インディゴの血   作:ベトナム帽子

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Acht:再始動

 撤収命令が下されたのは、アトランティスがあのパイロットの右手を火葬し、体に付いた臭いを取るために水浴びをしているときだった。

 生き物が死ねば腐るのは当たり前な、ごく自然なことである。しかし、腐れば病害虫などの温床になるし、なにより醜くなる。だからこそ、人間社会では土葬したり、火葬したり、するわけである。

 アトランティスが火葬しようと思ったのも、布きれで包んでいたパイロットの右手が異臭を発し始め、その臭いに釣られて野ネズミが集まってきていたのを見たときである。

 こうして残っている右手すら、何者かに喰われ、無残になっていくのは忍びなかったのだ。

 アトランティスはパンテレリア島の内陸部で火葬することにした。内陸部なら乾燥した木材が比較的簡単に見つかるし、火葬する際の臭いが海に漂って深海棲艦をおびき寄せる心配がないからだった。幸いなことにアトランティスは火葬するのに良い場所を知っていた。

 

 建物というものはそこに住み、管理する人間がいなくなれば、ものの数年で廃墟になってしまう。ツタや草に覆われたり、崩れたり、といった感じに。

 その森の中の小屋も同じようなものだった。迷彩服にジャングルブーツ、基本的なサバイバルグッズが入った背嚢などで固めたアトランティスは小屋の前に立った。

 元々は林業を営む人達の休憩所か何かだったのだろう。ここに至る林道には表記が色落ちた方向指示看板がいくつかあったし、小屋の隣に駐車されたまま、朽ち果てた大型トラックには「製材所」とプリントされたステンシル文字がかろうじて読めた。

 かつて、この小屋は仕事で疲れた人達が寝泊まりしたり、飯を食ったりしたのだろう。しかし、パンテレリア島から人がいなくなって9年。使ってくれる人どころか管理する人間もいなくなったこの小屋は風雨と太陽光線に晒されて外壁のニスが完璧に落ち去り、シロアリに食われたのか、小屋の半分が崩れて無残な姿になっている。

 アトランティスは律儀に崩壊したところからではなく、玄関から入ろうとした。

 ドアノブを握って回すが、鍵がかかっているようで玄関のドアは開かなかった。しかし、長い月日と虫食いでドアの蝶番部分の木が脆くなっているようなので、試しに思いっきり蹴ってみるとドアは簡単に倒れた。

 ドアが倒れると屋内に積もった9年間の埃がもうもうと舞った。アトランティスはそれに眉をしかめつつ、倒れたドアを踏んで小屋の中に入った。

 入ってすぐの部屋はリビングのようで、テーブルや椅子の他、レンガ造りの簡素な暖炉があり、日本製のブラウン管テレビやビデオデッキもあって、その上には角が立派な鹿の剥製、前にはまだ柔らかさを保っている化学繊維の絨毯が敷かれ、合皮のソファーが鎮座している。ソファーの適当に埃を払って座ってみると経年劣化のせいか、合皮はすぐに破れ、アトランティスはクッションであるスポンジに埋もれた。かなり質の悪いソファーだったのか、かなり使い古したソファーだったのかはアトランティスには分からない。アトランティスはソファーの骨組みの所を握り、スポンジの中から這い出す。

 なにやってんだか。

 アトランティスは陸上活動用の迷彩服に付いた小さいスポンジと埃を手で払い落とし、暖炉に向かう。暖炉の脇には予想通り、薪の入ったカゴがあった。特に虫に食われている様子はなく、十分燃料に使える薪だった。小屋の軒下に積まれていた薪は虫に食われて使えそうになかったのだ。倒したドアもそこらにあったさび付いた斧で割って薪にすれば十分は足りるだろう。

 

 小屋の崩れた部分からレンガを拝借し、簡易的な小さい窯を作る。底にレンガを敷き、レンガを積み上げて壁を作る。薪を入れる開口部は小屋にあった鋸を支え板にしてレンガを積み上げる。天蓋は開けっ放し。煙突は土管があれば付けても良かったが、見つからなかったのでない。

