マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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一七 マーレの罠とクレマンティーヌ

 水場の薄明かりの下で、ぴちゃぴちゃと水音だけが響き続ける。

 ニニャは手を洗う。

 掌の僅かな陰影の全てが、罪深く赤黒いあの汚れのように感じられる。

 ニニャは手を洗う。

 爪の間の暗がりに、まだべっとりと詰まってはいないだろうか。

 ニニャは手を洗う。

 指の間の影を振り払おうと、千切れんばかりに指を開き光にかざす。

 ニニャは手を洗う。

 …………。

 

 人間だったものを袋に入れ、貧民街の奥へ運んだ。死体は冷たくなるというが、生温かかった。力強い戦士の死体でも、思ったより柔らかかった。最後は目隠しをされて手伝ったが、最初からしておいてほしかった。

 気をつけるように言われたが、やはり色々な所が血で汚れていた。女に洗える場所は無いかと聞けば、顔を何度も殴られた。鼻血が噴き出すと、これで問題ないねと女は笑った。

 自分があんなことをさせられたのは、仲間の命まで人質にして脅されたのは、全てあいつのせいだ。だから、あの女にはあいつを斃してもらわなければならない。

 もう後戻りはできない。死体を片付ける時はその行為に完全に加担するのが嫌で、証拠として戦士の持っていた古びたペンダントを確保した。しかし、それを持っていることが仲間を危険に晒すような気がして、解放されたあとで貧民街のゴミの山に棄ててきてしまった。

 仲間たちには心配をかけたが、喧嘩だと言い張ってわかってもらった。今の自分に残されているのは、せいぜい罪の証である血の汚れとその匂いくらいなものだ。あとは、この手を洗い終われば、いつもの日常が戻ってくるに違いない。

 

 ニニャは手を洗う。

 それを見守る仲間の影に気付くこともなく。

 ニニャは手を洗う。

 …………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな解錠音に気付いたのはリィジーと奥の部屋に引っ込んでいたマーレだけだった。すぐに扉が勢い良く開き、短い金髪の女が無遠慮に家の中へ踏み込んでくる。

 

「こんばんはー。血塗れの魔女エンリちゃんいるー? 陽光聖典と戦った子もいるのかな?」

 

 初撃を食らわせたのはクレマンティーヌだった。その呼びかけは、エンリの心に、鳩尾の奥の臓腑に響く一撃だ。

 

「……あ、あの、こんな時間に、どなたなんでしょうか?」

 

 ンフィーレアが招かれざる客に声をかける。

 

「はーい、スレイン法国の方からきましたー。元漆黒聖典のクレマンティーヌだよ。君のことをそこの魔女に渡すわけにはいかなくてね、どこかに連れてかれる前に攫いに来たんだー。ちょっと使ってほしいアイテムがあってね」

 

 人攫いの先客のように言われたエンリは、シクシクと続く痛みに耐えながら立ち上がり短剣を抜く。目の前の女は明らかに危険な雰囲気を漂わせているが、どうせ「交渉」は自分の役回りなのだ。

 

「人聞きが悪いことを言わないでください。別にンフィーはどこにも連れていきません」

 

「じゃ、お姉さんが貰っていっていいかなぁ。アンデッドの大軍を召喚する第七位階の魔法を使うっていう、とっても貴重な体験をさせてあげるよー」

 

「それくらい、自分で使ったらいいんじゃないですか?」

 

 開け放ってあった隣の部屋の入口からマーレが顔を出す。少し離れた隣には、薄絹一枚の姿となった巫女姫が控えている。魔法による超知覚で招かれざる客を侵入前に感知し、使えるようにしておいたものだ。

 

「ほー、言ってくれるね闇妖精。それと――巫女姫だと!!」

 

 クレマンティーヌは最初に斃すべき目標を見つけ次第仕留めにかかるつもりだったが、この場にありえないものを見て思わず声を荒げる。

 

 風の巫女姫。

 

 それは、壊滅したという風花聖典の本拠地、風の神殿の最奥で秘匿され護られていた存在。世界の果てまでを見通す風花聖典の目であったそれは、漆黒聖典の個々の隊員にも引けをとらないスレイン法国の要人であった。

