マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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●前々回までのあらすじ

 邪悪な吸血鬼の仲間とわかった『蒼の薔薇』の討伐に成功。
 死の宝珠に身代わりを任せたエンリは命を守る代わりに大切なものを失う
 イビルアイを連れ歩くため魔獣登録し、拘束具のみの獣同然の装備として街中を凱旋

●前回のあらすじ

 鎮静薬山盛りエンリは死の宝珠の行動と矛盾しないようクレマンティーヌの段取りに流される。
 「(轡が)馬用って、人間みたいな姿なのにおかしいと思わないんですか」イグヴァルジは走る
 『蒼の薔薇』はマジックアイテムの大部分を奪われ、仲間の死体を背負ったまま追放、王都方面へ。
 『フォーサイト』来訪。「エンリさんは偽物」「昼間とはまるで別人」「鮮血帝の目は誤魔化せないってことです」
 
 帝都にはカルネ村の戦いに続き、エ・ランテルの情報、そしてブレイン・アングラウスの身柄などが集まる。
 ジルクニフはこれらのピースを組み立て、『血塗れの魔女』の虚構を看破する。
「血塗れの魔女などいない。クレマンティーヌは正義の戦士」
 そして義の人クレマンティーヌを迎えに来たのが『フォーサイト』だ。







三八 義の人で行こう

 クレマンティーヌは一時、息も絶え絶えの状態となっていた。

 嘲りの笑いには慣れていても、本気の笑いとなると勝手が違う。買ってきたいかがわしいものをぶちまけられて慌てるイグヴァルジを見た時から、どうも抑えが利かなくなっていた。

 本気の笑い声を初めて聞いたエンリやンフィーレアはそれとなく一歩ずつ離れて距離が開く。変な笑いが出ていた自覚はあるが、少しだけ薄情に思う。無関心なだけだとわかってはいても、引かないマーレや巫女姫の存在が少し嬉しい。

 

 『フォーサイト』の四人は慎重にこれは自分たちの見解ではないという言葉を差し挟みながら、依頼者たる皇帝ジルクニフ側の考えと自分たちの仕事について余すところなく説明する。もちろんワーカーである彼らに対して根拠として細かな推理が示されたわけでもなく、単にカルネ村で何らかの事件があったことと、状況からそれができる人間など限られているという事実のみにまとめられた形だ。

 すなわち、皇帝にとって必要なのは偽物のエンリではなくクレマンティーヌであり、マーレや他の二人については全く知らないということだ。

 

「そんなわけで、場合によっては脅してでも連れてくるようにと言われていたんですよ」

 

「あんたら程度が脅し? 鮮血帝の話と別の意味で笑えるんだけど」

 

 目の端に笑い過ぎて出た涙の粒を残しながらも、クレマンティーヌの瞳には危険な輝きが宿る。

 

 クレマンティーヌの瞳には危険な輝きがあるが、ヘッケランは意に介さない。

 

「何せクレマンティーヌさんは義の人ですからね。そんな前提なら、いくらでもやりようはあると思ってたようです」

 

 剣呑な空気をヘッケランはあっさりと受け流す。

 

「法国に所在が漏れれば周囲にも迷惑がかかるということ」

「ちょっと、ヘッケランもアルシェもそうやってこっちの手の内を――」

「イミーナ、前提が間違っていて使えない手ですから仕方がないでしょう。この仕事はもう相手の意思で決まるだけのものです。こちらは頼むしかできません」

 

 仲間たちにもその気は無いようだ。

 そして、『フォーサイト』は工作資金として預けられていた少なくない資金も含めて報酬を提示する。これは、招くことの対価に加え、ジルクニフが「偽物」だと看破したエンリのような周囲の者たちを買収するために用意されたものも含まれる。

 

「アダマンタイト級冒険者チームを雇うには若干物足りないかもしれませんが、帝国で話を聞いてもらうだけのお仕事ですから、悪い話じゃないでしょう。……とりあえず、明日また来ますよ」

 

 ヘッケランはその場での返答を求めず、『フォーサイト』のメンバーを連れて別の宿へ戻っていく。

 

 

 

 

 

 エンリは『フォーサイト』の依頼について確答はしていないが、気持ちはほとんど決まっている。

 改めて『漆黒』だけで宿の一室に集まると、エンリは部屋の端でうずくまるイビルアイの肌色を一瞥して軽い溜息をつく。

 

