刃金と血霞のグリムガル   作:足洗

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第6話 メリイ(1)

 

 その日、自分がどうしてルミアリスの神殿を訪れたのか、メリイはよく覚えていない。暫く顔を合わせていない修師(マスター)への挨拶か、もしくは新しい光魔法の習得の為に……今更、学んでどうなるというのか。どうにもならない。もう、遅い。

 そうだ。その日の出来事を思い出す度、こうして要らないものまで浮き上がってくるから。メリイは忘れようと努めてきた。忘れよう。忘れなきゃ。

 そうして、忘れようと意識するだけ記憶の糸は太く補強されていく。馬鹿みたいだった。そんな単純な理屈に気付かなかった自分が、必死になって記憶から逃げ回る自分が。

 本当に、馬鹿みたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も高くなった午後、丁度遠くで五回目の鐘が鳴っていた。

 メリイはルミアリス神殿正面の階段を登りきり、建ち並ぶ門柱を潜る。入ってすぐの列柱室には祭壇があり、柱に取り付けられた燭台から蝋燭の朧な光がそれを照らしている。

 人の姿は疎らだった。ちらほらと板金や革の鎧を着た者らが談笑している。治療院を訪れた後だろうか。

 しかし、肝心の侍者や神官の姿が見当たらない。

 

(あぁ……礼拝の時間)

 

 各ギルドに特有の掟があるように、神官にも守るべき約定があった。慣習と言い換えてもいい。

 

『神官となる者は日に三度、光の神ルミアリスへ祈りを捧げなければならない』

 

 それは実際に授けられる加護に対する感謝であり、己の信仰心を神へと示し、また神の愛を感じ、自らもまた想うことである。メリイの修師(マスター)はそう教えてくれた。

 師事する修師によっては約定の解釈が変わり、内容が易しくもなればさらに厳しくなることもあるそうだ。だからこの文言も、人によっては定める回数や作法に違いが出てくるだろう。

 修師は当然として、敬虔な神官は毎日欠かさず礼拝堂で祈り、祝詞を挙げ、聖典の読み合わせをしている。

 ところが、メリイは一度も参加したことがない。それは別に、メリイに限った話ではない。義勇兵の神官がこういった日常的な礼拝に積極的に参加することは稀だ。何故なら義勇兵は皆あくまで“光魔法”を求めて神殿の門を叩く。信仰心を持って神に臨む“敬虔な神官”とメリイ達“義勇兵の神官”は根本的にその目的が違うのだ。

 不誠実かもしれない。けれどメリイも、他の義勇兵も、生きる為にはそれが必要だった。

 

「……」

 

 必要とされた。だから求められるまま、力を行使した。

 その結果が――――

 没しかけた思考を現実に引き上げる。メリイは錫杖を強く握り締めた。この行為には慣れている。慣れきって、だからといって痛みが消えることはない。

 

(……やっぱり、帰ろうかな)

 

 ここへ足を運んだ目的も定かではないのだ。外出してまで自己嫌悪に勤しむ自分が馬鹿みたいだった。

 小さな溜息を一つ、そうして踵を返した時だった。

 

「……?」

 

 神殿はオルタナの小高い丘の上に位置し、ここからは日の出と日の入りを両方見ることができる。門の外は晴天。白々しい程に澄んだ青空の真ん中に燦然と太陽が輝いている。

 列柱室は薄暗く、門外は白んだ陽光で染まっていた。

 その光の壁に、不純物がある。

 

「っ……」

 

 黒い、どこまでも黒い陰影。白光を遮り、遂には飲み込んでしまいそうな程に黒い、暗い人型。

 人だ。入り口に人が立っている。人影が室内に影を落としていた。それだけのこと。

 だのに、とメリイは思う。

 どうして自分はその瞬間息を呑んだのだろう。その影は、不吉なものに思えた。きっとひどく恐ろしい何かだと、心が感じた。

 人影は室内に進み入ってくる。それは思った以上の駆け足で、メリイは咄嗟に反応できなかった。背筋に緊張が伝った。何故なら影は、真っ直ぐメリイに向かって来たのだ。

 次第に陰影に質感と色彩が宿る。

 男性。それもかなり背が高い。メリイも女性にしては高い方だが、対する人物は彼女の二回りほど上に頭がある。そして、男性は全身が黒かった。服装の色合いは勿論のことだったけれど。

