黒神くらげ
そこは、離れの屋敷にある、小さな、薄暗い部屋だった。
天井から吊るされた蛍光灯は消されており、窓には遮光カーテンが引かれている。ちゃぶ台の上に乗ったパソコンの画面からの光が無ければ、真っ暗闇だっただろう。
そのパソコンの前には、畳の上に敷かれた座布団に、猫背で座る、一人の少年が居た。
歳は八才。訳あって小学校には通っていない。その代わりに、特別に学校の授業を、パソコンを通じてリアルタイムで受けている。
彼はしばらくそうしていたが、やがてため息をつくと、そのまま敷きっぱなしの布団の上に倒れ込んだ。
今日の授業が終わったのだ。
彼はそのまま身じろぎもしない。目は虚ろで、口は半開き、無気力に服を着せたような様子で、鍵が掛からない部屋の引き戸を眺める。
「はぁ…」
そうして、いつものようにため息をついた。
そのため息には、諦めが多分に含まれていた。
彼の知能は同学年の平均に比べて低い。他の生徒は、九九の暗唱が出来ているのに、彼は六の段辺りから随分と怪しくなってくる。
では体力はどうかというと、これもよくない。
ほぼ引きこもりの生活をしているので、筋力はもちろんのこと、体を使うことが非常に下手で、俗にいう運動音痴というやつである。
ならば容姿はどうか。やはりよくない。いや、顔だけ見ればパーツごとは悪くない。だが、胴長短足に大きな頭とくればその時点でお察しである。
さらに言えば、その頭の顔に大きな二重まぶたの目が二つ。小さい口、普通サイズの鼻、そして太くて濃い眉毛が二つ。
これをどのように形容すれば、イケてるメンズになるというのか。ずんぐりむっくりの不出来な人形と言うのが、正しい表現に違いない。
とにかく、彼は全てにおいて劣っているのである。
彼の名前は、黒神くらげ、という。
黒神といえば、黒神舵樹が会長を務める財閥で、世界有数の大企業を想像する。そして、それは正しい。
くらげは、黒神舵樹の実の息子であった。
黒神舵樹は多くの妻がおり、彼もそのうちの子供の一人だった。
だが、くらげはつい最近になるまで、その事実を知らなかった。何せ、出産後に亡くなった母と共に、死産だったことにされ、母方の実家にてほぼ監禁に近い生活を送っていたからだ。
黒神舵樹は、巧妙に隠されたくらげを、どうにか、見つけ出したのである。
そして、とある理由のために、今もこうして離れの屋敷に一人で住んでいた。
「はぁ…」
くらげは、もはや癖になったため息をつく。
部屋には物がほとんどない。
何もない部屋で、一人きりで、部屋の入り口の引き戸を見て過ごすのが、くらげの日課だった。
たまにこの部屋に来る、義姉の黒神めだかに合うことだけが、楽しみだったのだ。
くらげを恐れず、普通に接してくれる黒神めだかは、くらげにとって癒やしであり、尊敬の対象だった。
その行動力と能力は凄まじく、多方面に際立った才能の持ち主で、容姿端麗・文武両道、さらに、黒神家の本家の屋敷に住み、恐らくは黒神グループを継ぐことになるであろうことは周囲からみても明らかだった。
そして、黒神めだかは、普通の人間とは一線を画す、異常性があった。
他人のスキルを本来の持ち主より使いこなし完成された状態で体現・会得できる。そしてこのスキルとは、単なる身体能力以外に、超能力者のような特別な能力も含まれる。
この恐るべき能力にも、くらげは憧れていた。
あの義姉のようになりたい。だが、なれるわけがない。そんな想いを胸に秘めながら、くらげは今日もあかない引き戸を眺めていた。
そして、何の前触れもなく、くらげの前の空間がゆがんだ。
まるでグニャリ、と音を立てたかのように歪んだその空間は、元の形を取り戻そうとするが、それは見えざる何かに阻まれているように見える。
そして、その人外は、その隙間に割り込むように現れた。
そこに居たのは、セーラー服を着た、女子だった。
その腰まである黒い髪が緩やかに揺れ、その透き通るような肌は、まるで大理石のようである。
ゆらり、と揺れたカーテンの隙間から漏れる一筋の光が、その肩から太ももまでを滑らかに切り抜く。
「おや、君は、黒神くらげ君じゃないか」
そして、くらげに目線を向けると、微笑し、鈴の音のような声で、くらげに話しかけた。
くらげは奪われそうな心を、どうにか、押さえ込む。
そんなくらげの心を知ってか知らずか、その女子は淡々と話し出した。
「7932兆1354億4152万3222個の異常性と4925兆9165億2611万643個の過負荷、合わせて1京2858兆519億6763万3865個のスキルを持つ僕が次元旅行の出口を間違えるだなんて、珍しいこともあるものだね」
その誰かはセーラー服をくるりと翻す。魅力的な太ももがチラリと見える。
くらげはドキリと心を揺らしたが、直ぐにため息をついて口を開く。
くらげは、その人物、いや、その人外を知っていた。
「安心院なじみさん…」
そう呼ばれた女子は、右手の人差し指をピンと立て、くらげをじっと見る。くらげはその吸い込まれそうな瞳から目をそらす。
「僕のことは、親しみを込めて安心院さんと呼びなさい」
安心院なじみは、いつものようにそう言うと、周りを、くらげの部屋の中を見回す。
「それにしても何もない部屋だね。ゲームとかやったりしないのかな?」
くらげは、曖昧にはにかんで返した。
