インディゴの血   作:ベトナム帽子

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Sieben:人間と深海棲艦-後編

 それは深海棲艦の航路に機雷を撒いて、イタリア海軍本部に敷設場所を連絡した後のことだった。

 ごおおおおおおおおおお。

 アトランティスはプロペラ機とは違うジェット機特有の音を聞いた。反射的に空を見上げると、地中海気候らしく良く晴れた青い空に白く尾を引く三角形の飛行機が小さく見えた。

「あれ……ミラージュ? なんでこんな所に」

 遠くて翼に描かれているであろう国籍マークはよく見えないが、あの特徴的なデルタ翼は間違いなくミラージュ系の航空機である。イタリア空軍はミラージュを保有していないので、少なくともイタリア空軍のものではない。そうであればフランス空軍のものだろうか? しかし、ここは地中海中央部で、フランス軍の作戦海域でもなければ、哨戒空域でもない。

「深海棲艦の動きを見に来た、ってとこかな?」

 アトランティスは燦々と輝く地中海の太陽を手で覆い隠しながら、東に向かうミラージュを見つめていた。

 アトランティスの今の位置はランペドゥーザ島100km東。そこからさらに東で、深海棲艦がいるような所はマルタ島がある。

 マルタ島は地中海における要所で、深海棲艦も基地として利用している島だった。今、アトランティスが妨害している深海棲艦の輸送船団もマルタ島に一度寄港してから、ジブラルタルに向かう。

 私も行ってみようかな? そう思ったときである。

 ミラージュが引いていた白い飛行機雲が突然、黒くなった。漫画なら、ぼへぼへという擬音が付いてそうな感じで、ミラージュは白い飛行機雲から黒い飛行機雲を引き始める。

 しばらくそのまま飛んでいたが、やがて高度を下げ始めた。

 

 黒い塊が横切ったかと思うと、金属が千切れるような、ひん曲がるような音がエンジンの方からした。

 ベルナールはこの音に聞き覚えがあった。あれは10年くらい前の深海棲艦がまだ出現していない頃の話で、滑走路から離陸した直後のことだった。鳥をエンジンに吸い込んだのである。専門用語ではこれをバードストライクと言って、航空機事故の中ではよく起こることだった。

 ベルナールがミラージュⅢRDの自己診断プログラムを実行すると、やはりエンジン系の数値がおかしくなっている。きっとエンジンに何かを吸い込んでタービンブレードが破壊されたに違いない。

 しかし、何を吸い込んだのだろう? さっき横切った黒い塊なのは違いない。しかし、高度7,000mを飛行する鳥なんて地中海にはいないはずで、エベレストなどの高山では高度8,000mを飛行する鳥がいないこともないが、それは山越えをするためであって、山があるわけでもない地中海にそんな高度を飛ぶ鳥がいるはずがないのだ。

 今の飛行速度はマッハ0.9。動体視力が優れていても黒い塊が何だったのかは分からないだろう。とりあえず、鳥だったということにして、事態の対処を考える。

 エンジンが壊れたということはこれ以上の偵察任務は不可能である。そしてフランス本国に帰還することも不可能だ。するとイタリアのシチリア島辺りの飛行場に着陸することになるだろう。しかし、少々距離がある。果たしてエンジンが壊れた今、自由飛行でシチリア島までたどり着くことができるかどうか。海上に不時着水することになれば、泳がないといけないし、下手したら深海棲艦やサメの餌になってしまう。それは嫌だった。

 幸いにも高度と速度はある。できるだけシチリア島に近づこう。ベルナールはそう思って、機体を北に向け、国際救難チャンネルで連絡しようとしたその時だった。

 周囲に無数の火の玉が出た。しかし、火の玉かと思ったら、黒煙に変わる。そして衝撃波が機体を揺らした。

「対空砲火!?」

 火の玉の正体は高射砲弾だった。今、ベルナールが飛行しているのはマルヌ島付近。深海棲艦がベルナールのミラージュⅢRDを狙って高射砲弾を撃ち上げてきているのだ。

「メーデーメーデーメーデー!」

 ベルナールは国際救難チャンネルに叫んだ。所属と姓名、今置かれている状況。すべて話す。弾着が正確になってきている。機速がプロペラ機並みに低下している。衝撃波で機体が揺られ、舌を噛みそうになる。破片が機体に当たる音がする。世界が時計回りに回り始めた。右翼を見ると半分くらい吹っ飛んでいる。

 ベルナールはクロエの写真を剥ぎ取り、胸ポケットに入れると射出座席のレバーを握り、思いっきり引っ張った。

 