 

「この玩――ミコヒメを、知っているんですか?」

 

 

 マーレは漆黒聖典という存在を知っている。それは、マーレがスレイン法国で召喚した魔獣の支配を奪うほどの、すなわちマーレ自身をも支配しかねないほどの、極めて危険な神器を守っていたとされる存在だ。そしてスレイン法国自体、ナザリック地下大墳墓を土足で踏み荒らした者どもに連なる勢力であり、すなわちアインズ・ウール・ゴウンの明らかな敵である。

 前に会ったニグンという男は至高の御方への許しがたい無礼があったため殺してしまったが、復活魔法の使い手を得た今となっては、死体を置いてきたのは失敗だったと考えていた。今度は落ち着いて、うまくやらなければならない。

 

「聞きたいのはこっちだよ。どうして壊滅した風花んとこの巫女がここにいるのか……まあ、残ったのに拷問して聞けばいっかー。それじゃ、入口はカジっちゃんお願い」

 

――拷問すればいいのかな。

 

 

<能力向上><能力超向上><疾風走破――>

 

 そして――クレマンティーヌは一直線に駆ける。目標のマーレとの直線上にあるのは、エンリの短剣だ。敏捷性の差は大きくとも、武器の方へ向かっていけばその攻撃は無視できない。

 

 エンリは短剣を振り下ろす。いつものように力がみなぎってこないのは、相手が人間だからだろうか。女の顔に張りついた亀裂のような笑みが深くなったような気がした。

――間に合わない!

 

 信じがたい速さで距離を詰めるクレマンティーヌは、不思議なことに自身より遥かに鈍重なエンリの振り下ろす短剣の軌道に吸い寄せられるように接近し――。

 

<――不落要塞><流水加速>

 

 そのスティレットがエンリの短剣を受け、そのままクレマンティーヌは爆発的に加速してエンリのすぐ横をすり抜けていく。短剣の動きは遅く、想定よりかなり高い位置で受けたことで体勢が崩れず、その速度も想定よりさらに速くなる。

 この動きは、元々横を抜けていくことを目的としたものだ。後衛の魔法詠唱者を狩る時、転移などの逃げの手を防ぐことも考えれば、回り込むより前衛に当たると見せかけて抜けるのが最も成功率が高くなる。クレマンティーヌの圧倒的なスピードとこの二つの武技をもってすれば逃れられる魔法詠唱者など居ないはずであり、たとえ前衛の攻撃を低い位置で受けても低姿勢からの加速はクレマンティーヌの得意とするところだ。

 そして、このように体勢を崩さず高い位置で受ければその後の速度は人間が対応しうる限界を超えたものになる。全ては完璧なはずだったが――。

 

――軽すぎる……罠!?

 

 クレマンティーヌは戦慄した。エンリが武器に習熟していないことも、攻撃速度で劣っているのも想定の範囲内だが、これは少々御粗末に過ぎる。さらに、<不落要塞>で受けた一撃は、化け物のような膂力で繰り出されたものとしてはあまりに軽すぎる。それは攻撃を受けた際の衝撃を殺しその影響を完全に排する武技ではあるが、攻撃の気配や武器を合わせた音まで感じなくなるわけではない。

 素人同然――そう考えるのは甘すぎる。相手は冒険者組合を、そして王国屈指の武力集団を震撼させる存在なのだ。

 しかし、罠だとしても相手は魔法詠唱者だ。何を準備されていようと、その小さな体にスティレットを突き立てれば終わる。それだけのことだ。

 

――罠でも、食い破れる!