――やっぱり、何か着せておきたい。

 

 イビルアイを人の敵である吸血鬼だからと割り切ったところで、目の前の光景が変わるわけではない。何度目か数えることも放棄したほどの投薬を受けて心を落ち着けたエンリは、ようやくそのことに気付く。

 イビルアイを魔獣として扱う必要性はわかっているものの、エンリとしては、妹のネムと大差ない幼いイビルアイの肢体を晒しものにし続けることには抵抗が大きい。

 そして、時折フラッシュバックする死の宝珠の頃の記憶。そのたびに逃げ出したくなる気持ちがそれを後押しする。

 

「もし帝国へ行くとしたら、クレマンティーヌが正義感溢れる人物だと思われているんだから、イビルアイにも服を着せておいた方がいいんじゃないかな」

 

 視線が合うと、イビルアイは鎖の擦れる音をさせて顔を背ける。今さら対応を少し改めたところでエンリたちへの感情が変わることは無いだろう。これは新たな街での世間体のための提案でしかない。

 

「いや、エンリ様それ冗談きついですって――」

 

「そうだね。確かに、帝国へ行くなら皇帝に恥をかかせるようなことは絶対に慎むべきだ」

 

 笑いながら否定するクレマンティーヌを遮って、少し真剣な表情を見せるンフィーレア。

 

「ンフィーちゃん、どういうこと?」

 

「皇帝は鮮血帝と呼ばれるほどの人物なんだよね。皇帝の見立てと明らかに違う所を見せれば、臣下の前で恥をかかせたような恰好になる。吸血鬼を連れているような弱い立場では、立場のある人から睨まれるようなことは避けたい」

 

――恥?

 

 きょとんとした顔でンフィーレアを見つめるエンリとは違って、クレマンティーヌは何かを察したように表情が曇る。

 

「ええと、それは私がそういうふうに振る舞わなきゃいけない……ってこと?」

 

「そうなるね。帝国内では鮮血帝の見立て通り君は義の人クレマンティーヌで、エンリは仮初(かりそめ)のリーダーということにするべきだろう」

 

「うわ、ちょっと勘弁してよそれ。『義の人くれまんてぃーぬ』とか、正気なの?」

 

「正気かどうか聞きたかったら皇帝陛下に聞くといいよ。それに、クレマンティーヌが鮮血帝の評判を教えてくれたんじゃないか。その話から、自分の判断には自信を持っている人なのは間違いないよね」

 

 ンフィーレアの言葉にクレマンティーヌはがっくりと肩を落とし、マーレとエンリ――今後の行動を左右する二人の方へ向き直る。

 

「だからって……はぁ……面倒くさい皇帝に関わるより、王都でも行って『蒼の薔薇』のパトロン調べて脅したりした方が良くないですか?」

 

 脅しという言葉にエンリがびくりと反応する。これ以上、王国で札付きの大悪人のように振る舞うわけにはいかない。

 そもそも、『蒼の薔薇』の件は身を守っていたらこうなってしまった、戦わざるを得なかったという状況だ。恐ろしくもおぞましい『死の宝珠』の記憶がちらつくことで時々そこを見失いそうになるが、完全に見失ってしまえばマーレが去った時に全てが終わる。

 

「これ以上王国で貴族とやり合うのは村のこともあるし嫌かな。何か仕掛けてきても困るし、できれば帝国へ行きたい。……マーレはどうかな」

 

「えっと、王国でここまで手がかりが無いので、国を潰したりして人間たちに警戒される前にいったん別の国もいいと思います」

 

 王国とやりあうことが王国を潰すようなことにすり替わっている。マーレなりに王国での状況をわかってくれているようだが、冗談や軽口を言っているわけではないから困る。

 

「そ、そうだね。マーレを手伝うことを考えても、『フォーサイト』と一緒に帝国へ行くということでいいかな」

 

「はあ。お二人がそう言うなら……」

 

 クレマンティーヌは露骨に残念そうな顔だ。よほど『義の人クレマンティーヌ』が嫌なのか、演技を強いられることに不満があるのか――。

 

「あと、その皇帝って人には情報が集まるみたいなので、せっかくだからクレマンティーヌに話を聞いてきてもらいます」

 

