一瞬、声が止んだ。
あれほど喧しかった酒場が今、しんと静まり返っている。異様だった。浜辺で潮の引き際に向き合うような、音の遠退き。
けれど沈黙も長くは続かない。あちらこちらから紙を擦るような囁きが聞こえてくる。
ハバキ
ハバキだ
ひぃ、ハバキ
あの
思ったよりガキだな
あれが
こちらを、ハバキを見る無数の目、眼、眸。
無遠慮だったり、恐々としていたり、視線の種類は様々だった。
でも。
――剣鬼
――ソロ狩り
――死にたがり
――シリアルキラー
――血まみれ剣士
――
――黒い刀使い
――
口々に語られる名。二つ名、異名、渾名。その人間を本来の名前以外で呼び習わす為のもの。その性質、属性、“色”を見聞きし感じた者達による印象。
忌避。
ハバキのそれらは紛れもなく忌み名だった。
ぼんやりとした灯りがハルヒロ達を照らしている。
壁や天井に吊るされたオイルランプと円形の燭台に刺さった何本もの蝋燭が懸命に光を放とうとしてはいるが、やはり薄暗さは否めない。
けれどここは、そんな灯の弱々しさとは反比例して喧騒に満ちている。
シェリーの酒場は賑わっていた。
一階フロアに並べられたテーブルは見渡す限り人で酒で料理で埋まっている。見上げれば吹き抜けから二階の様子も少しだけ覗くことができた。忙しく給仕女が動き回ってる姿を見れば、上も人でごった返しているらしいのが分かる。
酔っ払いの大声やら嬌声やら、ずっと居たら耳が馬鹿になりそうだ。それくらい酒場は声と物音で満ちている。
だっていうのに。
「……」
このテーブル席だけは違った。ハルヒロ達だけ別世界にいるような――これさっきも思ったな――酒場のだだっ広い空間の中で、ここだけぽっかりと穴が開いたように静かだった。
誰も喋らない。何一つ。声はおろか物音も立てず、身動ぎすらしない。や、それは言い過ぎか。
テーブルを挟んでハルヒロの正面の椅子に座るユメはぽわわんとした顔で身体を左右に揺らしている。何を考えてるんだろう。何も考えてないのだろう。そういう顔だった。
ユメの隣にはシホルがいる。こちらもユメに負けず劣らずぼんやりとした様子だ。視線は下向きで、胸元に抱いたトンガリ帽子を弄くっている。
ハルヒロの左隣にはモグゾーがいる。何やらぽかんとした表情でテーブルの上を見詰めていた。そういう顔になる気持ちがハルヒロにはよく理解できた。
モグゾーとシホルの間、というか長方形のテーブルの短辺に、妙に姿勢よくランタが座っている。ランタが大人しいのは相変わらず不気味だったが、ハルヒロも人のことは言えなかった。
「はぁい、トマトソースの肉団子パスタお待ちどう! お皿ちょっとよせてー。真ん中に置いていい?」
「ああ」
若い女給仕がテーブルの真ん中にドンッ、と木皿を置いた。一抱えほどもありそうなでかい皿にパスタが山と盛られている。その山の所為でハルヒロからではシホルの顔が見えなくなった。
給仕のお姉さんは、白い頭巾を頭にかけてそのウェーブ掛かった黒髪を顔の横から垂らしている。ハルヒロの横合いから身を乗り出すようにして皿を置いたものだから、ちょうどブラウスの胸元が見えていた。零れ落ちそうだった。何が、とは決して言わないが。なんでここの給仕服はこんなにもブラウスの襟が深いのだろう。
「取り分けようか? ほらほらあんたら自分のお皿出して!」
「え、あ、は、はいっ」
きょどきょどとハルヒロは自分の取り皿を差し出した。他の四人も言われるまま、自分に配られた皿を渡したりひったくられたりする。
自分の視線にお姉さんは気付かなかったようだ。ハルヒロは密かに安堵した。
「あと坊や、今のはサービスだからね。次からはお金取るよー」
