武器と魔法と、世界とキミと。   作:菱河一色

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これは、もしかしたら「あった」かもしれない、物語。






第一章 オラリオへようこそ
第一話 五年ほど間違えてるよ、これ。


 

 

 

「うーん、やっぱり、どこにもない……」

 

 ギルド職員、ノエル・ルミエールは、ギルドの資料室で唸っていた。

 

 種族はヒューマン、本人は気にしているらしい鋭めの瞳と、邪魔にならないよう後ろで緩く結ってある艶やかな髪はどちらも青みがかった黒。

 ギルドの制服である、これまた黒のスーツとパンツも相まって、色素が薄めな彼女の肌とのコントラストが眩しい。

 その着こなしは完璧であり、誰がどう見ても仕事がバリバリできるキャリアウーマンだ。しかしギルドでの仕事は二年目、十八歳である。悩みは実年齢より年上にみられることだとか。

 

 窓口受付嬢の彼女が早朝からこんな、とにかく紙で埋め尽くされた空間で調べ物をしているのにはもちろんワケがあった。ギルドを訪れた人からの依頼、というよりは嘆願である。

 

でも、そんなに待たせてもいけないだろうし。しかし待たせた上で、やっぱりありませんでした、などという返答は自らの矜持が許さない。

 

 そうひとりごちて、今度はオラリオ内の店舗一覧を手に取る。別にオラリオ内で店を開くのは自由なのだが、治安などの関係もあり、ギルドは独自の調査でオラリオ中の店舗の情報を持ち合わせている。

 

 さっと店舗名に目を通してゆくけれど、探している単語の面影を残しているようなものすら出てこない。

 人名及び通称、敬称、二つ名、(ジョブ)などの資料を引っ張り出してきたものの、該当するものはなかった。母数が膨大なため、全て確認したわけではないが、頭文字が一致しているものを重点的にやってきたので、見落としの確率は低いはずだった。

 

 ギルドで働き始めて早二年。調べても訊かれた物事がわからない、というのは、それなりに仕事ができるという自負もあったし実際そうだった彼女にとって、初めてのことで。

 

 

 そういえば。

 視点を変えようとしたところで、依頼者の名前がふっと浮かび、ノエルは違う棚へと歩き出す。

 確か、極東方面の名前、だったはずだ。その辺りには何か、手がかりになるものがあるかもしれない。

 

 夏ヶ原司。早朝のギルド窓口にやってきた、今朝オラリオを訪れたという彼は真剣な表情で、ノエルにとある情報を求めた。

 ギルドとして、機密事項であるものや【ファミリア】内部のもの、個人の情報は渡せないが、それ以外の重要度がそれほど高くないもの、例えばモンスターの生態や各【ファミリア】の入団条件などは、求められれば開示することになっている。

 

 新人だった去年に散々調べ物を押し付けられて、悔しかったので主要な質問に対する回答を片っ端から覚えていった結果、二年目で窓口受付嬢になった。容姿がいいのもあるだろう。しかし、それ以上にこのポストは実力が求められる。情報の正誤は冒険者にとって死活問題だ、よって、ダンジョンでは全てが自己責任とも言うが、冒険者に正しい情報を提供できなければ、この職は務まらない。ノエルはいまの仕事にそれなりに誇りを持っていた。

 

 極東方面で纏められた棚から、またいくつかの資料を取り出し、ぱらぱらとめくる。しかし、目当ての文字はどこにもない。

 極東の方からの冒険者、行商人は他と比べてかなり少ない。やはり距離的な問題が大きいのだろう、最近は増加傾向にあるが、それでもまだ圧倒的少数と言える。そのせいで、ギルドが持つ極東の情報は乏しい。

 そうなると、ギルドが持つ情報よりも、夏ヶ原司、彼の方が、特定分野においては造詣が深い可能性すらある。もしそうなら、彼の要求に応えられないことも十分あり得た。

 

 極東の資料にも、目的のものについての記述は皆無だった。

 探し尽くした、というわけでは決してないが、これ以上続けても見つかる気がまるでしない。

 しかし、とノエルのプライドが声を上げる。ここで諦めていいのかと。もう少し探せば出てくるのではないかと。ワーカホリックぎみな心の声に揺さぶられながら、ノエルは苦悩していた。