 マーレは人間の国を相手にこちらの情報を全て出すつもりはないようだが、マーレと同格の存在が沢山居るアインズ・ウール・ゴウンのような非常識な存在が国内や周辺に現れれば異変を察知する可能性は高く、そういう所に期待しているようだ。

 

 マーレが皇帝に関心を持ったことでその場の緊張感が高まるが、直接会う気が無いことでエンリとンフィーレアは胸をなでおろす。

 逆に、魔法で会話を聞くかもしれないと言われたクレマンティーヌは、その考えを退けるため必死に帝国の魔法対策の優秀さについて説明する。そして、それを語れば語るほどマーレは帝国への興味を強めていく。

 クレマンティーヌは魔法詠唱者(マジック・キャスター)にあまり詳しくないということで、イビルアイの(くつわ)が外され、マーレは帝国最高の魔法詠唱者(マジック・キャスター)について話を聞く。

 人間なのに二百年生きているとか位階がイビルアイより上だとかそういう話を上の空へ放り出して、エンリは粘り気のある糸を引く小さな(くつわ)から目が離せなくなった。

 

「たとえ第六か第七位階程度の魔法詠唱者(マジック・キャスター)でも、弟子を沢山育成しているなら、情報収集を頼んだら上手くいきそうな気がします」

 

 大した相手でないとしても安易に敵対すれば情報が得にくくなる。そんな理由でクレマンティーヌがどうにかマーレに会話の傍受を諦めさせた頃には、何か皇帝側から依頼があればそれを請け負ってでも帝国から情報や協力を引き出すという方針が決まっていた。帝国がクレマンティーヌに会って求めることなら、戦いの力さえあれば可能なことだろうというンフィーレアの助言もあった。

 

 クレマンティーヌの表情は暗い。それは、『義の人クレマンティーヌ』を暫く続けなければならなくなったせいだろう。笑い飛ばしていた『義の人』が、今やマーレの命令の一部となった。

 

 実のところ、エンリにとってはクレマンティーヌが『義の人』を演じなければいけないということも大きな魅力だ。これまで気を張って、強いふりをして、結果としてとんでもない目で見られるようになってしまった。その大きな原因を占めるクレマンティーヌが『義の人』を演じることで大人しくなるかもしれない。これは本当に魅力的なことだ。ただ都市間を旅するだけでも、心安らぐ夢のような冒険の日々に感じられる。

 もちろん、クレマンティーヌが同行する以前の旅がマトモだったわけではない。しかし、街道で現れる程度の魔物ならクレマンティーヌが居れば全く危険は無く、ワーカーチーム『フォーサイト』も居て、今となっては自力でもどうにかなるような気がする。

 ンフィーレアも少し安心したような表情だ。帝国行きは意外な理由で心安らかなものになるかもしれない。

 そんな緩んだ空気は、クレマンティーヌが問いを発することですぐに霧散することになる。

 

「情報収集はわかりましたが、もし帝国が『漆黒』を消したがっているか、あるいは既にアインズ・ウール・ゴウンを知った上に敵対しているなどして、攻撃を仕掛けられたりしたらどうします?」

 

「その場合は、相手を殺すなり逃げるなりしてください。時間が経って戻らなければ、大きな魔法を使ってからクレマンティーヌを回収して蘇生してあげます」

 

 全く安らかではない。バハルス帝国の、そして帝都中枢に詰める数千人の命運が『義の人クレマンティーヌ』の双肩にのしかかる。ついでに本人の命も。

 

「殺すとか、武器預けるから無理ですって。だからそこには人類最高の化け物魔法詠唱者(マジック・キャスター)が――」

 

「それなら、助かることを考えて頑張るといいですよ。森で見せた地震の魔法にするので、うまく上の方にしがみつけば手足の一、二本で済みますから」

 

 広大な範囲の森を一瞬で荒野に変えるような魔法を一度や二度見たからといって、何か対処ができるとも思えない。

 クレマンティーヌは青ざめた顔で、慎重に情報収集を行うことを約束した。マーレも人間の国を滅ぼすことが目的では無いようで、敵対的であってもこちらが敵だと気付かせない方が情報を得やすいという意見は受け入れる。

 

 

 

 ともかく、帝国行きと『義の人クレマンティーヌ』は確定だ。

 エンリは手の出しようがない明日の帝国の末路より、自力でどうにかできる今日の自分の世間体を考える。用済みとなったイビルアイは再び轡を噛まされ、相変わらず拘束具の他は素肌を晒しているが、服だけでも着せることができればだいぶ見栄えもマシになる。