「ふぁっ」
「ハルくん? どないしたん?」
「なんでもないです!」
ユメの無垢な瞳がいたたまれない。というかなんで敬語だし。
お姉さんはそんなハルヒロに大笑いする。一頻り笑ったかと思うと、その場で腰を折ってお姉さんは“そいつ”に顔を近付けた。ただでさえ深く開いたブラウスの襟を指で引き下げながら、胸をこれでもかってくらい強調している。
「じゃハバキはどう? 見たい?」
「さあな」
「つれなーい」
唇を尖らせてお姉さんは拗ねた、ような口調でそう言った。一体どこまで本気なのやら。
あざといというか、媚を売ろうとしてるのが見え見えだし、つり目がちのちょっと潤んだ瞳とかぷっくりとして濡れた唇とか、頬とか胸が薄っすら赤らんでるのはお酒の所為なのかなぁ、バルバラ先生とはまた違った色っぽさだなぁ、なんて思ってません。
……嘘です。思ってました。
でもユメやシホルの手前そんな態度を気取られる訳にはいかない。既に手遅れな気もするけど。
鼻の下が倍くらいに伸びて猿のようになっているランタの顔にシホルは汚物でも見るような目を向けた。
「客に合わせてあまり飲み過ぎるな。疲れが出てるぞ」
「……いつもありがと」
ハルヒロの隣、長テーブルのもう一つの短辺に、ハバキが座っている。
ハバキはお姉さんに何かを手渡した。それは銀と言うより灰色に近いくすんだ鉄色をした硬貨。銀貨だった。それも一枚二枚ではない。なんせ
お姉さんはそれを大事そうに両手で包み込み、ハバキの耳元へ唇を寄せた。何か囁いたようだが、ハルヒロからもそれは聞き取れなかった。
「やらしぃとこ見せちゃった。ごめんねー女の子達。いっぱい食べてって。お代はこのお兄さん持ちだから」
「アミター! 注もーん!」
「はーいただ今!」
お姉さんは他のお客の相手に行ってしまった。
アミタという名前なのか。よくよく聞いていると店のあちこちから彼女の名を呼ぶ声がする。なるほど、アミタはこの店の看板娘のようだ。
ハルヒロ達が酒場に入った瞬間、針の
「……アイ、ドル……?」
「どうした」
「え!? や、なんでも、ないけど」
ハバキが訝しそうにハルヒロを見た。慌てて首を振るハルヒロはきっと奇妙に見えたに違いない。
ハバキはしばらくハルヒロを見ていたが、小さく息を吐いて視線を外した。
……あれ。もしかして、心配、された?
「食え」
そんな風に出し抜けにハバキは言った。一瞬きょとんとした空気がテーブル上に流れるが、全員がすぐさまその言葉の意味に思い至る。
ハルヒロ達は思い出したようにテーブルの上を見た。そしてまた、言葉を失う。思えば席に着いてからこっち、ずっとこの調子である。
テーブルの上は、有体に言って物凄いごちゃごちゃしていた。皿、皿、ボウル、鉄板、皿、鍋くらいの配分で、テーブルをこれでもかと埋め尽くしていた。勿論入れ物だけが並べられている訳ではない。数多い容器達には例外なく料理が盛り付けられている。
チーズやハム、サラミなんかのスライスはいかにも酒場って感じ。
葉物野菜の上に湯気を立てて鎮座するローストチキンが蝋燭の灯りを照り返した。鶏の丸焼きだよ。はじめて見たよ。記憶なんてないけど。
ピザがまるっと二枚、マルゲリータっていうやつは分かった。もう一枚のは茸が表面を覆い隠すくらいたっぷりとトッピングされてる。なんでもここにはピザ窯があって焼き立てを食べられるそうだ。すげぇ。
浅い鉄の鍋の中で貝や海老や色とりどりの野菜と一緒に炒められた赤い米。パエリアだ。丁度ハルヒロの目の前にあるものだから米の甘さと香草のぴりりとした刺激、魚介の旨みなんかがダイレクトに鼻腔を駆け抜けた。