 

 そもそも、手がかりがなさすぎるのだ。こんなことならもっと詳しく訊いてくるんだった。

 ここは、正直に言いつつ一回納得してもらって、また後日、探す時間をもらった方がいいのではないか。でももし彼が切迫した状況下に置かれていて、一刻を争うような状態だった場合は、その場合、は。どうしようか。どうしたものか。

 

 

「もう……一体なんなのよ、『テンセイシャ』って」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、知らない天井……ではなく、どこまでも青く澄み渡った大空が広がっていた。

 

「…………え?」

 

 しばしの思考停止の後に、辛うじてそれだけ発声する。ちょっと、頭がついていかない。

 

 俺の家の天井は白だったはずだ。それ以前に、俺はちゃんとベッドで寝ていたはずだ。それに、いくらなんでも外まで転がっていくほど悪い寝相をしていた覚えもない。

 つまり、ここは俺の家ではない。確定的に屋外だ。しかし、なぜ?

 

 誘拐、拉致、強盗……不穏な単語がいくつかよぎるが、ひとまず状況を確認しないことには始まらない。強盗なら殺されているだろう。なら、ここは死後の世界の可能性もあるわけだ。

 

 起き上がると、俺が寝転がっていた場所が、石でできている、橋、というよりは、城壁のようなところの上であることが推測できた。それなりに幅も広く、ずっと先まで、緩いカーブを描きながら続いている。

 

 そして、俺がいま着ている服にも気がついた。

 制服。それも、去年卒業したはずの、高校のときの黒いブレザーの制服だ。石畳の上(こんなところ)で寝ていたので、白っぽい汚れが付いてしまっている。

 

「なんで、こんな……」

 

 もう着ることもないだろうと、クローゼットの奥に吊るしておいたはずのもの。いまの俺は、完全に高校生のときそのままの格好だ。

 

 近くに人がいると眠れないタチだったから、寝ている間に着替えさせられたということはあり得ない。睡眠薬でも盛られたか。だとすると、相当物騒な話になってくるので、どうかイタズラでした、ってオチになってほしいな、と願いながらゆっくりと立ち上がった。

 

 俺の期待はものの見事に裏切られることとなる。

 

「こ、れは……さすがに…………」

 

 腹ほどの高さの石壁の向こうには、雄大で美麗な大自然がこれでもかと広がっていた。

 手前の方は背の低い草原がずっと続いており、いくつかの馬車道が遥か先まで伸びている。遠くには鬱蒼と生い茂る濃緑色の森林があり、鳥の群れが飛び立つのが窺えた。霞むほど遠方には白い帽子を被った、険しい山脈が連なっている。

 とにかく綺麗な景色が、そこにはあった。日本の首都圏に住んでいてはなかなかこんな風景は拝めないだろう。空気も澄んでいて、視界を遮るものはなにもない。俺の視力は決していいわけではないが、それでも、はっきりくっきり見える。

 

 ここまでくればドッキリ企画程度の話ではない。ひょっとして夢か、と一瞬思ったが、今まさに昇ってきている朝日の眩しさ、頬を撫でる爽やかな風、微かに聞こえる鳥の鳴き声。それらはあまりにも()()()()()()

 

 しばし石壁から身を乗り出し、固まっていた俺は現状の把握に努めるも、まるで考えがまとまらない。

 ここは日本ではない。憶測だがここまで壮大な自然は、恐らくない。ならここはどこだ? 俺はなんでこんなところにいる? 何が起こった?

 

 

 

 ――日本は一夜で滅亡し、綺麗な自然だけが残りました。

 

 現実性がない。だいたいなんで俺だけ生きているんだ。

 

 

 ――実はドッキリでした。これはアフリカ南部の広大な草原だよ。

 

 こんな平和な大自然があってたまるか。現代ではどこも人の手が入っている。それに、この立派な城壁はどう説明する。

 

 

 ――ここは異世界だよ。異世界転生だよ。

 

 冗談もほどほどにしろ。

 

 

 

 くだらない考えを巡らせていると、ふつふつと当て所ない怒りがこみ上げてきた。

 そもそも、今日は俺の第一志望校の合格発表の日のはずだった。一浪して、必死になって受けた試験の合否判定が出る日。だから昨日は早めに寝た。眠れなかったけど、なんとか睡魔はやってきてくれた。