 薄っすらとした寒気。不気味で不安で、恐ろしい(いろ)

 男の纏う“黒”はそういうものだった。

 彼の足は迷うことも淀むこともせず、遂に今、メリイの目の前まで辿り着いてしまった。

 

「……」

「……ぁ、ぇ」

 

 再び影の中に輪郭を無くした男の顔。そこに二つ、浮かぶ光。鈍く輝く双眸。それらがメリイを見下ろした。

 心臓を掴まれた、そんな錯覚。喉は塞がれしまったかのように声が出ない。

 ほとんど金縛りに近い心地でメリイは硬直した。

 

「神官、か」

「え?」

 

 実際、二秒か三秒か。実際にメリイが忘我していた時間はその程度だろう。一秒が十倍ほどの密度を持っていたらしい。

 その男の声も、正気を取り戻す要因になった。

 息は荒く、音の端々が掠れている。肩を上下させ、ひどく乱れた呼吸を繰り返す。

 そう、よくよく顔を見れば男は汗みどろだった。そして頬や顎に所々細かな傷が走っている。

 

「そうです、けど……」

「治療を」

 

 そう言って男は自身の背を示した。

 男が背負っている少年を。

 

「っ!」

 

 またメリイは息を呑み込んだ。

 神官服を身に纏った、歳もメリイと大差ないだろう少年、いや青年。

 ぐったりと力なく男に背負われる様はまるきり襤褸布のよう。顔色は血の気の失せた蒼白。呼吸はか細く、浅い。

 男が周囲を見回し、手近にあった台座に青年を寝かせた。素早く丁寧な手付きで、(うつぶ)せに。

 その背には、深々とナイフが突き立っていたのだ。

 

「傷を塞げ。すぐにだ」

「え、ぁ――はい!」

 

 促されて、メリイは青年が横たわる台座に駆け寄った。

 純白の神官服は見る影もなく真っ赤に染まっている。それら全てが青年から流れ出たものだった。

 青年の身体はナイフを中心に縄でぐるぐる巻きにされていた。奇妙な有様に見えたのも束の間、それが止血の為の措置なのだとメリイは思い至った。

 すらり、傍らでそんな音色が響く。

 音の発生源は男から。男は腰に帯びた刀を鞘から抜いたのだ。

 メリイが何事が問う暇もなく、男は刀を振るっていた。文字通り瞬く間、青年を縛っていた縄がばらばらと解け落ちる。

 男は続けて青年の神官服を手と刀を使って丁寧に裂いた。白い素肌にもやはり血が塗り込められ、半ば凝固したそれらは黒々としている。

 そして、肝心要の傷口は、未だ新鮮な血を湛えていた。その生々しさに思わず目を背けそうになる。

 そのような惰弱、メリイが自分自身に許す筈もないが。

 

「ひぅ……!?」

 

 悲鳴を上げたのは誰か。

 ちらと見れば、男の後ろにちょこんともう一人佇んでいる。男の存在感と青年の印象が強過ぎて今の今まで気付かなかった。黒いローブにトンガリ帽子。魔法使いのようだ。小さな丸メガネを掛け、その奥の目に涙を溜めている。同時に二つ結びにした髪が震えた。小柄で見るからに気弱そうな少女。

 ともあれ今はどうでもいい。

 メリイは眼前の光景に傾注した。

 ナイフは、柄元まで深々と背中を貫いている。刃渡りは判らない。ただ男が迷わず俯せにしたことから貫通はしていないということだろう。

 青年の状態は、有体に言って死に体だ。呼吸は刻一刻と弱まる一方。血は、おそらく刺さったナイフが()の役割を果たしてある程度は止まっている。しかし血流を完全に塞ぎ止めることなどできはしない。相当量の血を失っている筈。

 

「ダメっ、私の魔法じゃ……!」

「何……!?」

 