 

「死――ね!」

 

 強力な魔法詠唱者かもしれない相手に反撃を許してはならない。一切の遊びの無い、確実に心臓を狙った最速の一撃を繰り出す。そして――焼けるような激しい痛みがクレマンティーヌの手首を包み、不意に突進が止まった。

 

「話を、聞かせてもらえますか?」

 

 クレマンティーヌは、自分の手首を掴み上げた――半ば砕きながら掴み潰して肉にめり込んだマーレの小さな手を呆けたような顔で一瞥し、すぐにその顔は苦痛と憎悪に大きく歪む。

 

「アイテムだったか、糞がぁあああ!」

 

 クレマンティーヌは非常識な膂力を得る手段がアイテムである可能性も考慮していたが、それが他方の手に渡っている可能性については失念していた。ただ魔法による反撃を受ける機会を最小限とするため、無詠唱の魔法をも上回るよう速度に特化した攻撃を選んだのはそのためだ。

 ただし、魔法詠唱者が攻撃の軌道を見極め、半身になって切っ先をかわし攻撃を受け止めることの異常さにまでは考えが至っていない。狩る側としてこの場に現れたクレマンティーヌにとって、戦闘中の一瞬の判断においては、この時点で相手が絶対的強者であることを受け入れるのは難しかった。

 それでも、激痛の中でなおクレマンティーヌは一流の戦士であり続けた。手痛い判断ミスを悔やんで吼えながらも、とっさの判断で潰された腕にも役割を与える。砕かれた手首の先のかろうじて動く部分を緩め、その自重によってスティレットをゆっくり滑らせていく。先端以外に殺傷力の無いスティレットはせいぜい相手に軽く触れて落ちるだけのもので、相手は気にも留めないだろう。

 そして、クレマンティーヌにはもう一本の腕が残っている。瞬時に別のスティレットを抜き放つと、本来の刺突ではなく薙ぎ払うように扱い、今度は狙い通りにスティレットの刃の無い刀身を掴ませる。

 

 壊れた方の手を滑るスティレットと、掴ませたスティレット。双方がマーレの手に触れた瞬間を狙って、クレマンティーヌの意志に従って次々と込められていた魔法の力が解き放たれる。武器に付与されていた魔法蓄積の器に込められていたのは、《ライトニング/電撃》と《ファイヤーボール/火球》だ。

 マーレの手先からその全身に向けて雷撃が伝わり、逆の手で掴んだスティレットから指向性をもった爆発が起こる。クレマンティーヌは闇妖精の小さな身体を蹂躙する二つの魔法を満足げに眺めると、雷撃でその皮が爆ぜ、爆炎で肉が焦げる姿を思い浮かべて溜飲を下げる。

 

 あとは、ひるんで手が離れたところで脚でも潰しにいくか、戦闘不能ならアイテムを手放しているはずの後方のエンリを軽く仕留めるか――。

――離れない。

 

「無傷!? 嘘!!」

 

 スティレットに込めてあった魔法は、漆黒聖典の同僚であった高位の魔法詠唱者が魔力を強化する装備をつけて行使したものだ。その威力は通常の第三位階より強力なもので、英雄どころか逸脱者の領域にあっても完全に防ぐことなどできないはずだった。

 ほぼ同時に、入口を固めるだけだったはずのカジットからも攻撃魔法が飛ぶ。数年も儀式を続ける気の長い男だが、その状況判断は早い。

《アシッド・ジャベリン/酸の投げ槍》

 狙いはクレマンティーヌの手首を潰しつつあるマーレの左腕であり、槍状の酸の塊が正確にその左肩を直撃する。

 しかし、水でもかかったかのように僅かな不快感をその顔に浮かべただけで、マーレには何らの痛痒も与えることはできない。クレマンティーヌの右手首は、ごきり、みしり、と嫌な音を立て続けている。

 

――破滅の竜王。

 

 クレマンティーヌはその脳裏に浮かぶ不吉な言葉に、目の前の小さな闇妖精の姿を重ねて振り払う。

 

「――なわけない、ありえない!」

 

 掴まれ動かないスティレットから手を離し、次のスティレットに手を伸ばす。「すまぬ」――入口の方からそんな声が聞こえたような気がしたが、あれは慎重な男であり、戦況を考えれば仕方の無いことだ。

 

「ここで待っていてください」

 

 三本目のスティレットはただ空を薙いだ。クレマンティーヌは左膝に激痛を感じながらその場に引き倒され、掴まれていた右手首もそのまま握り潰されてもぎ取られた。

 

