マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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九 王国戦士長を殴るという行為に怯えは無い

 その夜、村長の家で王国戦士長と何やら話をしたらしいマーレが、一人でエンリの家に戻ってきた。村長夫人の作った食事を持たされていたのは、マーレへのお礼の一部なのだろう。ネムを残してきたのは、エンリが予め村長夫人に頼んでおいたからだ。あんなことがあった後だからネムは知っている大人がいる家で泊まらせたいという話を快諾した上、ネムの世話だけでなくエンリとマーレの食事まで用意してくれた村長夫人には頭が上がらない。既に気力も尽きかけ、エンリは食事を抜くつもりで空腹に耐えていたところだった。

 エンリの家でマーレを迎えたのはエンリだけではない。家の中には、マーレの最初の玩具である幼い少女が所在無く座り込んでいた。ネムも滞在している村長の家に、こんなものを連れて行かせるわけにはいかなかったのだ。同時にそれはネムを家に戻せない理由でもあった。

 

 エンリは知っていた。おそらく今夜、マーレは手に入れたばかりの玩具を弄び、嗜虐の世界を見せ付けるだろう。

 

 エンリは覚悟していた。もしかしたら今夜、エンリはずっと守ってきたものを散らされ、新たな世界へ連れ去られるかもしれない。

 

 それでも食事は美味しかった。昨夜に比べて外見上は何も変わらないはずのマーレだが、エンリにとってその存在は果てしなく大きく、人が減った食卓でも喪失感を味わうどころではなかった。エンリはちらちらとマーレの様子を窺い、思い詰め、顔を紅潮させ、食事を掻き込む。ひたすらその繰り返しだった。想像の中の(ただ)れた世界に心をもっていかれないよう、なるべく食事に集中し、その味を堪能した。

 もう一人の少女は自ら食事をとらなかった。手に持って食べられるものを渡されて、食べるように命じられれば食べるだけ。飲み物も同じだった。口の端からこぼれたものをマーレが拭いてやっているのを見た時は、エンリは理由のわからない苛立ちを覚えた。わからないことに戸惑い、やがてどうにか答えをひねり出した。同じ玩具の身でありながら、何も感じず何も考えずにただそこに在るだけの少女の、その気楽さに嫉妬したのだということにした。何かと心せわしい状態だったから、それがテーブルを拭くための雑巾だということを言いそびれた。わざわざ言わないでおいたのかもしれない。

 

 食事の片付けを済ませた頃、マーレが布団に入るというので、とりあえずエンリは身体を拭くことにした。

 不思議と、すぐに呼ばれなかったことに安堵などは感じなかった。マーレの最初の玩具は、マーレ自身には到底及ばないが、エンリの目から見ても充分に美しい。痛みひとつない艶やかな金髪も、品の良い顔立ちも、透き通るような肌の白さも、外仕事などしたことがないような繊細な手足も、全てがエンリと違う世界の存在だと感じさせる。開拓村で日々農作業に従事してきたエンリの持たないものばかりを持っている。二番目のエンリが二番目でいるのは自然な事だった。再び感じるよくわからない苛立ちは、やはりあの少女の気楽さに対するものだろう。こんな時、緊張も不安も感じないというのは本当にいい身分だ。きっと、それだけだ。

 

 今日はろくに炊事を行わなかったため、水は沢山残っている。普段の倍の時間をかけて、普段おざなりになるような部分までしっかりと拭いていく。 ひやりとした感触に慣れない部分も念入りに仕上げると、これまで感じたことのないような新しい感覚に気付くこともあった。そのことには、不思議と恥じらいは感じない。そもそも、自分の身体をここまでしっかりと見たのは初めてのことだ。日焼けの無い部分が思ったより綺麗で、肌もなめらかだったのが嬉しかった。これからは自分の身体ともっと丁寧に付き合っていこうとさえ思った。

 普段よりもずっと多く、残った水を全て使ってしまったことに他意は無いつもりだ。

 

 完璧に身体を清め、覚悟を決めて布団に向かうと、既にマーレが可愛い寝息をたてていた。少し離れて、外套を羽織ったまま座って丸くなっている少女は目を閉じ、眠っているのかよくわからない。

