インディゴの血   作:ベトナム帽子

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地中海
Vier:帝国の戦艦との休暇


 アトランティスは猫舌なことをたまにからかわれる。コーヒーなどを飲むとき、「熱っ」と一瞬で口を離すのは少し不作法だし、フーフーしている姿は子供っぽいと言うのだ。猫舌は体質ではなく、舌の使い方が下手なだけで、舌の使い方を少し変えれば猫舌は治るらしい。

 熱いのなら冷ませば良いのだし、ゆっくり飲めば長く味わうことができる。ただ不作法なのは確かなので、「熱っ」と口を離すのは気をつけたい。そんな感じに思っていたので、アトランティスは猫舌を治す気などひとつもなかった。

 そんなアトランティスだから、喫茶店で一人コーヒーを飲むのは誰にも気を遣わなくて好きだった。休暇を与えられたときなどは小説を読みながら、数杯のコーヒーで半日居座る。「Duft(ドフツ)(香り)」という喫茶店はコーヒーも美味しいし、マスターは長時間居座っても嫌な顔しないどころか、むしろ嬉しい様子なので、最近はよく行っている。

 その日はジブラルタル海峡攻略作戦「ヘラクレス」に参加する艦娘は全員休暇に出された日で、なおかつ給料日だった。だからアトランティスは服やら少し買った後、Duftに寄った。

 

「へえ、ジブラルタル。アメリカの方にはジブラルタルコーヒーというのがありますよ」

 Duftのマスターはカイゼル髭を蓄えた初老の男性だ。少し日に焼け、皺が深く刻まれた顔にはカイゼル髭がよく似合っている。

「アメリカなのにジブラルタル?」

「ええ。なぜ『ジブラルタル』かはよく分からないけれど。サンフランシスコが起源らしいです。では今日のコーヒーはそのジブラルタルコーヒーでもどうです?」

「それでお願い」

 アトランティスは頷いた。いつもはブレンドコーヒーだが、たまには違うのも良いだろう。

 ジブラルタルコーヒーが入れられるまでの少しの時間は新聞を読む時間だ。基地が取っている新聞はたったの一紙なので主張が偏ってしまう。他のも取れ、とアトランティスは上申するのだが予算がない、とにべもなく返されている。なので、このDuftで基地が取っている新聞とは違う社の新聞を読むのだ。

 ヘラクレス作戦が発動間近ということもあってか、紙面は大きくヘラクレス作戦のことを取り上げている。地中海内には大きな深海棲艦の拠点は存在しないため、ジブラルタルを解放すれば、南部ヨーロッパと北アフリカとの交易は13年ぶりに回復することができる。それによって生まれる経済は300億マルク規模と見込まれる。そんなことが書かれている。

 片隅にはクルップ社の兵器工場で事故があって数人死亡、責任者を過失致死傷害で書類送検だとか、ロシアがドイツ向けの天然ガス価格を上げる、産業界に不安が走るだとか、兵器輸出額が4月から低迷化していて、それは艦娘技術が他国よりも送れていることが原因だとか、地方議会員が予算横領していただとか、極東で日本海軍が再び攻勢に出ただとか、そんな記事だ。

 ドイツは平和だと思う。海こそ深海棲艦が回遊しているが、フランスやイギリスのように上陸されて首都まで迫られたわけではない。石炭や木といったエネルギー資源だって国内に結構ある。足りなければロシアやウクライナから天然ガスや石油を買えばいい。食べ物だってたくさんある。帝国ジャガイモ局があった第一次大戦の時みたいに飢えてはいない。ドイツは国内で掘って、海外から買った資源で昔ながらの死の商人をやっているだけなのだ。ドイツ南部の方の新聞を読むと、深海棲艦はテレビやラジオの向こうの存在、という感じがひしひしと感じられる。今回のヘラクレス作戦だってドイツは艦娘を少数派遣するだけで、陸軍の派遣は行わない。別に悪いわけではない。平和なのはいいことだ。自分も戦時でなければ、ただの商船ゴルデンフェルスとして終わっていたのだろう。撃沈なんてされず、ボロボロまでこき使われて、解体されるのが船としては一番だ。アトランティスはそう思う。

