マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

5 / 69
 今回は物語上の異世界における宗教や信仰を扱っていますが、歴史上で神の力が大々的に行使された上に今も魔法として行使できるものを信じている異世界の宗教・信仰と、現実世界の宗教・信仰とはかなり事情が違うということをご留意下さい。登場し語られるのはあくまで異世界における宗教・信仰です。













第二章 マーレとニグンとスレイン法国
五 贄の戦士と神の誕生


「……開始」

 

 静かな命令を受けて、その者たちは村を包囲する形に散開していく。彼らこそ、スレイン法国の誇る特殊部隊群『六色聖典』の一つ、陽光聖典だ。魔法詠唱者(マジック・キャスター)のみで構成する部隊でありながら殲滅戦を得意とし、天使召喚の魔法によって肉体能力や敏捷性に優れる亜人の集団を相手としても戦線を維持できる万能の部隊だった。

 陽光聖典隊長ニグン・グリッド・ルーインは、不慣れな任務の成功を確信して安堵していた。

 囮部隊が村を思うように破壊していないのは怠慢かもしれないが、それによって慎重だったガゼフの行軍は性急なものとなり、その身を檻の中に収める事となった。ガゼフの愚かさを把握して幾度も檻を構築し直したつもりでいて、把握しきれていなかったということだ。

 

「露骨に過ぎる罠でも、眼前に命を吊るしておく方が良いということか……」

 

「指揮官でありながら、大局が見えないにも程がありますね。対亜人の最前線にも立つ私たちではあり得ない判断です」

 

 応えるのは、ニグンの護衛も兼ねて側に残る部下の一人だ。陽光聖典において、命の優先順位を誤るような者はこの者に限らず一人も居ない。

 

「その通りだ。しかし、良い勉強にもなった。一軍を指揮する程の者でも、冒険者どものように視野の狭い者がいるということだ」

 

 ニグンは自らの頬に残る傷跡を撫で払う。

 

「冒険者……蒼薔薇め」

 

 蒼薔薇とは、陽光聖典の主たる作戦行動の一つである亜人種の集落への攻撃の際に現れ、人の身でありながら亜人の側に立って戦った愚か者たちの名だ。それを率いていたのが人類を守るべき神官であったというのも、ニグンには腹立たしい。

 

「隊長!!」

 

「ふむ、獣が姿を見せたか。少し早いが迎えてやろう」

 

 ニグンとその護衛が、そしてそれを確認した陽光聖典の全てが天使召喚魔法を発動させる。

 

 

 

 

 

「なるほど……法国の特殊部隊か、早かったな」

 

 ガゼフは小屋の陰から、村に近づく複数の人影を観察する。接近よりも包囲を優先する動きは統制の取れたもので、それぞれが従える光り輝く翼の生えた魔物――天使は、それらの全てが実力を備えた魔法詠唱者(マジック・キャスター)である証だ。

 ガゼフは指揮官としての立場で彼我の戦力差を感じ取り、落としどころを見失いつつあった信念の問題を脇へ追いやる。

 

「マーレ殿、こんな事を頼める関係ではないが、雇われてはもらえないか? 報酬は望まれる額を用意したい」

 

「ご、ごめんなさい。人間同士の争いはどうでもいいので……」

 

 ガゼフは軽く落胆するが、この程度の答えは想定の範囲内だ。人間の常識が通用する相手ではないが、それでも人を助けた経緯がある以上、何か道があるかもしれない。

 

「しかし、村を救って戴いたと聞いている。いまいちど、その力を貸していただけないだろうか」

 

「ぼ、ぼくはアインズ・ウール・ゴウンを、モモンガ様を探さなければいけないんです。そこの村長さんに話を聞こうと思っていた時に、邪魔な騒ぎが起こったからちょっと潰したり、捕まえて話を聞いてみたりしてただけです」

 

 こういう者だとわかってはいた。目的があるのなら、その目的に沿うのみ。何も無いよりずっとましだ。

 

「……それらの名は記憶に無いが、生きて王都に戻れば文官に問い合わせることくらいはできる。しかし、助力が得られなければそれも難しいだろう」

 

 正直者のガゼフには大きなことは言えないが、それでもマーレに通用する数少ない言葉だった。

 

「あのっ、調べてもらえるなら、転移の魔法とかで逃がしてあげることもできますから!」

 