「ぎぃあああぁぁっ!!」

 

 その卓越した動体視力で微かに捉えた残像から、クレマンティーヌは自らの膝を逆向きに叩き折ったのが闇妖精の単なる足蹴りであることを知ってしまった。それさえ見なければ、英雄の領域に踏み込んだ戦士として心折れることなく、地に這ってでも相手の隙を突くことを考え続けただろう。

 戦闘の継続を諦めた時、血を噴き出す右手首から、飛び出した骨が見える左膝から、改めておびただしい痛みの奔流が身体中を駆け回った。

 

 

 

 エンリが振り向いた時、既にクレマンティーヌは片手片脚を奪われて噴き出る血を抑えながら悶絶し、マーレが改めて杖を手に取ったところだった。戦いにそぐわないとわかってはいても、出てくる言葉は一つだった。

 

「マーレ、あまり汚くしないで!」

《エクスプロ――

 

「――だめですか?」

 

「お願い」

 

 エンリの横槍によって、逃走したカジットは魔法の効果範囲外へ去った。マーレは静かにその場から滑るように走り出し、次の瞬間には家の外へ消える。そしてすぐに逃走者の姿を捉えて、汚くならない魔法を選び――。

 

《グレーターリーサル/大致死》「あれっ……」

 

「これほど……とは……」

 

 思わず間の抜けた声が出るほどのマーレの違和感に反し、逃亡を試みていたカジットは素直にその場に崩れ落ちた。

 

 この魔法は、本来は創造主がお気に入りのギルドマスターを回復させる手段を持たせたいということで、不死者に対する回復用に覚えさせられたものだ。ただし分類は攻撃魔法であり、その用途での使用を躊躇することもない。

 そして、この時は周囲を汚さない数少ない攻撃魔法として用いたにも拘らず、不死の者にかけて回復させてしまったような、魔法によって生み出された膨大な負の力が何かに注ぎこまれるような違和感を覚えた。仕留めた男は人間にもかかわらず不死者の如き容貌を備えていたが、この違和感はそのような視覚的なものとは関係がなさそうだ。

 

 地に伏したカジットの懐から、異様な光を放つ黒い石が現れる。それは自らの意思を持つかのように、マーレの足元へ転がってきた。

 なんとなく拾い上げると、違和感の正体がマーレの脳内に激しく呼びかけてくる。死の宝珠と名乗るそれは、カジットを殺した魔法の膨大な負のエネルギーを受けて何やら活性化していたようだ。マーレを操ることができないと知った後もひたすら死を撒き散らしたいだとか、多くの殺戮を行った気配がどうとか、先の魔法で人間を殺しつくして欲しいだとか無駄に注文ばかり多い。

 

「……うるさい」

 

 壊してしまおうかとも思ったが、知能があるアイテムは珍しく、何か知っているかもしれないのでアイテムボックスに放り込んでおいた。今はよくわからない石ころと話をすることより、スレイン法国――敵の情報を知っているクレマンティーヌという人間の方が重要だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのっ、この家で、汚くしていい場所はありますか?」

 

「……こうなった以上、この部屋で構わんよ」

 

 既に床はクレマンティーヌの血で派手に汚れていた。穏便に協力を得ることはできなかったが、情報源としてクレマンティーヌを拷問してでも活用したいマーレの意思は固く、高位階のポーションを大事そうに抱えたリィジーもそれを認めることにした。法国を敵に回している者に協力するということの意味を考えれば、こういうことも受け入れざるを得なかった。

 

 

 エンリも説得には及び腰だった。まず酷いことになっているクレマンティーヌを視野に入れたくなかった。それでも、嫌な予感を感じたのでマーレに顔を近づけて拷問を行う理由をひそやかに聞けば、予感通りに「エンリが言ったから」となる。

 この相手に合わせれば、協力を得るには拷問が必要だということらしい。エンリはそうなることに身に覚えが無いつもりだったが、とりあえず鳩尾のあたりをさすりながら、それを大きな声で言われなかったことに安堵した。クレマンティーヌには聞こえたかもしれないが苦痛でそれどころではなさそうだし、バレアレ家の人々に聞かれなかっただけでも良しとしよう。