 顔を紅潮させた妙齢の少女は、しばらくその場に立ちすくんでいた。月明かりに照らされた年相応の起伏のでてきた肢体を、いくらか冷えた初夏の夜の隙間風が優しく這いのぼっていく。

 

「くしゅん」

 

 エンリは、血塗れの服を漬け置きする水が一滴も残っていないことに気がついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝早く、エンリは一人で村長の家に来ていた。マーレはまだ布団の中だった。

 エンリに話があるというのが村長ではなく王国戦士長だと知ったのは、テーブルについてからのことだった。

 

 

 王国戦士長の要職にあるガゼフという男は、その朴訥そうな武人らしい雰囲気に反して、卑劣な男だった。彼がマーレとともに戦いに出た時に村長から聞いたところによると、戦士長というのは国王の前の御前試合で実力を示した王国一番の戦士だということだが、それなら騎士と呼ばれる高い身分についていないのはどこかおかしい。どう考えてもその品性に問題があり、騎士らしい行いができない男だからに違いない。

 少なくとも、エンリはそう信じている。

 

 

 あの時、ガゼフの態度に傲慢さがあったわけではない。それは王国戦士長という立場にあるガゼフから一介の村娘に向けられたものとは到底思えないほど物腰の低い丁寧なものであって――その部下たちから時折漏れる魔女という言葉には多大な問題を感じたが――、表面上は過分なほどに礼儀を尽くした交渉だった。

 問題はその内容と、取り巻きたちだ。とにかく、これが酷い。まず取り巻き連中は血塗れとか魔女とか話の要所要所でいちいち(ささや)かないで欲しい。

 

 マーレが主人を探すため旅立つのはわかっている。危機が去った今、村の誰もが喜んで送り出すだろう。いくらお礼をしても足りない恩人ではあるし、足りなければ路銀を持たせたっていい。色々あったが、その出立こそカルネ村における真の平和の訪れであり、旅の無事を皆が祈るだろう。もちろんエンリも、村でマーレの旅の無事を祈る側でなければならない。

 

 あのあとマーレが倒した敵の部隊が強かったとか、そんなことは知ったことじゃない。元々マーレが居なければカルネ村は地上から消え失せていたのだから、その意味では最初の帝国の騎士――法国だったか――との違いなんてどうでもいいことだ。

 

 その後に隣の国で起こったという事も知ったことじゃない。確かに現実味の無い話で少し驚きもしたけれど、マーレが消えたり突然現れたり、走ってる騎士が破裂したのも死体が「片付け」をしたのも現実味が無いのは同じだから問題無い。そこはもう感覚が麻痺しているのかもしれない。むしろマーレが罪の無い女の子を(さら)ってきたのではないとわかり、安心して口元が緩んだくらいだ。村を襲った連中の関係者ならどうなったって構わない。村を守れず、相手にやり返すこともできず役に立たなかった王国戦士長よりずっといい。役立たずの取り巻きは、いたいけな村娘の無垢な笑顔を見て後ずさったり魔女だ何だと囁く。本当に気分が悪い人たちだ。

 

 マーレが自分の名前を出すことを望んでいない? だったら名前を出さなければいい。偽りの功績がどうとか、知った事じゃない。強い敵を倒したことにするのが嫌だったら、全員ふらっと出てきた森の賢王にでも頭からボリボリと食べられましたで充分だ。どうしてカルネ村の協力者とかそういう話になるんだろう。「そこで血塗れの魔女ですか」とか取り巻きたちが勝手に納得するのもありえない。好きで血塗れの服を着ているわけではないし、魔女なんてどこにいるのか見当もつかない。

 

 それでマーレを野放しにするわけにいかないと言われても、そういうのも王国の兵士の仕事じゃないんだろうか。村を守れなかったのだから、せめてそこで必死に働けばいい。戦いになればガゼフ自身でも相手にならないとか知ったことではない。カルネ村だって頑張ったんだから、王国だって頑張ればいいんだ。昨日の戦いでマーレが居なかったら死んでいたというなら、一度死んだつもりで頑張ろうとか思えないんだろうか。これだけ多くの戦士を率いているくせに、本当に情けない男。