「我らが戦わねば、無辜の民が犠牲になる。他人を転移させるというのは聞いたことがないが、転移に関わる魔法が使えるほどの使い手なら、王国の法を用いて、強制徴集という形をとってでも協力してもらわねばならない」

 

 村を見捨てるような選択肢を提示され、ガゼフは思わず強硬な手段を口にした。しかし、マーレはそれにも全く応えた様子はない。

 

「へ? そういう魔法を使えるようには見えないし……強そうな人も居ないし、強制ってどうやるんですか?」

 

 その態度には挑発の気配すらない。不思議な事を言う人間たちへの、純粋な疑問といった様相だ。色めき立つ部下たちを制し、ガゼフは肉食獣じみた笑みをマーレに向ける。

 

「は、はは、そう見えるか。全く虚勢に聞こえないのが恐ろしいな。……不本意だが、今はその認識を改めさせる時間も人数の余裕も無いようだ」

 

 周辺に展開する包囲網への対処を考えれば潮時だった。目の前の魔法詠唱者(マジック・キャスター)、多くの騎士たちを一瞬で葬る恐るべき存在だ。それをわざわざ敵に回し、犠牲を出してから村の外の包囲網に挑むなど愚かな選択だ。

 

「我々は奴らに突撃をかけ、村から引き離してから撤退する。戦いを終えて生きて戻ることがあれば、マーレ殿の調査にも協力できよう。後方からの支援でも構わないので、無理の無い範囲で――」

 

 《飛行(フライ)

 話の途中で、詠唱とともにふわりと浮き上がるマーレ。

 

「め、面倒だけど、ぼくもついて行きます。情報をもらえた方がいいし、あっちからも何か聞けるかもしれないので……」

 

 マーレはガゼフの頭より少し高い所まで上がって周囲を見回し、ある一方向を指差す。

 

「こっち側の包囲が薄いです。できれば逃げて欲しいんですが……」

 

 ガゼフは歯を見せて笑みを浮かべ、馬上の人となる。上空からの視野には劣るが、馬上から見える範囲でもその方向を選ぶのは理に適う選択の一つだった。

 

「有り難い! 我らはそちらから包囲を食い破り、敵を村から引き剥がす! しかる後に撤退だ! 退き際を見誤るなよ!」

 

 マーレの示した方向へ、ガゼフは馬を駆る。威勢の良い声をあげ、部下たちもそれに続いていった。

 マーレは《パーフェクト・アンノウアブル/完全不可知化》を発動し、少し遅れ気味にその後をついていく。面倒だが、あれが逃げられればいいだけだ。低位の天使を呼べる……すなわち第三位階を使える者で構成された群れの方にも興味を持ったので、当初考えた支援魔法も控え、ガゼフの撤退のみを考えた最小限の支援に切り替える。

 

 《速歩(クイック・マーチ)

 《加速(ヘイスト)

 

 魔法を受けたガゼフの馬だけが、部隊の中から目に見えて突出していった。

 本来、部隊全体では全力に近いほどの騎馬突撃の中で、秩序ある隊列を保っていられるのは単に経験の賜物に過ぎない。それは、自らの軍馬の速度と部隊の速度を把握した上での、加減と修正の積み重ね、それが部隊の錬度というものでもある。それが、突如自らの馬だけが不自然にその脚力を増したらどうなるか。

 

「愚か……愚かな獣に鞭を入れよ! 檻は、その後だ」

 

 陽光聖典隊長であるニグン・グリッド・ルーインは、薄い笑みを浮かべて自ら構築した致死の檻に修正を加える。

 陽光聖典の前に突き出されたのは、まさに人馬一体の贄。ガゼフが気付いて速度を緩め隊列に戻るまでの僅かな間に、天使が、魔法が、届く限りの位置から哀れな贄のもとへ集結し、降り注ぐ。

 

「かはぁっっ! なめるなぁああっ!!」

 

 数十の天使が行く手を塞ぎ、あるいは進路へ武器を出し、さらにそれらの召喚者から数十の魔法攻撃が突出したガゼフに集中する。

 ガゼフは武技を駆使し、数十の剣戟を掻い潜りながら数体の天使を切り飛ばすが、その身に受けざるを得ない回避不能の幾つかの魔法の打撃に加え、馬上からの<六光連斬><即応反射><流水加速>の繰り返しはその体力を大きく削っていった。