 メリイが現在取得している治癒系の光魔法は“癒し手(キュア)”と“癒光(ヒール)”。射程(・・)と効果範囲の違いはあれど、どちらも治療可能な負傷の深度は同じ。

 つまり、目の前の彼を救うには不足だった。

 どちらの魔法を使うにせよ、まずは刺さったナイフを抜かねばならない。しかし、このナイフは今や青年の命を脅かす凶刃ではなく、命を繋ぎ止める最後の防波堤だ。迂闊に触れれば大出血は免れず即、彼は死ぬ。

 “光の奇跡(サクラメント)”という魔法がある。それは心臓さえ動いているならどのような負傷、生命に係わる重傷でさえも瞬時に恢復せしめる、文字通りの奇跡を起こせる魔法だ。

 仮に、順当に修練を積んでいたなら、いずれはメリイも習得できたのだろう。そう、仮に、もしも、それはたらればの話。

 知らず、メリイはきつく唇を噛み締めていた。その感覚が無力感と呼ばれるものなのだとメリイはよく知っている。知り尽くし、味わいつくしてきた。あの日から、今日に至るまでずっと、ずっとずっとずっと。

 

「ど、どうかしたんすか……?」

 

 ふと、隅で雑談をしていたパーティの一人が歩み寄ってくる。こちらの切迫した様子からか、随分恐々とした態度だった。

 メリイは近付いてきた男の皮鎧の襟を引き寄せた。

 

「上位の神官、いえ“光の奇跡(サクラメント)”が使える人を誰でもいいから呼んで!」

「え、なん」

「急いで!!」

「はい!?」

 

 いかにも剣幕に圧された様子で、男は治療院の方へ走って行った。仲間もそれを追っていく。

 今この時、神殿に何故治療担当の神官がいないのだろうか。

 彼には、一刻の猶予も無いのに……!

 逸る。心が、焦りで熱されていく。全身を震えが襲うほどの憤り。無力な、何も出来ない自分がこんなにも憎らしい。この感覚には懐かしささえ覚える。

 

「ごめん、なさい……ごめんなさい、私……!」

「黙ってろ」

 

 込み上げるまま謝罪を呟いたメリイに、黒い男はひどく冷徹に言い放つ。その声音はまるでギロチンの刃のようにメリイの泣き言を切って捨てる。

 メリイは男を見た。

 先程から彼は青年を見ていた。『診て』いた。(つぶさ)に、丹念に、時折背中に耳を押し当て、手首の脈を取り、傷口に手を這わせたりもした。

 そうして青年を俯せから横向き、胎児のような格好で寝かせ直す。

 

「喀血はない。吐血は少量。であれば肺は無傷の筈。投擲用(スローイング)ナイフの刃渡りならば損傷範囲は知れている。だがこの出血量では……」

 

 男はぶつぶつと絶えず何事か呟き続けている。その内容が青年の症状を指していることはすぐに分かった。

 また、濃密な数秒が流れていく。千金にも換え難い時間を費やして男は考え続けている。

 そしてメリイは、男を待ち続けた。そうすることしかできないから、というよりそうすることが正しいように思えたから。

 

「お前さんにはサクラメントとやらは使えないんだな?」

「……えぇ、そう。中級以上の光魔法はまだ習得してない。私に使えるのは癒し手(キュア)癒光(ヒール)だけ」

「効果は」

「癒し手は手を(かざ)した部位の傷を治す術。時間さえあれば重い裂傷、刺創でも恢復はできる。癒光は恢復量は癒し手と同じ。違いは距離を隔てた相手の全身に効果が及ぶところ。でも、この深手じゃどちらの魔法も治すのに時間が掛かるし、何よりこの人の体力が持たな――」

「ぐっ!? はっ! はっ、はっ、は、が……!」

 

 その時、横たわる青年の身体が跳ねた。

 血を吐き出し、乱れた浅い呼吸を繰り返す。気息などろくに吸えていない。これでは溺れているも同じだ。

 意を決した、そんな素振りはない。最初から覚悟など終えている。男の双眸はそう物語っていた。

 

「治癒の準備をしろ」

「で、でも」

「合図する。絶対にタイミングを外すな」

 

 メリイの躊躇いなど一切聞き入れられはしなかった。

 男はそっとナイフの柄を握る。

 決心など待ってはくれない。本気だ。本当に。

 心臓の鼓動が耳にまで響く。ずくずくと血の流れる音を聞く。今のメリイの息遣いは苦しげに喘ぐ青年のそれとよく似ていただろう。

 

