何時もならば血と汗だけでなく、悲鳴も聞こえる訓練室に明らかに異なる空気が流れていた。
どこか男臭い雰囲気があるはずが、今だけは明らかにそんな気配すら感じさせない。ここには3人の女性が普段であればアナグラの訓練室には似つかわしく無い格好で利用していた。
緊張感あふれる空間に、今では聞く事が少なくなった楽器の音が周囲に響いていた。本来であれば楽師と呼ばれる人間が奏でるはずの音があるはずだが、流石にここでは無理があった。そんな代用とばかりに一人の男性が楽器を奏でている。聞こえてくる音に合せるかの様に流麗に動かす女性の手はゆっくりではあるが、どこか気品に溢れる様な動きをすると同時に、流れる水の如く全身にまで伝播する。
見ただけであれば優雅な動きではあるが、演者にとってはその限りでは無かった。なまじゆったりとしているだけに、身体にかかる負担はかなりの物。肌に張り付く役目を持っているかの様に滴り流れる汗は白磁を連想させる首筋にそのまま抵抗も無く流れ、やがては鎖骨を伝い胸元へと流れて行く。従来の物とは違った緊張感がこの空間を支配していた。
「エイジ。こんな感じですが、どうですか?」
「思ったよりは悪く無いかな。でも、時間が足りないのもまた事実だね」
「そうですか?私的にはアリサさんの動きは良いと思いましたけど」
「いや。まだ動きに澱みが見える以上、及第点は出せないよ。忙しいから仕方ないけど、折角覚えたんだし、少しは時間を作って練習した方が良いよ」
「そうですね。少し善処してみます」
扇子を閉じ、舞を終えたのは銀髪の女性だった。以前に習得したものの、最近の激務でやる事が少ないからと今回の件で急遽参加する事になっていた。問題無いと言った女性は既にやり終えたからなのか、やはりうっすらと汗を流しながら、自身を冷やす為に扇子で仰いでいた。
「本当にこれが訓練になるのか?」
「もちろんですよ。この円運動が案外と馬鹿に出来ないんですから」
「そ、そうなのか……だが……」
「リヴィさん。極東には『百聞は一見に如かず』って言葉があります。幾ら口で言いっても、分かりにくいから見て貰った方が早いって話しでしたよね」
「それは確かにそう言ったが、参加するとは言ってない……」
「となれば、次は体験した方が手っ取り早いですよ。ここには他の人もいませんし、誰もが最初は初心者なんですから」
2人のやりとりを見たからなのか、褐色肌の女性は僅かに戸惑っていた。キッカケは以前に話した神機の運用方法についての理論。時間がお互いに空いたからと今回の訓練に至る事になっていた。元々誘ってくれたマルグリットの神機の運用方法と、これにどう繋がりがあるのを見出す事はまだ出来ない。そんな些細なやり取りだったはずが今に至っていた。
「やはりマルグリットの神機の使い方は他の人間とは違う様にも見える。神機の威力は恐らくは私のと然程変わらないと思うが、どこかが違う様にも見える。何か特殊な訓練があるなら私にも教えて欲しい」
今回は珍しく第1部隊にリヴィが参加していた。これまで固定された部隊運用をしていたが、突如としてエリナがまだ新人が多い部隊に一時的に先輩として同行する事が増えていた。それと同時に、以前に行われたヴァジュラの単独撃破の影響もあってか、最近になってサクヤからも依頼される事が多くなっていた。
幾ら第1部隊と言えど流石に3人での運用には無理が出てくる。数回程度であれば問題ないかもしれないが、やはり各自の負担が大きくなりやすいからと、代理で誰を入れるのかを考えた矢先にリヴィが立候補した結果だった。
「でも、私も特殊な訓練をした訳じゃないんで、その答えは持ち合わせてないんです」
初めてナオヤとリッカからヴァリアントサイズに関しての打診があった際に何気に聞かれた事がキッカケとは言い辛い物があった。舞を習ったのは屋敷での教導の一環ではあるが、まさかこれまでもが実戦に影響を及ぼすとは当時は考えていなかった。
事実、ナオヤに見せられるまで半信半疑でしかなかったのも事実。リヴィがどんなキッカケで今の神機を選んだのかを知らない以上、マルグリットの言葉にリヴィが呆然とする可能性も否定出来なかった。
「しかし、身体のキレや薙いだ際にも体幹に乱れが生じていない。あれならば純然たる円運動を会得してなければ出来ないと思うが?」
「まぁ、確かにそう言われればそうなんですけど……」
