武器と魔法と、世界とキミと。   作:菱河一色

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 夢とは、情報処理に伴ったノイズである。

 でも、果たして、本当にそれだけだろうか?





第三話 三つの【ファミリア】

 夏ヶ原司は、空を飛んでいた。

 

 

 自力で飛んでいるのではない。後ろ向きのまま、何かに引っ張られ、風を切って空中を滑っているのだ。

 眼下に映るのは見慣れた街の景色。昨日まで司が住んでいた街だ。

 

 凄まじい風の音が鼓膜を叩いているのに、なぜか人の声が聞こえる。その存在が視認できる。

 最初は母親だった。次は妹だった。その次はこの頃仲が悪かった父親だった。母親がよく玄関先で話していたお隣さん、斜向かいの同級生、近所の知り合いの子供、小学校の時の担任、駄菓子屋のおばちゃん、仲の良かった友人。

 みんながみんな、何かを叫んでいた。でも、何を言っているのかはよく聞き取れない。

 次々に、記憶にある人、懐かしい人が現れては遠ざかってゆく。

 自分の家、徒歩五分の小学校、よく行くスーパー。近所の河川、大きな公園。小さい時から見慣れている風景が、遥か彼方へ飛んでゆく。

 

 

 

 司はいつも通りの日常を過ごしていたはずだった。

 

 いつも通り起きて、いつも通りバスに揺られて、いつも通りの時間に学校へ行き、いつも通り授業を受けて、いつも通りの仲間たちといつも通り会話し、いつも通りの時間に、いつも通りの家に帰ってきた。

 玄関の取っ手を握った途端、ぐんっ、と、後ろ襟を何かに掴まれ、司は空へ飛び立ったのだ。

 勢い良く開かれる玄関、飛び出てくる司の家族。無意識に取っ手を握っていた手は、なぜか指が根負けせずに取っ手をもぎ取っていた。

 

 

 そして、今、司はよくわからない街の空を飛んでいた。

 どこかで見たことはあると思うのだが、思い出す前にすぐ違う街に変わっていく。

 

 こんなことをするやつは一体何なんだ、と、司は犯人を確かめるべく振り返った。

 巨大な黒竜の尾が司の襟を掴んでいた。

 瞬間、司は何かを諦め、再び引っ張られるだけの体勢に逆戻りした。

 

 また、地上の形が変わる。

 今度は、司が一昨年まで通っていた高校になった。不自然なほど低空飛行に、低速飛行になり、時間と距離の感覚が狂ってゆく。

 普段は立ち入り禁止になっている屋上に、人が大量に飛び出してくる。

 三年間一緒だったクラスメイト、同じ部活だった友人、歴代の担任、教科担任、ほとんど話したことがないやつら、実は好きだった女子、卒業したはずの先輩たちも制服を着て、また、司に何かを叫び、届けようとする。留めおこうとする。

 遠ざかってゆく彼らの声を聞こうとしても、次第に変な雑音が割って入ってきて、やはり内容はさっぱり伝わらない。

 それだけでは足りないと思ったのか、屋上の彼らは大きく手を振ったり、司に向けて手を伸ばしたり、何かを司に訴えかけようとする。

 

 

 しかし、もう既に、司は彼らの方に目をやっていなかった。

 やがて現れる、果てしなく遠い世界、限りなく青く澄み渡った空、地平線の向こうまで続く豊かな緑。

 

 

 

 最早、彼の目に映るのは、美しい女神の姿だけ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、知らない天井……ではなく、昨日の夜、寝る前にも見た天井があった。

 

「…………ああ、そうだった」

 

 次第に頭が今の状況を理解していく。そうだ、俺は「ダンまち」の世界に来たんだった。やっぱり、夢ではなかったのだ。

 柔らかいベッドの上で、上半身を起こす。窓の外はまだ暗い。

 すっかり朝方生活になっている身体は異世界でもきちんと働くらしい。しかし、昨日の疲れが残っているのか、瞼が重い。視界が滲む。ヘリヤさんにもらった寝巻きの袖で、目元を拭おうとして。

 

「え……?」

 

 自分が、泣いていることに気付く。

 涙を止めようとしても止まらない。よくある描写だけど実際にはあり得ないだろう、と思っていた。でも実際にそうなると、とんでもなく焦る。理由もわからないのに、自分が勝手に泣いているのだから、混乱に陥る。

 そうだ、こういうことは、感情の昂ぶりが最高潮に達したときに起こるのが相場。

 つまり、原因は夢、だろうか。しかし、さっきまで夢をみていたことは覚えているのだが、夢の内容が一切思い出せない。今考えてみると、何か、とても大切なものの夢であったことは、確かに感じられるのに。

 

 少し、ホームシックぎみにでもなってしまったのかもしれない。

 でも、俺はこの世界で生きていくと決めたのだ。いまさら悲しいだなんて言っていられない。

 深く、深く、深呼吸をする。肺を意識するのでなく腹を意識する、心を落ち着かせるための呼吸。受験日前日の眠れない夜もこうして乗り切った。

 今回も、きっと。

 

