マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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第三章 魔女の旅立ち
八 嗜虐の王子と血塗れの玩具


 夕陽で赤く染まる草原では、その全てが戦意を失い、あるいは戦う能力を失っていながら、いまだ多くの男たちが対峙していた。

 男たちが立つ大地が激しい揺れとともに広い範囲で複雑な亀裂を生じたのは、ニグン・グリッド・ルーインがその栄光の未来を手放してすぐのことだった。

 肉塊と化した隊長の姿を見て、自分たちに断罪の裁定を下した神の姿を見て、陽光聖典は恐慌状態に陥った。ある者は天使を突撃させ、ある者は天使を盾に座り込んで泣き叫び、ある者は天使の存在も忘れ脱兎の如く逃げ出した。マーレが大地に杖を突き立てると、それらの全てが大きく揺さぶられて口を開いた大地に丸呑みにされ、草原にはすぐに元の静寂が帰ってきた。

 間違いなく、マーレの魔法の力だった。マーレの周辺だけでなく、ガゼフたちのいる場所にも揺れすら起こらなかった事から、それが自然ならざるものであることは明らかだ。そして、その力は水晶の画面の中で起こったものと同じもの。

 それは、法国で起こった災厄が間違いなく現実のものであり、マーレがその気になれば僅かな時間で街どころか国まで滅ぼしかねない存在であるということを、ガゼフたちに深く理解させるものだった。リ・エスティーゼ王国では魔法詠唱者は一段下に見られており、王宮でも法国の中枢である神殿を超えるほどの魔法への備えがあるとも思えない。

 召喚者を失った数十の天使たちは、その全てが次の詠唱一つで爆散した。あっさりと光へ還ったのは、全てガゼフの精鋭たちに勝る存在だ。

 

 マーレは一息つくと、潰れた肉塊からするりと黒衣を引き抜く。上へ放り投げると、黒衣は何かに吸い込まれるように虚空へ消えた。どこへやったのかはわからないが、魔法というのは何でもありなのだろう。神とまで呼ばれた存在が冒険者のように敵の装備品を回収する姿は、いくらかガゼフたちを安心させた。

 ガゼフは部下の一人に肩を借り、マーレの方へ近づいていく。

 王の剣としての仕事はもはや不可能だ。そのことに、あちこちで悲鳴をあげている体の状態は関係ない。たとえ傷一つ無い万全な状態で、王国の至宝全てを装備していてもそれは同じことだろう。それでも王の盾として、できることをしなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首筋を流れ落ちる冷や汗をそのままにして、エンリは衣装箱とは名ばかりの粗末な木箱の中身を二度見した。

――服が無い。

 

 ゆっくりと記憶を辿る。

 既に、自分の服が無いことはわかっている。森へ出て薬草の臭いが染みこんだ服は昨日のうちに洗濯し、干している所へ村の襲撃者の血肉を浴びせられて血塗(ちまみ)れ。今着ているものは、動死体(ゾンビ)の蠢く農具小屋の中で転んでまたも血塗れ。先月までもう一着あったのだが、きつかったので軽く直してネムにあげてしまったし、困ったことに今日ネムが着ているのがそれだ。もちろん、ネムの他の服はもっと小さい。

 期待していたのは、両親の服だ。しかし、いずれも葬儀の時、血糊も損傷も無い綺麗な服で送り出そうとする他の犠牲者の家族にあわせて一緒に着替えを頼み、使える服も含めて既に墓の下にある。あまりものを考える余裕も無かったし、村の片隅で動死体が何かを喰らっているような落ち着かない環境で葬儀を行うのだから、せめて服装くらいは、という思いは村民共通のものだった。

 

 このような開拓村では、墓というものはそれほど厳粛な不可侵性をもたない。葬儀を行ったのも神官ではなく村長で、全てが手作りの儀式だ。間違って何かを埋めたというなら、掘り返して埋め戻す程度、普通なら見咎められるようなことではない。

 

 

 普通なら。

 

 

 エンリは触れたくない記憶の欠片を――村長の引きつった顔を、目を合わせたがらない村人たちを、屈強な戦士たちの敵意に満ちた顔を思い起こし、深く溜息をついた。今の自分がそれをするのは、無理だ。

 