たっぷりの野菜が煮込まれたスープは鍋ごと放置された。
果物の盛り合わせ、サラダはアミタさんがハルヒロ達の小皿にこんもりと盛り付けていった。酒場のメニューだけに油っけが多いからこの気遣いはありがたかった。それでも尚、サラダボウルの中身が減る気配はないけど。
豆と肉と根菜の香草焼き。腸詰肉の盛り合わせ。貝類の酒蒸し。分厚いオムレツは何故か積み重なっていて黄色い何かになってる。パンは形も固さも違うらしいのがバスケット一杯。その他いろいろいろいろいろいろ。
中心に居座るパスタの山を最後にとうとう皿の置き場が尽きてしまった。
その有様を、ハルヒロ達は唖然と見詰めていた。
「? 食え」
ハバキはもう一度、全員の顔を見回してから言った。
不思議そうな顔で眉間に皺を寄せている。あれだけズバズバとハルヒロ達について色々物申して来た癖になんでこの空気は察せないのあんた。
「な、なんのつもりだよ」
「あん?」
「ひぃっ、なな、なんのおつもりなんでしょうか!?」
第一声は案の定のランタ。頑張って凄んだ結果、ハバキの一睨みで掌返したが。というかハバキは視線をランタに寄越しただけで別に睨んだ訳ではない。
ランタは完全にハバキ恐怖症を患っている。癪だが、ハルヒロにもその心地は理解できた。
「あの、さ。ハバキ。こういうのはやっぱ、悪いよ」
「……」
おずおずとハルヒロはハバキを見上げた。座ってるんだから見上げるというのもおかしいけど、何故か伏目がちになる。これも、やっぱり負い目なんだろうか。
「俺達、今日、すげぇたくさんハバキに世話になったし。その上飯まで奢ってもらうのは、その、筋違いっていうか、申し訳ないっていうか……」
ハルヒロはそう言って皆を見る。概ね同意見、というような視線が返ってきた(ランタを除く)。
この場の料金は皆で出し合ってなんとかしよう。そのように続けようとして。
「ガキが余計な気ぃ遣ってんじゃねぇ……!」
――言葉はハルヒロの喉奥へと蹴り返された。
ハバキが怒った。それはもう、誰にもそうと分かるほどに分かりやすく。
ハルヒロは首を縮ませた。ユメは目を丸くして、シホルは帽子に顔半分隠れ、モグゾーは背筋をぴんと伸ばしたまま固まり、ランタは仰け反って椅子から転げ落ちそうになった。
眼光鋭い怒り顔でハバキはハルヒロ達を見回す。そして次の瞬間には、ハバキは元の表情に戻っていた。軽い気息を吐き出して、手近なフォークを手に取る。
「いいから好きなだけ食え。腹ぁ空いてねぇのか」
「え、いや」
ハバキはそのままパスタを掻き込み始めてしまった。
空腹というなら、ハルヒロはオルタナに戻ってきた時から腹ペコだ。なにせ昼に軽食を摂って以来ろくに物を口にしていない。恥ずかしい話、目の前に料理が並ぶ間ずっと腹の虫は鳴きっぱなしだった。
「……いただきます」
「いただき、ます」
「いただきまぁす」
「ぃ、いただきます……」
誰ともなく手を合わせて、各自手近な料理に匙を伸ばした。
最初こそ恐る恐るといった感じの手付きだった。でも、少しずつ食べ進める毎に半ば忘れていた空腹感がどんどん蘇ってくる。
バリッとしたソーセージの歯応え、口の中の肉汁の熱さ。トマトソースの甘じょっぱさ、パスタの胃にガツンとくる食べ応え。野菜スープは具の方が多いんじゃないか。鶏肉に齧り付くと香草の匂いが鼻を抜ける。無限に食べられそう。
美味かった。舌にじわりと染み込んで、顎が痺れるような陶酔感。
(ああ、俺こんなに腹減ってたんだな)
どこか他人事みたいにそう思う。でも食べる手が止まる気はしない。
「ん~おいひぃ~! パエリアめっちゃおいしぃ! シホルも食べてみ!」