 

 起きたらこれだよ。

 

 運が悪いどころではなかった。最悪だ。

 きっと合格発表は観られない。例え受かっていたとしても手続きに大学に赴くこともできないだろう。何者かに俺の努力を全て無駄にされたことで、どうしようもないほどのやるせなさが襲ってくる。これまで頑張ってきたのはなんだったんだ。こうなるなら最初から言っておいてくれよ。俺は結果も出ていないのに過程を振り返って満足するような人種ではない。

 

 しかし怒り狂っていても仕方が無い。俺は深呼吸をし、新鮮な空気及び酸素を取り入れる。こうしてエネルギーの無駄遣いをなくさないと、多分保たない。身体も、精神も。

 多少なりとも落ち着くと、先ほどまで感じていた焦りは鳴りを潜め、代わりに諦観がやってくる。

 

 これは、どうしようもない、と。

 

 一番可能性がありそうなのが、異世界転生だということになんとも言えない嫌な予感を覚える。そもそも俺は寝ていたのだ。転生トラックがうちに突っ込んできたとでも言うのか。閑静な住宅街に立地していたんだぞ。心臓発作だとしたら、まだあり得るが、それでも限りなくゼロに近い確率ではあるだろう。なら、ただのトリップであるかも知れない。トリップの時点で「ただの」ではないのだが、それはこの際どうでもいい。

 確かに俺も異世界モノを読んで、異世界転生でもしてみたいな、などと思ったことは一度や二度ではないけれど。憧れてはいたけれど。小さい時から、異世界に飛んでしまったらどうするかを何度も何度もシミュレートしたけれど。

 実際遭ってみると、帰りたい、という感想しか抱けない。タイミングが悪いのもあるだろうが。

 

 本当に、どうしたものか。とりあえず、この世界がどんなものなのか、俺が知っている世界なのか、知らなくてはならないか。

 

 そういえば俺が立っている城壁のような石壁は、こちら側に張り出すように弧を描いている。そしてこちら側には草原。つまり、こっちは外だ。

 そして、俺の背後の方が、この城壁のような壁の中ということになる。そんなことはまず気付いて然るべきだし、薄々感づいてはいた。でも、振り返るのが躊躇われていたのだ。

 もし、まったく文明が発展していない世界だったらどうしようとか、いや、こんな壁を築けるのだからそれなりに繁栄はしているだろうが。亜人間の世界で、俺のような人間が虐げられている世界であるとか、恐ろしい化け物が跳梁跋扈する鬼畜外道な世界とか。嫌な想像は止まらない。

 しかしここで振り返らなければ、結局なにも変わらない。ポケモンにおいて旅に出るのが怖いから家に閉じこもっているようなものだ。例えがひどいな。

 

 

 俺は、意を決して振り返った。

 

 

 

 そこには、街があった。

 

 ただの街ではない。中世風の建築、途轍もなく巨大で円形の外壁に囲まれた、どこか見覚えがある街。白亜の摩天楼……五十階立ての天を突く塔を中心に据えた、大都市。

 

 

 

 

 

 迷宮都市オラリオが、そこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここがほぼ「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」略して「ダンまち」の世界であることが確定した後、俺がすることは至極単純だった。

 まだ目覚めきっていない早朝の街を急ぎ足で通り抜け、ギルドまで赴く。それだけだ。

 とりあえずギルドに行けば多分なんとかなる。いろんな情報をもらったり、【ファミリア】の紹介をしてもらったり。少なくとも、そこらをうろうろしている方がよっぽど危険だろう。

 

 ギルドに行く。それだけでも、相当な神経を使った。早い時間といってももう太陽は顔を出しているし、道端にはそれなりの人がもう出てきていたのだ。大体丸一年、自室で勉強漬けの日々を送ってきた俺だ。外に出ること自体久しぶりだし、日差しは目に染みるし、人の視線にも敏感になりすぎてしまった。たまに行くコンビニの恐ろしさを思い出す。不躾な店員の視線を。

 それに、あまりに場違いなこの服だ。一応ブレザーは脱いで腕に掛けているが、それでもこんな小僧がピシッとした服装でいれば、デキるイカした青年か、どこぞの世間知らずのお坊ちゃんかに思われるだろう。前者ならまだいいが、後者など、この街では格好のカモに変わりあるまい。