 激戦の中、どうにか速度を落とし再び部隊の流れに呑まれようとしたその時に、魔法攻撃の目標となった軍馬が暴れ出す。対精神の魔法であれば、魔獣でもない訓練を積んだだけの軍馬に抵抗する術は無かった。次々と襲い来る天使の攻勢に対抗するため体勢を立て直すこともできず、馬を捨てる。

 ガゼフが部下たちの後方で完全に孤立した時、対峙する天使の数は瞬く間に増え、三〇を超えていた。

 

 ガゼフの奮闘を、マーレは首をかしげて不思議そうに観察していた。生きて逃げてもらおうと思ってわざわざ速度を上げてやったのだから、後ろの囮か捨て石にしか使えなさそうなものたちを残して防御に専念して駆け抜ければよかっただけなのに、なぜ速度を落として戦うのかが理解できなかった。これでも判断しづらい人間の微妙な戦力差をいちいち見比べた上で、それなりに適切な手段を選んだつもりだというのに。

 自分で助かろうとしない生き物を助けるというのは、とても面倒なことだ。マーレはそういう事に関心の強い変わり者の竜人を知っているが、たとえあの人でも自ら助かろうとしない愚か者は放っておくだろう。

 

「俺は、王国戦士長! この国を、守護する者だ! 貴様らの、天使なぞ、ものの数でも……無いっ!!」

 

 息を切らしながらも、ガゼフは吼える。天使の攻撃を掻い潜り、終わりの見えない武技の連続使用に体じゅうが悲鳴をあげている。

 絶望的な戦いが続く中、視界の隅に反転し突撃する部下たちの姿を確認すると、寂しさと誇らしさの入り混じった笑みを見せ、捨て身の攻勢に出た。

 遅すぎた好機だが、賭けるしかなかった。といっても、先程から全てを出し尽く続けているガゼフに新たな手があるわけではない。<六光連斬>は全て前方の敵に向けられ、<即応反射>は回避より前進のために発動し、<流水加速>で斬撃を厭わず前へ出る、ただそれだけだ。

 

「獣が囲いに身を押し込みながらもがいているぞ。休ませることなく、絶望を教えてやれ」

 

 天使を失った者はすぐに再召喚し、天使を残している者は間断なくガゼフに魔法を放っていた。その一部が反転突撃をかける騎兵たちに向けられるが、ガゼフの前方にはなお厚い天使たちの壁が連なり、斬撃と魔法がその身を苛み続ける。

 戻った騎兵たちが天使の一群の前に全て地に伏す頃には、ガゼフも膝を屈し、突き立てた剣のみで大地に抗していた。

 

「無駄なあがきを止め、そこで大人しく横になれ。せめてもの情けに……なああぁぁっ!!」

 

 ガゼフの前に出来たのは巨大な炎の壁――そう見える程に幾重にも重なり密集した、天まで届かんばかりの数十もの炎柱だった。その全てが天使たちを包み込み、その姿を光の粒子へと返していく。

 

 

 

 

 

 吹き上がる炎の群れが消えた時、ニグンは部下たちを制して守りの構えをとっていた。再召喚された天使たちを防壁として、距離を取って事態を見守る。

 炎のあった空間の向こうに現れ、ガゼフの前にふわりと降り立ったのは、幼くも美しい一人の少女だった。

 

「あのっ、これには頼んでいる事があるので、このあたりにしておいてもらえませんか?」

 

 風上から、頼りなさげな声がニグンの耳にも届く。先程のものが魔法であれば、《火球(ファイヤーボール)》よりも遥かに上位のものだが、それは幼い少女とは容易に結びつくものではない。懐にある切り札に触れ、その冷たさに心を落ち着けながら、ニグンはただその姿を観察していた。

 

「……闇妖精(ダークエルフ)……か」

 

「で、できれば、皆さんにも協力してもらいたい事があるんですけど……」

 

 おどおどした口調からは強者の雰囲気は感じられない。ガゼフに味方しているようだが、そもそもこれが強者であれば戦いの趨勢に大きな影響を与えたに違いない。ニグンは頭の中で先程の結果と闇妖精(ダークエルフ)の少女の本質を結びつける事に失敗した。

 

「人類の守り手である我らが汚らわしい闇妖精(ダークエルフ)に協力などするわけがなかろう。……それより、どんなトリックだ!! あれだけの天使が…貴様、一体何を使ったっ!!」