「う、うん。じゃあカレーと交換ね。このパン? に付けて食べて。美味しいよ」
「……んだよんだよてめぇら。さっさと懐柔されやがって。食い物恵んでもらったらこれかよ。まったく意地汚ぇったらねぇぜ」
ランタが何かぶつくさ言ってるような気がするけど、今はそれどころじゃない。バケットと豆の炒め物が抜群に合うのを発見してしまった。
「食えないならそう言え」
「へ?」
「腑が縮んで食えないんだろう? まだ
ハバキはそうランタを煽った。なんともシニカルな笑みを口に刻んでいる。この人そういう顔が矢鱈と似合うのはなんでなのか。
ランタの米神と鼻先がぴくりと反応する。
「モグゾーを見習え。ピザ一枚平らげたぞ」
「ふも?」
「はやっ」
見れば木板に乗せられていた筈のピザ二枚の内一枚が既に消えている。そうして最後の一切れはモグゾーの口に半ば消えている。
その光景をシホルが悲しそうな顔で見ていた。
「あぁ、ボスカイオラ……食べたかったのに……」
「んぐっ、ご、ごめん。美味しくてつい……」
「まだまだ来る。焦らず食え」
ハバキはもう一度ランタを見た。困ったような、憐れむような、かなり
「びびりにこのメニューは重かったか?」
「うがぁああああああ!! 食ってやるよ! ああ食ってやる! てめぇの財布空になるまで店中の食材食い尽くしてやるよ! 後で悔やんでも遅ぇからなぁ!!」
負け惜しみなのかもよく分からないことを叫んでランタは手羽に齧り付いた。ゴリゴリと音がする。骨まで噛んでないかこいつ。
というか驚いた。ハバキは既にランタの操縦法を把握しつつあるのだ。特に覚えたいとも思わないけれど。
ハバキは薄く笑うと、酒蒸しの出汁を貝殻で呷った。その仕草が妙に様になってる。
「そら、さっさと皿空けろ。次が
「んっぐ!? 焦らず食えって、言ったじゃんかっ」
「そうだ。焦らず、迅速に、味わって食え」
「お待ちどう! 追加のピザねー。スペアリブと煮込みソルゾもあるわよ」
言ってる傍から両腕に料理の盆を乗せたアミタが来た。
くつくつとハバキは笑う。ハルヒロ達は抗議の声も上げられない。上げる暇があったら食べるしかなかった。
結局食うに食わされて、破裂寸前程度には腹が膨れていた。大食漢のモグゾーでさえぐったりしているし、啖呵を切って阿呆みたいに詰め込み続けたランタは見るも無惨な有様だし、ユメやシホルの女子組も健闘したけれど撃沈は早かった。
最終的には、ハバキが残った料理を全部平らげてしまった。デザートのチョコケーキを追加で注文した時は何かの冗談かと思った。
どんな胃袋してるんだろう。わりと本気で謎だ。
全員が身動きできるようになるまでかなり時間が掛かったと思う。酒場を出たのは食べ終わってから小一時間も過ぎた頃だった。
「ハルヒロ」
「え? うおっ」
ハルヒロに向かって何かが飛来する。反射的に受け取ると、ずしりとした重みに腕が下がった。
革の袋だ。両手に余る程度の大きさ。何やらじゃらじゃらとした手触りと音がする。
ハバキはハルヒロ達の背後、花園通りの向こう側を指差した。
「真っ直ぐ行くと川に行き当たる。橋を渡らず右に折れると川辺に風呂屋がある筈だ。入って来い」
「風呂?」
「お風呂!?」
「おぉ風呂ー!」
ハルヒロの反応の鈍さに対して、シホルとユメの食いつき様は凄まじかった。
義勇兵団用宿舎にも一応沐浴部屋というのはあるのだが、桶に溜めたお湯で身体を洗うくらいが精々だった。正直ろくに疲れも取れない。
「身体を暖めて代謝を上げろ。疲労を残すな。筋肉と関節をよく解しておけ」
「それは、分かったけど。これ」