 確かに、致命的な誤解は解けているのかもしれない。罪人となって処刑台に送られる未来は無いだろう。マーレにそうさせる意思が本当にあったなら、王国戦士長の前で死を弄ぶ魔女として全ての罪を背負わされたに違いないが、実際はそうではなかった。マーレにエンリを陥れる意図は無く、あの場には嗜虐を好む魔性の少女など居なかったのだ。

 しばらく血の臭いのする小屋の中で虚脱して座り込んでいたエンリにとって、このことを心の中で割り切るまでの道のりは決して短いものではなかった。エンリの慎ましい人生経験において少しでも助けになるものがなかったら、いつまでも座り込んでいたかもしれない。

 

 エンリは人生において身に覚えの無い濡れ衣を着せられた経験が全く無かったわけではない。といっても、武器を持った男達に迫られたり、処刑台を身近に感じたりするような物騒なものではなかった。

 

 あれは森でワイルドベリーが沢山とれた年のことだ。両親とエンリの目を盗んで枕に大好物のジャムをべっとりと塗りつけていた幼いネムが、惨劇に気付いて悲鳴をあげた母親に対して「お姉ちゃんが塗りなさいって言うんだもん!」とやり返したのだ。突然の言いがかりに驚くばかりで、うまく言い返すこともできない。確信に満ちたネムと戸惑うエンリの勝負は明らかで、わけがわからないままエンリの方がこっぴどく叱られたのだった。

 今回ほどではないが、あの時のネムも得体の知れない恐ろしいものに見えたのは言うまでもない。

 

 枕ジャム事件の伏線は、その日の朝、ジャムをそのまま食べたがるネムをエンリが注意した事だった。ジャムは直接食べては駄目で、食べたい時は何かに塗りなさいということを言ったのだが、その時はネムにわからせるためというより、エンリが母親の真似をしたい年頃で、自分が昔言われたようなことを小さな妹に言ってみたかったにすぎない。もちろん、食べ物に塗れとまで言った覚えはなかった。

 しばらくネムと喧嘩が続いたため真相を知るまで時間がかかり、それまで食卓にベリーのジャムが出るたびに母親の視線が痛かったのは忘れられない思い出だ。

 

 今回は、あの時に比べれば早く対応できた。あの時よりは大人になったから、突然の過酷な試練にわけがわからなくなりながらも、一応は誤解を解く方向で頑張った自覚もある。

 しかし、大人になったせいなのか、襲ってきた試練の質は果てしなく凶悪だ。対応に失敗した時の運命も、叱られてせいぜい尻を叩かれるところから一気に火炙りや縛り首までその成長ぶりは著しい。

――大人ってつらい。大人になんてなりたくなかった。子供でありたい。

 

 大人の世界は厳しい。最初からマーレに注意を向けていた王国戦士長からの疑いは晴れていそうだが、その部下たちから見ればエンリは動く屍の主かその共犯者か、いずれにせよ、ろくでもない目で見られているだろう。血塗れの服装もその時のままで、何よりこれがよくない。小屋まで来ていない他の村人においても、屍を動かして村を「掃除」させたマーレを村に連れてきたのはエンリだと知れ渡っている。

 この状況で、血塗れの服装のままの自分が墓を掘り返していたら、村人たちにどう思われるだろうか。戦士たちが戻ってきたらどうなってしまうだろうか。

 

 エンリは着替えを諦め、その場で全身の力を抜いて堅い木の床に転がった。

 

――全部終わったら洗濯して、念のため服を一着作ろう。

 床に転がったまま材料を探すように部屋を見回すと、出口の近くに父の外套が掛けられていた。早朝でも気候が暖かかったせいか、見回りに出る父が着ないで置いていったのだろう。季節外れだが、あれが最後の頼みの綱だ。外套は本来もう一着あるが、エンリもよく借りていた母のものは今はマーレに貸している。返してもらったらそちらを使って、父親のものは新しい服の材料にしてもいいかもしれない。

 

 そろそろマーレが戻ってくるかもしれない。ともに戦いに赴く王国戦士長の深刻な表情も見ていたエンリだが、何故かあのマーレが戦いに敗れるとか大きな怪我をするとか、そういうことは全く想像できなかった。

 おそらく、二度も血塗れになった自分と違って、マーレは涼しい顔をして綺麗な格好で戻ってくるのだろう。納得がいかない部分もあるが、戻ってきてくれないと困る。渡しそびれた金貨袋も、安全な村の中とはいえ、あまり長いこと持ち歩きたくはない。

 