 そしてマーレと上手く話ができる人間なんてどこにいるんだろう。私の知る範囲ではそんな人間はいない。取り巻きたちも勝手なもので、マーレを森から呼び寄せた魔女とは一体どこの誰のことを言っているのか。

 王都の自分の家に来てくれたらさらに礼をするというなら、今すぐ連れて帰ったらどうだろう。

 

 何より最後が酷い。強力な敵の部隊を撃退した民間の協力者は戦争の際に真っ先に戦力として計算されてしまうとか、どの口が言うのだろう。深く頭を下げれば何をしてもいいと思っているのだろうか。その後の、旅に出ていたり冒険者になっていれば徴兵されないと言った時の、いくらか申し訳無さそうではあるが苦笑の混じったあの横っ面といったら……あそこに拳を、全身全霊を込めての一撃を叩き込んでおけばよかった。王国戦士長を殴るという行為に怯えは無い。実行できなかったのは、ただただあまりに酷い話の展開に頭がついていかなかったせいでしかなかった。

 

「この件についてマーレ殿とは話はついている」

 

 去り際、付け加えるようにそう言われた時、怒りは頂点に達していた。既に拳に届く範囲にあの忌々しい強面(こわもて)の顔が無かったのが、本当に悔しい。

 

 

 その後で、元冒険者だという部下の一人から説明を受けた。全身に満ちていた怒りの行き場を失ったエンリの態度は最悪だ。低い声で気の無い返事をしながら目の前の戦士を観察していると、丁寧さの中に怯えが混じっているのがわかった。何に怯えているのかわからないが、そんなことでよく冒険者が――いや、務まらなかったからあんな卑劣な男の下で働いているのだろう。

 街道で出る魔物とか、耳を切れば金になるとか、一応聞かなければならないと思っていてもイライラしてしまう。

 そうだ、せめて余計な部分は端折ってもらいたい。ただそれを言うだけでも、どうしても不機嫌な声になる。

 

「魔物の強さの説明とか、さっきのガゼフさんより確実に強いのだけでいいですから」

 

 そうでなければ、聞く意味なんて無い。マーレがガゼフよりずっと強いということしかわからないし、逆にマーレの力が無ければどんな魔物が相手でも対処のしようがないのだから、魔物の強さについてはそれだけで充分だ。本当に、か弱い村娘を何だと思っているのか。

 その後、なぜかやたらと怯えの色を強めながらも、その男は説明を手短に切り上げる。だいぶ無駄な部分が省略できたのかもしれない。男から受け取ったのは小ぶりな短剣と、一枚のガゼフからの紹介状。街に入る時も冒険者組合や魔術師組合などでも同じものを見せれば良いというのは、どういうことなんだろう。文字というのは便利なんだなあと読み書きのできないエンリは感心する。そして最後に戦士長からの気持ちだと言って少なくない金貨の入った袋を差し出すと、逃げるように出ていった。

 何か間違ったことでも言っただろうか。いや、今さら何を間違うこともない。今日という日の運命とこの血塗れの服に比べれば、何か間違いがあったとしても些細なものに違いないはずだ。

 

 

 

 残された短剣はエンリでも扱える程度のものだった。戦う力なんて無いから、最初は武器なんて必要無いと断っていたのだが、倒した魔物をお金に替えるために必要だというので仕方なく受け取った。耳を切り取るとか気持ちが悪いが、お金になるなら仕方ないし、戦う力のあるマーレと一緒に居れば確かにそういうことも必要かもしれない。断っていたときの反応が少し変だったが、いちいち気にしていたらあの人たちと話なんてできなくなる。

 紹介状は文字の読めないエンリには何が書いてあるかさっぱりわからないが、ガゼフからとなると、わからない方が幸せかもしれないとさえ思えてくる。それでも、王国の住民として一応登録のあるエンリはともかく、それがあるとは思えないマーレなどを連れて街に入るなら必須なのだろう。後で読める人に読んでもらえばいいだけだ。

 

