錬をしていたからなのか、朝特有の冷たい空気は無く、既に自身の熱気によって暖められた空気が漂っていた。
「お。早いなレン。それとリンドウさんもでした?」
「ああ、今日は一日非番なんでな。偶には家族サービスもしないとダメだろ?」
「そうでしたか」
お互いが気が付くと挨拶をしながらも、ナオヤはやるべき事を止めるつもりは毛頭無かった。
既に自主鍛錬は佳境に入っているからなのか、足元には汗が多量に落ちている。実際にどれ程の時間をここで過ごしたのかを知る術は無い。
既にそんな事など知っているとばかりにレンは正座をしてナオヤの動きをジッと見ていた。
大気を斬り裂かんと振りぬく棒は元々教導をこなしているからリンドウも知らない訳では無い。しかし、あの技量を支える程の鍛錬をこんな時間からしているとなれば、息子のレンも同じかとリンドウはそう考え、今はナオヤの動きを目で追っていた。
「今日は一日リンドウさんと鍛錬だな」
「はい!そうです」
どこか子供らしくはないが、ここではそれが当たり前なのか、ナオヤもまた同じ言葉をかけ、汚れた床を掃除し道場を後にする。
既に用意していたのか、レンもまた小さな竹刀を手に素振りを開始していた。
「まさか、ここまでとはな………」
レンの息遣いだけが響く道場の中でリンドウは独りごとの様に呟いていた。
元々サクヤからも話は聞いていたが、まさかこうまでだとは思ってもいなかった。まだ年齢を考えれば何となく振っている様に思うも、レンを見れば一振り一振りに強い意志を感じてしまう。
親の欲目かもしれない。しかし、今のレンから感じるそれは既に子供の気迫ではなく一人の男として鍛錬をしている様にも見えていた。
自分達の偏食因子の影響なのか、同年代の子供に比べれば肉体的には見劣りする部分が少ない。まだ産まれた当時は毎週の如く検査する事があったが、今ではその検査も精々が三月に一度程度。
時折聞く榊の言葉からも他の子供とは違う事だけは聞かされていた。
「父様。少しだけ手合わせをしてほしいんですが……」
「良いのか?」
「せひ!」
屈託の無い顔のレンは純粋に話をしたに過ぎなかった。もちろんリンドウとて自分の子供の成長を見守るつもりがある為に拒否する事は無い。精々がどこまで手加減すれば良いだろうかと考える程度だった。
道場の壁にかけてあった大人用の竹刀を左手に握る。何時ものガントレットでは竹刀そのものを破壊する可能性が高いからと言った理由だった。
お互いがゆっくりと対峙する。レンは念の為に防具も着けたが、リンドウは竹刀以外には何も持たないままだった。
お互いの目線が交差する。レンは既に戦う意志を見せているからなのか、リンドウを見る目は先程とは違い、お互いの相手と言う認識に変化していた。
「見ない間に随分と強くなったな」
「ここではまだまだです。僕なんてここでは弱いですから」
「年齢と経験を考えれば十分だ」
レンと対峙したリンドウは少なからず驚く部分の方が多かった。元々の事を抜きにしてもレンが放つ斬撃はとてもじゃないが4歳児が放つそれではない。
時折ヒヤリとする斬撃はリンドウをしても厳しいとさえ感じる攻撃。
一方のレンもまた、どれほど叩きつけても全ての攻撃が完全に回避ではなく攻撃の一部の箇所に気が付かない程に手を出されていた。
力の方向性が変わった以上、レンの攻撃はそのまま床へと叩きつける結果となり、手が痺れたのか、僅かに制止する。
手加減をしているとは言え、我が子にこんな感情があったのかとリンドウは改めて驚く。そんな事を思いながら一合二合と斬り合っていた。
幾ら鍛えているとは言え、やはり子供と大人の体力差は覆る事は無い。気を抜いたからなのか、レンは肩で息をすべく、呼吸を荒らげていた。
「リンドウ……レンもここだったのね。朝ごはん出来てるわよ」
「もうそんな時間か」
「お腹が空きました」
サクヤの声に道場の時間は再び動き出してた。気が付けば時間もそれなりなのか、周囲に音が宿り出す。
リンドウとレンは改めて客間へと足を運んでいた。本来ならば用意されるのはここの人間が用意した物。しかし、今日はツバキの言葉通り、家族水入らずだからなのか、サクヤが用意していた。
何時もと変わらない朝食ではあったが、やはりここでもレンは嬉しさを隠す事無く食べていた。
「しかし、ここはいつ来ても変わらないな」
「そうね。ここに居ると本当に日常から切り離されてる様に感じるのよね」
レンと食事をしながらもリンドウは少しだけ庭に視線を映していた。
元々ここは外部居住区よりもネモス・ディアナに近いからなのか、庭には緑が生い茂っている。
春は桜が満開になるそれも、既に青々とした葉が夏の彩を浮かび上がらせていた。
サクヤが用意した味噌汁を飲みながら改めて考える。エイジはこの光景を見たからこそサテライトの計画に邁進し、アリサもまた同じ様な事を考え今に至る。
あの2人の存在意義を垣間見た気がしていた。
「ここが旧時代の日本なら、外部居住区はどうなんだろうな」
「そうね。今でこそ区画整理が終わっているからかなり住環境は良くなったみたいだけど、中々それはそれで問題があるみたいよ。この前もコウタがそんな事言ってたわ」
アナグラでは無いからこそ改めて自分達の思いを呼び起す。恐らく一人だけの休日であればそんな風に感じる事は無い事は間違い無かった。
ここまでゆったりとした時間を過ごしたのは何時以来なのか。レンだけでなく、リンドウとサクヤもまたこれからの未来を考えたからなのか、どこか穏やかな顔をしていた。