「頼む。私も更なる進化をしたいんだ。でないと私の居場所がなくなる様な気がするんだ」
懇願するかの様な表情のリヴィに、流石にマルグリットもどうしたものかと逡巡する。ブラッドのメンバーがそんな事を考える可能性は恐らく皆無に近いのかもしれないが、本人はそうは思っていないのか、マルグリットに向ける視線は真剣そのものだった。
「何か問題でもあったの?」
「いえ。そんな事は無いんですが……」
マルグリットは珍しくラウンジでも先ほどのリヴィとのやりとりの事が気になったのか、どこか憂いた様な表情を浮かべていた。リヴィの気持ちと熱意に答えたい気持ちが無い訳でも無いが、かと言ってその根源が確実にリヴィが考えている物と異なっている事も理解している。
仮に自分が教えるにしても舞踊に至っては名取レベルでしかない。せめて師範レベルであればまだどうとでも出来るが、自分自身がそこまで至っていない事を理解してる以上、リヴィに対する返事は実に悩ましい物となっていた。
そんな中でも話しかけてきたからのか、マルグリットの視線の向こうに該当する人物が居る。だとすれば今の考えをどうすれば解決できるのかを丸投げとまでは行かないまでも、何かしらの手段を構築出来るだろうと考えていた。
「あの、エイジさんにお願いがあるんですが……この後少し時間はありますか?」
「今直ぐには無理だけど、1時間後なら大丈夫だよ」
「すみませんが、お願いします」
内容はともかく、マルグリットの頼み事は早々有る物では無い。何かしらの考えがあるから相談なんだと考えた結果なのか、エイジは二つ返事で了承していた。
「なるほどね……でも、実際の所はどうなんだろう。僕もあのレベルの教導にはタッチしてないんだ。多分、ナオヤの方が良く知っていると思うんだけどね」
「ですが、流石にこれまでとなれば負担も増えますし、今でも時間の区分はギリギリだって聞いてますから」
自分の時間が終わったからなのか、エイジもラウンジのソファーに座りながらマルグリットの話を聞いていた。確かにそれをやろうと思えば理論上はマルグリットでも問題無いのかもしれない。しかし、今回のそれは明らかに誰かに魅せる為の物ではなく、あくまでも自分自身の為の物。
屋敷で教わる物の大半は個人だけで完結する様な物ではない事はマルグリットも理解している。だからこそ歪んだ意識でそれを教えても良いのだろうかと悩んだ末の話だった。
「個人の見解として言わせてもらうと、確かに利己的な考えは良いとは言えない。だけど、何をするにもある程度の資質や得手不得手と言った部分で習得できるのかと言った物も必要なんだ。だから屋敷ではそれに順じた物を教えてるんだよ。事実、舞踊に関してはマルグリットよりもアリサの方が劣っているのも事実だからね」
「え、そうなんですか……」
まさかの言葉にマルグリットは二の句を告げる事すら忘れたのかと思う程に絶句していた。比翼連理とも取れる程に一緒になっている事が多いから、どこか贔屓目に見ている部分もあるのかと思った矢先の言葉は正に衝撃的だった。立場があるからではなく、純粋にそう考えているからこその言葉は先程までの考えを払拭する程の威力があった。
「リヴィさん。先程の件なんですが、良かったからこれからそれをやりませんか?口で説明できる部分よりも恐らくは見た方が早いですから」
「そうか。私もこの後の予定は特に入ってないからな。で、訓練室に行けば良いのか?」
「場所は訓練室に間違いないんですけど、その前に行く所がありますので」
エイジからの指示を受けたのか、マルグリットはリヴィに対し、これから訓練をする事を告げ、今回の目的の場所へと移動を開始していた。
「マルグリット。私は決して方向音痴だと思ってるつもりはないが、ここは居住スペースのはず。訓練であれば方向が違うはずだが」
「今回の訓練はちょっと特殊なので、事前にやる事があるんです。どうしても今のままだと理解出来ない部分も多分にあるので……」
リヴィが指摘した様に、この先は居住スペースだが自分達が居る場所ではない。明らかにベテランか、佐官級の居住区である為にリヴィも直ぐに気が付いていた。気が付けば廊下の色合いも自分達のスペースとは異なっている。
この先に何があるのかは分からないが、前を歩くマルグリットの足取りがしっかりしている以上、間違いは無さそうだった。