 次第に涙が収まってゆく。

 完全に止まったことを確かめてから、少々強めに目元を拭い、大きく伸びをする。

 

 

 そうだ、今日から新しい生活が始まるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ヒルダさんは案外ねぼすけだった。

 

 顔を洗って歯を磨き、またヘリヤさんからもらった服――今度代金を払わなければ――に着替え、昨日の出来事の詳しい記録をつけ、朝日が差してきたので台所に立ち、腕を振るった。

 しかし、街が起きだしても、俺が料理を完成させ、完食しても、街が完全に起きて、騒がしい喧騒が小さく聞こえてきても、ヒルダさんは起きてこない。

 

 これは起こしに行くべきだろうか。でも、そうするとまた昨日みたいな展開になりかねない。

 それは避けなければならない。そんなベタなシチュエーションは例え読者が望んでいたとしても俺が望まない。これから共に生活していくんだ、こう言っては何だが、ラブコメの主人公のような強靭な理性を持ち合わせているわけでもない一般人にはとても耐えられるものではないだろう。

 自分で考えて情けなくなるけど、昨日のアレだけでかなり意識してしまっている俺だから仕方が無いのだ。

 

 やっと念願の一人目と出会えたから今までの疲れがどっと押し寄せてきたのかもしれないし、ここは寝かせておいてあげるのが吉だ。俺にとっても。

 

 しかし、ヒルダさんが起きてこないとおいそれと出掛けるわけにもいかないか?

 さすがに初日は何も言わずに出掛けるわけにもいかない気がする。

 今日はギルドに冒険者登録をしに行った後で、昨日の三柱の【ファミリア】に挨拶に行く予定だ。ヘリヤさんが誘ってくれた。戦乙女(ヴァルキュリヤ)同士仲良くしようぜ、ということらしい。

 この異世界では人脈はとても大切だ。特に構成員の少ないうちのような【ファミリア】にとって、この戦乙女(ヴァルキュリヤ)同盟みたいなものは非常にありがたい。ダンジョンにもぐるにしても、単独(ソロ)であるか複数(パーティ)であるかで生存率も変わってくるだろうし。

 誰もが原作ベル君みたいに、単独(ソロ)でうまくいくわけではないのだ。

 

 挨拶回りが終われば、【ヘリヤ・ファミリア】の人とダンジョンに初挑戦することにもなっている。あの女神のことだからきっといい人なのだろうけど、俺にまともな人付き合いができるだろうか。

 会話は得意な方ではない。初対面とあらば九割がたどもるだろう。

 まあ、今から緊張していてもどうしようもない。なるようになるさ、と自分に言い聞かせる。

 

 

 そういえば、武器はどうしようか。

 やはり剣だろうか。近接戦闘はやはり怖いのでベル君のようなナイフと格闘術、というのはいきなりは厳しいだろうし、リーチが長い槍とか棍もいいかもしれない。いやしかし、ダンジョンの中で上手く扱える気がしない。斧とか鎚というのも何か違うし、魔法が使えないので杖もない。弓も経験がないし、何よりソロのとき困るだろう。

 となると剣か。他の武器も使ってみたいが、まず何かで戦えるようになるのが先決だ。

 ではまず、片手剣か、両手剣か。

 俺が全くの初心者なので、最初は攻撃よりも防御を優先した方がいい気がする。多分いざとなったら浪漫をぶん投げてでも生存を取るだろうし。

 防御主体になるなら日本刀系統なども候補に挙がってくる。逆にレイピアなどの細いものは防御には向かないだろうしひとまずナシとして……

 

 いろいろ考えていると、ヒルダさんことうち【ブリュンヒルデ・ファミリア】の主神、ブリュンヒルデさんが寝惚け眼を擦りながら自室から出てくる。一応、着替えてはいるようだが。

 

「おはようございます」

「んー……おぁよ。あや起きらねぇ……ふぁあ」

 

 なにそれ可愛い。

 なぜ寝起きの美少女というものはこうも形容し難い魅力を放っているのだろうか。舌足らずか? 眠たげな表情か? ああ、全部か。

 

「顔、洗ってきた方がいいですよ」

「そうするー……」

 

 ヘスティアに乗っかられたベル君の心情もこんな感じだったんだろうなあ、と妙な親近感を覚えつつ、ゆっくりふらふら洗面所へ歩いていく背に心中で悶えまくる。

 これは早目に対策を練らなければいけない。

 どうしたものやらと頭を捻らせていると、今度は玄関から軽快なノックの音が聞こえてきた。やけにタイミングがいい。メタ的な警察とかじゃないだろうな。

 

「はーい、どちらさんですか」

 

 木製の扉にはインターフォンやドアスコープのみならずチャイムすらついていない。防犯上不安なので近いうちにつけてもらおう。インターフォンはちょっと技術的に無理があるかもだけど。

 

「【ヘリヤ・ファミリア】の者っす。今日の同行者って言ったらわかりますかね?」

 

 少々くぐもった青年の声が返ってくる。わざわざ迎えにまで来てくれたのか。

 扉を開けると、ちょうど二十歳くらいのザ・好青年という風貌をした人が良さそうな男性が立っていた。直感で察する。この人はいい人だな、と。

 