 

 道幅も結構あるメインストリートの一本を、早足で黙々と進んだ。俺が寝ていた市壁は、太陽の様子からして東だった。この世界でも東から日が昇るのならば、だが。というか、オラリオ自体かなりの大きさがあるのだろう。ギルド本部がある北西のメインストリートまでかなりの距離があった。

 ギルドの内部に足を踏み入れると、白大理石のホールに圧倒された。想像以上に大きなロビー、壁の近くの彫像などもなんだか独特の雰囲気を出していて、そしてなにより、受付窓口にいる、『冒険者』たちから、これぞ異世界、という空気をひしひしと感じた。ここに来るまでの道端でもちらほら見かけたが、やはり今からダンジョンにもぐろうとしている人たちはオーラが違うし、たくさんいるとそれだけ存在感も増す。

 

 そのまま突っ立っていると、ただでさえ注目されているのにさらに衆目を集めてしまいそうだったので、まず、探すべき人を探した。それはもちろんエイナさんだ。

 エイナ・チュール。原作において主人公である「ベル・クラネル」の担当アドバイザーを務めているギルドの窓口受付嬢。ハーフエルフであり、仕事人っぽい見た目ながら案外親しみやすい性格であり、評判もいいらしい。この時点でエイナさんがいるといないのとでは大違いだ。いなかった場合、最悪頼れるような人と巡り合えることを願いながら街を徘徊することになるかもしれない。

 しかし、確認できる限り、エイナさんは窓口のカウンターにはいなかった。いや、シフトというものもある。そのときいなかっただけで、エイナさんはいないと断定するのは早計というもの。

 

 とりあえず、情報が欲しかった。この街の大まかなシステムやらは識っているので、ここは異世界転生のことについて訊くべきだろうか。

 

 ……なんてことを思って、一人の綺麗な窓口受付嬢に訊いて、今俺は、小さな一室――個別ブースのようなものだろうか――で、ノエルと名乗ったギルド職員の帰還を待ちわびている。しかし、もうすぐ一時間が経過しようとしているが、彼女は一向に現れない。

 

 もうそろそろ街も本格的に起きて、外の喧騒が僅かにここまで届くようになってきた。大丈夫か、遮音機能は。

 

 こんなに時間がかかるということは、やはり情報の捜索が難航しているのだろうか。それとも、実は機密事項で、教えるべきか否か話し合っているとか。単純に調べる資料が膨大なのかも知れない。何にせよ、俺にできるのは待つことだけだ。

 おもむろに天井を見上げてみる。そこには、見慣れた蛍光灯や電球の代わりに、魔石灯が光り輝いていた。それだけで、ここはいままで生きてきた所と違うのだ、ということが実感できてしまう。

 テーブルの脇に置いてある観葉植物に触れてみる。現世でいう「パキラ」に似ているが、なんとなく、違うような感じもする。これもこの世界特有のもの、なのだろうか。

 

 異世界、ときたら、まず大きな障害となるのが文化の違いだ。残念なことに、相当進んでいる現代から主人公たちが飛ばされる先の世界は、なぜか中世風であったり、かなり荒廃していたりする。しかし、さすが主人公とでもいうべきか、彼らは即座に異世界に溶け込んでゆく。最初は「アニメとか漫画とかじゃなく、現実、なんだよな」なんて言ってたのが嘘のように。

 しかし実際はどうだ。どっぷりと近代技術に頼りきっている俺たち現代人が突然中世に放り込まれても、すぐに馴染むなど至難の技としか思えない。すぐ流行病にでも罹って死にそうだ。

 

 文明の利器に頼れないのも辛い。移動はせいぜいが馬車だし、インターネットなども存在しない。現代からしてみるとどれだけ時代遅れなことか。

 その点では、ここ「ダンまち」の世界に来たのは運が良かった方だと言える。魔石製品は魔石灯だけでなく、発火装置や冷蔵庫の役割をする冷凍器などのものがあり、中世「風」ではあっても完璧に中世でない辺りは非常に心強い。まあ、それでも不便を感じることはあるだろうけど。

 