 そこらで採った枯れ葉や枝、小屋にあった9年前の新聞を丸めて入れて、防水マッチで火を付ける。

 マッチの赤い火は簡単に新聞紙に燃え移り、枯れ葉や枝に火を伝えていく。

 ある程度火が大きくなると細く割った木を投げ入れていく。そうして段階的に火を強く大きくしていく。最初は白い煙が上っていたが、それなりに透明になってきた。

 そこでアトランティスはあのパイロットの右手を鞄から取り出す。包んでいた布を取ると腐臭が広がり、思わず吐き気すらもよおすのだが、ぐっと堪え、薬指の指輪を取った。これまで燃やすことはない。取った指輪は迷彩服のポケットに入れた。

 指輪を取った右手を再び布で包み、火箸でそっと火の中に入れる。

 赤い炎の中でパイロットの右手が焼かれていく。化学繊維の布はすぐに燃え、融け落ち、皮膚が、爪が融け、肉が炎で黒ずんでいく。

 焼ける臭いは豚肉や牛肉を焼いたときの臭い、炭化する時の臭いとは全くの別物で、最悪なものだった。考えてみれば肉だけではなく、皮膚や爪、毛といったものも付いているのである。こんな臭いが出るのは当然だった。

 まずいな。これはまずい。アトランティスは窯から少し距離を取る。

 この臭いは強すぎる。林に囲まれているし、位置的に海まで臭いが届くことはないだろうが、体や服に臭いが付いてしまうのは問題だ。深海棲艦に化けるにあたっては臭いも重要な問題で、臭いから艦娘である、とばれなくても、深海棲艦ではない、と判断される可能性は十分にあるのだ。

 アトランティスは窯の中で焼かれていく、すでに真っ黒な手を見つめた。そして、

「ごめんなさい」

 一言呟く。自分への戒めとしてずっと見て、この臭いを感じていなければならないだろうが、それゆえに自分が沈むことになってはいけない。生かしてもらった命を無駄にしてはいけないのだから。

 

 アトランティスは沢のほとりで靴を脱ぎ、続いて靴下を脱いだ。ひんやりとした丸石が気持ちよい。

 さらに携帯無線機やナイフなどを取り出してから、迷彩服の上下、シャツを脱ぎ、ブラジャーとショーツを脱ぎ、畳んで濡れないところに置いた。その脇には水浴び後に着る、まだこっちに持ってきてから一度も袖を通していない迷彩服と下着も置いておく。

 何一つ身につけていないアトランティス。肩にかかるくらいの長さの綺麗な金髪。透き通るように白い肌。ほっそりとした腕。形の整った胸。程よいくびれ。腰から脚までの伸びるライン。

 その美しき姿容を見た者がいれば、必ずや十数秒は我を忘れ、アトランティスを見つめて、呆けていることだろう。

 しかし、ここは地中海に浮かぶ小さな島、パンテレリア島。この島に人間がいなくなったのは9年も前のこと。アトランティスの艶姿を見る者は燦々と輝く太陽と動物達以外にはいない。

 アトランティスは沢の緩やかな流れの中へ、右の足先だけをちょこんと入れる。冷たすぎることはない。そのまま右足を水流の中に浸けた。そして左足。ジャングルブーツで蒸れた足が清涼な水でクーリングされていく。

 アトランティスはそのまま、沢に入っていく。沢の深さは腰丈くらいしかない。アトランティスは目を瞑り、体を後ろに倒し、仰向けに水に浮いた。金髪が広がる。

 流されないように岩に手をやっておくこと以外、特に動くようなことはせず、ただ水に浮いている。

 水の流れる音。鳥のさえずり。風で葉と葉が揺れ、こすれる音。

 冷たい沢の水で体全体がゆっくりと冷やされていく。太陽光線は木々とそれに茂った葉によってある程度遮られ、ほどよい明るさを与えてくれる。

 こうしているとふと、普通の艦だった感覚を思い出す。

 錨を降ろし、港に接岸して補給や乗員達が上陸している、そんなときの感覚だ。

 波の音。人の声。カモメ。クレーンの駆動音。容赦なく照りつける太陽。口がないから、おしゃべりもできず、乗員がいなければ、自分の意志で体を動かすこともできない。

 それらはひどく懐かしい感覚に思えた。

 自分はそもそもは艦であり、何の因果か、人の体を得て、この世界に生まれ変わったのだ。人か、艦か。どっちか答えろと言われると人ではなく、艦だと答えるだろう。そういう意識を持っているのに、ただの艦だった頃の感覚を今思い出した、そんな感じだ。

 私は人なの? 艦なの?