「三つ数えた瞬間コイツを引き抜く。詠唱は二つ目からだ。そして……いいかよく聞け。詠唱完了と同時に指先を傷口に突き込め」

「な、っ!? あなた、正気……!? そんなことできるわけ」

「二センチから三センチ、指の第一関節を埋める程度だ。それもごく短時間。一秒満たさず引き抜け。内部の傷を先んじて塞ぐにはそれしかない」

 

 メリイの目をその黒い目が見据える。正面から射抜かれ、メリイは言葉を飲み込まざるを得なかった。

 鋭く、刃のように烈しい。見る者に恐れを植え付ける、眼。その目が不意に和らいだ。

 

「そう恐がるな。もしこいつが死ぬとしても、殺す(・・)のは俺だ。お前じゃない」

「え……」

「行くぞ」

 

 次に瞬きした時には、既に男は青年の傷口に向き合っていた。

 そうして言葉通り、男はカウントを始める。

 

「一」

 

 もはや考えている暇など無い。

 メリイは自身の額に指を這わせる。祈りの作法。六芒を刻む。

 

「二」

「光よ、ルミアリスの加護のもとに――」

「三……!」

 

 引き抜いた。ひどくあっさりと。血が空中に軌跡を描く。

 露になった鮮血の裂け目。それは閉じられた目蓋に似ている。傷の痛みに血の涙を流す(まなこ)

 躊躇するな。迷ってはダメ。気負うな。失敗しない。絶対に。今度こそ。

 メリイは指を突き入れた。血の(ぬめ)りで驚くほどスムーズに。その暖かさに寒気を覚える。弱々しい命の脈動を指先に感じる。

 考えるな。ただ祈り、念じ、唱え、囁くように。

 

癒し手(キュア)……!」

 

 光が満ちる。肉と皮膚の合間で溢れたそれが、裂けたそれらを繋ぎ合わせていく。その感触を、メリイは初めて知った。あまり知りたくはなかった。

 一秒は遂に百倍の濃厚さでメリイに襲い掛かる。

 その終わりを告げたのはメリイ自身ではなく、傍らの男だった。男はメリイの手首を掴み、引く。すると皮膚下に埋もれていたメリイの指先が露になった。白いものが血に染まる様を今日で散々見尽くしてきたが、一向に慣れる気配はない。

 癒し手の効果はさらに続き、表層の傷もある程度塞いでいく。

 

「よく頑張った」

「っ、は、ぇ、ぁ……?」

 

 その言葉で、ようやくメリイは呼吸を思い出した。身体は酸素を求めて生理現象(・・・・)にさえ怠慢な主をせっ突く。

 男はそのまま青年を台座に仰向けに寝かせた。先程同様、迅速に脈と心音を調べている。

 

「ちぃ……!」

「!」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、男が組み合わせた両手を青年に叩き付けた。一瞬、訳が分からなかった。

 けれど胸に重い一撃を受けた筈の青年に……反応はなかった。

 

「嘘……」

「マナト……!」

「うそ……」

「マナト! 戻って来い! マナトォ!!」

 

 叫び。石造りの神殿を反響する音声(おんじょう)

 青年の名前を男は呼び続けた。両手は絶えず彼の胸、胸骨を圧し続けた。

 メリイは錫杖を両手で握り、額に押し当てた。それは祈りのようでもあったし、絶望にも似ていた。昔、感じたことのある。懐かしの感覚。奈落への墜落。風穴を空けられるような虚無感。喪失感。

 彼は赤の他人だ。名前すら今、やっと知ったところだ。こんな死の淵で、死の瞬間に知ってしまった。だからもう、戻れない。無関心、無関係を心に言い訳できない。

 また、まただ。目の前で、誰かが死ぬ。自分の手には救う為の術が握られていたのに。それなのに――――

 

「死なせねぇ……!」

「っ!」

 

 その声が、メリイの思考を薙ぎ払った。

 暴力的なまでに強い、強い声、言葉が。

 その惰弱を、許さない。

 

「簡単に死ねると思うな! あの洟垂れ共置いて逝く気か!? 一度救っておいて死ねばお役御免とでも考えたかよ! あぁ!?」

 