 あとは金貨――昨日預かっていた大金はマーレに返したが、これも少なくない額になる。まず、村長にネムの生活費を含めて多めに預かってもらうのがいいだろう。

 

 

 

 エンリは村長にその旨を話し、金を受け取ってもらえず、そして人間不信に陥った。

 

 

 

 村長もぐるだった。

 

 

 

 エンリがマーレとともに旅出つ前提で、村長は既にガゼフから保護者不在となるネムの養育費用を受け取っていたのだ。二重にお金を受け取れないという正直な村長のためらいが綻びとなり、エンリのこれまで見せたことが無いような激しい剣幕に圧されて村長は全てを話した。

 

 王国戦士長の苦悩、そんなものはどうでもいい。村人の不安、多少わからないでもない。それにしても、責任ある立場の大人たちがこそこそと肩を寄せ合って話し合い、そのしわ寄せの全てをただの村娘に過ぎないエンリ一人に背負わせるというのはどういうことだろうか。

 大人は汚い。村の中も外も関係なく、大人は汚い。恐ろしい墳墓の主モモンガの爛れた嗜好も、元を辿ればこういう所から来ているのだろうか。そうであってくれたら、その冷酷な心を溶かす方法もあるかもしれない。そう思えるくらい、ガゼフと村長は汚かった。

 

 この時、エンリの拳は握り締められたまま、どうにかテーブルの下に留まることができた。ネムを預かってもらうのでなければ、間違いなく一発お見舞いしていたところだ。字が読める村長に紹介状の内容を教えてもらうつもりだったが、怒りにとらわれたエンリはそれどころではなかった。魔法詠唱者(マジック・キャスター)のマーレもいるので、それほど差し迫った事でもない。

 

 

 

 

 

 エンリは家に戻ると、カルネ村での最後の朝の支度を精力的にこなした。水を運び、家の前を軽く掃き、朝食を用意する。することは増えてしまったが、それでもこんな暮らしがずっと続けばいいと思う。しかし、それも今日で終わり。代わり映えしないが安心できる規則正しい生活が終わり、魔物が出るような外の世界を旅して、時には恐るべき魔法詠唱者(マジック・キャスター)の玩具としてその身を使われる爛れた日々がやってくるのだ。

 爽やかな朝の空気をいっぱいに吸い込みながら、食卓の椅子を綺麗に並べ、部屋の中を整頓する。エンリの爛れた未来の象徴である半裸の姿を晒す幼い少女が目に入ったので、外套の前を全部とめてやった。戦いの疲れがあるのはわかるが、する気が無くてもすぐに脱がせるようにしておくのはマーレがものぐさだからだろうか。

 エンリがこの少女に対し貴重なエモット家最後の外套を羽織らせたのは、元々は少女の姿を気の毒に思っての気遣いだった。それが、今はどうもおかしいことになっている。少女のためとか関係なく、外套で覆って隠しておきたいのだ。できれば自分とマーレの前から遠ざけてしまいたい。それはエンリ自身も理解できない、不思議な感情によるものなのかもしれない。

 マーレが寝返りをうって向きを変えると、目が合った。起きていたらしい。

 

「この子の服、夜とかはいいから、せめて日のあるうちは前をとめておいてあげたいんだけど」

 

「昼とか夜とか、関係ないと思うんですけど」

 

 無垢な瞳をまっすぐ向けて、とんでもないことを言うマーレ。

――駄目だこいつ……早くなんとかしないと……。

 

「せめて村から出るまでは、お願い」

 

 強い調子で言うと、マーレは不思議そうな顔で軽く頷き、もぞもぞと布団に潜った。

 爛れた性欲に従って昼夜構わず幼い少女を玩具として弄びたいマーレの業の深さはよくわかっているつもりだが、今だけは譲れない。村を出る時にはネムも見送りに来るかもしれない。どういう話になっているかわからないが、少なくともマーレの爛れた世界に足を踏み入れているのはカルネ村ではエンリだけのはずだ。