 衣食住に関してはどうだろうか。ギルドの窓口受付嬢の制服がスーツとパンツなことから鑑みても、衣はあまり心配ない。食についても、ベルくんが「豊饒の女主人」でパスタ頼んでたし、じゃが丸くんなどの例外もあれど大体は現代と遜色はなさそうだ。

 問題は、住環境だろう。中世と言わず、普通欧米では家の中でも靴を履いている。最近では靴を脱ぐ家庭も増えているらしいが、それは今関係ないとして。日本で育った俺はそんなの気持ち悪くてできそうにない。極東、という地方は日本をイメージしてあるのだろうが、少し古臭い感じは否めない。どちらにせよ、住に関しては……我慢するしか、ないだろう。嫌なら自分で文化を広めるのもやぶさかではないが。

 

 今はまだ、無理やり外国旅行に来ている気分になって誤魔化している。しかしそのうち限界がくるのは明らかだ。そのとき、取り乱さずにいられるかが重要、なのだが、それまでに環境を整えておくことが必要不可欠だろう……できるかどうかは別として。

 

 することもないのでつらつらとそんな思考をこねくり回していると、扉がノックされ、たと思うと間髪入れずに開かれた。それノックの意味あります?

 

「すみません、お待たせしました。結論から申し上げますと、ナツガハラさまの御期待に添えるような資料を見つけることができませんでした。申し訳ありません」

 

 部屋に入って早々に、ノエルさんは謝罪の姿勢をとる。お美しい。

 

「え、いや、全然大丈夫です。ダメでもともと、くらいの気持ちでいたので」

 

 そう、悪いのは彼女ではない。おそらくこの世界には存在しないであろうことについての情報をくれ、などと無茶振りをした俺に全責任がある。なので、謝られると逆にこっちこそ申し訳なくなる。

 あわててフォローを入れると、ノエルさんはちょっとだけほっとしたように雰囲気を緩め、テーブルを挟んで俺と向かい合わせの椅子に腰を下ろした。

 

「一応、これを……」

 

 そして、入室時から小脇に抱えていたバインダーのようなものをテーブルの上に出してきた。

 

「これは?」

「モンスターの転生についての資料の一部です。せめて、何かの参考にでもなれば、と思いまして」

 

 いくらかの紙がはさまっている黒のバインダー。的なもの。これはこの世界でバインダーと呼んでいいのか、まだわからないから曖昧だ。

 

「あー、じゃ、じゃあ、これだけでも借りていってもいいですか?」

 

 十中八九、関係ないだろうが、知識を増やすのに越したことはないだろう。結構分厚めなのでここで読み切るのは無理だ。

 

「はい。では、こちらの用紙に必要事項の記入をお願いします」

 

 既に用意してあったのだろう、ノエルさんはどこからともなく紙とペンを取り出し、俺の方へ差し出す。その用紙に書き込もうとして――固まる。

 懸念事項がありすぎる。

 

「どうしました?」

 

 紙にペンが触れる直前でぴたりと停止した俺を訝しんで、ノエルさんが声を掛けてきた。

 

「すいません、俺、文字が……」

 

 まず文字。この世界では、どんな文字を使うかわからない。作中では共通語(コイネー)という、文字通り共通語を使うらしいが、それがどんなものか、皆目見当もつかないのだ。作中では、外伝五巻において、『共通語(コイネー)とも【神聖文字(ヒエログリフ)】とも異なる、『D』という形の記号』という一文があるのみで、今のところ、恐らくアルファベットは存在しない、くらいしか情報はない。

 

 というか、それならこのモンスターの転生だかの資料を借りても読めないだろう。なんか小難しそうだし勉強したとしてもすぐに読めるようになるとも思えないし。

 

「そうなのですか? では、私が代わりに書きましょう」

「お願い、します」

 

 ここはノエルさんが書くところをよく観察し、この世界の標準語を学ぶ足掛かりにしなければ。

 あれ? 標準語? そういえば、俺、なんで……。

 

「ナツガハラ・ツカサさん、で、よろしいですね?」

「え? あ、はい」

 

 ここで、一つの疑問が生じる。俺、なんで、普通に会話ができてるんだ? この世界の言語は、知らないはずなのに……。

 さらさらとノエルさんが紙にペンを走らせてゆく。その光景を目の当たりにした俺は、雷にでも打たれたような衝撃を受けた。だって、それは。

 