「どうも、トルド・フリュクベリっていうっす。あなたが【ブリュンヒルデ・ファミリア】のナツガハラ・ツカサさんっすか?」

「そうです。はじめまして。ちょっとうちの主神の朝飯がまだでして、先に上がってください」

「あ、そうすか。んじゃ、お邪魔します」

 

 この薄茶色の、レザーアーマー? の上に、土色のライトアーマー一式が鈍い光を放っている。昨日も結構いろんな人の装備を見かけたけどやはりこう、間近で見てみるとやはりかっこいい。腰の辺りに二振りのナイフが備え付けてあるので、彼はベル君のような近接戦闘スタイルなのだろう。

 背中には大きめのバックパック。中身はあまり入っていないのだろうか、空気を抜いてしぼめてある。

 

 これが、冒険者。本物の冒険者。

 現代世界で生きていては、一生会うこともなることも叶わない別人種。俺も、その仲間入りをしたのだ。

 

「そこのテーブルにでも」

 

 席についたトルドさんに、心配だったから昨日のうちに煮沸消毒して冷やしておいた水を出す。

 

「お構いなくっす。ツカサくん、昨日はよく眠れたっすか?」

「普通に熟睡できたし寝覚めも良かったよ。あと呼び捨てで頼む。俺は十九だけど、多分同年代だろ?」

「おお、ボクと同じっすね。じゃあお互いに呼び捨てってことで」

 

 年下の美少女とかでなくてよかった。そっちでも嬉しいだろうけど、多分俺のキャパを超えてしまう。今はヒルダさんだけで満杯なのだ。

 

「初めてオラリオに来た人や冒険者になったばかりの人はよく眠れないことが多いんすけど、それなら心配いらないっすね」

「ああ。今日はよろしく頼む」

「こちらこそっす!」

 

 固く握手を交わす。現実じゃあこんなに早く仲良くなれた友人、いなかったな。

 

「お腹すいたー……、あれ、トルドくんじゃない!」

「あ、ブリュンヒルデ様。どうもっす」

 

 身だしなみを整えたヒルダさんが戻ってくる。彼女の朝飯を温めなおすために、俺は台所へ向かう。

 

「【ファミリア】結成、おめでとうございます。これで居候からも卒業っすね」

「ありがとう。うん、もう厄介にはならないよ。なんてったって私にはツカサくんがいるからね!」

「でも、彼だけで運営していけるんすか?」

「あ、えっと、それはホラ、なんとか……」

「初心者のうちは一日二○○○ヴァリスくらいがいいとこっすよ。武器や道具も手入れしたり補給したりで初めは特に金が要るっす。ヘリヤ様もまだ続けるよう伝えろって言ってました」

「うあー、結局バイトはするのかー」

 

 ヒルダさんは昨日まで【ヘリヤ・ファミリア】に居候していて、そこでバイトもしていたとか。そういえば何屋なんだろうか。

 

 トルドの顔を見るなり素早くテーブルにつき、にこやかに会話を弾ませる主神。俺は昨日に会ったばかりなのに、厚かましくもちょっと嫉妬してしまうのは、きっと自然の摂理のはず。

 

「ヒルダさんは今日どうするんです?」

 

 朝食を運びつつ、テーブルで飛び交う会話の合間に割って入る。

 

「今日もヘリヤのところでバイトかなー」

 

 零細規模の【ファミリア】は、団員がダンジョンで稼いでくる金だけでは運営していけない。ある程度軌道に乗るまでは、主神だろうと働いて足りない分を賄わなければならないのだ。

 しかもこの主神様、案外食べるのだ。まあ個人的には食が細いよりかずっと愛らしく感じるのだが。

 

「そういやトルド、俺、戦闘経験皆無なんだけど大丈夫?」

「全然大丈夫っすよ。ボクもそうでしたから。でも、やっぱり最初に、モンスターを倒すときに生理的嫌悪を感じる人はいるっす。そこら辺が分かれ目っすね」

「……やっぱりグロいよな?」

「倒し方にも依るっすけど、まあそれなりに。血が吹き出たり脳漿的なのが散ったりなんて茶飯事だと思っていいっす」

「うわー……」

 

 スプラッタは苦手なので、割と不安になる。生憎、普通に生きてきた俺にはそういうものに対する耐性は付いていない。

 その他にも、心構えしておくべきショッキングな場面を教えてもらっていると、ヒルダさんが不機嫌そうに睨んでくる。しまった、この状況でする話じゃなかった。

 

「私ご飯食べてるんですけどー……おかわり」

 

 隣でグロの話しててもおかわりはするのね。食欲減退してないじゃないですか。

 

 今度は黙々と食べ進めるヒルダさんに留意しつつ、話題を他の懸念事項に移す。他の、というか、多分メインの問題だ。

 

「あと、最初はなにかと金が入用だって言ってたけど、具体的にはどれくらい必要なんだ?」

「そうっすねー、求める性能にもよるっすけど、武器でだいたい四○○○前後、防具で五、六○○○前後、ポーションの最安値が五○○なんで、アイテムで一五○○前後、軽めで計一一○○○ヴァリスくらいってとこですかね。準備費用としては」