 

 ともかく、大切なのはどうしてそうなったかではなく、これからどうするかだ。非常識な事態や前提においてもひるまず迅速に次の判断をして行動に移れるのはエンリの持っている隠れた才能の一つかもしれない。

 

 この場でこれ以上話をしたくないので、クレマンティーヌから顔を背けたままマーレの耳元についてくるよう囁き、部屋の外へ向かった。

「わかりました――」

 マーレの返事に続いて、強い怨嗟と呪詛の篭ったクレマンティーヌの悲鳴が、間を空けずに二度響いた。

 

 エンリは知らなかったが、マーレはクレマンティーヌを拘束してはおらず、その場から離れるにはその自由を奪う必要があった。そこで黒い杖を一振りして残る脚を腿の所で叩き折り、のたうち回るクレマンティーヌの無事な方の腕の肩口のあたりを踏み砕くことで完全にその自由を奪って、それからエンリの後を追った。

 

 エンリは後ろで起こっていることを考えないようにしながら、今するべきことを思い返した。すぐにマーレが追いついてくると、言うべきことをしっかり言っておく。拷問をせざるをえないというのなら、家の外で堂々とやらないこと、外に音が聞こえないようにすること、家の中は終わったらきちんと綺麗にすること、掃除には死体を使わないことなどを約束してもらった。

「ラクしないで、自分の汚したところは自分で綺麗にするようにね。お願い」

 エンリはマーレに視線を合わせ、その両手を自分の手で包み込むように握って言い含めておいた。襲撃がある前にンフィーレアが握った部分より少し広く、それを上書きするかのように。少し濡れたものに触れたような気がしたが、あまり気にならなかった。

 

 

 

 

 

――弱い存在にも、合わせてあげないといけない。

 人間との接し方について、エンリが教えてくれたことを思い出す。クレマンティーヌという人間に合わせれば、これは必要なことなのだろう。一度は自分には難しいと思った拷問だが、マーレが久々にその手段を選んだのは、手にしている玩具がそれに使えることを知っていたからだ。

 この玩具――巫女姫は神官らしい回復魔法のほか、相手の能力や状態を調べる魔法に長けていた。そのため、相手の体力の残りを見ることが出来、その状態に合わせて回復魔法を使うように命じておくことができる。その道の専門家であるかつての仲間が持っていた沢山の道具には及ばないまでも、この用途においてはなかなかに便利な道具なのかもしれない。

 クレマンティーヌという人間は、深手を負わせれば早く殺せと喚き、回復してやれば攻撃をしてくるか、必死にもがいて逃げようとする。説得して素直に協力者となるようなタイプではないようだが、貴重な情報源として確保しなければならない。既に力の差は理解しているようだが、やはりスレイン法国にもこの人間が恐れるような強者がいるらしく、完全にしもべとするにはまだ心を折っていく必要があるだろう。

 マーレは、すぐに法国と事を構えるつもりはない。しかし、法国とはナザリックを踏み荒らした大侵攻に参加した恐るべき者たちに連なると思われる危険な存在であり、たとえ自らの手に余るとしてもアインズ・ウール・ゴウンへの帰還を果たした後の戦いに備えて慎重に情報を集めておく必要を感じていた。至高の御方の命令も受けられず防衛の任も果たせないとなれば、せめて敵について調査し、可能なら潰しておくくらいの務めは果たさねばならない。

 

「加工してない虫草とかはありますか?」

 

「そんなもの何に……いや、聞くまい。そうそう使うもんでもなし、今はないよ」

 

 とりあえず、この部屋でできることをしてから考えることにした。できることといっても、ここではせいぜい腕や脚を折ったり潰したり、身体を裂いて中身をぶちまける程度の単調なことしかない。それでうまくいかなければ、色々な道具がある所へ場所を移すだけのことだ。

 

 

 

 

 

「こんなことになって、ごめんなさい!」

 