「いらっしゃい。もう用意はしてありますから」
「突然ですみません」
「エイジから聞いてますから大丈夫ですよ」
マルグリットとリヴィを出迎えたのはアリサだった。既にアリサは用意が終わっているのか、何時もの制服姿では無く、少し生地が厚めの浴衣を着ている。理解しているからなのかマルグリットはそのままアリサが居る部屋へと入っていた。
「あの……今回のこれと訓練とどう関係があるんだ?」
リヴィの言葉にマルグリットは僅かに言葉に詰まる事となっていた。目的そのものは伝えてあるが、詳細までは何も語っていない。扉を開けた瞬間にアリサが居た事は気にならなかったが、部屋の中に入ると明らかにゴッドイーターの住む部屋とは様相が異なっていた。
人の住んでいる気配が殆どないからなのか、生活感がまるで感じられなかった。部屋そのものは他よりも豪華にも見えるが、内装も明らかに異質なそれはどこか別次元の様にも見えている。気が付けば備え付けのクローゼットには何点かの着物や浴衣が掛けられている。そのうちの一つを持ってきたアリサは当然とばかりにリヴィに渡していた。
「これは、これからやる事の前に準備すべき物ですよ。多分着付けは出来ないでしょうから、私が手伝いますね。早速ですが、それ脱いでくれませんか?」
アリサの言葉は分かるが、その理由が全く分からなかった。気が付けば隣でマルグリットは自分の服を脱ぎ、浴衣へと着替えだしている。既に手慣れているからなのか、あっという間に着付けは終了していた。
「これは?」
「見ての通り、浴衣ですよ。とにかくこれに着替えますので、早く脱いでください」
笑顔でアリサに言われたまでは良かったが、その笑みには拒否権が無い事だけは理解出来ていた。ヴァリアントサイズの訓練を言い出した手前、マルグリットについて来たものの、ここで着替える意味を見いだせない。しかし、当人が着替えている以上自分だけがこのままと言う訳にもいかず、アリサに促される様に自分の赤いケープを取り外していた。
「リヴィさん。その服もですよ。まさかその上から着るつもりですか?」
この部屋には自分とアリサとマルグリットの3人しかいない。しかし、このまま服を脱ぐのはどこか抵抗があった。決して恥ずかしい訳では無いが、せめて目的を聞いてからでも問題無いだろうと考えていた。
「すまないが、これと着替えとどう関係あるんだ?」
「実は、私がやっているのはこれなんです。ただ、言葉だけでは伝わらないのも事実なので、リヴィさんにも体験してもらった方が早いかと思ったので」
「体験?何か変わった事をするのか?」
「変わった事と言えばそうかもしれないんですけど……」
「リヴィさん。マルグリットがやっているのは舞踊なんです。今回誘ったのはそれなりに理由があるからなので、決して無駄な事をするつもりはありませんよ」
言い淀むマルグリットの助け船とばかりにアリサは今回の趣旨を説明していた。舞踊における身体の細やかな運用方法や、足さばきによる歩法など、戦闘時に於いての必要な要素がこれにも含まれている事。それと、自分の身体と向き合う事で自身の行動における限界値の確認が出来る事をリヴィは聞かされていた。
「なるほど……だからこれなのか。だが、これならばここで着替え無くても良いのでは?」
「訓練室だと基本的に着替えるスペースは無いんです。特段その場で着替えても問題は無いんですが、流石に誰が来るのかも分かりませんので」
マルグリットの言葉にリヴィも改めて訓練室の状況を思い出していた。確かに遮蔽物がある訳では無いので、誰かが来る可能性を鑑みて着替えるのであれば、誰もが自分の部屋で着替えた方が効率的だと考えていた。
事実、中級以上に義務付けられている服も全員が自室で着替えている。いくら露出度が高い服を着ていたとしても、それは個人の趣味であって露出癖がある訳では無い。ましてや浴衣の様に手間がかかる物であれば慣れていない人間であれば時間がかかるのは当然の帰結だった。
「そうか……手間をかけた様で済まない。では早速着替えよう」
リヴィは自分の来ている服を素早く脱ぐと用意された浴衣へと袖を通す。帯の締め方が何も分からないからとアリサが手伝う事で漸く着替えが完了していた。既に自分が着ていた服はマルグリットによって畳まれている。持たされた扇子を片手に再び来た道を戻り、訓練室へと足を運んでいた。