「やらない、です。どうせ『僕にできるわけがない』ので」
安心院なじみは、その言葉を聞くと、何度か納得するように頷いた。
「なるほど、それは確かにそうだね。君のスキルがある限り、君はあらゆることが、他人よりも劣ってしまうからね」
その言葉に、くらげは黙り込む。
そう、黒神めだかと同様に、黒神の血筋か、くらげもある能力を持っていた。
「いや、君の、観察したものを劣化させてコピーするスキル、『子供の宝箱』《ガラクタコレクション》は、実に面白いよ。異常性のようで、過負荷のようでもある」
そう、くらげは、『子供の宝箱』《ガラクタコレクション》というスキルを持っていた。
観察したスキルを劣化してコピーする、というまさに黒神めだかの劣化版と言える能力である。
安心院なじみは、くらげをしげしげと見つめる。
「しかし、折角のスキルなのに、前に会った時からほとんど増えてないじゃ…おや、これは、球磨川くんのかい? これは面白いスキルができたものだ。しかし、あの取り返しがつかないスキルを、ここまで劣化させるとは、君も中々大したものだね」
どうやら、何らかのスキルでくらげが持っているスキルを確認したようだった。
くらげは、褒められている気がしないと思いながら、はにかむ。
安心院なじみは、微笑みながら、くらげに近づく。
「君も、少しは外に出てみたらどうだい? 何なら僕が仲良く手を繋いで…」
と、安心院なじみがそう言いながらくらげの手を取ろうと手を伸ばした瞬間、拒絶反応を起こしたように、くらげが慌ててその場から飛び退いた。
「ぼ、僕に触らないで! ください…」
強く反発するくらげだったが、失礼な態度をとってしまったと、言葉はしりすぼみになった。
安心院なじみは、その行動を理解していたのか、ただ微笑むだけで、なんの反応もしない。
「うんうん、君の気持ちはわかるよ。その『触れた人を劣化させる体質』のせいで、随分と苦労したんだろう?」
そう、くらげが産まれてすぐに監禁されたのは、その『触れた人を劣化させる体質』のせいだった。離れに一人で住んでいることも、学校へ通えないことも、そして、くらげの母親が亡くなったことも。
そのせいで、くらげが酷い扱いを受けていたことは、想像に難くない。
「やはりその体質があってこその、君のスキルだね。スキルは持ち主の本質に関係する、と。君然り、球磨川くん然りだ。…ふむ」
そこまで話すと、安心院なじみは、唇に手を当てて考え始めた。
「君もかなり主人公からかなり遠いね。そういう『出来ない』も、面白いかも知れない。しかし、そうなると、いくらなんでもスキルが少なすぎるね。どれ…」
安心院なじみは、そう言うと自身が持つスキルを、くらげの前でいくつか披露した。
そうして、くらげはいくつかの新しいスキルを、手に入れた。だが、くらげは安心院なじみの行動の理由が理解できない。
「あの…」
「さあ! くらげくん!」
くらげの言葉を、安心院なじみが遮る。
「次元を超えるスキル、『次元喉果』《ハスキーボイスディメンション》で僕は次元旅行をしてきたのだけれど、それを見て、君はどんなスキルができたのかな?」
くらげは、安心院なじみの意図がわからなかったが、自分の中に、そのスキルの劣化したスキルがあることは分かった。
くらげは、胸に手を当てて、そのスキルの名前を、口から発した。
「『かわいい子には苦労をさせよ』《トラブル・トラベル》」
途端、くらげの目の前がグニャリと歪む。慌てて、胸に手を当て、そのスキルの詳細を確認し、くらげは驚愕し、大きな目を見開いた。
その様子を見て、安心院なじみは、首を縦に振る。
「そう、『かわいい子には苦労をさせよ』《トラブル・トラベル》。スキルが発動したが最後、強制的に別の次元に飛ばされる。いやいや、僕のスキルがこれほど劣化するとは」
そうして、安心院なじみは、両手を広げ、
「さあ、くらげくん。君はこれから次元旅行に出かけるんだ。君は持っているその劣化したスキルを駆使して、脅威を乗り越え」
満面の笑みで言い放った。
「主人公になるのさ」
くらげは歪み続ける視界の中で聞き、嵌められたことに気づき、慌てるが、しかし、発動したスキルが止まらないことは、誰よりも理解していた。
「そんな…」
くらげは、驚愕の中で、どうにか、声を絞り出す。
「そんなこと…」
そうして、心の限りに叫んだ。
「『僕にできるわけがない』じゃないかあああぁぁぁ!」
しかし、その叫びは、次元の隙間に吸い込まれ、次第に消えていった。
そして、その薄暗い部屋には、安心院なじみだけが悠然と立っていた。
パソコンの微かな駆動音だけが聞こえ、静寂があたりを包む。
「できるわけがない、から面白いんじゃないか」
安心院なじみはそう言って、目を細めて、嗤った。
そうして、くらげは、安心院なじみの策略によって別次元、異世界へ旅立った。
これからくらげは、様々な世界を旅することになる。だが、これが後に世界を巻き込むある事件の始まりになるとは、くらげも、安心院なじみも、知る由もなかった。
何にせよ、物語は始まってしまった。
まずは、くらげの旅立ちを祝おう。
それでは、まずは一つ目。
魔法少女リリカルなのは編、始まります。
思いついたら書きたくなる。
書いてみたら投稿したくなる。
頭の中の話を書き出すとすっきりしますね。
とりあえず、安心院さんを書けたので大満足です。