吸血鬼
草木も眠る丑三つ時。
真夏の暑さを吸いきったコンクリートに覆われたその路地裏は、ねっとりとした空気に包まれていた。
そこに、一人の男がコンクリートの壁に寄りかかり、座り込んでいた。
いや、男というにはまだ幼い。恐らく、見た目だけで言えば高校生であると思われた。
ボロボロのTシャツとジーンズのズボンを着ており、ホームレスのようにも見える。
その男が身じろぎながら、頭を振る。
そして、自分の手や身体をしげしげと見つめると、
「まただ…」
と呟いた。
そう、この男は次元移動した黒神くらげである。
次元移動の前と比べると、多少大人びているように見えるのは、見かけが変わったからか、それとも何か別の要因があるのか。
くらげは辺りを見渡す。
その、コンクリートに囲まれた路地裏を見て、前の世界、幻想郷とまるで様子が違うことを知り、次元移動したことを実感する。
深いため息をつき、そして霊夢の言葉を思い出す。くらげを気遣うように、言葉を選んでくれていたことを思い出す。
くらげは、そんな霊夢の思いすらも踏みにじった。そして後悔する。あのまま残っても良かったのではないかと。
そんな、『もう戻れない状況』になって初めて、くらげはそんな後悔をする。
劣等感に苛まれ、微かな希望は、叶うはずもない時でしか生まれない。そして、その希望ですら、自分自身で打ち砕く。
どうせそんなこと、『僕にできるわけがない』と。
くらげはもう一度大きなため息をつくと、もう一度周りを見渡す。
とにかく、今、どのような状況なのか、確認する必要があるからだ。
路地裏、薄汚れたビル、エアコンの室外機、どうやら科学が発展した世界であるようだ。
辺りは静寂に包まれ、生き物が生きているような気配すらない。代わりに感じるのはねっとりとした生暖かい空気。なんとなく息がし辛いほどだ。
それが、単たる蒸し暑さだけではことにくらげが気づいたのは、微かに混じる異臭のためだ。
いや、微かなどではない。一度気づけば、なぜ先程まで気が付かなかったのか不思議であるほど確かに臭う。
それは嗅いだことのある匂いだ。
鉄を思わせるその臭いの中に、肉が臭ったような、微かな腐臭が混じる。
どうやらそれは、路地裏は奥から臭うようだった。
くらげは、ただそれをほんの少し確かめようとして、奥を見た。だが、暗くなっていて、先が見えない。
くらげは、一歩、奥へ進む。じわりと、背筋に汗が湧く。
更に一歩進む。身体がヒヤリと冷える。
更に一歩。手が震えはじめる。
そしてもう一歩。心臓の鼓動が早くなる。
さらにもう一歩。
それでようやく、そこに何があるのかを知った。
その布に包まれた肉は、よくワカラナイ形に曲がったり折れたりしている。山積みにされたそれらはまるで物のようだが、そうなる前がどうであったかなど、考える必要もない。
その前に、誰かがいた。
じっとしているようにも見えるが、何をしているようだった。その行為にまだ慣れていないからなのか、ぴちゃり、いう音が聞こえる。
くらげの体が、ガタガタと震え始める。
それは幻想郷で感じたものと同質であった。
捕食するものと、されるもの。
その生き物としての明確な差が、圧倒的な差が、それを自覚させる。
そして、それらの感覚が理解させる。
目の前にいるものが、『ヒト』で無いことを。
一通りその行為が終わったのか、それともくらげに気がついたのか、ソレはゆらりと立ち上がると、くらげを見た。
遅れて、重い何かが倒れる音がする。
くらげの中で逃げろと警鐘が鳴り響く。
だが、まるで抗っても無駄だとばかりに、身体はそれに従ってくれない。
そして、そのヒトでない何かが、くらげの前に現れた。
それは血だらけの、学校の制服を着た女だった。
ツーサイドアップの髪型、そして幼さの残る顔つき、背丈やその服装から、一般的な高校生と思われた。
少なくとも、外見だけを見れば、そう思えた。
「ああ…」
ソレは呻くように声を出した。
「ごめんなさい…」
そして、続けてそう言った。
その顔は呆然としていて、どこを見ているのか分からない。
「ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…」
それは誰に向けて謝罪なのか。
山積みにされた何かに向けてか、それとも。
「私、喉が乾いていて」
そう呟くと、ソレの焦点がくらげに合わさった。
「ごめんなさい…」
ソレはそう言うと、静かに手を振り上げた。
ただその動作だけで、くらげは実感した。
次の瞬間、自分の命が無くなることを。