 さっそくエンリはミコヒメのために用意しておいた予備の外套を持ち出すが、この街で着せておくことにはクレマンティーヌだけでなくンフィーレアまでもが反対し、エンリは大切な友人を白い眼で見てしまう。

 その視線を受けると、ンフィーレアが急におどおどとした雰囲気になる。まるでエンリが悪いことをしているかのようで不本意だ。

 

「ぼ、僕も着せておきたいとは思うけど……そんな目で見ないでよ……。ただ、今はやめた方がいいって話なんだ。エ・ランテルにいる間に態度を変えたら、街の人たちは吸血鬼に甘いと考えて僕らを疑うかもしれない。ただでさえ……まあ、色々とあったし」

 

 ンフィーレアは言葉を濁す。骨の竜(スケリトルドラゴン)の件かそれ以前の悪評かはわからないが、これは気遣いなのだろう。

 

 エンリが縮こまっていた凱旋の時、ンフィーレアは周囲を観察していたらしい。

 吸血鬼イビルアイに投げつける石を持ってきたような人々も、『漆黒』が厳しい態度をとっていたからこそそれを投げなかった。逆に言えば、ああいう恰好をさせていなければ皆で石を投げつけていたわけで、街の人たちのイビルアイへの感情は最悪だということだ。

 

「もちろん、街を出たらそれを着せてもいいと思う。帝国領内で説明する時は、クレマンティーヌの温情だということにすればいい」

 

 イビルアイの咥える小さな(くつわ)が、がりりと削られる。温情などという言葉が受け入れがたいのだろう。率先してその尊厳を奪ったクレマンティーヌに対し向けられるのは、恨みの篭もった仄暗い視線だ。

 

 エンリはンフィーレアの案に納得し、外套をいったんしまう。クレマンティーヌの前で、そして街の中で情けをかけるのは不味いので羽織らせておくわけにもいかない。

 街から出た後に備えて試着させることも考えたが、着せたままにしないのなら首輪や革手錠など全てを外して付け直すのは大変だから後回しだ。

 そして、クレマンティーヌの渋い顔と深い溜息は気にしない。少しでも『義の人』に染まれば良いとエンリは考える。演じているうちにそちらへ引っ張られるということも、少しはあるような気がするのだ。

 

 

 エ・ランテルを離れることが決まると、話題はバレアレ家やネムのことに移る。エ・ランテルに居なければ、万一の報復の際に対処が難しくなるからだ。

 ンフィーレアがリイジーを連れてきて話をすると、幸か不幸か、『蒼の薔薇』に知られていて差し迫った危険のあるバレアレ家の方はクレマンティーヌの鎧の盗難事件の際に夜逃げの準備ができているという。エ・ランテルほどの大きな街で薬師の元締め的存在となっているリイジーが新たな街で一から出直しとなってしまうことを心配すれば、リイジーは第五位階のポーションを沢山用意すれば新たな街での立場などすぐに築けると笑い飛ばす。

 移転後の店の再興資金については『蒼の薔薇』の装備品のうち不要なものを処分して充てることになる。善悪そして無関心と考え方がバラバラな『漆黒』一行だが、金銭に執着が少ないのは共通だ。特にエンリとしては、トラブルに巻き込んだ形のバレアレ家に負担を負わせたくはない。

 他方、カルネ村の方はこちらから動くことでエンリとの繋がりを意識される方が不味いということで、ネムはバレアレの店が帝都でうまく根付いてからこっそり引き取ってくれるということで話が決まる。

 

 

 

 

 

 翌朝、宿の一階でとった朝食は、身体の中へ流し込むのに思いのほか手間がかかった。身体の不調は全て魔法で回復してもらったが、わけがわからなくなるほどお腹の中のものを吐き出し続けたことが気持ちの上で後を引いている。

 ンフィーレアは先に食事を終えると、健康状態についてしつこく聞いてから一旦自宅へ戻ってしまった。引っ越しの準備はすぐ終わるが、鎮静薬の手持ちが無くなったので出発までに補充しなければならないという。その薬はクレマンティーヌの常備薬で沢山用意していたようだが、最近そんなに飲むことがあったのか、エンリには覚えが無い。最近のクレマンティーヌはそれをがぶ飲みする機会も減り、色々と恨み言を言いたくなるほどに調子が良さそうだ。