 エンリは、そのような格好を強いているマーレではなく、そのような格好を全く恥じることの無い少女のことが気に入らなかった。自我が無いとかそういうことはあまり関係なかった。おおらかな辺境の開拓村ではあるが、慎みというのは大切だと思う。それに、同じ女として――理由はわからないが――羞恥心をもたないというのは、何かずるいような気がしたのだ。

 たとえ今夜からそれを捨てなければならないとしても、今だけは人並みの羞恥心を備えた、慎み深い村娘エンリでありたかった。

 

 ただし、その決意はすぐに台無しになった。食事の後、マーレから旅支度によかったらと遠慮がちに差し出された黒い服を受け取ったエンリは、これまでの血の臭いのしない服への飢餓感のあまり、家の風通しをしたままで着替えを敢行してしまったのだ。

 いつもと違う、無遠慮に素肌を撫でつけていく爽やかな朝の風。迂闊なエンリも異常に気付くのは早かった。すぐに窓からの視線を気にしつつ、視線の入らない場所を探しつつ、速やかに扉を閉めに行こうと考える。そして玄関に現れた小さな人影が混乱に拍車をかけ、足をとられ、世界が回る。体の前面ほぼ全てに痛みを感じると、目の前の全てがかたい木の板に入れ替わっていた。

 

「ぼうけんしゃになると、開放的になるの?」

 

 足元に服を絡ませ、ほぼ裸で床に転がったエンリに声をかけたのは、ネムだった。エンリは羞恥に顔を真っ赤にして、慌てて服を手繰り寄せ二つの服で前を隠すが、ネムはその様子を訝しげに見ているだけだった。

 エンリは、嗜虐の王子様が、嗜虐と倒錯のお姫様でもあることを思い出した。爛れた欲求に染まりきった内面はともかく、マーレは外見上は可愛い少女でしかなく、昨日の朝の着替えの際にはエンリもネムもその視線を気にする事など無かったのだ。他に家の中にはネムと玩具の少女だけで、扉はネムが閉めていて、エンリが床に叩きつけられた場所は窓からの視線も通らない。

 

「ちょ、ちょっと転んで頭を打って寒気がしただけで、あと私ただのマーレの付き添いだし!……今着替えるからちょっと待っててね」

 

――ぼうけんしゃなんかじゃない。そこは譲れない。

 気恥ずかしさと焦りでぎこちない動作だったが、魔法のかかった服は着替えの際はゆったりとして、身につけると体に程よく合ってくる。そういう仕組みを知らないエンリは、まるで自分のためだけに存在する服であるかのような着替えの感触に感動した。魔法の装備を得た冒険者なら誰でも一度は経験する感動ではあるが、それは魔法の装備を知らないエンリが初めて着るにはあまりに上等な品だった。

 

 

「この服すごい! 最高! 着やすくて、ぴったりで、私のためにあるみたい!」

 

 

 そう言ってはしゃぐエンリが着ているのは、村人らしい姿からかけ離れ、戦争の時も見かけないような黒ずくめの物々しい服だ。

 陽光聖典隊長であったニグン・グリッド・ルーインの法服は、その中身が変わってもなお非日常的で危険な気配と、将としての風格のようなものを漂わせていた。

 

「うわあ……」

 

 村のために頑張る姉のことを応援したいネムだったが、姉のあまりの変わりように、漏れ出る声を止めることはできなかった。村に立ち寄ったことのある役人も兵士も冒険者も全く比較にならない。ネムはこの圧倒的な黒衣の威容を形容しうる言葉を持たなかった。顔が引きつり、顎を引いて一歩退く。その変化に、浮かれていたエンリの表情が凍りついた。

 

「かっ、格好いいですよ! とても似合ってます」

 

 服を用意したマーレは心から称賛する。しかし、昨日のこともあるから、エンリはマーレの感覚を信用できない。

 

「お、おかしいかな?」

 

「…………」

 

「ネム?」

 

「……私も、格好いいと思うよ。お姉ちゃんがとっても遠くへ行ってしまったような気がするけど、うん、行くのはこれからだもんね」

 

 ネムの表情が、少し大人になったように思えた。引っかかる言い方とか含みとかいろいろあるような気もしたが、とにかく着心地が最高だから気にしないことにした。何より血塗れの姿に戻るのが嫌だったので、エンリはそのまま旅支度を進めることにした。