 

 ニグンには強大な力を持つ切り札を残しているが、目の前の相手は既にそれを行使してしまったに違いない。ガゼフ健在の間にこの力を使われていれば危うかったが、これほどの力を持つということは法国すら把握していなかった、王国の隠された至宝なのだろう。時期を逸しての使用ではあるが、同じ至宝を預かる者として、できれば温存したい気持ちはニグンにはよく理解できた。そして、全体として魔法に疎いはずの王国にこのような隠し玉があったのなら、それを報告せねばならない。

 

「ま、魔法を使っただけです」

 

「そんなわけが、あるかぁぁぁっ!! 隠し事をすると、ためにならんぞ!!」

 

 マーレは溜息を一つついて魔法を詠唱する。使えそうなものを巻き込まないように、慎重に。

 

 《万雷の撃滅(コール・グレーター・サンダー)

 

「ひぃっ!」

 

 夕暮れの晴れ渡った空から、多くの雷を幾重にも縒り集めたような巨大な豪雷が突如ニグンの横に聳えるものを貫いた。空気を震わせる瞬間の圧迫感にニグンはすくみあがる。豪雷を受けた監視の権天使が輝きの欠片となって飛散したのはその直後の事だった。

 

「い、一撃……だと……」

 

「ば……化け、物……」

「なんという……ことだ……」

「恐ろしい……」

「あのような、雷は……」

 

 もはやニグンは懐のものから手が離せなくなった。あれは闇妖精(ダークエルフ)の形をした悪夢だ。部下たちから漏れる声も、うめき声に近いもの。

 

「あのっ、魔法は自分でも使えますけど、これだけの人数で手伝ってもらえると助かるんです」

 

 マーレは控えめな態度を崩さず、ゆっくりと指揮官の方へ向かう。これだけの人数が第三位階を使えるのだから、《鷹の目(ホーク・アイ)》でも相当な広範囲を捜索可能になり、ナザリック捜索も捗るだろう。そういう魅力さえ無ければつまらない人間の同士討ちに長々と付き合うことも無かったろうし、その後のガゼフの絶望も無かったかもしれない。

 

「最高位天使をっ! 召喚するっ!!」

 

 歩み寄る悪夢を前に、ニグンは部隊を、そして自らを奮い立たせるように高らかに宣言した。そして指揮官として命令する。

 

「一気にやるな! 天使たちを三方から間断なく突撃させ続け、手の空いた者は魔法を浴びせよ! 時間を稼げ!」

 

 ニグンは切り札に貼り付いた手をそのまま懐から取り出した。法国の至宝であるクリスタルの輝きが、すくみあがったその心を落ち着けてくれる。クリスタルに封じられているのは、魔神をも滅ぼすという最強の天使を召喚する魔法。これを行使できるという自らの絶対的優位を認識し、確信し、信仰し、そして指揮官としての冷静な判断力を取り戻す。

 そうだ、恐怖に駆られて、とてつもない費用と労力を込められたそれを使用してしまう前に、戦況を見なければならない。高位とはいえ魔法詠唱者を相手に、数十の天使と数十の魔法攻撃が間断なく襲いかかるのだ。視野を塞ぎ、祈るように掲げたクリスタルの脇からちらと前を確認し、そしてそのことを後悔した。

 

「何故効かないっ!」「神よ!!」「化け物め!」「ひぃぃぃっ!」

 

 攻勢一辺倒にあるはずの部下たちは悲鳴に近い声をあげ、幼い闇妖精(ダークエルフ)の姿をした悪夢はただゆっくりと近づいてきていた。――炎、氷、石、酸、毒、束縛、呪い、衝撃波、聖属性、精神攻撃――あらゆる種類の魔法が降り注ぐ中を平然と。そして天使の剣を白手袋で煩わしそうに捌き、時折その身に受けながらも何の痛痒を感じる様子も無く。

 悪夢の前を三体の天使が塞ぐ。すぐに何かが振るわれると、その天使たちはありえない形にひしゃげ、弾け飛びつつ消え去った。次に飛び掛った天使たちは二体まとめてそれに貫かれ飛散する。天使たちを軽々と屠ったのは、どこかの至宝でも高位の魔法でもなく、悪夢の持っていた黒く長い杖だった。

 