 国際救難チャンネルの悲鳴と黒煙を吐いたミラージュが真っ逆さまに落ちる様子はアトランティスにも聞こえ、そして見えていた。

 ミラージュが落ちたのはマルヌ島付近。アトランティスからは南東50kmほど離れているだけである。

 助けられるかもしれない。

 アトランティスの最大速度は17.5ノット。マルヌ島まで全速力でいけば、1時間とちょっとで着く。

 国際救難チャンネルで助けを求めたといってもおそらくイタリア軍は動かないだろう。なにせミラージュが落ちたのはマルヌ島の近くである。深海棲艦の地中海一大拠点であるマルヌ島にはジブラルタルの増援に戦力が抽出されたといっても、まだかなりの戦力が残っている。イタリア空軍のパイロット救出部隊がヘリコプターで出て行っても、ミラージュのように撃墜されるだろう。イタリア海軍艦娘の主力は西のサルデーニャ島で遠いし、ターラントにはターラント自身を守るのと、輸送船団にちょっかいを出す程度の戦力しか持っていない。付近にはアトランティスと同じように敵輸送船団を妨害するドイツ潜水艦艦娘がいるはずだが、パイロットを助けたら浮上航行しなければならない。浮上航行している潜水艦はあまりにも非力だ。

 私しかいない。

 アトランティスはマルヌ島に進路を向け、ディーゼル機関を目一杯回し始めた。

 

 もう遅かった。

「Aidez-moi!(助けてくれ!)」

 マルヌ沖にたどり着いたアトランティスはフランス語の悲鳴を深海棲艦の群の中から聞いた。きっと、あのミラージュのパイロット、ベルナール・ポミエ中尉はこの群の中にいるのだろう。

「Aidez-moi! Aidez-moi!」

 助け出せるだろうか? ――――――――――――――無理、できない。アトランティスはすぐに否定した。

 ベルナールに群がっている深海棲艦は重巡クラスや軽巡クラスだったら、どんなに良かっただろう。しかし、現実はル級やヲ級といった戦艦、空母クラスというアトランティスが敵いっこない深海棲艦が20体以上、群がっているのだ。そして周辺の海域には哨戒の重巡クラスや駆逐艦クラスが跋扈している。

 助け出すことなんて叶わない。

「Aidez-moi!」

 純粋に何者かの助けを求める声がアトランティスの胸に刺さる。

 助けてやりたいのは山々だが、この状況と敵ではどうしようもない。ベルナールを助けようと行動を起こしたら、自分も沈んで、ベルナールも死ぬ。それはほぼ確実だ。それだったら、行動を起こさない方が結果としては良いではないか。1人の飛行士と1人の艦娘を天秤にかけたら、艦娘の方が重いのだから。

 アトランティスは救助を諦め、踵を切ってその場を去ろうとした、その時だった。

 悲鳴の質が変わった。

 良い方向ではない。悪い方向だ。

 苦しそうに、息もしづらそうに、途切れ途切れで、しかし、今まで以上に必死な声に、この世の苦しみを全部混ぜて鍋で煮詰めたような、恐ろしい声に変わった。

 だから、アトランティスは振り返って、見てしまったのだ。

 両腕と両足、それぞれを深海棲艦が持って、上半身と下半身の2つに引きちぎられる、人間の姿を。

 引きちぎられる瞬間の声は、どこからそんな声が出るのだろう。そんな、まさに絶叫というべき声だった。

 飛行服が千切れ、シャツが千切れ、皮膚が千切れ、肉がちぎれ、背骨が千切れ、腸が伸び、何mも伸びて、そして千切れた。大量の血が流れ出て海面を赤く染める。

 悲鳴は消えていた。

 波の音が聞こえた。

 真っ二つになった死体を深海棲艦達はさらに千切り分けた。アトランティスはその様子を見たまま、動けなかった。

 首、右肩、左肩、左の上腕と前腕、左手、右の上腕、前腕、右手、胸筋、肋骨、肺、心臓、肝臓、膵臓、腎臓、脾臓、胃、腸、左の大腿、下腿、左足、右の大腿、下腿、右足。

 アトランティスが正気を取り戻したのは、人間の血で体が朱く染まったタ級に手渡された時だった。

 おもむろに手渡されたものを見る。

 人間の左手だった。まだ暖かみがあって、ぬめりのある赤い血が千切れた所から滴っている。薬指には銀色の指輪。

 渡してきたタ級の顔を見る。タ級は不思議そうにアトランティスを見つめ返した。

 喰わないのか?