 アトランティスが思考の迷宮に陥ろうとしていたとき、現実に引き戻したのは携帯無線機のピーッ、ピーッ、という呼び出し音だった。

 アトランティスはその音で飛び起き、沢から上がって、濡れる手を振って水を払い、携帯無線機を取った。

『こちらはドイツ海軍地中海派遣艦隊司令部である』

「こちらはドイツ海軍地中海派遣艦隊第2艦娘隊の仮装巡洋艦アトランティスです。用件をどうぞ」

『仮装巡洋艦アトランティス、貴官の任務は現時点をもって終了とする。本日二一〇〇時に迎えのSボートが貴官のセーフハウス前に来る。そのSボートに乗船し、ターラント基地に帰投せよ。復唱せよ』

「仮装巡洋艦アトランティスの任務は現時点をもって終了。本日二一三〇時に迎えのSボートがセーフハウス前に来る。そのSボートに乗船し、ターラント基地に帰投せよ」

『何か質問はあるか?』

「ヘラクレス作戦はまだ終了していません。任務終了の理由をお教え願いたい」

『それに関しては答えることができない。他に質問は?』

「ありません」

『では通信を終了する』

 ブッ、というノイズと共に通信は終了した。

 アトランティスは沈黙した携帯無線機を地面に置き、再び沢に入った。冷たい水流の中、アトランティスは体育座りをして、水から頭だけを出した格好になって、考える。

 どういうことだ? ヘラクレス作戦はもうジブラルタル半島を落とすだけ、という最終段階に至っており、敵補給線を妨害する仮装巡洋艦の任務はほぼ終了したと言っても問題はない。だが、ヘラクレス作戦が完全に終了するまで任務は終了しない、そういうのが筋だろう。ドイツ本国の方で深海棲艦が攻めてきたとか、そういう緊急事態が起こったなら、呼び戻す理由にはなるが、そんな話聞いていない。

 本国は私に、なにかやらせたがっている?

 その答えは迎えに来たS-323の乗員に聞いても、分からなかった。

 

 東の空が少し明るくなってきたころにアトランティスを乗せたSボートS-323はターラント基地に到着、桟橋に接岸した。基地は灯火管制をされている関係で建物からは一切の光は漏れておらず、静まりかえっている。まだヘラクレス作戦は続いているのだから、中建物の内部で仕事や任務に就いている人達はいるに違いないのだが、アトランティスの目には基地は眠っているようにも見える。

 実際、基地のイタリア兵とドイツ海軍陸戦隊のSボート警備兵数人がやってきて、S-323にラッタルが渡される。アトランティスとS-323の乗員の数人がSボートから降りた。

 これから、帰還や機雷敷設場所、撃沈戦果、そしてあのパイロットのことを、司令部に報告しなければならないのでターラント基地内部に急設されたプレハブ建てのドイツ海軍地中海派遣艦隊司令部に行くのだ。

 丸めがねをかけた司令官に一通り報告し、「以上です」とアトランティスが言うと、司令官は「任務の急な終了、すまなかったね」と謝った。

「どういうことです?」

「私は具体的な内容を一切知らないが、アトランティス、君にはどうも敵補給線妨害よりも大きな任務が与えられたようだ。この部屋を出たら、306号室に行きなさい。君を待っている人間がそこにいる」

 

 行けと言われた306号室の戸をノックすると低い男の声で「入りたまえ」と声があった。

「失礼します。仮装巡洋艦アトランティスです。ルントシュテット司令官に命じられ、参りました」

 アトランティスは敬礼をしながら、室内を目で見回す。306号室はただの会議室らしい。リノリウムの床に長机とパイプ椅子が並ぶだけの殺風景な部屋の中に3人いた。

 1人はドイツ海軍の士官制服を着た長身の50代程度の男。長身に見えるのは他の2人が小さいのもあるかもしれないが軍人らしく、きりっと伸びた背筋が長身に見せるのだろう。階級は大佐。足下には3つのジュラルミンケースが立てて置いてある。

 もう2人は女性だ。1人はドイツ海軍の女性用士官制服を着ており、赤髪を後ろで1つにまとめている。階級は中尉。もう1人の女性を見て、アトランティスはぎょっとする。なぜかといえば、その女性は自分によく似た―――――――いや、そっくりの女性だったからだ。

「当ててごらんなさい?」

 驚いたアトランティスを見て、彼女は不敵に笑って言った。

 当ててみろ、ということはドッペルゲンガーとか、そういう類いではなく、変装した仮装巡洋艦ということだろう。変装がうまい艦娘といったらドイツの仮装巡洋艦の右に出る者はいない。それに彼女が座る椅子の後ろにはアタッシュケースが置かれている。おそらく、あの中は変装するための機材で一杯だろう。