 暖めた牛乳の香りがし始めた頃、店の入り口の扉が開き、鈴がちりりん、と軽快に鳴った。

「いらっしゃい」

 女か。マスターの声色だけで、アトランティスは新客を一別することもなく性別を判断した。このマスター、客が男か女かで少し声色が違う。女が来た時は少し声が丸い。

 女の新客は鞄を足下に置いて、アトランティスの席の2つ向こうの席に座った。

「おや、艦娘さん?」

 マスターがそう言ったのをアトランティスは聞き逃さなかった。顔は動かさず、横目で艦娘と言われた新客を見た。

「はい」

 薄い色の金髪をポニーテールにまとめた目の黒い子は自分を艦娘だと認めた。灰色の制服、脱いで手に持っている制帽、ソックスの長さからして、おそらく戦艦だろう。ビスマルクは極東に行っているから違うはずだ。ティルピッツの方だろうか?

「エスプレッソ、頂けるかな」

「かしこまりました」

 マスターは私が艦娘のアトランティスということをこの戦艦艦娘に言わない。アトランティスが一人でコーヒーを飲むのが好きなことを知っているからだ。アトランティス自身もわざわざ関わるつもりはなかった。

「ジブラルタルコーヒー、おまちどおさま」

 マスターが静かにコーヒーを置いた。アトランティスは新聞を綺麗にたたんで横に置く。新聞を読むのはここまで。あとは小説とコーヒーの時間だった。

 ジブラルタルコーヒーはカップではなく、透明なグラスに淹れられていた。色はホワイトコーヒーよりも濃い。スチームしたミルクを入れているのか、きめ細かい泡が覆っている。アトランティスはそのジブラルタルコーヒーとやらに口を付けた。

 マスターがちょうど良い温度に調節して淹れてくれているので熱くはない。味はフォームドミルクの甘さ、エスプレッソのコクや苦みが両方感じられる。面白いコーヒーだった。

「スチームドミルクをエスプレッソより少なめに入れてるのがポイントです。ではごゆっくり」

 マスターはにっこり笑って下がった。ごゆっくり。そうだ。隣の艦娘なんか気にせず、ゆっくりしよう。せっかくの休暇なのだから。そう思ってアトランティスは新聞を棚に戻し、小説の前まで読んでいたページを探している途中、横から声をかけられた。

「貴方、艦娘だよね」

 ぎくりとした。何かばれることがあっただろうか? ジブラルタルコーヒーのせいだろうか? いや、ジブラルタルなんて単語、いくらでも最近の新聞に載っている。普通の客が思い立ってジブラルタルコーヒーを喫茶店で注文したっておかしくはないだろう。

 アトランティスは目尻を細めた程度だったのだが、この艦娘はその様子を見逃さなかった。

「やっぱり。駆逐艦という雰囲気ではないし、戦艦、空母ではない。体格からして軽巡か仮装巡洋艦といったところか。たぶん、仮装巡洋艦だね」

「……よく分かりますね」

「案外分かるものだよ」

 戦艦艦娘は不敵に笑う。グラーフ・ツェッペリンといい、この戦艦艦娘といい、なぜ大型艦は不敵に笑うのだろうか。大型艦ゆえの自身だろうか? 少し腹が立つ。

「私はゲーベン。モルトケ級巡洋戦艦の2番艦だ」

「イギリス海軍を出し抜いたあのゲーベンですか」

「そうだ」

 ゲーベン。ドイツ帝国海軍の巡洋戦艦。第一次大戦勃発当初は地中海におり、アルジェリア沿岸を砲撃した後、イギリス海軍の追撃を振り切ってオスマン帝国のイスタンブールに入り、ヤウズ・スルタン・セリムと改名してオスマン海軍所属になった。その後、ロシア帝国海軍とたびたび戦闘し、第一次大戦が終結。オスマン帝国が倒れ、トルコ共和国が成立してからはトルコ海軍所属になり、近代化改装と共にヤウズ・セリムに改名し、さらにヤウズに改名した。第二次大戦中、大戦後もトルコ海軍に在籍しており、1976年に解体。