 

 確か、一日ダンジョンにもぐると二○○○ヴァリスほどの収入になるので、単純に考えると五日ちょい。でも、そこに毎日の食費、武具防具の整備費、道具の補充費やこの家のローンなども入ってくるわけで。

 そう考えると金額的には結構厳しい。浪漫溢れる職業だと思っていたのに、一気に現実的になってしまった。やはり初めから楽して稼げるような仕事はないということか。

 

「割とシビアなんだな……」

「でも、そこくらひは心配しなくへひいよ、ツカサくん」

 

 もぐもぐしながら、ヒルダさんはどこから取り出したのか、その拳より二回りほど大きい布袋を差し出してくる。中から、硬貨が擦れ合う音がする。

 

「んっ……これ、一五○○○ヴァリスは入ってるから。使って」

 

 口の中のものを嚥下して、真面目な顔で俺に布袋を渡すヒルダさんは、どことなく申し訳なさげにしているように感じられた。

 

「ヘリヤのところでバイトして貯めたの。いつか入ってくれる誰か(きみ)のために。私には、これくらいしかできないから」

 

 神は、ダンジョンに入ることができない。原則としてそうなっている。

 ゆえに、神はダンジョンという危険地帯に挑む冒険者たちの生還を、ただ願うことしかできないのだ。

 

「ありがとうございます。大切に、使わせてもらいます」

 

「うん。初期装備はケチっちゃダメだからね。遠慮しないでしっかりいいものを買ってくれたまえよ」

 

 その不安を押し殺し、麗しき女神は朗らかに微笑む。

 

 

 ああ、いい女神(ひと)と出会えたなあ、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず必要なのは、準備だ。

 

 最初は一番近いらしい【ヘリヤ・ファミリア】の店舗、「最果ての放浪者」に行くことになった。ヒルダさんを送ることも含めて。

 トルドとヒルダさんの案内で、北のメインストリートまで歩く。

 北のメインストリートは、主に商店街として活気付いているところだ。有名なものだとあの【ロキ・ファミリア】の本拠「黄昏の館」や、ジャガ丸くんの屋台もここにある。

 

「そういえば、【ヘリヤ・ファミリア】って何屋なんです? 不動産とか扱ってますけど」

「んー、どう言えばいいんだろ」

 

 ヒルダさんがバイトできるということはそれなりに専門色の薄いものだと思ったのだが。

 

「言ってしまえば萬屋(よろずや)っすね。不動産を扱うときもあれば、普通に雑貨を売ってたり、遠方の特産品をギルド相手に仲介したりしてるっす」

「そうそう、それそれ」

 

 話によれば、【ヘリヤ・ファミリア】の構成員はわずか七名。しかしギルドとの太いパイプを持っており団員が割とスムーズにオラリオの外へ出られることを強みとし、積極的に外の物品を仕入れて売っているらしい。いわゆる商業メインの【ファミリア】だ。

 道幅がかなりあるメインストリートから一本、外れたところにある、結構大きめの建物がそれだ。看板代わりに、旅人と馬車を描いたエンブレムが掲げられている。

 

「早速ですけど帰ってきたっすー」

 

 店内は、実に異国情緒溢れる……と、言いたいのだが、そもそもこのオラリオ自体異世界なわけで、和服などが飾ってあると、むしろ親近感を覚える。

 

「あ、トルドさん、おかえりなさい」

「そちらが【ブリュンヒルデ・ファミリア】念願の一人目かの? ブリュンヒルデ様」

 

 店内には可愛らしい少女と老齢の男性、それと数人の客の姿があった。

 見渡せば食品、衣服、日用品など非常にさまざまな物品が並べられているのがわかる。その中でも極東寄りの物が多いこともなんとなく。梅干しとか、海苔とか。極東コーナーだけ俺のホームだ。

 

「そうさ。おかげさまでようやく巡り会えたよ」

「夏ヶ原司です。よろしくお願いします」

「私はジーナといいます。こちらこそよろしくお願いします」

 

 幼さと綺麗さが絶妙に混ざり合った抜群の容姿、尖った耳。エルフ……いや、ハーフエルフだろうか。歳はだいたい十前後、あどけなさを残しながらも、その落ち着いた振る舞いはしっかりした性格であることをうかがわせる。

 俺、ロリコンでなくてよかった。

 

「グスタフ・ノルダールじゃ。よろしくのう」

 

 頭髪はすでに真っ白で、多くの皺が刻まれているにも関わらず、背もまっすぐで足腰も丈夫そうで、壮健な雰囲気を漂わせる姿は想像上の執事のよう。「じいや」とか呼ばれていそうな外見である。

 

 いまは他の団員は出払っているようだ。ヘリヤさんもギルドの方に出張っていて、いないとのこと。

 極東出身の人に会ってみたかったが、しかたない、またの機会を待つことにしよう。

 

「ところで今日は……ブリュンヒルデ様はアルバイトのためとして、顔見せついでに極東の武具防具を見に来た、といったところですかな?」

「あるんですか?」

「ありますよ。こっちです」

 