 エンリは窓から差す西日が薄くなっていることを確認し、あと少し薄暗くなってから死の匂いのする小屋の辺りへ戻ることにした。少しだけ、何も考えずに転がっていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガゼフたちは勝利とは無縁のまま、殺戮の場に満身創痍で取り残されていた。その殺戮者の姿は既に転移の魔法によって消えたところだ。馬を失ったり乗馬に耐えない状態の者も多い彼らは、いったん徒歩でカルネ村まで戻ることになる。

 

「戦士長! 我々を切り捨てようとした者に、なぜ報酬を約束などしたのですか」

「青いことを言うな。生きて王都で報告するのも任務のうちだろう」

 

 この反発も諦めも、どちらの声も先程までの人の世界を逸脱した光景を目にした部下たちの正直な気持ちだった。部下たちの間にざわめきが拡がっていく。

 

「あの者の前で、今さら報酬などで我々の生死が変わるものか」

 

 ガゼフは自嘲の笑みを隠さず続ける。

 

「……映像の中の神官より遥かに傲慢な、宮廷にいる貴族の息の掛かった役人があの者と対面する状況を想像してみろ。王都がどうなると思う? 貴族などどうでもいいが、国王陛下と王国の民は守らねばならない」

 

 いくら底が知れない強大な力の持ち主でも、理性的な相手ならば後から非礼を詫びることもできる。しかし、スレイン法国の神殿と思われる場所は、ただ一度の接触で、そこに居た多くの人間ごと跡形もなく破壊されていた。瓦礫となった宮廷で後からできることなど、兵士として殺されに行くことくらいしかない。

 ガゼフが報酬の約束をした事の――それを理由にして自身の家に招いた事の意味を理解すると、部下たちのざわめきは収まっていった。

 

「それに、理由はどうあれ村を救った者と戦うのは今回の任務ではないし、あの者の望みにもかなうのだからよしとするさ」

 

 望みというのは、マーレの存在を国には秘密にしてほしいという事。人間の国というものに対するマーレの警戒心の表れだった。

 突然土足で宮廷の奥に現れ全てを破壊してもおかしくないような扱いに困る存在の意外な願いは、ガゼフにとっては願ってもないものだった。おかげで報酬――ガゼフを介して渡せる程度の金貨と、文官に依頼して調査を行う程度の事だが――を渡すためだとして、王都に来る際の訪問先をまずガゼフの自宅とすることも問題なく受け入れられた。当面、王国の危機は遠のいたと言えるかもしれない。

 

――王国戦士長としての働きを、超えているかもしれないな。

 

 王国戦士長とは王の剣であり盾であるに過ぎず、国としての意思決定に関わるものではない。意思決定に関わる大貴族の中に国に害をなすものがいると確信していても、それへの対応を自ら判断して行う事は当然ながら不可能だ。今回のマーレの行動と力、そのいずれか片方でも常識の範囲内に収まるものであったなら、ガゼフはただ宮廷へ戻って起こった事を報告し、然るべき者たちに意思決定や対応を任せただろう。

 しかし、王の身に明らかな危険が迫っていれば話は違う。たとえ相手が大貴族や王子であっても、剣を抜いて王に迫るならガゼフは王の盾となって応戦しつつ王の命令を待つか、少しでも王の身に危険があれば躊躇せず斬り捨てるだろう。今回の事態はそれに類するものであり、職務に忠実なガゼフといえども起こったことを正直に報告する気にはなれなかった。かといって、自身の功にしてしまうなど恥ずべき事も考えられない。また、マーレについて何の対処もせずに去ることにも大きな不安があった。その辺りで思考の袋小路に陥っていたのだが――。

 

「あの力が王国に向けられたらどうなるんですかね……」

「そうならない事を神にでも祈るしかない」

「でも、神に縋った結果があれだぞ」

 

 不満が収まれば、次は不安が襲ってくる。あの陽光聖典の、また遠く離れた法国神都の過酷な運命は、ガゼフにとっても部下たちにとっても他人事で済ませられるものではない。

 

「そうだな、神なんて危なっかしいものよりは……魔女にでも縋ってみるか」

 

 ガゼフにしては珍しく軽口を叩きたい気分だった。魔女というのは小屋から出た時に部下たちが口にしていた言葉だが、マーレでなく小屋の中の血塗れの娘のことを指していた。そして口に出してみると、それはなかなかに悪くない考えだと気付いた。

 

「あの血塗れの魔女ですか」

 