 絶え間なく圧迫を繰り返す。その背中を見る。そこに、その声に、諦めなんてものは微塵もなくて。

 でも、どうしてだろう。それは、まるで自分自身に言い聞かせるように。

 

「死なせねぇぞ! さっさと起きろマナト! マナト!!」

 

 数十回目の胸骨圧迫を終え、男は再度脈と心音を確かめる。

 その時、マナトの身体が今一度跳ねたのだ。

 生き返った。メリイは本気でそう信じた。

 しかし男の表情は焦燥に歪んだまま、胸に耳を押し当て続けている。

 その焦りを証明するかのように、マナトの身体ががたがたと震え出した。口から泡を吐いて痙攣を起こしている。

 

「不整脈……心室細動か」

「それって」

「糞ったれなほど予想通りだ……!」

 

 その口振り、口調はひどく暴力的でそのまま人を殺しに行きそうな勢いだった。

 ごりごりと鳴り響いたこの音は、身の毛も弥立つような軋り(・・)。男は歯を噛み締めている。

 

「あ、あの! 連れてきたっす!」

 

 奥の間から先程の皮鎧の男達が白い神官服姿の数人を伴ってきた。その内の一人、修師用の神官服を身に纏った偉丈夫が早足にこちらへ来る。

 

「マナト? マナトか……!?」

 

 腹の底から響くような大きな声で、巌めいた神官は青年の名前を呼んだ。

 男が振り返る。近寄ってきた神官を一瞥だけして、背後で硬直したままの魔法使いの少女を引き寄せた。

 

「あ、あの、ぼ、ボク、ボクっ……!」

「来るまでに説明した通りだ」

 

 焦りに付随した怒りが男の凶相を激化させていた。それと相対した少女は憐れなほどに萎縮していく。

 男はそれに構いやしない。今この時は何より時間を、寸暇を惜しんでいた。

 男が少女の背後に回り、両手を掴んでマナトの身体に触れさせた。左手は右胸骨のやや上側、右手は左肋骨と脇腹の合間辺りに。

 男が何をする気なのかメリイには皆目見当も付かなかった。

 

「ここだ。合図をしたらここに流し込め。威力は気にするな。だが()を誤るな。僅かでいい。水滴を垂らすようにだ」

「っ、う、ひっく、は、はいぃ……!」

 

 少女はべそを掻いて、しゃくり上げていた。それでも男の要求に応えようとする姿は、健気だった。

 

「っ、ジェス・イーン・サルク」

 

 それは呪文。少女は右手を使ってエレメンタル文字を刻んでいく。

 メリイが見知っているのは『ムツミ』が使っていた炎熱魔法(アルヴマジック)だけだ。

 これは、まったく別の詠唱。それくらいしか分からない。

 しかしその無知はすぐ埋まることになる。詠唱が今、終わる。

 

「フラム――ダルト……!」

 

 バチッ、紙の束を引き裂いたかのような、ノイズ。雑音。

 そして発光。エレメンタル文字に走った光の正体をメリイは即座に理解した。

 

電磁魔法(ファルツマジック)を……!?」

「なんと……!?」

「もう一度!」

「ひゃい!?」

 

 男の怒声に少女は応える。懸命に、必死に、真実死にそうなほど恐怖しながら。

 メリイは愕然とした。電磁魔法を直接身体に流す。その発想に。

 いや、その理屈は、解る。不思議なことにすとんと飲み込める(・・・・・)のだ。電気ショックを流すことで不規則な心臓の鼓動を正常に戻す。そんな手法が確かにあった、ような気がする。

 けれどそれを本当に瀕死の人間に対して実行する。その発想、その決断。迷いを断ち切れる精神がメリイには理解できない。

 修師の顔は厳格さを押し固めてできているかのようだったが、目の前の光景を見てさらにその厳しさに拍車が掛かった。

 無茶な治療。荒療治なんて本来やってはならない。神官の目にそれは治療にさえ映らないかもしれない。

 しかし、修師は男の行動を黙して見守っていた。

 また青白い電荷が走る。マナトの身体はその都度跳ね上がった。

 男が胸に耳を押し当て、脈を測る。

 