 

 ネムは旅に必要な保存食などを届けるおつかいついでに、村長の家に移るために荷物をまとめに来たという。ガゼフや村長とはしばらく顔を合わせたくなかったエンリにはありがたかったし、確かにそういうこともエンリがいるうちに済ませておいた方がいい。二人で荷物を整理していると思ったより時間がかかり、外からは馬のいななきや男たちの話し声が聞こえてきた。ガゼフたちが出発するのだろう。

 

「見送りにいかないの?」

 

 行くわけがない。村を救ったわけでもなく、むしろ戦いに巻き込んだくせに、何もかも一人の村娘に押し付けていく卑怯者の集団だ。それを笑顔で見送れるほど、エンリは度量の広い人間ではなかった。殴りに行くという選択肢はあったが、馬の上にいる相手では手が届かない。

 

 しばらく後、エンリはこのことを後悔することになる。見送らなかったことではない。石を投げるという手段を思いつかず、みすみす大切なものを持って行ったガゼフたちを逃してしまったことだ。

 

 

 

 

 

「馬を……全部あげちゃったんですか!」

 

 農耕用の馬の話ではない。マーレが倒した騎士たちの軍馬だ。それはエ・ランテルまで安全に移動し、よくわからない紹介状をのし代わりにして然るべき所へマーレを押し付け――紹介するには必須のものだった。

 

 

 黒ずくめの物々しい姿で現れたエンリに気圧されつつも、村長はその場で努めて無難な説明を作り上げた。マーレが捕虜の扱いをガゼフに委ねたことからそれを輸送すること、村の復興資金のために騎士たちの所有物などを買い取ってもらうこと。そのために馬を貸したのだということ。働き手が減ったため、後で軍馬の価値に相当する農耕用の牛馬を届けてもらうこと。王国戦士長との間の話はそこまで具体的ではなかったが、あの誠実な戦士長なら聞いてくれるであろう内容だ。

 それでもいきり立つエンリを宥めながら、普通は農夫の娘は軍馬になど乗れないから、戦士長は馬を残しても仕方が無いと思ったのだろうと付け加えた。

 

 実際は、街へ出られるような馬を残さないこと自体が目的だった。紹介状一つでは不安に思った戦士長が、先回りしてエ・ランテルで苦手な根回しをするという。街一つ、下手をすると国全体の危機ともいえる状況に、戦士長は完全に専門外の仕事を覚悟した。馬を全て回収したのは、そのための時間稼ぎだ。

 

 

 エンリは子供の頃、戦争帰りの村人から教わったことで乗馬の経験があった。近い世代の子供たち皆で楽しんで教わっていたのを覚えている。その村人が敵の伏兵を発見したとかで様々な褒美を受け取り、その中に馬がいたのだ。

――ラッチモンさん、大丈夫かな。

 エンリは、襲撃の前日から行方が知れず、いまだ死体も見つかっていない村の野伏(レンジャー)を心配する。こういう時、危険を察知する能力が高い野伏が居たら途中まででも同行してくれたかもしれない。

 

 ラッチモンの話を出すと、エ・ランテルで移住者を募集しようということになった。村が危険に晒された経験も踏まえ、野伏ができる者や冒険者の経験がある者には良い条件を提示する事になる。村長はその場で羊皮紙を拡げ、内容を説明しながら文字を沢山書いてエンリに手渡した。

 エンリは、カルネ村が存続していくための仕事には協力を惜しまないつもりだ。今回の旅がこれ一枚をエ・ランテルに届けてくるだけのものなら、どれほど良かっただろう。

 

 手紙を渡す時、冒険者に用事を頼むのだから、などと言って金貨を押し付けてきたことで不機嫌になり、エンリは扉の音を立てて村長の家を出た。再び紹介状を読んでもらうのを忘れたことに気付いた時には、既に村を出発し、見送るネムの姿が小さくなっていた。












エンリさんは、いざとなったらぐーで殴れる強い子です。

血塗れ「魔物の説明とか、1ガゼフ以下の雑魚はパスで」
戦士団「」

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