「なああぁぁっ! あぁぁありえんっ! 無理だ出鱈目だ! かか神の盾でいくぞ発動まで抑えつけろ! 進ませるな!!」 

 

 ニグンは魔法詠唱者(マジック・キャスター)が杖で天使をまとめて撲殺する非常識な光景に取り乱すが、至宝の使用を逡巡した自分自身を呪いつつクリスタルの封印解除の手順を急ぐ。

 指示を受けた部下たちは、一度たりとも実行された事の無い天使を捨て石とする戦術を自然と受け入れ、既に絶望に揺らいでいた神官の矜持を手放すことを受け入れた。神の盾とは、かつて漆黒聖典不在時の真なる神器の護衛任務を想定し、座学のみで検討された戦術だ。

 

 天使たちが間合いを一気に詰める。剣を交える間合いも、拳を合わせる間合いも越えて、天使たちは剣を突き立てながら取り付き、後方からマーレの小さな体を抱え込み、上空からのしかかった。

 数十を数える天使たちが集結すると、それらは白く輝く無数の手足や羽を生やした蟲のようでもあったが、すぐに(さなぎ)のようにぱっくりと割れていった。小さな白手袋の手が天使の体を引き裂き、押さえ込もうとする白い腕をもぎ取り、視界を遮る羽を毟り捨てる。

 次々と光へ還る天使たちの欠片を輝く鱗粉のようにその身に纏いながら現れた闇妖精(ダークエルフ)の少女の姿は、一つの神の誕生にも見紛うほどの神々しさを備えていた。敬虔な者たちは震え、畏れ、魂を揺さぶられた。

 

 陽光聖典の者たちの信仰心は神官の中でも間違いなく上位に位置し、さらに天使の力を借りる事で日々補強されていた。しかし、彼らの信仰を作り上げたスレイン法国は神の死を隠蔽し神の出自を曖昧にせざるを得ない事情もあって、その宗教観は極めて素直なものにならざるをえず、目にする宗教画は神話的モチーフの範囲内で無難な構図のものに限られていた。

 その彼らの目には、目の前の光景は刺激が強すぎたのだ。

 このことで彼らの信仰心を疑うことはできない。彼らにとって神官とは元来、神を渇望するものであり、輝かしい勝利を重ねることこそを神とそれに連なる者たちの本質と信ずるものである。六大神の至宝など具体的な神の力の残る法国にあって、天使を召喚してその力を信じ戦う者たちが、神を既知の内面的な信仰対象のみに卑小化するが如き傲慢さを持ち合わせていようはずもない。この世界の人類はそこまで世界をわかったつもりではいないのだ。たとえ人類最高の大賢者でも大神や欲王の魔道に触れれば簡単に理性を捨て去るであろうし、彼らの信仰もまた、あと一押しで裏返る所まで追い詰められていた。

 

「さ、最高位天使よ! 我らをっ、導き賜えぇ!!」

 

 破壊されたクリスタルの亀裂から白い光が溢れ、にわかに輝く世界に伝説の存在が降臨した。それはニグンの信仰心を僅かに繋ぎとめていた力の象徴であり、輝かしい聖なる翼の集合体。神殿の絵画で見ていたそれより遥かに神々しい至高善の姿に圧倒される。

 だが、それまでだ。先程から続く震えも、畏れも、胸の奥を掻き毟りたくなるような感覚も消えてはくれない。魔神をも屠る最高位天使である威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)の姿を目にしても治まらぬものとは何か。ニグンはその先を考えることを拒絶した。

 

「ほ、《善なる極撃(ホーリー・スマイト)》を放てぇぇ!」

 

 ニグンは仮初の召喚主として第七位階魔法の使用を命じる。最高位天使が行使する力は、人間では決して到達しえない領域。

 威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)は追い詰められた召喚主の思いに応えるように持っていた笏を光に還し、最大の攻撃を発動する。

 

 《善なる極(ホーリー・スマイ)――

 

 その瞬間、ごじゅっ、という鈍い音とともに威光の主天使の詠唱が止まる。闇妖精(ダークエルフ)の少女の姿は忽然と消えていた。

 

「最高位天使が!!」

 

 一つの叫びとともに、皆が知る。突如として空中に現れた少女がその杖で最高位天使の頭を、そして胸部までをも潰し、抉っていたことを。

 

 

 

 

 