 まるで、そう言っているようだった。

 タ級は右手に持っていた頭の千切れた首部分を口の前に持っていき、囓った。プチプチと筋肉繊維が千切れる音がして、血が小さく噴き出る。タ級は口が血で赤く汚れるのは気にしない様子で人間の首を喰っていた。

 タ級に食べられる首の2つの虚ろな目と目が合った。その蒼い目にはすでに光はなかったが、しっかりと自分の目を見つめている、アトランティスはそんな気分になった。

 アトランティスは耐えられなくなって目をそらす。そして首の涙の跡に気付いた。

「あ、ああ……あああ」

 アトンラティスはいてもたってもいられなくて、その場から逃げ出した。

 

 仮装巡洋艦でなく、フランス語が分からなければどんなに良かっただろう。そうであれば、自分は地中海にはおらず、あのパイロットとあんな形で出会うこともなく、とても悲痛で必死な助けを乞う声など理解はできなかったに違いないのだ。

 アトランティスは無意識にセーフハウスのあるパンテレリア島の海岸に帰り着いていた。

 すでに無数の星と月が光り輝く夜が訪れており、カモメの鳴き声もなく、ジェット機の轟音もなく、恐ろしい悲鳴もなく、海が波打つ音だけが規則的に砂浜に響いている。

 脚部艤装の底が砂浜に乗り上げ、アトランティスは膝をつき、手をついた。

 アトランティスの手には、すっかり冷たくなって色の悪くなった、あのパイロットの右手が今もある。

 薬指の指輪が月夜に鈍く光っている。

 あんな死に方は人間の死に方じゃない。動物の死に方だ。

 寿命で死ぬ。病気に犯されて死ぬ。遭難して死ぬ。医療ミスで死ぬ。自動車に轢かれて死ぬ。毒を盛られて死ぬ。工場で機械にはさまれて死ぬ。ビルの建設現場で骨組みから落ちて死ぬ。銃で撃たれて死ぬ。ナイフで刺されて死ぬ。縄で自分の首を吊って死ぬ。

 どれも人間の死に方だ。しかし、

「あんなのは人間の死に方じゃないよ、あんな、あんな死に方は……!」

 生きながらに部位ごとに引き裂かれ、それをひとつひとつ喰われるなんて、それは決して人間の死に方じゃない。太古の昔、まだ人間がサル同然だった時代の、人ではなく、ヒトだったころの死に方であって、人間の死に方では決してない。

 深海棲艦は人間を食べる。これはずっと聞いてきたことで、文献でも読んで、人を喰っている最中の高倍率偵察写真だって何枚かは見てきていた。でも現実は想像の何十倍も違う。

 1つの命が失われようというのに、苦痛の果てに死ぬというのに、何の躊躇も憂慮も慈悲もなく、奴らは殺し、喰ったのだ。

 「深海棲艦は神が人間の代わりに新しく作った存在」なんてカルト宗教の言う耳にタコな話で、言いぐさで「人間は己の欲望のまま、神の作った世界を無法に生きている。だから滅ぶべきなのだ」なんてのも今やおきまりのパターン。仮にそうだとして、聖書の通り、「神が自分に似せて人間を作った」のなら、いわば神にとって人間は子供で愛すべき存在とか、そういうのではないのか? いくら不出来で怠惰で自分勝手なヤツだったとしてもああやって殺すのは残酷すぎやしないだろうか。しかも、それを新しく生んだ子供にやらせるのである。神というのはなんとひどいヤツなのだろう。

 そんなひどい死に方をさせたのは元を正せば神かもしれない。でももし、あのとき、自分が砲の一発でも魚雷の一発でも、いっそのこと発煙弾、Ar196に30kg程度の爆弾でも良い。何か行動を起こしていれば、あんな無残で惨い死に方にはならなかったかもしれない。非常に運が良く、あのパイロットが逃げ出せていたなら、今頃シチリア島沿岸に泳ぎ着いていたかもしれない。しかし、代わりに自分が沈んでいたかもしれない。艦娘が深海棲艦に化けている、と見破られて無数の砲弾に身を撃ち抜かれて、魚の餌として骸を海に沈めることになったかもしれない。

 もし。なら。しかし。でも。れば。しれない。

 「過去」を語る上で、それらの言葉は役に立たない。「過去」は変えられない。「過去」、「今」、「未来」の三世(さんぜ)の内、私達は「今」しか生きられない。

 だからといって、「過去」を無視してはいけない。「過去」なくして「今」も「未来」も生まれ得ない。仏教で言う「業」なくして生きることはできない。

 だから、

「……ありがとう、ありがとうございます……。貴方のおかげで私は生きていられます。ごめんなさい…………ありがとう」

 アトランティスは感謝と謝罪を冷え切った右手に言いながら、嗚咽した。




 キリスト教からなる人間の意識・認識と仏教からなる人間の意識・認識をちゃんと書き分けられるようになったら良いな、って思うこのごろ。
 ちなみにアトランティスは無宗教だけど、ドイツ生まれだからキリスト教系のものの考え方をすることが多いよ。

 ではシャクティ風の次回予告。
 ヘラクレス作戦はまだ続いているのにアトランティスには帰還命令が下ります。あのパイロットの右手と共にターラントに帰還したアトランティスを待っていたのは本国から密命を受けてきた大佐だったのです。
 次回、「再始動」。見てください!

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