 では誰か? コルモランとピングィンは大西洋で偵察活動中。トールとミヒェルはインド洋――いや、カレー洋で活動中。オリオン、コメート、シュティーアはドイツ本国にいて、ヴィダーは太平洋で偵察任務。

 手が空いていて、「当ててごらんなさい?」なんて偉そうに言うのは、

「オリオン?」

「違いますよ」

「では、シュティーア」

「それも違います。さあ、言ってご――――」

「正解はー、ヴィダーでしたー」

 赤髪を後ろで1つにまとめた中尉が朗らかに答えた。

「ちょっと、コルモラン!」

「ヴィダーのクイズはいつも長ったらしいの」

 赤髪を後ろで1つにまとめた中尉に変装したコルモランは、あちー、と言いながら、赤髪のカツラを取った。垂れ下がってカツラの髪色と混ざらないようにまとめていた金髪を解く。

「ヴィダー? 太平洋にいたんじゃないの?」

「3日前にドイツに帰ってたよ。書類上はまだ、ジョンストン環礁を基点に東太平洋をハワイ周辺を偵察中、ということになっているけど。今、アトランティスの格好をして、ここにいるのは―――――」

「インディゴ作戦が再発動されたからだ」

 大佐がヴィダーの言葉を遮って、話し始める。コルモランに正体をバラされ、大佐にも話を遮られたものだから、ヴィダーは足を組んで、そっぽを向く。大佐はいじけたヴィダーを一瞥したが、慰めるわけでもなく、立ちっぱなしのアトランティスに座るように促して、話を続ける。

「詰まるところ、深海棲艦を生きたまま捕獲せよ、ということだ」

「それでコルモランと私はヘラクレス作戦に関連する任務を中断して、ここに来ている、というわけですか。でもなんでヴィダーが必要なんです?」

 アトランティスはちらりと、ヴィダーに目を向ける。ヴィダーは口をへの字にして窓の方――――もっともカーテンで仕切られ、外の景色は見えないが、そっちの方を見ていた。

「インディゴ作戦は秘密作戦だ。他国に悟られてはドイツ海軍としては面白くない。他国の目が多いこのターラント基地を現在の拠点にしているアトランティスの影武者として、ヴィダーを呼び戻したのだ」

 そこまでする必要性があるのか、少々疑問だが、ひとまずアトランティスは納得した。

「では、前回と同じように襲いやすい敵船団が現れたら、出撃ですか?」

「いや、そうじゃないらしいぞ」

 コルモランが一枚の写真を投げてよこした。アトランティスは危なげなく、その写真をキャッチし、写っているものを見る。

「ワ級?」

 球体に人のような上半身と深海棲艦らしい鋭角的なフォルムの頭部。確かにワ級である。しかし、その周りにいるのはリ級やハ級といった、ちんけな深海棲艦ではなく、タ級や姫クラスの深海棲艦だった。

「ただのワ級ではない。偵察部隊によれば蒼色のオーラを纏うスペシャルなワ級だ」

 アトランティスは大佐の顔を見る。冗談で言っているわけではないようだ。

「このスペシャルワ級を生きたまま、捕まえろと? 周りの護衛を倒して?」

「そうだ」

 無茶を言わないでくれ。アトランティスは内心うなだれた。




 ドイツ仮装巡洋艦の艦娘は敵支配海域の奥深くまで侵入して、偵察行動をすることが多いです。むしろ、それの方が主任務だったり。敵の動向を調べることもできるし、電子偵察なども可能ですね。
 次回、ヴィダー(正しくはヴィダーと一緒に帰った諜報部)の日本のお土産が登場します。お菓子じゃないよ。

 ではシャクティ風の次回予告。
 インディゴ作戦は再び始まってしまいました。ワ級とその護衛が出港するのを見計らい、アトランティスとコルモランとヴィダーが出撃します。
 アトランティスとコルモランの2人は日本の水上攻撃機とドイツの新兵器を最大に使って、ワ級を守る深海棲艦を追い払おうとするのですが、そこにイタリア海軍の艦娘部隊が突入してきたのです。
 そして、それは次に艦娘同士が戦い合う狂乱の光景になったのです。
 次回、「地中海を蒼に染めて」 見てください!

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