「良し……!」

「光よ、ルミアリスの加護のもとに――」

 

 男の声が上がると同時に修師が動く。示し合わせたかのようにその交代(スイッチ)は完璧だった。

 

「――光の奇跡(サクラメント)

 

 祝詞は完成した。それは厳かな法儀式。中級に指を掛けた程度のメリイとは比べるべくもない。

 光の輪が瞬時にマナトの身体の表面を撫でる(・・・)。瞬きする内にそれは終わっていた。

 苦しげな喘ぎは収まり、落ち着いた呼吸で胸が上下している。

 消えかけの命に灯火が戻った。それは正しく奇跡だった。青年は、命を取り留めたのだ。

 誰もが息を止め、柱の間には静謐が戻る。そんな中、男は何度目かの脈拍確認をして、程なく溜息を吐いた。

 終わった。危難を越えた。

 その自覚はメリイの足から力を奪い去った。膝が折れ、腰が落ちる。メリイはその場に座り込んでしまった。背筋を駆け巡る安堵に、言葉がなかった。

 ふと、男の方を見る。彼はマナトが眠る台座から離れ、柱を背にして石床に座った。彼もまたメリイと同じ安堵を噛み締めているのだろうか。

 

「光よ、ルミアリスの加護のもとに……浄化の光(ピューリファイ)

 

 修師がマナトに対してさらに魔法を行使していた。

 そしてそれを終えた修師は男に近寄る。

 

「今のは何だ」

「浄化の光は肉体を侵す毒を清める法。マナトの病の元を洗い清めた。もう心配はない」

「はっ、感染症まで防げるのか。便利なもんだ」

「?」

 

 皮肉げな響きで以て男は笑う。修師はそれを不思議そうに見て、その後特に詮索などしなかった。

 

「……貴殿はマナトと同じ徒党の者か?」

「いいや。ただの通りすがりだ」

「そうか……礼を言おう。不肖の我が弟子の命は貴殿によって救われた。そして、不死の王(ノーライフキング)の呪いは死者に安らかな眠りさえ許さぬ……その惨い仕打ちをあれは味あわずに済んだ」

 

 不死の王。嘗てグリムガルにその名を轟かせた人外の皇帝、不死族(アンデッド)の造物主。この地で死んだ者の肉体が大地に帰ることはない。腐敗し、あるいは白骨化したそれらはゾンビ、スケルトンとして人に仇為す化物と成り果てる。

 彼、マナトはそれを免れた。それがどれほど大きな意味を持つか、メリイは痛みを以て理解できる。

 

「マナトはこのまま治療院へ運び入れるが」

「……後からそいつのパーティが追い付いて来る」

「承知した。その者らが到着次第、案内をさせよう」

「頼む」

 

 修師は振り返り、他の神官、侍者達に対して指示を飛ばす。指示を受けてからの彼らの行動は迅速だった。瞬く間にマナトは担架に乗せられ、神殿の奥へと運び込まれて行った。

 幾人かの侍者、神官がこの場に残り、血で汚れた台座や床の後始末を始める。神殿は平素の様相を取り戻しつつあった。

 そこに、小さなローブ姿が男に近寄っていく。恐々とした挙動は小動物のようだ。

 少女はずれた丸メガネにも気付かない。

 

「あの……あなたは、大丈夫、ですか……?」

 

 そんなことを少女は呟いた。か細い声にはありありと心配そうな響きが乗っていて。

 散々恐い思いをさせられたろうに、その健気さにメリイは目を丸くした。

 男は、少女の問いかけには答えず、代わりにジャケットの懐を手で探った。程なく引き出された指に握られていたのは、金色の硬貨。

 金貨を一枚、ずいと少女に押し付けた。途端に少女がその場で跳び上がる。跳んだように見えるほど、彼女の身体が震えたのだ。

 

「ふぇぇええ!? こここれ、あの、そんな、ボクっ、受け取れません! こんな」

「早く仕舞え。物盗りがどこで見ているとも限らん」

「ふぁい!?」

 

 言われるまま少女は金貨をポケットに突っ込んだ。

 

「さっさと商会に預けて来い。大金を狙う奴は多いぞ。さあ急げ。ぐずぐずするな……世話になった」

「はいぃ!? あわあわわわわ!? し、失礼しますぅ!!」

 