 

 そんな時、約束のある『フォーサイト』より先に現れたのはイグヴァルジだ。

 

「在庫をもう一度探してもらったら、馬用でなく人間用でちょうど良いものがあったそうです!」

 

 そう言って渡してきたのは、人間の小さめの口に合わせた(くつわ)だという。

 

――大きな街だと、馬具じゃなくて人間用の(くつわ)なんてあるんだ。

 

 エンリは自分の常識が揺らぐのを感じる。

 構造は馬用と違ってボールのようなものを口の中に噛ませるもので深く口を抑え込むことができるが、これまでの馬用のものと違ってどことなく嫌な感じもする。

 

「これならしっかりはまって、魔法の詠唱なんかもできませんぜ!」

 

「う、うん、安全対策として悪くないのかな。……ええと、ありがとうございます」

 

 動揺を悟られないように振る舞う。先輩冒険者であるイグヴァルジに実用性を言われれば、経験の浅いエンリは頷くしかない。

 それを見てクレマンティーヌが(くつわ)を手に取り、付け替える。

 

「……うっわ」

 

「エ、エンリの姐さんが馬用じゃおかしいっていうんで、しつこく聞いて使えそうなのを探してもらいました」

 

 自分から付け替えたくせに、クレマンティーヌが変な声をあげて一歩引き、イグヴァルジが言わなくてもいいことを言う。

 確かに、昨日エンリは「馬用ではおかしい」というようなことを言ったが、これは――。

 

――落ち着かない。おかしい。心がざわめく。何かが違う。

 

 噛まされている状態から、咥えさせられている状態になった。表面上はそれだけの違いとしか言いようが無い。

 しかし、実物を見ると、それだけでは済まされない何かを感じる。少なくともエンリは落ち着きを無くす。

 イビルアイの表情も、元々あった諦めの表情が怒りに変わっているように見える。何か感触に不快なところがあるのかもしれない。

 

 強力な魔法詠唱者(マジック・キャスター)である吸血鬼イビルアイを捕らえておくには必須のものかもしれないが、エンリも見てはいけないものを見たような気分になってしまう。こういうものを何とも思わないはずのクレマンティーヌが引いた態度になっている時点で、実際に色々と問題が大きいのだろう。

 しかし、()()魔法詠唱者(マジック・キャスター)を捕らえておく時の常識だとしたら、それに疑問を持つのは弱者であることを晒すことにもなりかねない。

 エンリは粟立つような強い違和感をいったん心の奥へ押し込もうとする。

 クレマンティーヌの前では、エンリは強者でなければならない。冒険者の世界、弱肉強食の世界に慣れているふりをしなければならない。そこに普通の村娘の感覚を持ち込める余地などあるはずがない。

 

――『道具屋』とまで呼ばれてるイグヴァルジさんが選んだ品に間違いは無いだろうけど。

 

 エンリはイグヴァルジの顔を立てることを、この場で自身の粟立つ感覚を抑える言い訳とする。

 等級が逆転しても先輩は先輩であり、ミスリル級の『道具屋』のプライドは尊重しなければならない。少なくともエ・ランテルから出るまでは嫌な感じのする人間用の轡を使うのも仕方がないことだろう。

 

――でも、あとで馬用に戻してもらおう。

 

 獣として扱うということを徹底するなら、弱肉強食の世界に生きる冒険者として問題無いかもしれない。

 

――魔法複写も、馬用だし!

 

 エンリは自身の感覚を優先する。人間用とか馬用とか、そんなことより大切なことがあるような気がするのだ。

 

 

「お、お愉しみのところ悪いんだけど、昨日の返事は――」

「はいっ!?」

 

 濡れて糸引く轡を手に取って眺めていたエンリは、びくりと震えてそれを取り落とす。

 振り向くと、入口近くには既に『フォーサイト』の面々が揃っていた。旅装を整えたこともあり、少しだけ雰囲気が変わっている。

 

 声をかけてきたのは、ばつが悪そうな表情をしたリーダーの戦士風の男ヘッケラン。旅装の下に軽装鎧を着こんできたようだが大きな変化は感じない。

 その傍らに、顔をしかめて露骨に嫌悪の視線を向けてくる細身の女イミーナ。レンジャーの様々な装備品を身に着け髪を結ぶことで少しきつい雰囲気に――。

 普段の優しげな表情を崩さず窓の外を眺め遠い目をしている神官風の男ロバーデイク。神官服の下の金属鎧が長身を巨躯に見せて屈強な印象に変わっている。

 半ば青ざめて伏し目の奥に汚物を見るような視線を隠す魔法詠唱者(マジック・キャスター)の少女アルシェ。マントや粗野な革手袋が加わっただけで冒険者らしく見える。

 