「必要な分だけ使え。袋は明日寄越せばいい」
実に手短にそれだけ言って、ハバキはさっさと踵を返してしまった。通りを行く背中を呼び止めようか逡巡する。そうして迷っている内に、ハバキは路地の中へ消えてしまった。
「……い、行っちゃったね」
「へっ、最初っから最後までいけすかねぇ野郎だ」
「それ、ハバキの前でも言うてみぃや」
「ば、ばっかおめぇんなこと言ったら殺されるだろうが馬鹿!」
「言えばいいのに。そのままいっそ……」
「いっそ何だよ!? シホルてんめっ! その『……』の後に何言う気だった!?」
がやがやと元気な仲間達を尻目に、ハルヒロは投げ渡された皮袋を見る。
ずっしり重い。ハバキはこんなものを持ち歩いていたのか。それであの身の
嫌な予感がしていた。今手に抱えているものが重くて仕方ない。持っていたくない。そんなおっかなさ。
袋の緒も解きたくない。でも中身を確認せずにいるのはもっと不安だ。
渋々、ハルヒロは袋を開いた。
「うわぁ」
袋の中には見慣れた赤茶色の硬貨が少しと見慣れたいくすんだ銀色の硬貨がたくさんと、疎らにちらちらと見たことない“金色”が光ってるのが見えた。
「うわぁ……うぅわぁぁぁ……」
「ハルくん?」
「んだよ、キショい声出すなよパルピロ」
ハルヒロを訝しがって袋の中身を見た四人も大なり小なり似たような声を上げた。
その後、誰がこの革袋を持って歩くか揉めて、しばらくぎゃあぎゃあと酒場の前で騒いだ。悶着は様子を見に出てきたアミタさんに叱られるまで続いた。
日もすっかりと沈んだ治療院の個室。ランプの朧気な灯りに二人分の影ができる。
一つはベッドの傍らで椅子に座るハルヒロのもの。もう一つはベッドに身体を起こして座っているマナトのものだ。
マナトは先程から笑っていた。口を手で抑えて忍び笑いを治めようと頑張っているらしいが、上下に震える肩は一向に止まりそうにない。
「……笑うって酷くねぇ? マナト」
「く、はは、ごめん、うん、ふふ、ホントごめん」
こんな調子だ。ハルヒロがここ五日間のパーティの様子を語って聞かせるとマナトは笑う。それも決まってハバキとのエピソードはツボに入るようで、普段の様子からは考えられないくらい爆笑することもある。
「いやぁ、見事な飴と鞭だね」
「思ってたけどさ」
マナトが入院して五日が経つ。傷は元々塞がっていたし、体力の回復に専念できるお陰かマナトの体調はすっかりと良くなっていた。予定通りもう二日で退院が叶うだろう。
では、マナトがいないこの五日間、一方のハルヒロ達が何をしていたか。
「それにしても、特訓か」
「拷問だよ……」
拷問。そういう表現が適当に思えてくる。ギルドで受ける教育に勝るとも劣らない。
ハルヒロ達は、一日掛けてハバキに痛め付けられていた。名目はパーティの戦力確認、だったような気がする。
マナトを欠いた状態で、自分達に何ができるのか、また何ができないのか。
さらに
その為に、ハルヒロ達は日々ハバキの猛攻に耐えて、耐えて、耐え切れずやられるを繰り返している。
「……生活費、ハバキが全部負担してるんだよな」
「一応借金ってことにしてもらってる。すげぇ渋られたけど……」
ここ五日、ハルヒロ達はダムロー旧市街に通っていない。ハバキがそれを許さなかった。
ただしその間ハルヒロ達の収入は正真正銘のゼロだ。どんな理由があろうと――仮にマナトが実際に命を落としていたとしても――生きていく為には稼がなければならない。そしてその稼ぐ手段をハルヒロ達は一つしか選べなかった。
ハバキの存在は、間違いなく救いだった。
でも、それでいいのか。
ハルヒロは考える。