 少女は駆け出した。そして神殿の門柱を潜り、そのまま階段を駆け下りていってしまった。

 ……口車に乗る、とはよく言ったもので。あれでは滑車に回される小ネズミだ。きっと最後の男の呟きも聞こえてはいなかったろう。

 メリイはそっと立ち上がった。静謐な大理石の空間では身動ぎ一つに硬質な音が伴う。

 こつこつと鳴る靴音を気にしながら、メリイは男の前に立った。

 男はメリイに気が付くと、またジャケットの懐を漁ろうとする。

 

「っ、いりません。お金の為に手伝った訳じゃない、私は……」

「そうか」

 

 こちらの言葉に相手はあっさりと引き下がった。懐から手を引き、鞘に納めた刀を抱くように片膝に腕を掛ける。

 男はいかにも行儀悪く神殿の柱を一本占領した。

 それでも立ち退かないメリイに、男は視線だけを寄越す。

 黒い瞳には、最初のような眼光は宿っていない。ただ静かな、無彩色。感情と言う色がそこにはなかった。

 

「……」

「まだ何か用か」

 

 男に促されて、メリイははっとした。何を言おうか、何を尋ねたいのか、そんな当然の思考さえ忘れていた。

 いや、初めから聞きたいことなんて一つだけだ。

 

「……あなたは、なんで諦めないの」

「?」

 

 男は疑問符を浮かべた顔でメリイを見返す。

 当然だった。こんな出し抜けな言い様では何を問われてるのかも分からないだろう。

 

「あの時、あの人の、マナト……さんの心臓が止まった時」

「……」

「どうしてあなたは諦めなかったの。諦めずに、いられたの……?」

 

 死に物狂いで傷を塞いだ。その直後の心肺停止。大量の失血と体力の低下でほとんど望みなんて絶たれていた。

 電磁魔法の用意があったから? 光の奇跡が使える神官を当てにしていたから?

 そうかもしれない。そしてどちらにも同じ条件を必要とする。

 マナトの心臓が動いていなければならない。

 電気ショックは停止した心臓に当てて意味があるのか。光の奇跡はそも、心停止した人間を癒せない。

 心臓マッサージを行うに当たって男には何の迷いもなかった。マナトが息を吹き返す。それを確信していた、ように見えた。メリイには。

 男は迷いなく、躊躇せず、諦めを踏み潰して行動した。それがメリイには解らない。解りたい。解らなければ、ならない。そして――――本当は知りたくない。

 だって、それは。

 

「諦めも、後悔も、死んでからやればいい」

「……」

「己に可能なあらゆる手段を模索、実行し、それでも尚届かないならそれまでの事」

「そんな」

「生きている内は考え続けろ。厭々と駄々を捏ねたところで何も為すことはできない。諦めとは思考の停止だ。後悔とは行動の停滞だ」

 

 男の言葉は、自分勝手だ。無責任な、戯言だ。

 それができれば人間は、苦労なんてしない。心が傷付くこともなくなるだろう。

 そんな身勝手な理屈が――もし、それができていたら。

 

「何かを為す。それは諦めの否定から始まる」

 

 もし、諦めなければ。

 

「思考を止めたその時は、ただ、死ぬだけだ」

 

 救えていた(・・・・・)、そう言うのか。

 私が諦めたから、救えた命を、仲間の命を、私が私が私が私が私が――――

 

「っ!」

 

 沈みかけた自分を引き起こす。

 メリイは(かぶり)を振った。脳が熱を持っているかのように、思考には霞が湧いていた。

 ふと、眼下の男を見る。いつの間にか彼は目を閉じて、静かな寝息を立てていた。

 

「……」

 

 言葉ばかり押し付けられ取り残された心地だった。無責任。そんな印象を抱く。

 問い掛けたのは自分で、自分に都合よく受け止めたのも自分なのに。

 ああ、どうしようもなく勝手だった。理不尽な心を理解している。けれど。

 メリイは男を憎んだ。

 男の言葉を憎んだ。

 言葉に翻弄される、自分を憎んだ。

 メリイは神殿を後にする。握り締めた錫杖が凛と鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 


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