「血塗れの魔女か……あの者を森から連れてきたというし、信頼されているようだから何が起こるかわからんぞ」

 

 ガゼフは、その後の部下の沈黙に軽口を流されたものと思ったが、ここで振り返っていたら違和感に気付いたかもしれない。傷だらけの部下たちは一様に、新たな戦いに赴くような引き締まった表情に変わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エンリが小屋の風上にしゃがんで赤く染まった夕陽を眺めていると、視野の端にそれは突然現れた。見覚えのある幼い少女が、何か肌色のものを肩に担いでいた。

 マーレが無事なのは当たり前にも思えたが、大金を預かったままで、またどこかであらぬ嫌疑をかけられたらたまらない。そう思うと軽く安堵の溜息が出た。突然現れたのは非常識だが、村を出て行くときも飛んだ上に消えたのだから、マーレなら普通のことだ。

 その場でマーレの肩から降ろされたのは、その小さな肢体さえ覆いきれない薄絹一つを纏っただけの、裸同然の格好をした幼い少女だった。肌色に見えたのは、担がれた状態ではその下半身を覆うものが何もなかったからで、ネムとあまり変わらない年頃の少女にさせていい格好とは思えない。

 

「エ、エンリ……ごめんなさい、借りていた服……」

 

 よく見ると、マーレの高級そうな服のところどころに焼け焦げ、引き裂かれたような布の切れ端がくっついている。

 その色には覚えがあった。まるで彼我の運命を象徴するかのように、エンリが貸していたフード付きの外套だけが無残な姿となり、その下のマーレの服には痛み一つ無かった。服の質が違うだけでこうも違うのか、あるいは魔法の力なのかもしれない。

 これで周囲の視線からエンリの心を守れるのは父親の外套一つになってしまったが、村を襲った敵の新手と戦ってのことなら、諦めるしかない。それよりも、服についてはもっと大きな問題がその横にある。

 

「村のために戦ってくれたんだから、マーレが大丈夫ならいいよ。……それより、その子は?」

 

「もう危険はありません。これはついでに持ってきただけです」

 

 ついでと言われても困る。マーレと話すより、直接話した方がいいだろう。人の形さえしていれば、たいていの相手はこのマーレより話が通じるはずだ。

 

「あなたは? こんな格好で、どうしたの?」

 

 ……返事は無い。それどころか、話しかけられた事への反応自体が無かった。呼吸はしているし、自分自身の足で立ってはいるのだが。

 

 

 

 

「それは魔法で自我を奪ってあるただの玩具だから、命令は聞くけど話しかけても無駄です」

 

 今やマーレにとって道具とすら呼べないのは、わざわざ法国から連れてきた巫女姫が、儀式をしなければ《次元の目(プレイナーアイ)》どころか《物体発見(ロケート・オブジェクト)》すら使えない上、残念ながら単独で使用できる第五位階以下の探索系魔法を殆どを習得していなかったからだ。もちろん、《鷹の目(ホーク・アイ)》などは冒険や野外探索と縁遠い巫女姫が習得しないのは不自然な事ではないが、そんなことはマーレの知った事ではない。

 特定の格好をさせておかないと単独でも魔法が使えないというのは別に問題ではない。そうあれと作られたのならどんなものだってそうあり続けるべきなのだから。

 問題なのは、探索系魔法が目的で持ってきたものなのに、それをするにはたかが第八位階程度のためにわざわざ頭数を揃えて大仰な儀式を行うという児戯(じぎ)にも等しい方法でしか使えないことだった。この冗談のように不便な道具を玩具と呼ぶのは、少なくともナザリック地下大墳墓の守護者としては自然な感覚だった。

 

――あの人間たち、全員まとめてつれてくればよかった。

 

 

 

 

 他方、そのような事情を知らないエンリが認識できるのは、ただ目の前の玩具と呼ばれた幼い少女の姿だけだ。

 

 少女は目のあたりに布を巻かれて視界を奪われていた。身体に纏うのは服と呼ぶのもためらわれるような前の開いた頼りない薄絹(うすぎぬ)一つ。その肢体の幼い曲線は無防備に晒され、草原を行き交う風の気分次第で全てが見えてしまいそうな状態だった。さらに、魔法で自我を奪われ、命令を聞くしかできないという。

 