結局これもおんぶしてもらう対象がマナトからハバキにすげ変わっただけじゃないのか。いや状況としてはもっと酷い。養われているのだ。ハバキに。
あいつが義勇兵として一歩も二歩も三歩も先を行ってるのは知っている。でも、それでも、ハバキはハルヒロ達と同期の、
ハバキが異常なのは分かる。同じ義勇兵に畏れられる様を見た。何度も、何度もだ。それが妬みや羨望からくるものならば納得のしようもあるのだろう。でも実際は違う。
不気味なのだ。不気味なほどハバキは強い。
武器は刀一本。防具らしいものは一切身に付けない。その上まるで自分から危険に身を晒すような戦い方をするそうだ。死に急ぐ、死にたがる。黒いレザージャケットを翻す様から付いた渾名が『死にたがりの黒い
「すげぇよな。そんな馬鹿みたいな名前付けられてさ。稼ぎなんて俺達の百倍以上だぜ」
だから仕方ないんだって、納得すればいい。
「だからって納得するのは、違うような気がする」
「うん」
マナトは小さく相槌を打って先を促してくれた。
「ハバキは凄い奴だから今の状況も仕方ないって受け入れちゃったらさ、俺達、これから先もずっとそうなるんじゃないかって。いつまで経っても一人前なんかになれないって、思う」
ハバキの力を免罪符にして頼り切ることに慣れてしまったら。そんな自分をハルヒロは想像した。心底嫌な気分がした。
一人前にならなきゃいけない。抱えている命の分だけ、自分達には責任があるのだ。生きて生きて、生き続ける責任が。
「ハバキはさ、俺達に一人前になって欲しいんだと思うよ」
「え」
不意にマナトは言った。視線は窓の外。赤い月が薄く自己主張している。
「見かねたんだと思う。いろんな壁にぶち当たって右往左往してる俺達を」
「そう、なのか」
「言ってなかったけど、実は俺、よく酒場でハバキと飲んでたんだ」
「え!?」
意外な事実だった。少なくともハルヒロは、ハバキとはグリムガルを訪れた日以来一度も顔を合わせていなかったから。
マナトはその時のことを思い出すように天井を見上げた。
「身のある話はほとんどしなかったな。その日あったこととか、些細な愚痴とか、ハバキは黙って聞いてくれてた」
「……マナトでも愚痴とか言うんだな」
「あはは、そりゃあね」
マナトが愚痴を零す姿をハルヒロは上手く想像できなかった。
照れ臭そうにマナトは自身の頬を掻く。
「ハバキはお人好しだよ。それもかなりの」
「すげぇおっかないけど」
「だよな」
ハルヒロとマナトは笑いあった。
刀を振ってるハバキは恐い。模擬戦闘でへまをやらかした時に怒るハバキも恐い。口を歪めるようにして笑うハバキはかなり恐い。
恐いけど。
飯を食ってるハルヒロ達を時折ハバキは静かに見詰めていた。ちょっとした怪我の応急手当の仕方なんかは物凄い丁寧に何度も何度も教えてくれた。連携が上手く決まると頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。いや、正直これは止めて欲しいけど。子供扱いみたいで恥ずかしいし。
恐いけど、優しい。
「まるっきり子供扱いだよなぁ、俺らのこと」
「そうだね。でも、だからこそいろいろ手助けしてくれる。ハバキにとってはそれが当然で……その当然が、ここでは自然じゃなくて……その不自然さに、いつも憤ってた気がする」
「?」
マナトは目を伏せて、独り言のように呟いた。
ランプの灯りが揺らめいて、二人分の影が壁や天井を這い回る。ふと、随分長居していることにハルヒロは気が付いた。
ハルヒロは椅子から立ち上がる。
「そろそろ行くわ。ランタ達の治療もとっくに終わってるだろうし」