「ちょ、っと、はい、帝都には行くことにしましたが、こちらが先客なので待っていてくださいね――」

 

 この時、エンリは恐ろしいものを見つけた。それは、髪を結んだことでわかった、イミーナの人ならぬ耳。昨日は変装していたということなのだろう。

 エンリは声にならない小さな悲鳴を口の中で押し殺す。その衝撃は、最悪な場面を見られたことより大きい。

 

――なんでこんな所に森妖精(エルフ)が!

 

 かつてエルヤーが連れていた三人のような陰鬱な感じは無いが、性格のきつそうな雰囲気はやはり大きな不安を感じさせる。

 エンリは妖精族を恐れている。闇妖精(ダークエルフ)であるマーレの非常識も異様な力も、そして森妖精(エルフ)を三人も連れたエルヤーがエンリと同様に世間体を諦めているのも、全て妖精族の脅威に由来することだと考えているからだ。特にマーレが文字も読めないのに、すなわち魔法を学ぶこともできないのに強力な魔法を使うという事実は、エンリに広範囲の恐怖心を植え付けるのに十分なものだった。生まれた時から魔法を使えるという非常識な話さえ聞いたが、嘘をついているようには見えなかった。

 

 エンリは挫けそうになる心に鞭を打って、イグヴァルジへの用件を優先する。

 

 イグヴァルジは、盗賊団退治のあと、『漆黒』が悪目立ちしないよう過剰な昇進を抑える方向で動いてくれた信用できる冒険者だ。最近はクレマンティーヌと親しくしているので真実までは明かせないが、決して話の通じない相手ではない。エンリは『義の人クレマンティーヌ』の件を利用して、もう少し見た目が無難な拘束具を用意できないか相談するつもりだ。

 

「イグヴァルジさん、ちょっと店の裏に来ていただけますか? お話があります」

 

 しかし、この試みは失敗する。そして、イグヴァルジが後をついてくる気配が無いとわかった時には手遅れだ。

 後ろで、鈍い音が一つ――。

 

「申し訳ございませんでした! 蒼の薔薇が怖くて、脅されて、当初奴らに協力していました!」

 

 音は、床に額を打ち付けたものだ。

 その場へ飛び込むように座り込み上半身を地に伏したイグヴァルジの姿勢は、尻が高々と上がって背筋のよく伸びた非の打ちどころのない完璧な土下座だ。

 

「――何でもします! 命だけは!」

「あっ、ハイ……」

 

 エンリは全身の力が抜けるのを感じ、手近な椅子へ座り込んだ。

 

 エンリが放心している間、事情を聴くのはイグヴァルジと仲の良かったクレマンティーヌだ。良い関係にあったつもりが裏切られたのだから、心穏やかではないだろう。話が鎧の件に及ぶとクレマンティーヌがテーブルに大きな音を立ててコップを置き、イグヴァルジがびくりと震える。

 

「この街は不用心みたいだから離れるなら貴重品を持ち歩く手段が必要かもね、イグヴァルジ」

 

 最後にクレマンティーヌが何やら話をして、元々自分たちで用意しようと思っていた荷馬車を、なぜか出発までにイグヴァルジが用意することになる。クレマンティーヌは御者もやらせるつもりだったようだが、『漆黒』を帝国へ送り届けるのは自分たちの仕事だとして『フォーサイト』の面々がその役割を買って出る。さすがに哀れに思ったようだ。

 

 貴重品というのは、帝都に引っ越すバレアレ家の荷物だけでなく、クレマンティーヌが『蒼の薔薇』から奪った装備品やマジックアイテムが含まれる。これからそれらを自分たちで使うものと売るものに分けて、高価なものだけは高く売れる帝都に運び込むことになる。

 帝国では冒険者の質は王国と大差無いが、国が騎士の強化に取り組んでいて装備品やマジックアイテムだけでなくポーションなどの購入意欲も旺盛だという。そんなクレマンティーヌの知る状況は『フォーサイト』に聞いても同じことで、バレアレ家にとっては明るい材料だ。