 一度目の世界大戦を経験し、二度目の世界大戦を見た、世界最後の巡洋戦艦。ゲーベンとはそんな艦だ。

「貴方は?」

「仮装巡洋艦のアトランティスです」

「ヘラクレス作戦に参加するのかい?」

 ゲーベンはグラスに入ったジブラルタルコーヒーを見ながら言った。まあ、そんなところです。アトランティスは小さく返事をした。

「ゲーベン、貴方も作戦に参加するの?」

 ゲーベンは小さく首を横に振った。

「ティルピッツの方だよ、参加するのは。僕はドイツの防衛。ティルピッツは嫌がっていたけどね」

 ゲーベンはため息を吐く。アトランティスの目にはゲーベンがとても憂鬱そうに見えた。「彼女は……いや、ドイツの艦娘のそばにビスマルクがいれば、また違うんだろうね」

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。あの自信過剰な艦娘がそばにいたならば、少なくとも……ね。でも潜水艦と仮装巡洋艦は違うか。小耳にはさんだ程度の話だけど聞いてるよ。すごいじゃないか」

 アトランティスは周りの様子を確認しながら、恐縮です、と言った。ゲーベンの言う「小耳にはさんだ程度の話」というのはインディゴ作戦のことだろう。機密というのはゲーベンも重々承知しているようでマスターや他の客が離れたところにいるのを確認してから、口に出したようだ。

「それに引き替え、水上艦隊は情けないよ。一昨日も潜水艦との乱闘騒ぎ。それくらい元気があるならば敵の前でもやって欲しいものだよ」

 アトランティスはさっきまで「ドイツの艦娘のそばにビスマルクがいれば、また違うんだろうね」という意味が分からなかったのだが、今の言葉でようやく思い出した。

 ドイツの水上艦、駆逐艦や巡洋艦、戦艦といった艦娘は自分達に自信が持てないでいる、ということだ。

 ドイツ海軍の艦娘は大まかに分けて2つの種類がある。水上艦と潜水艦の2つだ。

 潜水艦艦娘は第二次大戦中、あちこちで猛威を振るったことからか、自分達は世界でもトップクラスの潜水艦、という自負がある。実際、艦娘に生まれ変わってもドイツ潜水艦は優秀で外国の海軍と演習をした時はかなりの数の撃沈判定を取っている。アトランティス自身も潜水艦娘と作戦行動を共にしたことがあり、あふれ出すような自信を見ることができた。

 一方、水上艦の方はあまり良い話を聞かない。アトランティス自身、仮装巡洋艦以外の水上艦娘と関わったことがほとんどないので一概には言えないのだが、話によれば弱い、自信がない、暗いと聞く。第二次大戦では敵艦とまともに戦って勝利を収めたことは少ないし、艦娘に生まれ変わってもそれは変わらないようだ。いつぞやの英軍との演習でもぼこぼこにされて負けたという話である。

「だから、ビスマルクと駆逐艦娘2名を極東に送ったんでしょ。あの国の海軍は強いから」「まあ、そうだね。ヘルター総司令も言っていたよ。『自分の力を認識し、鍛えるために』なんてね」

 ゲーベンは少し笑う。しかし、その小さな笑いは乾いている。

 そういえば、さっきからゲーベンは渇いた笑いしかしない。愉快だから、という笑いは見ていない。もっとも愉快な話なんてひとつもなかったが。

「エスプレッソ、おまちどおさま」

「ありがとう。いい香りですね。店名通りだ」

「お褒め頂けると嬉しいです」

「そのカイゼル髭……似合いますね。ええ、とても」

 アトランティスにはゲーベンの声が少し弾んでいるように聞こえた。自分との会話は元気がないような抑揚の小さい声だったのだが、カイゼル髭の話から少し色がついたような、そんな気がした。