「あの、ノエルさん、やっぱり俺、その共通語(コイネー)、書けると思います」

「あら、そうですか?」

 

 ノエルさんから新しい紙と、再びペンを受け取り、迷いなく自分の名前を記入する。――漢字で。

 

 そう、共通語(コイネー)は、()()()()()()()。少し考えればわかることだったのだ。窓口でノエルさんに言葉が通じた時点で、気付くべきだった。恥ずかしい。異世界転生にありがちなチート自動翻訳機能かと。でも、なぜ日本語、なのだろうか。

 

「その、ずっと無知なまま引き籠っていたもので。まさか自分が使っていた文字が共通語(コイネー)だったとは、思わなかった、と、いいますか」

 

 思わず口からでまかせを言ってしまう。いや、でも、案外間違ってはいないのかも知れない。的を射てはいる。でも、文字を書けるならもう大丈、

 

「そうでしたか。では、次に、所属【ファミリア】名の記入をお願いします」

 

 大丈夫じゃなかった。

 

「俺、【ファミリア】に入ってなくて」

「ああ、そういえば、今朝オラリオに訪れたと仰られていましたね。しかし、そうなりますと、身元の確認がとれないので貸し出しができませんね」

 

 仕事のデキる女性を体現したような容姿のノエルさんが、しまった、というような表情をするのはなんだかとても新鮮だ。こう、グッとくる。

 

「やっぱり、その資料はいいです。後日、落ち着けてからまた、借りに来たいと思います」

「はい、わかりました。……ほ、他に御用件はありますでしょうか?」

 

 仕事熱心なのか何なのか、立て続けに仕事を完遂しそびれたノエルさんはテーブルに身を乗り出して迫ってくる。やばい、いい匂いする。免疫が非常に衰えている今の俺にはキツい。

 

「じゃ、じゃあ地図をもらえ、いや貸してもらえませんか。【ファミリア】の本拠(ホーム)を個々に記してあるものとか、ありますかね?」

「地図ですね。少々お待ちください!」

 

 入ってくるときよりも素早く退室していったノエルさんは、すぐ外にいた上司らしき人に、走るなと怒られていた。あの人、見た目と中身が微妙に食い違っている感じがする。ギャップ萌え狙いとかだろうか。ないか、ないな。

 

 

 

 やっと仕事を全うできる、と喜びに満ち溢れている立派なワーカホリックなノエルさんを目の当たりにした同僚は、もっと彼女を休日に外に連れ出してあげよう、と心に決めたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 迷った。

 

 どこともつかない裏路地には、人っ子一人いなかった。

 

 地図と、団員の募集をかけている【ファミリア】一覧をノエルさんからもらい、いくらか相談に乗ってもらった後、直接本拠(ホーム)を訪れて入団志願しようと思ったの、だが。

 

 手元の地図に目を落とす。読み方はわかるし、方向音痴なわけでもない。ちゃんと道順もしっかりしていたはずだ。それでも、こうして迷ってしまっている。

 ついさっきまで聞こえていたメインストリートの雑踏も聞こえない。不気味だか神秘的だか、辺りは静寂に包まれている。

 テレビでしか見たことはないが、ヨーロッパの歴史的な街の裏路地、みたいな感じだ。ただし人は全くいない。

 

 もちろん、何かおかしい、と気付き、もと来た道を引き返そうとしたのだが、なぜかメインストリートまで辿り着けなかった。それでこのザマだ。

 さすが迷宮都市だぜ、なんて言っている場合ではない。食料も飲料水もない今は、都市の内部であろうと、ちゃんと生命の危機に違いないのだ。

 とりあえず、元の道には戻れないことがわかったので、今度は進むことを選択する。

 

 

 

 そもそも俺は、【ヘルメス・ファミリア】の本拠(ホーム)に向かっていた。

 

 ノエルさんとの会話を思い出す。

 

 まず、ノエルさんが持ってきた一覧にざっと目を通し、抱いた疑問をぶつけてみた。――【ヘスティア・ファミリア】はないのか、と。

 返ってきた答えは「ありません」だった。

 