 

 装備品の配分は、戦いに赴くわけではないので最低限にして、鎧など大物は後回しにした。マーレが最初に調べてくれた乙女しか着られない鎧、無垢なる白雪(ヴァージン・スノー)の扱いに困ったからだ。

 エンリはもちろん現役の乙女だが、これを着てしまうと何かと侮られるのではないかという気持ちがあり、それがこれを着ようとしないことへの自分の中での建前だ。この点、アダマンタイト級チームのリーダーが着ていたという事実は都合よく頭の中から抜け落ちている。

 心の奥底には、一瞬着てみせるのは望むところでも、これを着続けることでマーレに距離を置かれるかもしれないという複雑な思いもある。さらに、防御力を乙女であることに依存するというのは、十六歳という結婚適齢期の冒険者として不味いことのような気がするのだ。

 このような鎧を、結婚適齢期も終盤に入っているように見えるあのラキュースが着ていたということにエンリは驚きを感じざるを得ない。女の幸せより戦いと謀略の世界を選んだラキュースはやはり覚悟から違う。一度退けたといえども決して侮ってはならない存在だ。

 なお、クレマンティーヌは戦いの時にティナが捨てた鎧を確保していて、使おうか迷っているようだ。邪魔だと言って布を取り去ったら、腰回りがあまりに開放的すぎて困るという。元から色々と開放的すぎて胸元の主張が気になるので、戦士なら戦士らしくトゲだらけのごつい鎧でも着ていれば良いのにとエンリは思う。

 武器に小物や靴、上着などは適当に分けて、クレマンティーヌの敏捷性や回避力が上がったり、エンリの抵抗力が上がったり、ンフィーレアが魔力で浮かぶ六本の剣に守られたり、ミコヒメの魔力が上がったりしている。

 禍々しい黒い刃が目立つ強力な魔剣キリネイラムは、クレマンティーヌが使わないという以上は魔力を込めて爆発を起こす剣の力を考えてンフィーレアに持たせたかったが、攻撃力を考慮してエンリに押し付けられた。さらに悪いことに、必要な時にンフィーレアに渡して剣の力を使ってもらうことを言い続けたことで、今までの毒液の出る大剣(グレートソード)とあわせて二本も背中に背負っておく羽目になった。実力を誤解させているクレマンティーヌはともかく、ンフィーレアまでそういう意見になることにエンリは納得がいかなかった。

 エンリは後で押し付けられかねないトゲだらけのごつい鎧も含めて、全てにおいて最強のマーレに使ってもらうのが一番だという逃げ場を探ってみたが、この場にある最強の剣の威力はマーレの杖の打撃にも劣り、最強の鎧はマーレの服より遥かに脆いという。エンリはせめて今の快適で鎧らしくない黒衣を守ることに全力を傾けることを心に決める。

 メインの武器としては使えるものが無いというクレマンティーヌは、吸血の刃(ヴァンパイア・ブレイド)を確保していた。物事を穏やかに済ませるのに良い武器だというが、穏やかな用途など無さそうだ。

 

 出発前、バレアレ家に立ち寄って準備を手伝うと、荷物は驚くほど少なかった。小さくても貴重な素材などは沢山あるようだが、生活雑貨は殆ど置いていくらしい。

 家を出ようかという時、クレマンティーヌとミコヒメが部屋の同じあたりでふと足を止め、同じ木桶に手を触れる。何を通じ合っているのかわからないが、荷馬車の上の僅かな家財の領域に小さな木桶が加わった。あれは、マーレがイビルアイを捕らえた日、急いで宿へ身を隠そうという時にンフィーレアがわざわざ洗っていたものだ。何か価値があるものなのかもしれないが、エンリにはよくわからない。

 

 結局、『フォーサイト』に対してエンリは何のフォローもできなかった。帝国へ向かうことを了承して出発の時間も決めたものの、世話になったバレアレ家の引っ越しも手伝わずにはいられなかったからだ。ただでさえ雰囲気がイグヴァルジの土下座で悪化している上、イミーナの耳がエンリが苦手な森妖精(エルフ)のものとわかるとさらに近寄り難くなる。視線を合わせず全てを後回しにしているうちに、約束の時間にはさらに話をしづらくなっていた。

 









いつも誤字報告ありがとうございます。ほんと感謝してます。

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