 エンリは再三、モモンガなる鬼畜の支配するナザリック地下大墳墓という幼い少女たちの地獄を想像してきた。しかし、実物を見たわけでもなく、話に聞く貴族の暴虐や蹂躙の世界に触れたこともない田舎の村娘の想像にすぎないそれは、恐怖が生み出す悪夢の世界のように漠然とした、どこか他人事のようなものだった。

 しかし、目の前の幼い少女の姿によって悪夢は現実となった。手を伸ばせば触れられる、息遣いも感じられる。年の頃はネムと変わらないくらいの幼い少女が、視界を、そして人格を奪われ、服と呼べないような薄絹一枚の姿で肌を晒しているのだ。それがどういう種類の玩具であるかは、異性経験の無いエンリでも容易に理解できた。ただ心がその理解を呑み込むことを拒んでいた。

 

 エンリの衝撃は大きいが、人の情として自然と体が動いた。自身の外套を幼い少女に羽織らせ、少しでも否定してほしい気持ちを込めて問う。

 

「あなたのご主人様……モモンガ様のために連れてきたの?」

 

「当然です。こんな玩具だと、数を揃えないと意味ないですけど」

 

 当然だった。やはり、仄暗い墳墓では嗜虐の宴が繰り広げられていた。

 幼い少女を貪る爛れた嗜好を持つ墳墓の主モモンガに喜んで仕えるマーレは、ただ奴隷のように服従するだけでなく、自らの判断で少女を(さら)って玩具に変える嗜虐の魔女だった。これまでエンリに害を及ぼさないのは、ただ主モモンガの性の捌け口として十六歳のエンリでは歳がいきすぎて対象外だったためでしかないのだろう。

 つまらなそうに、そして当たり前のことのように、玩具となる少女を増やしていくというマーレ。恐ろしい魔法の力をふるうその魔の手から哀れな少女を救い出すことは、ただの村娘であるエンリには到底不可能なことだ。

 それでも、目の前の幼い少女の姿を放っておくことはできない。せめてモモンガの生贄となるその日までは人間らしくあってほしい。少女の幼い曲線を人目に触れさせないよう、エンリは羽織らせた外套の前をあわせようと手をかけた。

 

「前はとめないでください。玩具でもすぐ使えなければ意味がないので」

 

 エンリの背中に、ぞくりと悪寒が走る。

 

――使う。

 

 モモンガなる鬼畜はこの場には居ない。いかに(ただ)れた嗜好を持つ鬼畜とはいえ、居ないものが少女を貪ることはないはずだ。

 そうなると、玩具を使う側、幼い少女を蹂躙する側の者とは誰か。

 

 エンリは体を強張らせたまま、ぎこちない動きでゆっくりとマーレの方を見る。一瞬目が合って、びくりと全身を震わせた。そのまますぐにマーレの視線は下がっていき、エンリの身体へと落とされる。

 哀れむようでもあり、何か残念なものを見るようでもあるマーレの視線には特別な感情が篭っているようには見えなかったが、エンリにはそれは幼い少女のものというより、少年の、男のものであるかのようにも感じられた。闇妖精の浅黒い肌も、精悍さを感じさせるものに見えてくる。それは、マーレという存在が爛れた嗜好を持つ主モモンガに(なぶ)られる側の少女であるにとどまらず、主とともに少女を嬲る側の何かでもあると知ってしまったことによる変化だろうか。身体を撫でる視線を、エンリ自身のそういう価値を値踏みするものであるようにも感じてしまう。

 

 そして、エンリの視線は再び幼い少女の薄絹に貼り付く。それは、既に玩具となった少女に目を向ける事で、自らの身に感じる漠然とした危機感から目をそらそうとする逃避だったのかもしれない。

 

 自我を奪われたという幼い少女が露わな肌を隠そうともせずただ佇む姿は痛々しくも感じるが、纏う薄絹の素材は上質なもので、まるで神への生贄であるかのようにも見える。目は覆われているが、その整った顔立ちからは上品さが、綺麗な手足からは育ちの良さが感じられた。

 それから、自分の血塗れの服へと視線を落とすと、自然と溜息が出た。

 

「エンリ、服の汚れが気になるようなら、この服を着てもいいですよ」

 

 エンリは決して羨んだわけではないが、見透かされたような言葉に全身を硬直させる。こんな服は、無理だ。勧めてくることさえ信じられない。そもそも、この服を着た幼い少女を玩具として使おうというのは、他でもないマーレその人なのだ。それをエンリに着るよう促すということは、つまり――。

 