 ジーナに連れられ、大量の兜や甲冑、刀などが陳列された棚まで移動する。

 

「極東のものはまだあまり入ってきていませんので、結構多くの方がここでお求めになるのです。いまは少し品薄ですけど」

 

 壁に飾られた太刀、刀、薙刀、槍。確か、大鎧に胴丸に腹巻。そこは浪漫の塊のような空間だった。

 

「うわあ……」

 

 胸が躍る。こういうのだ、こういうのを求めていたのだ。

 

「好きなものを選んでいいからね。予算の範囲内で、だけど」

「こればっかりは個人の感覚に委ねるしかないので、なるべくよく手に馴染むものがいいと思いますよ」

「手に馴染む……ですか」

 

 とりあえずそこにあった太刀を手にとろうとして、値札に目が行く。一二○○○ヴァリス。あ、これダメだ。

 まだこれから防具や道具も購入しなければならないのだ、なるべく出費は抑えたい。

 いろいろ物色しながら、より安価な方へ歩いていく。七六○○、五二○○、四一○○。ここくらいがお手頃だろうか。

 

 日本刀は攻守共に扱える万能武器だが、盾を持つことは難しい。刀に盾って聞いたことないし、両用であるのは心強いけど、やっぱり不安でもある。あと結構重いし。他もそうではあるけど、刃渡りが長いということはそれだけ重量もあるということで。

 

 じゃあリーチが長い薙刀、槍はどうか。攻撃に特化した分、モンスターを寄せ付けづらくはなるだろう。しかし、やはり防御面が危うい。懐に入られても、素人の俺では対処できるとも思えない。

 

 では間をとって取り回しやすい脇差、短刀はどうだろうか。小回りが効く分自由度は増える。まあ、懸念事項はモンスターとの間合いか。やはりまだ見ぬ化け物と戦うとなると距離をとる戦法でいった方がいい気はするのだ。

 

 それに、防具は。防御力と機動性の両立を求めたいけれど、そうなると値段がつり上がる。大鎧は値段的にも重量的にも難しいとして、胴丸か腹巻だろうか。でも、やはりもっと、トルドが着ているようなものの方がいい気がするのも事実。

 

 どうしようか……。難しい。これがゲームのキャラメイクだったら気楽に格好良さ重視で決めるところなのだが、実際に命を守るためのものを選ぶとなると途端にこれといったものが見つからなくなる。当然と言えば当然ではあるけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

「決めました」

 

 結局、五十C(セルチ)ほどの刃渡りの脇差を手に取る。値段は四六○○ヴァリス。名称は紅緒。赤みがかった鋼色の刀身が綺麗な一刀だ。刀匠の名前は入っていなかった。

 

「それでいいの?」

「はい。やっぱり、いきなり刀とか薙刀とかはハードルが高くて」

「そっかそっか。まあ、最初は個性が強いのは扱いづらいよね。防具はどうするの?」

「もっとこう、全身を守れて軽いやつの方がいい気がしまして」

 

 防具の方もざっとは見たけど、これといったものは見つからなかった。そもそも極東……日本の防具は、遠距離戦を、特に弓に対してを中心に考えられたものなので、軽くて全身を、というものはなかなかない。

 

「それなら、カーラさんのところに行った方がいいっすね。ボクのこのライトアーマーも、【カーラ・ファミリア】製っす」

 

 紅緒と、ついでに中くらいのパックパックを購入し、「最果ての放浪者」を後にする。戦乙女(ヴァルキュリヤ)同盟のよしみということで多少割引してもらった。

 

 

 

「そのトルドのそのライトアーマー、土の色だけど、銅とか?」

「ああ、これっすか。これは銅じゃないっすよ。この色は特注品の証で、ちょっとした恩恵が込められてるんす」

 

 それは【カーラ・ファミリア】団長の魔法に依るもので、それなりの値段と引き換えに、衝撃吸収効果を付けることが(エンチャント)できるそうだ。

 ただ、かなりするらしい。それもそのはず、それも一種の特殊武装(スペリオルズ)だろう。

 

 どうやら【カーラ・ファミリア】は北と北東のメインストリートのちょうど真ん中辺りに位置しているらしい。それに、ただの鍛治【ファミリア】かと思いきや、最初は探索兼服飾系であったとか。団長に鍛治の才能があるとわかったので鍛治の方面にも手を出し、今に至るそうだ。

 

「そういや、【ヘリヤ・ファミリア】の団長はトルドなのか?」

「違うっすよ。ヒメナ・カリオンって人が団長っす。今は外に出てていないっすけど」

 

 確か、昨日エイルさんが褒めていた人か。さぞ有能な人に違いない。

 

「ここっす。【カーラ・ファミリア】本拠、店舗名「星空の迷い子」っすよ!」

 

 そう大きくはないが人通りが結構ある通りの一角にでん、と建っているその建物は、一見して服屋にしか見えない。ディスプレイもほぼ服を展示しているし、お客も一般の女性ばかりだ。

 それも、かなりひらひらふわふわした服がメインのようで、とても鍛治も行なっているとは信じがたい。

 なんだか、入るのが躊躇われる。こんな明らかに女性向け服屋に男二人が堂々と入っていっていいものなのか?