 他にも、【タケミカヅチ・ファミリア】がまだ結成されておらず、【アストレア・ファミリア】が健在であった。そして、【ゼウス・ファミリア】、【ヘラ・ファミリア】が壊滅したのは、()()()()()()と、ノエルさんは語った。

 原作において、ゼウス、ヘラ両【ファミリア】がオラリオから追放されたのは、()()()()()()()()()()()。つまり、この世界は原作開始五年前、もしくは都合のいいパラレルワールドである、ということだ。おそらくは前者だろうが。

 

 となると、どこに身を寄せるのがいいだろうか。何にせよ、【ロキ・ファミリア】や【フレイヤ・ファミリア】には入れる気がしないし、【ガネーシャ・ファミリア】や【デュオニュソス・ファミリア】なども一応大手とあっては簡単に入団できるとも思えない。【アポロン・ファミリア】や【イケロス・ファミリア】などは論外。他にもいろいろ【ゴヴニュ・ファミリア】や【ディアンケヒト・ファミリア】なども候補に挙がったが、やはり好奇心から、探索系【ファミリア】に入りたくなったために見送った。【デメテル・ファミリア】には後ろ髪を引かれる思いがしたけれど。何故かは言わない。

 

 というか、ここで一つの疑問が生じる。本編に関係がある【ファミリア】に入るべきではないのかどうか、だ。オリ主のダンまち二次小説は割と読んでいたが、結構本編に関わるような話が多い気がした。そういう話は平行世界として処理されるのが定番である。そうなると、干渉をしても問題ないことになる、のだが。しかし、こうして実際訪れる側になってみると、影響を与えてしまうことに恐怖を感じてしまう。

 なまじ、原作の展開を知っているがゆえに、世界が自分の知らない形に変化していくのは不安になってしまうのだ。

 この世界が「ダンまち」の世界である、と捉える以上、「ダンまち」でなくなったとき、崩れ去る可能性すらあるのが恐ろしい。

 

 そういう考えもあり、【アストレア・ファミリア】や【ソーマ・ファミリア】に入り、流れを変えてしまうことが躊躇われた。結果がわかっている立場だからこそ、リューさんやリリを助けたい気持ちが先行する。しかし、それでは決して「原作に繋がらない」のだ。本当はそんなことを気にしなくてもいいのかも知れないが、万が一、ということもある。それに、何故俺がこの世界に来てしまったのか、まだわかっていないから、という言い訳も。

 

 そんな葛藤を経た上で出した候補は、【ミアハ・ファミリア】と【ヘルメス・ファミリア】の二つ。

 もう、ある程度の干渉は仕方が無い。しかし、もしこの世界が原作の展開に続くというならば、【アストレア・ファミリア】崩壊を回避することも、リリを救うことも、控えなければならない。見て見ぬ振りをするようで罪悪感があるが、そうしないと「ダンまち」は成り立たない。ナァーザさんの件についても、そのとき俺が【ファミリア】を離れなければいいだけの話だ。ナァーザさんには嫌な顔をされるかもしれないが。

 その二つでダメなら、どこか原作に出てこない【ファミリア】を探すことにする。

 

 というわけで、まずゼウスの話をすればこちらの話も聞いてくれそうな【ヘルメス・ファミリア】に向かっていたのだが……。

 

 

 

 さっきまでの、活気溢れるメインストリートとは程遠い、ひんやりとした空気のみが満たされている裏路地を進む。

 もうすぐ最高点に到達するはずの太陽の光も差し込まない日陰のみの道は暗く、このまま進んでいってもいいものなのか不安になる。

 裏路地とはいっても、道の左右に壁となって建っているレンガ造りの建物は、なぜか、どこも出入り口が存在しない。表にしかないのかも知れないが、それでも異様なほど生活臭がしない道に、薄気味悪さを感じずにはいられない。

 

 まさか、入ってはいけないようなところに迷い込んでしまったのでは……? こんなファンタジーな世界に来てまでホラー展開は嫌だぞ。

 なんとなしにいくつかの角を曲がり、歩き続けていると、段々腹も減ってきた。これは最早遭難と呼べるのではないだろうか。

 

 このまま餓死もしくは凍死なんて嫌だ……と冷や汗をかいていると、不意に、吹き抜ける風の音だけだった路地に、ぱしゃ、ぱしゃ、と、水を散らす足音が聞こえた。なんだか甘い匂いも漂ってくる。