 もうマーレを正視できない。エンリの視線はこの言葉の爆弾を投げられた時からまた、少女の薄絹に貼り付いたままだ。

 

 エンリは目の前の薄絹に着替えた自分の姿を想像し、顔が熱くなっていくのを感じた。これは緊張だ。もとは恐ろしい捕食者から守ってあげたいとさえ思った幼いマーレが、同じ捕食者の側の存在としての片鱗を見せたがための、耐え難い緊張のせいに違いない……蛇に睨まれた蛙みたいなものか。胸の中で変な鼓動を感じる。適切な言葉が出てこない。

 

「す、寸法が合わないから……それにこんな……」

 

「魔法のかかった服だから、着ればちょうど良くなります」

 

 エンリにさせようとしている事と不釣合いなマーレの幼い穏やかな声。この落差がよくないのだろうか。エンリは今まで味わったことのない、顔から火が出るような切羽詰った不思議な緊張感に心を締め上げられる。その胸の鼓動も目立ってきた。

 もちろん、寸法がちょうど良くなったところで状況が改善するとも思えない。幼い少女ならまだ神に捧げられたような無垢な感じもしないでもないが、十六歳のエンリでは見たこともない大都市の妖しげな夜の店にしか居場所は無さそうだ。

 

「こっ、この服じゃ寒いし……」

 

「これからの季節、暑いくらいですよ。エンリにはちょっと落ち着きすぎているかもしれませんが」

 

 その声がエンリの不思議な緊張を高め、その鼓動を早める。

 

「落ち着っ……マーレにとってはこういうのが普通なの?」

 落ち着いているとか――大人っぽいというならともかく――絶対に違う。

 それに、裸同然の服装でも暑い季節なんてこのあたりには無い。確かにさっきから変な汗が止まらなくはなっている。しかし、これを暑いというのは間違っている。

 

「モモンガ様にお仕えするならこれくらい普通ですよ」

 

「……っ!」

 

 背筋に氷柱を突っ込まれたように、声にならない悲鳴があがり背筋が伸びる。これまで熱せられ続けた所へ突然氷水を浴びせられたような驚きだった。エンリは気付かぬ間に、爛れた嗜好を持つ墳墓の主モモンガへの生贄の列に加わっていたらしい。

 それは、モモンガの獣欲をみたしうる範囲は、そう狭いものではなかったということだ。今まで言い寄ってきた異性が居ないわけでも無く、エンリは自分がそれなりに大人になっていたと思っていたが、村の婦人たちほどには成長しきっていない自覚はあった。つまり、エンリはまだまだ子供であり、子供だからこそ、モモンガの性の捌け口として蹂躙されなければならないということなのだろう。

――子供ってつらい。子供でなんていたくはなかった。大人になりたい。

 

 エンリはこれまで幾度も想像してきた爛れた世界の虚像に自らを重ね、震え上がる。あの時、マーレを助けたいと思ったにせよ、他人事だからこそ際限なく拡がっていった想像の世界だ。そこに自らが放り込まれることを知って、平常心を保っていられるはずがない。歯がカチカチと不規則な音を立てる。

 

――しっかりしろエンリ・エモット、今するべき事は何だ!

 エンリは自らを叱咤し、どうにか壊れかけの思考力を取り戻す。自分一人であれば自暴自棄となって従ったかもしれないが、残された妹の存在がエンリの心を支えていた。

 たとえ我が身が贄となるにしても、カルネ村でネムが後ろ指をさされるような姿を見せるわけにはいかない。

 

「お、お仕えする時はともかく……私なんかに勿体無いし、普段はこれはないって思わない?」

 

「ぼくも好きですよ。エンリに似合うと思います」

 

 そうだ、モモンガとその墳墓はまだ見つかっていない。これはマーレが玩具として「使う」ための少女に着せていた服だ。今それを勧めるというのは、モモンガとの嗜虐の宴の中で培ったものにせよ、今のマーレ自身の嗜好であり性癖によるものなのだろう。それが似合うということは――。

 エンリの頬が熱さを取り戻していく……不思議な緊張が戻ってきたのだろう。胸の鼓動も激しい。

 仄暗い墳墓の主にして嗜虐の怪物モモンガの魔の手に絡め取られる前にエンリを見初めたのは、幼くも美しい嗜虐の王子様――いや、嗜虐と倒錯のお姫様とするべきところか。いずれにせよ、濃厚な死の臭いを漂わせる墳墓の主モモンガに蹂躙され「壊れて」「片付け」の対象となるよりは、同じ嗜虐嗜好を持つとはいってもまだ幼いマーレが「使う」玩具の一つであった方が、心の面でも身体の面でも遥かにマシだろう。