 

「おう、お前ら店先で何止まってんだ。客が入りづれえじゃねえか」

 

 立ち止まっていた俺と、入店しようとしていたトルドに後ろから声が掛けられる。昨日も聞いた声だ。

 

「こんにちはっす、カーラ様」

「おうトルド。今日は何の用だ?」

 

 振り向くと、そこには見目麗しいお嬢様……ではなく、外見はそうなのだが、荒々しいことで俺の中でキャラ付けされたカーラさんと、獣人の女性がいくつかの紙袋を持って立っていた。

 

「ボクはツカサの付き添いっす。防具を探しにきたんすよ」

「ん? 極東の防具にするんじゃねえのか」

「はい。軽くて動きやすいのがいいと思いまして」

「そうか。まあとりあえず入れや。ビビることなく堂々とな」

 

 うわあバレてら。

 

「貴方が、【ブリュンヒルデ・ファミリア】のナツガハラ?」

 

 歩きながら、獣人の女性が話しかけてくる。彼女は感情がないかのように無表情だ。しかし言葉には少なからず好奇心が乗っているように思えるので、不器用な人かもしれない。

 カーラさんで外見と内面が一致しない人の見分け方のコツを身につけた気がする。

 

「はい。夏ヶ原司といいます。夏ヶ原が姓で、司が名です」

「……そう。シーヴ・エードルント。団長。よろしく」

 

 台詞だけだとすごいぶっきらぼうな人かと思うが、目を合わせて会話するところだとか、極東の文化に合わせてか御辞儀をしたりするところから、感情表現が乏しいだけだとわかる。メタ的な表現をするならばアイズさんに似てる感じか。

 

「あ、よろしくお願いします」

 

 彼女が下げた頭には、可愛らしい獣耳がぴょこんと乗っかっていた。それを見るに、犬人(シアンスロープ)……いや、狼人(ウェアウルフ)らしい。

 

 女性ばかりの店内を通り抜け、店舗の奥へ進む。遮音のための重い扉を二つほどくぐると、全く別の内装が施された空間に出た。

 先ほどまでの煌びやかな感じとは違い、無駄な装飾はされていない、質素な室内には大量の武器や防具が所狭しと置かれていた。気が付くとシーヴさんはいなくなっていた。

 

「おかえりなさい。そちらの方は?」

 

 カウンターの向こうの扉――おそらく鍛治場に繋がっているのだろう――から出てきた少年が出迎える。

 

「昨日話した【ブリュンヒルデ・ファミリア】の新入りだ。防具が欲しいっつーから、とりあえずキッカと交代してきてくれるか」

「了解です」

 

 見た目の割りに大人びて落ち着き払っている少年はカウンターから出て服屋の扉を開けて行く。小人族(パルゥム)だろうか? 違う気もするが……。

 

「んで? どんなんが欲しいんだ?」

「そうですね、とりあえず軽くて動きやすいのがいいんですけど、それでいてなるべく全身を守れるようなものとか、ありますかね?」

「その条件だとボディアーマーってのがだいたい当てはまるが、それは特別繊維を織り込んだモンだから安いのはねえな」

 

 やっぱり、そんな良い条件のものはないか。

 

「借金して買う手もあるっちゃあるが、正直やめときな。初っ端から防具の性能に頼ると防御や回避が身につかねえ。やっぱり初心者のうちは死なない程度に経験を積むのが一番だ。失敗と痛みの、もな」

「じゃあ、ボクみたいに薄手の革鎧(レザーアーマー)に要所要所のプロテクターを付けるって方向性になるっすかね?」

「そうだな。それが一番現実的だ。おい、予算はいくらくらいあんだ」

「えっと、七、八○○○くらいあります」

「んー、ま、そんくらいありゃ、一式揃えられるか」

 

 カーラさんとトルドは、いろいろと話しながらプロテクターなどが雑多に置いてある一角へ歩いていく。

 思ったより、カーラさんは良い女神(ひと)なのかもしれない。昨日の邂逅の仕方が悪過ぎたお陰で、もう荒々しいイメージが定着していたけど、落ち着いて接すると、なんかいい姉御っぽい感じだ。

 

「はいはーいお待たせしました! ナツガハラさんですね! では早速失礼をば」

「はっ、え?」

 

 突然、服屋に通じる扉からハイテンションな女性が飛び出してきたと思ったら腕や脚をぺたぺたと触られていた。この人が、さっきカーラさんが言っていた「キッカ」さんだろうか?

 カーラさんたちは特に気にせずにプロテクターを物色しているので多分そうなんだろう。

 さっきの少年とは正反対で、大人ではあるのだろうが、その表情から読み取れる無邪気さがやけに彼女を子供っぽく見せる。

 

「ふんふん、なるほどなるほど」

 

 一通りぺたぺたし終えたキッカさんは、一度何かに納得したように頷くと、レザーアーマーがたくさん掛けてある方へ駆けていった。

 今ので、採寸してたっていうことか? 定規もメジャーも使わずに?