「昔、友人に、お前はカイゼル髭が似合う、と言われたので、そうしているのです。この髭、私も気に入っています」

「ええ、本当によく似合っています。久しぶりに懐かしいものを見せてもらいました」

「カイゼル髭が懐かしい……ですか?」

 ゲーベンは一口、コーヒーを飲んで、答えた。

「ヴィルヘルム2世を思い出すのです。僕はドイツ帝国海軍の所属でしたから」

 ドイツ帝国海軍……つまり、皇帝の海軍か。アトランティスは小説を読むふりをしながら、聞き耳を立てていた。

 ドイツ海軍といっても複数ある。ドイツ帝国海軍。ドイツ国防海軍。ドイツ連邦海軍。どれもドイツが付くが、全く違う。

 まず、ドイツ帝国海軍。これはドイツ帝国の皇帝が持つ海軍である。軍は国の持ち物のことが多いが、ドイツ帝国海軍は皇帝の持ち物である。

 次にドイツ国防海軍。これはナチス・ドイツの国防軍に属する海軍である。この場合、ドイツ帝国海軍と違って、海軍は国の持ち物だ。

 そしてドイツ連邦海軍。これはドイツ連邦の持つ海軍であり、今のドイツが持つ海軍である。ドイツ連邦海軍とドイツ国防海軍が何が違うかというと特に違いはない。第二次大戦が起こっていないこの世界では、ドイツ国防海軍というものは存在しない。第一次大戦以後、ずっとドイツ連邦海軍である。

 ゲーベンとアトランティス、この艦娘両名はドイツ連邦海軍に所属している。しかし、普通の艦だった時はゲーベンはドイツ帝国海軍、アトランティスはドイツ国防海軍の所属である。組織の根本から違うのだ。

「今はほとんど誰もカイゼル髭をしないので……少し懐かしいのです」

 少し嬉しげな、しかし、少し悲しげな声と表情でゲーベンは言い、コーヒーを飲んだ。そして一言。

「おいしいコーヒーです」

    

 コーヒーを飲んで、ゲーベンはすぐに店を出て行った。

「知り合いですか?」

 マスターはアトランティスに聞いた。アトランティスは首を縦にも横にも振らず、答える。

「噂程度にしか聞きません。有名ですよ、彼女は」

「やけに寂しそうでしたけど……彼女はヴィルヘルム2世と関わりが?」

「予想ですけど……彼女は1人なんだと思いますよ。彼女は……いえ、ゲーベンは帝国海軍の所属でしたから。私のように国防海軍の所属だったわけじゃないんです」

 マスターはいまいち要領を得ない様子だったが、それ以上聞かなかった。

(亡国の戦艦……か)

 インディゴ作戦やゲルプ作戦。これらはヘルターの話いわく、ドイツがヨーロッパの中心に居続けるため、ということだったが、それは対外的な話であって、対内的には艦娘達に自信を取り戻させるためなのかもしれない。

 ドイツ海軍は潜水艦以外、弱い。補給するときに寄港した時に良く聞く話だ。

 思い込みの心理というものもある。ヘルターは意外とドイツ艦娘のために努力しているのかもしれない。

 ジブラルタルコーヒーを飲む。少し冷めて、混ざっていたミルクとコーヒーがちょっと分離してしまっている。ミルクの部分だけを飲んでしまって、甘く感じた。




 ドイツ帝国の忘れ形見、そしてオスマンの、トルコの守り刀。それがゲーベンであり、ヤウズ・スルタン・セリムであり、ヤウズ・セリムであり、ヤウズなのです。だから、彼女はドイツの艦娘達に失望しかけているのかもしれません。

 私はコーヒーをあまり飲みません。よって知識もあまりありません。コーヒーについておかしい描写があったら、指摘よろしくお願いします。あと感想も書いて頂けると嬉しいです。

 ではシャクティ風の次回予告。(無断に変更する可能性あり)
 遂にヘラクレス作戦は開始されました。地中海の入り口で英海軍と深海棲艦が激しく砲火を交わしている中、アトランティスは地中海で行動します。機雷を撒き、敵の輸送級にちょっかいを出す中、アトランティスは見てしまうのです。撃墜され、捕まってしまったフランス空軍パイロットを……。
 次回、「人と深海棲艦」。見てください!

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