 エンリはその身を(むしば)む不思議な緊張に耐え切れず、そんな言い訳めいた思考に身を委ねた。

 

「……ぅ……ん。後で、必要になった時に着るから、ね」

 

 最後まで目を合わせず、モジモジしながら小声で答える。その顔は耳まで真っ赤になっていた。

 

 

 

 

 エンリはずっと目を逸らしていた。まだ人間というものがよくわからないマーレでも、全く気持ちが伝わらないわけではない。

 

――格好いいと思ったんだけど。

 

 マーレの美的感覚は、自らの創造主だけでなく、長い間ギルドを守ってくれた最後の至高モモンガの影響を強く受けている。勿論、モモンガが自らの手で作り上げた守護者を見てその嗜好を学んだわけではないが、ナザリック地下大墳墓で時を過ごしていれば何も伝わってこないわけではない。

 幾度と無く至高の御方々の口端にのぼった、ちゅうにという言葉の意味はよくわからない。しかし、その言葉が使われた様々な状況から察して、それほどわかりにくいものではないのだろう。全十階層から成るアインズ・ウール・ゴウンの本拠地の様々な風景に違和感無く合うものこそ、格好いいものなのだ。何より、あの優しくて格好いいモモンガ様の嗜好を言い表すものでもある。

 

 マーレは、手に持っていたニグンの服を虚空のアイテムボックスへ一旦戻した。ナザリックの基準では取るに足らないものだが、魔法的な効果で全身鎧以上の防御力があり、人間にしてはマシなものには違いない。きちんときれいにしておいたし、少なくとも血塗れの服に比べれば……。

 エンリが血塗れの服で過ごしているのはマーレにも原因がある。勿論マーレはそれを申し訳なく思い、服をきれいにすることを申し出ていたのだが、その時も強い調子で断られていた。今も服を気にするような雰囲気だったので手に入った服を取り出したのだが、エンリは見向きもしなかった。

 

――血とか、好きなのかな。

 マーレは大墳墓の一層から三層までを守る最強の階層守護者を思い出す。彼女のことを考えれば、世の中にはいろいろな性癖があるし、エンリが血塗れの服を好むくらい別に驚くような事でもなかった。ナザリックの仲間にもいろいろいるように、人間もいろいろなのだろう。

 少なくとも、あのエンリには必要になったら装備を整えるくらいの分別はある。それだけで充分だった。恥ずかしがっていたのは、血を浴びたままでいたがるような性癖が人間社会では馴染まないからだろうか。

 

 エンリの性癖に近い嗜好を持つ守護者は、それを恥じることなど無かった。しかし、マーレの創造主や親しいお茶会仲間の御方々は、その守護者の性格などの細部について――難しい言葉が多く内容はよくわからなかったが――えろげーみたいだということと、若干恥ずかしいものとして話をしていたことを記憶している。えろげーという言葉の意味はわからないが、その守護者自身の創造主もえろげーなるものにおける血の重要性などを熱く語っていたことがあるので、その嗜好・性癖にも大きく関わるものなのだろう。エンリは女性でもあるし、性癖はそれであっても感覚はマーレの創造主やお茶会仲間の御方々に近く、自分の性癖を恥ずかしく他言しにくいものと思っているのかもしれない。

 

 マーレは少し反省した。できるだけ血を浴びたままで過ごしたいエンリは、そのことを恥ずかしくて言い出せなかったのだ。今回のことは、マーレの創造主やお茶会仲間の御方々の言葉を借りれば、でりかしーがないというのだろう。えろげーといえば、マーレの創造主も関わっていたという崇高なものだ。たかが人間の性癖といえども、崇高なものに関わるのならある程度は大切にするべきだろう。マーレは今後エンリの性癖を尊重し、そっと見守ることを心に決めた。

 












マーレ は ようこうせいてんのむれを やっつけた!
ニグンのふく を てにいれた!

マーレ は レベル が あがった!
でりかしー を てにいれた!

エンリ が なかまに なりたそうに こちらをみている!

※ 枕に塗られたジャムは、エンリが叱られている横で小さなネムがぺろぺろちゅーちゅー美味しく戴きました

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