 その音のする方へ小走りで回り込むと、長くまっすぐな道の先に、陽光が差し込んでいる空間があった。

 やっとこさどこかに着いたらしい。どんな所かはまだわからないが、とにかく行ってみるしかないだろう。

 

 警戒しつつ、長い直線を、足音を立てないよう気を付けながら歩ききる。

 

 

 

 視界に飛び込んできたのは、たくましい木々、揺れる草花、流れる小川。まるで森の中だ。突然の場面転換に、しばし立ち尽くす。

 

 美しい森林の理想を体現したかのような美麗な景色に、言葉を失う。大都市の内部に、こんな浮世離れした場所があるとは、思いもよらなかった。

 鳥のさえずりや、川のせせらぎ、木々のざわめきが穏やかな風に乗って流れてくる。どこぞの楽園かと見紛うほど優美な空間だ。妖精などが住んでいそうな雰囲気に呑まれそうになりながらも、人が通った形跡がある小道を見つけ、神秘的な雰囲気を放つ森の中へ、分け入っていく。

 

 ここが街の中だということを忘れてしまいそうになりながら、少し歩くと、石畳の小さな広場のような場所に出る。四方向から流れてくる小川が水路に変わり、中央の噴水に注いでいた。

 どうやら、ここが中心らしい。とすると、この森、そんなに大きくはないかもしれない。こんな森があること自体イレギュラーなので大きいも小さいもないだろうが。

 

 先程耳に届いた足音が、一つの小川の方からまた、聞こえてくる。それは、けして粛然とは言えないこの空間において、不自然なほどよく通った。

 恐らく、この領域の主のような人物だろう。挨拶くらいはしておくべきだ。それと、なんとか助けてもらえはしないだろうか。

 きっとこんなところにいるのだから、さぞや幻想的で綺麗な人に違いないと勝手な妄想をしながら、水が跳ねる方へ向かう。

 

 そして、ちょうど足音の主がいるであろう場所のすぐ手前、先を見通せないほぼ直角の曲がり角で、俺はあることに気付き、立ち止まった。

 これ、よくあるラッキースケベのシチュエーションじゃないか?

 多分このままそこの角を曲がって声を掛けたら相手は水浴びでもしていたところで、悲鳴をあげられるような、そういうのじゃないか? いやただの妄想だけど、ここは異世界なんだ。可能性は十分にある。多分。

 

 どうやら向こうはまだこちらに気付いていないらしく、再び水をぱしゃぱしゃやっている。

 もし本当にそうならば、そこら辺に衣類やらが置いてあったりするはずなので、飽くまで確認のために辺りの捜索をする。もう一度言うけど、飽くまで不慮の事故を回避するために、捜索しています。

 

 そして、案の定、石の上に、折りたたまれているふわふわした白いものを見つけてしまった。

 衣類かどうかも釈然とせず、ちょっと見ただけではよくわからないので、近寄って、手に取ってみる。他には何もないようだけれど、これは……?

 

 白いモノは、まるで質量がないようで、持っている、という実感が湧かないほどに軽かった。ずっと触っていたくなるほどに手触りも素晴らしい。しかし、これはなんだ。シャツでもズボンでもコートでもない。あまり触ってはいけないと思いながらも、広げようとしてしまう。

 

 その瞬間、びっくり箱からおもちゃが飛び出るような勢いで、それは()()()()()()()()

 

「これは……」

 

 一気に横三メートル、いや、三M(メドル)ほどに開展したそれは、まさしく。

 

「あ、あのー……」

 

「!」

 

 硬直。

 

 小川の方から、困惑気味の声が掛けられる。瞬間的に今の自分を客観視してみて、さっき事故を回避するためにとか言ってた過去の俺をぶん殴りたくなった。そしてこれの持ち主の心情も察せた。本来誰もいないはずの場所に、なぜか自分の衣服を手に取り広げている輩がいれば、それは困惑もするだろう。

 全力で謝ろうともう心に決める。こんなことをしておいて今更だろうけど。それでも、誠心誠意土下座すれば、或いは。

 

 そんなことを一瞬で考え、ぎこちない動作で、声の主の方へ振り向く。

 

「私の羽衣、返してくれませんか……」

 

 

 

 そこには女神が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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