「もう準備は出来てるから」
訓練室は何時もの様な雰囲気は既に無くなっていた。コンクリートむき出しの床には敷物が敷かれ、既に用意されていたのか、幾つもの飲み物や楽器が置かれている。事前に準備したそれが今回の内容を物語っていた。
「無理言ってすみませんでした」
「特に気にする必要は無いよ。偶にはこれもやった方が良いだろうし、リヴィに取っては悪い話でも無いから」
エイジの言葉にリヴィも漸く状況を理解していた。ここではエイジとリンドウ、ナオヤは教導教官として利用する事が多く、今回も既に話が通っていた結果でしかなかった。違いがあるとすれば、それは神機を使うか使わないかの違いしか無い。エイジの姿を見て初めてリヴィも納得していた。
用意された楽器を取り出すと同時に各々が準備をしていく。最初は言い出しっぺだからとマルグリットが手本となる為に扇子を片手に舞踊を開始していた。
「なるほど。確かに言う通りだ」
マルグリットが舞を見せているからなのか、リヴィは関心した様に呟いていた。ゆっくりと動く為に身体にかかる負担は大きいだけでなく、何かを常に意識しながらの動きが見ている者からもまるで幻でも浮かぶかの様に目的がハッキリと見える様でもあった。
ゆったりとした動きから時折早く動く行動はどう贔屓目に見ても負荷がかかっている事が理解出来た。円運動を連想させる動きをしても体幹に乱れは全く見えない。これ程自分の身体をコントロール出来るのであれば空中でサイズを振り回しても、ぶれる事無く動く事が可能だと一人納得していた。
「見た目はゆっくりですけど、案外と慣れるまでは大変だんですよ。普段であれば使わない筋肉を動かしますから」
「なるほど……だから姿勢も綺麗なままなんだな」
マルグリットに限った事では無いが、確かに改めて見ればアリサやクレイドルの教官でもあるサクヤもどこか一本筋が入ったかの様に姿勢は綺麗だった。特段意識している訳では無いのかもしれないが、恐らくはこれが原因である事は間違い無い。傍から見る動きに乱れは無く、やはりこれが特訓だと言われれば説明には困るのは当然の事だと理解出来ていた。
「次は私がやりますから、リヴィさんは動きを見てなるべく覚える様にして下さいね」
「ちょっと。それはどう言う事なんだ」
アリサが残しした言葉にリヴィはわずかに焦りを生んでいた。自分が知りたかったのは訓練のやり方であって、舞踊を習う為では無い。一人焦るリヴィをそのままに、既に終わったからなのか、マルグリットは用意された飲み物を口に喉を潤していた。
「マルグリット。私は決してそんなつもりで来た訳では無いんだが…」
「でも見ているだけだと多分、動けないですよ。見た目以上に動きは細かいですから。それに浴衣を着ると行動範囲も自然と制限されますから、動きもぎこちなくなりますよ」
既に外堀が埋められていると悟った時には遅かった。楽器を演奏しながらもエイジはアリサだけでなく、こちらも時折伺っている。既に趣味ではなく教導としてここに来ていると同時に教官まで居る。今のリヴィに撤退の二文字は存在していなかった。
「それに、女性らしさも結構身に付きますよ。案外と身体が覚えますから」
「私はそんな事は考えていない」
「またまた。このままだとロミオさんはリヴィさんの事は視界に入らないかもしれませんよ」
何気にロミオの名前が出た事もあったからなのか、リヴィの頬に僅かながらに朱が走る。褐色の肌の為に目立たないが、それでもマルグリットの言葉に何か思う事はあった。
ブラッドのメンバーはこれまで幾千もの戦いをしてきた絆がある。ましてやロミオが今どんな状態なのかをリヴィは時折目にしていた。
敢えて聞かないフリをしているが、案外と落ち着いたロミオに好感を持っている女性は少なくない。気軽に話しが出来るだけでなく、先の戦いでの活躍も既に周知の事実。幾ら何を言おうが今の自分とブラッドを比べれば、僅かに劣等感があるのも事実だった。横から入り込んだ結果が今のポジションであると自覚しているリヴィからすれば、マルグリットの言葉はどこか考える物が何かしらあった。そんな考えを察知したのか、マルグリットはそれ以上の言葉を発する事は無かった。
既にアリサの動きを見ているからなのか、マルグリットの真剣な眼差しにリヴィも改めてにアリサの舞を眺めていた。