「おっと、随分長く話し込んでたな。ごめんハルヒロ」
「いいって別に」
ハバキに散々打ち据えられた後、こうして神殿に治療を受けに来ることもすっかり日課になってしまった。治療担当の神官さんに顔を覚えられたことは喜ぶべきだろうか。
その日あった出来事をマナトに報告に来るのも、ハルヒロの役目になっていた。
「そういえばさ、最近どうよ。そのー、シホルとさ」
「うん? ああ、すごく助かってるよ。身の回りの細々としたこと世話してくれるから。本当ありがたいよ」
シホルは毎日マナトの病室に通っている。午前中にハバキの
ハルヒロなど、最近になってようやく感付いたというのに。
シホルはマナトのこと――
そういう話には疎いハルヒロではあるが、興味関心は年齢相応にあった。ニヤけ面で探りを入れようとする自分は少し気持ち悪いな。ランタじゃあるまいし。
マナトは実に爽やかな笑顔を浮かべた。
「ベッドの傍で林檎とか剥いてくれる女の子ってさ、こう、
「わかる。超わかる」
「恥ずかしそうに食べさせてくれようとして、顔真っ赤にしてるところなんてもう抱き締めたくなるよね」
「わかる。すげぇわか……ってそんなイチャイチャしてんのかよ!?」
「悪いね、ハルヒロ」
「うわぁ、マナトのそんな邪悪な笑み見たくなかった。ランタ菌が感染ったんじゃねぇの」
「ええ嘘っ、ホントそれだけは勘弁して!」
「本音出てる出てる」
また一頻り笑い合って、ハルヒロは部屋を後にした。
水路の畔にその空間は存在する。
家々の
二十坪に満たない空隙。その三方は家で囲われている。ただしどの窓にも眼張りが施されるか、そもそも窓自体設計されていないかで、こちら側を覗き見る者は皆無だった。
なんともはや都合の良い。
喜ばしいというよりむしろ呆れた心地で、ハバキは溜息を吐いた。
夜も更けた。暗い群青の空には月が煌々と光っている。赤い、血霞めいて赤い月。それを不自然と感じることさえ己は徐々に忘れていく。
その自覚に、苛立った。
「……」
浅く、どこまでも静かに呼気を吐く。
右足は前へ、踵を左足爪先の線上に置く。自然体に近い半身。左踵は軽く上げ、右踵は浅く踏む。重心はやや前寄り。身体が前進を始める寸前に留める。
両胸、両肩、両腕、手首、掌に至るまで筋肉の強張りを抜き去る。最大の瞬発、速度、延いては全体重の運動エネルギーを余さず運剣に重ねる為には、徹底した脱力が求められる。無駄な力を身体の
体重移動に拠らず、全身の筋力、膂力を頼みに発揮される剛剣もまた存在する。が、この場、この状況においてハバキが求めた剣は前者だった。
状況設定。
仮想敵――三。
武装――長剣、
位置――前方に一、左後方に一、右側面に一。
間合、至近。
対する我方。
武装――刀。所謂打刀の大刀に当たる。全長一メール程度。柄、鍔、刀身と
掌で柄の上部を包むように握る。左手は小指と薬指で柄尻のやや上辺りを締める。他の指は柔く、締めず緩めず。右手は鍔に触れぬ程度の位置、親指の付け根は刀の棟の延長線上。握りは左手同様緩く、俗に茶巾絞りで喩えられる形だ。
「……」
前方の敵へ切先を差し向ける。中段の構え。殺気を飛ばし、斬り懸かる旨を
引き絞られる緊張。そのまま――右足を後方へ蹴り出す。左足を追従させ、引き込むように反転。右側面の敵へ、刃を寝かせ、斬り払う。物打ちは正確に右方敵の喉笛を捉えた。血を溢れさせながら対手は崩れ落ちた。
即時反転。今度は先程と真逆の軌道。前方の敵に対して刀を一閃し、牽制。間を外され、同時に血の泡を吐いて倒れた味方の姿に動揺を示せば尚好都合。
牽制のまま、再び前方の敵を行過ぎる。