 

「キッカは見ただけで大体の身体構造を見抜き、触るとほぼ100%把握できる変態だぞ」

 

 籠手や関節部分に当てるプロテクター、プレストプレートなどをいくつか見繕って持ってきてくれたカーラさんが、俺の疑問に答えてくれる。

 

「やー、このよくわかんないけど便利な技能のおかげで良い思いさせてもらってますよ。ぐへへ」

 

 あ、百合の人でしたか。

 レザーアーマーを掴む右手とは別に、キッカさんの左手はアーマーの胸の辺りを揉む動作を、多分無意識に行っている。もちろん男用のアーマーに胸はない。

 

「ほれ、こういうのはどうだ」

 

 カーラさんたちは鈍色のプレストプレート、腕と脛、肩、肘、膝に腰を守るプロテクターを手渡してくれる。それぞれにも名前があったはずなんだけど思い出せない。かっこよかったから覚えた記憶はあるんだけどな。

 

「案外軽いんですね」

 

 もっとずしっとくるのを予想していたのだが、そんなことはなかった。拍子抜けしてしまう。

 

「そりゃ、薄いからな。致命傷を避けるための最低限の厚さはあるが、飽くまで機動性を上げるために防御力をレザーの方に依存してんのは忘れんなよ」

「わかりました。耐久力の方は、どれくらいあるんでしょうか」

「んー、これだとウォーシャドウ相手に裂かれる可能性アリだね。でも初心者ならウォーシャドウを相手にすることもないだろうし、しばらくはこれでいけるはずだよ」

 

 黒く染めてあるレザーアーマーを持ってきてくれたキッカさんが代わりに答えてくれる。ウォーシャドウは、確か六階層以降に出現するはず。初心者なら交戦する機会もない。

 

「これで全部っすかね。あっちの試着室で着てくるといいっすよ」

 

 試着室は、思ったより大きかった。全身タイツみたいなレザーアーマーを下着の上から着る。今の俺は某探偵漫画の犯人みたいだ。

 よく考えて見ると、この装備群が二巻でベル君が装備していたものにそっくりなことに気付き、苦笑してしまう。

 四苦八苦しながら、どうにかプロテクターを身に付け、その姿を鏡で確認して、改めて自覚する。

 

 

 俺は、もう冒険者なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まいどー」

 

 黒のレザーアーマー、鈍色のプロテクター一式、それに白いナイフを購入する。計七五○○ヴァリスなり。多分割引してもらった。

 

「違和感がありゃあすぐに来るんだぞ」

「はい。ありがとうございました」

「そりゃ店側(こっち)のセリフだっての」

 

 そうして「星空の迷い子」を後にする。

 さっき買ったバックパックに服は入れてあり、俺の格好はすでに冒険者だ。いますぐダンジョンへももぐれるだろう。

 

「んじゃ、その荷物を置きがてら、【エイル・ファミリア】に行こうっす。そこでポーションとかを買ったらいよいよダンジョンへ初アタックっすよ」

 

 他のファンタジーと違い、この世界には回復を行う術士なんてのは基本的にいない。【ロキ・ファミリア】のリヴェリアさんなんかはできるらしいが、知る限り彼女だけだ。

 つまり、回復は、回復アイテムであるポーションの独壇場なのだ。

 逆に言えば、ポーションなしでダンジョンに突っ込むのはかなり危険だということでもある。

 そしてポーションを取り扱っているということは、【エイル・ファミリア】はそういう商業【ファミリア】なのかと、道すがらトルドに訊いてみるのだが。

 

「まあ、ポーションとかの道具も売ってるけど、そうじゃないっす。【エイル・ファミリア】は一言で言えば病院っすよ」

「病院?」

 

 ポーションがある以上、冒険者は大抵の怪我や傷をポーションで治してしまう。そんな世界において病院とは、需要はあるのだろうか?

 

「病院は病院でも、基本的には一般人、オラリオの普通の市民相手にやってるんすよ。流行病とかは、治癒が主効のポーションじゃ対応し切れないっすから」

「ああ、なるほど……」

 

 それに、とトルドは続ける。

 

「冒険者相手にはもっぱらメンタルっすね。ダンジョンでトラウマを持ってしまった人たちの心の治療とかをしてるらしいっす」

 

 ふと思い浮かぶのは、【ミアハ・ファミリア】のナァーザ・エリスイスさん。まだ【ミアハ・ファミリア】は落ちぶれていないから、彼女も健在のはずだ。

 結構、いるのだそうだ。ダンジョンにもぐれなくなったり、武器を握れなくなる人が。

 それと、その病院は【エイル・ファミリア】のみの運営ではなく、一般人の雇用もしているらしい。

 

「そうやって、【ディアンケヒト・ファミリア】とかとの区別を図って競合しないようにしてるのか」

「その通りっす。……っと、着いたっすよ」

 

 歩くことしばらく。西のメインストリートの近くにその建物はあった。西、というと、あの「豊饒の女主人」とかがあるところだ。

 病院、というと、あの白い外観しか思い浮かべられない俺にとって、石造りというのはいささか違和感を感じたのだが、中はちゃんと病院であった。

 まず受付に待合席。奥の方に診察室などが連なっていて、二階以上は病室になっているらしい。案内板に書いてあった。

 