 言葉にならないうめき声がその場を満たす。最高位天使を杖で、一撃で叩き潰す魔法詠唱者(マジック・キャスター)――そんなものは、神話の中にも存在しない。輝く白い蛹を引き裂いて現れたのは、新たな神だったのだろうか。

 闇妖精(ダークエルフ)の少女は光に還る威光の主天使(ドミニオン・オーソリティ)の欠片を纏いながら、ゆっくりと降り立った。その横でニグンは力なく崩れ落ち、地面に尻をつけたまま後ずさりを試みる。

 

「ななな何をし、いや、あなた様は一体何をされたのですか?」 

 

「あのっ、今の魔法は受けると少し痛いから、ちょっと時間を止めて横に回って、タイミングをはかって潰しただけです」

 

「ちょ……時間を止め……止めたぁぁぁ!?」

 

「た、ただの第十位階の魔法です」

 

 常識に真っ向から反している。しかし、ニグンは不思議とそれを否定したい気持ちにはならなかった。

 人は自らの足跡を否定して生きていくのは難しい。これまでの信仰も、預かった力も、最高位天使も、その偉大さを否定できる勇気などあろうはずもない。魂を揺さぶられたあの神々しい光景を思い起こし、それに呑まれてしまうことこそが、ニグン・グリッド・ルーインの生きてきた世界を護るための唯一の冴えたやり方だった。

 最高位天使を容易に屠る存在が神そのものであれば、どれほど救われよう。目の前の存在が神の領域たる第十位階の使い手であるという事を受け入れることで、ニグンは安堵すら覚えた。

 

「……あなた様が、神、か……」

 

 

 

 

 ニグンの呟きは、マーレには届かなかった。この瞬間、空間に大きく亀裂が入っていた。それを感知したマーレの表情が一瞬だけ子供らしい明るいものとなり、そしてすぐに落胆し、やがて思案するような表情になる。

 残念ながら、待ち望んでいた仲間たちからの魔法的接触では無かったということだ。当然ながら、準備していたのは魔法詠唱者(マジック・キャスター)の基本とされる攻性防壁でなく、情報系魔法の探知捕捉手段に過ぎない。捕捉した接触者に心当たりが無いので、その結果を映し出すべく空を見上げて魔法を詠唱する。

 

 

 《水晶の画面(クリスタル・モニター)

 

 そこに映し出されたのは一人の少女だった。布を巻いて目を隠され、額には繊細な宝石を散りばめたサークレットを身につけている。身に纏うのは、少し前の開いた薄絹の衣のみ。そのまだ起伏の少ない肢体が、白銀の敷砂の上にゆっくりと崩れ落ちた。

 

 

「これが魔法でこちらを監視しようとしたんですが、心当たりありませんか?」

 

「こ、これは土の……!? 儀式も無く第八位階の《次元の目(プレイナーアイ)》を……。やはり……神……」

 

 本国が監視していた事など知らなかったが、そんなことはどうでもよかった。秘中の秘であり男子禁制の土の神殿について確証までは無かったが、土の巫女姫とその額を飾る法国の秘宝を見紛うはずもない。

 しかし、法国においても大規模な儀式によってようやく行使できる力をあっさりと見せ付けられたことに衝撃を受け、ニグンは問いかけへの答えを怠った。その後、ニグンは神の問いに速やかに応じなかった事を深く後悔することになる。

 

「わからないなら、とりあえず行ってみます。何もせずに待っていてくださいね!」

 

 《転移門(ゲート)

 

 闇妖精(ダークエルフ)の少女は、詠唱とともに現れた闇の塊の中へ消え、同時に水晶の画面の中へその姿を現す。

 ニグンの部下のうち最も悲観的な男が一人、その場で卒倒した。












 天使の皆さんはスプラッタされても血が出ないでキラキラ光るそうで、血の匂いばかりが充満していたこのSSも丸ごと浄化される思いです。
 ニグンさんたちの感覚については、例えるならルネサンス以前の宗教画で純粋培養された人たちをバロック絵画の中の世界へ直接放り込んだような衝撃感をイメージしています。人間の群れを使ってラクしようとして、魔法を手控えたマーレが悪い。

 ニグンさんのテンションが上がりきっていませんが、まだ彼のシーンは終わっていません。少し先だと思っていた部分が、キャラクターを動かしてみるとずいぶん遠くなってしまう事に驚きつつ、軽率さを反省します。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。