左後方の敵へ向き合いつつ、刀を頭上へ振り上げる。その時点で既に左方の敵は長剣を振り上げ、攻撃動作を開始している。打ち下ろされた剣を、振り上げた刀で受け流し、仰け反り空いた胴、とりわけ鎧の防護の薄い左脇を斬る。剣を取り落とせば好し、落とさずとも片手で剣を構え直すだけの間は与えない。咽喉を突く。素早く、軽く。五センチ程も刃が入れば十二分。
前方の敵へ向き直る。待ち兼ねたと言わんばかり。我方より見て右合いから、横薙ぎの一閃。一歩、右足から踏み込み、踏み込むまま膝を折る。左膝で跪き、剣を頭上に躱す。そこは対手の懐。
同時に刃を返す。刃先は天頂を向く。左手を柄から手放し、物打ちの棟に添えた。
斬り上げ。無防備な内腿を裂く。人体において最も太く、最も多くの血流を有する血管群。出血量は甚大。三十分も放置すれば無事涅槃へ渡ろう。
待たせはしない。左脇に構え、即座に立ち上がり、左からやや浅く右上方へ抜打。
刃はしかと首と胴を両断した。
崩れ落ちる肉袋を尻目に構え直す。中段の姿勢。状況は最初の位置関係に戻った。ただ、己を取り囲むのが三つの骸と成り代わったに過ぎない。
血を振るい刀を鞘に納める。
残心。暫時周囲に気を回らせ、残存敵を警戒する。
「――はぁっ」
それを終えて初めて、丹田に溜まっていた気息を一挙に吐き出した。荒い呼吸を繰り返し、額に浮いた汗を拭う。
実戦を想定した打ち込みの疲労は凄まじいものだ。木刀の素振りを百や二百行ったとてこうはならない。
だからこそ、意味がある。
「……」
息を整え、刀を翳す。構えるでもなし、刀身を月明かりに晒し見る。
馴染む。
そう感じる。
思えばここを訪れ、武器を選別するに当たってハバキは迷いなく刀を選んだ。というよりそれ以外の選択肢など考慮すらしなかった。
戦闘状況と敵の
そして、それは唯一の拠り所でもある。
柄を握り、刃を振るう。この行為だけがハバキをハバキ足らしめる“何か”だった。
「……」
この地において、何かを思い出すという行為は涸れ井戸に石を投じることとよく似ている。返るものはない。暗闇に伸ばした手は霞を掴む。残るものはない。
お前は誰だと己が己に問うてみても、答えは常に無為の二字。
「俺は……」
己を指して刃金狂いと誰かが言った。
正しく然り。己は狂っている。狂おしい程に執り憑かれている。
刀で敵を斬り倒す度、己は己の実在を実感できる。己の生を、
失笑が漏れた。
それではまるで殺人者の思考だ。
命を摘み取ることで生きているという実感を得る。なるほどそれはなんと素晴らしく手前勝手で下劣な考え方であろうか。一般社会不適合者としての資格に溢れている。
そう。その分際で。
己はハルヒロ達に何を説いて聞かせた。
「『命は大切だから責任を持ちましょう』だとよ……」
咽喉の奥から漏れ出る耳障りな音が己の笑声なのだと、暫時気付かずにいた。
本当は、近付くべきではなかった。
関わり合いになどなるべきではなかった。
己のような者が、間違っても。
「
それでも世界は在り続け、無力な者から呑み下す。
死は、薄紙一枚隔てた先に待ち受けている。ハルヒロがそうであったように、マナトがそうであったように。
ガキ共が生き足掻いている。何も知らず、何も解らぬまま、ただ明日を夢見て武器を手に、命を摘み取っている。
それしか生きる術がない。この
「気に入らねぇ」
焦熱する憤怒が丹田を焼く。
怒りの矛先も定まらぬ。
掴んだ刃金で空を薙いだ。
「気に入らねぇ……!」
風が、この閉じた世界に吹き荒ぶ。月の赤光を睨め上げて、ここではないどこかを夢想する。
あんなガキ共が、死に怯えない世界。
そんな甘やかな夢を。