「こっちっすよ」

 

 待合席の後方の扉から、現代でいう薬局的な場所へ入る。別に、直接こちらへ来ることもできるのだが、挨拶のために探している女神(ひと)がいる。

 

 カウンターは病院の処方箋受付と道具売り場が分かれていて、そのうちの道具売り場に。

 

「あら、トルドくんとツカサくん。ポーションを御所望かしら?」

 

 エイルさんが座っていた。

 

「どうもです。はい、ポーションを買いに来ました」

「こんにちはっす。エイル様自らっすか」

「たまにはね?」

 

 柔らかく微笑むエイルさんは、また女神だけあって美しい。そこらで順番待ちをしている人たちもエイルさんに見惚れている。

 

「どれくらいのを何本お求めに?」

「そうっすね、お手頃なのを、ツカサに二、三本、ボクに一本でお願いします」

「はーい」

 

 ほんわかした雰囲気で、エイルさんは背後の棚から幾つかの試験管を取り出す。なんだか怪しげなクスリにしか見えないような色をしている。

 ちょっとだけ不安になるが、飲んだり掛けたりするだけで傷が治ったりするのだ、摩訶不思議な効力なら見た目もそれなりだろう、という解釈で乗り切る。

 

「そうね、八○○ヴァリスのが三本、五○○のが一本で二九○○ヴァリスになるかしら」

「……エイル様、すみません、それ普段一○○○ヴァリスで売ってるやつっすけど」

 

 トルドが小声で、笑顔のエイルさんに正直に申告する。

 

「初回サービスってことで。あと、ツカサくんにはこれも付けちゃうわ」

 

 エイルさんは、小さいポーチ的なものを更に取り出す。いや、多分レッグホルスターとかいうやつだ。ベル君がポーションを入れるのに使っていた記憶がある。

 正直助かるが、こういうことをしても大丈夫なものなのだろうか。ミアハさんは同じようなことをしてナァーザさんに怒られていたけど、【ファミリア】の経済状況次第なのかもしれない。

 

「失礼しますがエイル様? 何をしていらっしゃるのですか?」

「ひゃっ」

 

 知らないうちに、エイルさんの背後に怒気を漲らせた犬人(シアンスロープ)の女性が立っていた。エイルさんは驚き危うくポーションを取り落としそうになる。

 

「わ、私は休憩に入ったロザリーの代わりにちょっとこの仕事をね」

「ロザリーはただ今マクシミリアンの手術補佐をしております。何か他に申し開きは御座いますか?」

「ありません……」

 

 穏やかで底が知れない女神(ひと)だというイメージは一瞬で崩れ去った。案外お茶目だった。

 

「午後の診察が始まります。戻ってください」

「せめてこの場だけでも、やらせてくれたりは」

「ダメです。申し訳ありません。すぐに代わりの者を寄越しますので」

 

 眼鏡を掛けた理知的な出で立ちの犬人(シアンスロープ)の彼女は、渋るエイルさんを半ば引きずっていってしまう。ノエルさんと同じような、仕事の出来る女性といった感じの人だった。

 

「あの人が、オルなんとかさん?」

 

 昨日のヘリヤさんのように、あの人をオルたんとは言えない。

 

「そうっす。あの人はオルタンシア・シントラ。【エイル・ファミリア】団長っすよ」

 

 オルたんが名前そのまま、だと。

 

「お待たせしました」

 

 俺たちと同い年くらいの青年がカウンターに入る。愛想がよく、顔も悪くないので、きっとモテるのだろう。順番待ちをしていたおばちゃんたちから黄色い声が飛ぶ。

 

「ヨシフ、久しぶりっすね」

「そうだね。三ヶ月くらい?」

「それくらいっすね。えっと、ツカサ、こいつはヨシフ・レザイキンっす。古い友人なんすよ」

「ナツガハラ・ツカサくんかな? ヨシフです。よろしく」

「ツカサです。こちらこそよろしくお願いします」

 

 昨日エイルさんがすごく嬉しそうにみんなに俺のこと、というよりはヒルダさんのことを話していたそうな。

 

「さて、会計だったね。二九○○ヴァリスになります」

 

 ヨシフさんは、エイルさんが提示した金額のまま会計を行おうとする。

 

「その値段でいいんですか?」

「いいさ。主神がそういうならそれで。その代わり、うちを是非ともご贔屓に」

 

こういうときに、どう返したらいいのだろうか……。商売は苦手だ。値切りなども申し訳なくて、いままで一度もしたことはない。こういう交渉のときも、何かうまいこと言えたらどれだけ楽なことか。

目の前のイケメンみたいなスマイルができたなら、少しは違っていただろうか。いや、スマイルだけではダメだ。※イケメンに限る が付いてしまう。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

結局、それだけだ。ちょっと情けない。

 

 

脇差「紅緒」、無銘の白いナイフ、黒のレザーアーマーに鈍色のプロテクター。バックパック、レッグホルスターにポーション。

 

 

 

 これで、準備は整った。

 

 

 


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