 エンリはバレアレ家の二人に謝る。入口側の部屋は襲撃者の血に塗れ、ソファセットはどうにか難を逃れたが敷物はもう駄目だろう。さらに、血塗れの原因となる所業はまだ終わっていないのだ。

 

「こんな状況では寝られないですし、今夜は私がお二人の宿代を持ちますから」

 

「私はポーション研究の凄いヒントを貰ったばかりなんだ。今夜は元より寝るつもりなんて無いから構わないよ」

 

 リィジーの頭の中は、試さなくてはいけないことで一杯になっていた。赤いポーションの現物が得られなくとも、それが劣化しないという情報が得られただけでも大きな前進だった。本来なら孫もそうであるはずだが、今の孫にはポーション研究より優先すべきことがあり、それはリィジーもわかっている。

 

「ンフィーレア、お前はきちんと行って寝てくるんだ。寝不足で私が倒れた時に世話をする人間が必要だからね」

 

「う、うん。着替えてくるからちょっと待ってて!」

 

 祖母に背中を押され、ンフィーレアはエンリと宿に泊まるという人生の一大事に挑むことになった。もとよりそれを回避することなど考えられないのだが、かといってどう返事をして良いかわからず赤面するばかりだった少年にとって、祖母の言葉は本当にありがたいものだった。

 結局、返事もしないまま結果だけを享受したンフィーレアは、返り血に汚れた一張羅を別のものに着替えるため足早にその場を去った。エンリも服の返り血に気付くが、こちらは魔法の装備であるため濡らした布で拭き取るだけで綺麗になった。

 

 着替えといっても、どんな用事でも作業着で外出していたンフィーレアにとって、エンリとの未来を作るような最重要な状況に見合う一張羅は今着ているもの一つしかなかった。ンフィーレアは自分を知っており、告白と一緒の外泊が同じ日に訪れようなどと夢にも思わないため、これ以上の準備など無かった。普段の薬草の匂いが染みこんだぼろぼろの服でエンリと外泊など考えられず、かといって、真新しい返り血が点々とついた一張羅で出かけて、兵士や役人にどこかへ連れていかれては全てが台無しになってしまう。

 衣装箱を色々と探っていくと、体格の合わない父親のものだけでなく、ちょうどいい祖父のものまで良い状態で出てきた。

 

「お爺ちゃんの若い頃の一張羅、借りてもいい?」

 

「そんな古いもの、まだあったのかい。こっちは忙しいんだ、服くらい好きに選びな」

 

 この世界ではありえないほどの物持ちの良さにも当人たちには自覚はなかった。普通、この世界では庶民の家なら十年もすれば仕舞いこんだままの服など穴だらけになってしまう。これはポーションの混入物対策や作業場所の衛生上の問題で、常に虫避けのハーブが使用されてきたバレアレ家ならではのことだ。

 祖父の服は仕立ての良い上質なものだったが、今どきの若者が着るものとは意匠が大きく異なっていた。襟付きのシャツは折り襟が一般的なのに対し、詰め襟というのは今ではかなり珍しく、縫い目の向きなどにも時代を感じさせる違いがある。

 数十年前はまだ戦争が少なく、厭戦気分が蔓延していなかった。その頃の一張羅のシャツは貴族の多くが今でも着ているダブレットと同様、勇壮な騎士たちが着用する金属鎧の形状に影響を受けて詰襟にしたものが多かった。それは庶民の社会にあっては、時代の流れで廃れていった意匠だった。

 ンフィーレアはそういう歴史を全く知らない世代だが、初めて着る詰襟のシャツは襟をきっちりと紐で締めると気分が引き締まるような気がして嫌いではなかった。若干きっちりしすぎている気もしたが、これを着て挑むのは人生の一大事であり、締める所は締めるべきだと考えた。

 

 古い服の虫食いを警戒して何度も鏡を見返すうち、昼間は急いでいて忘れていたことを思い出して櫛を手に取る。髪に油をつけるなど初めてのことだが、幾度か読んだ身だしなみに関する本に倣って手早く作業を済ませる。普通の若者はそのような本を読まないのだが、ンフィーレアにそういう知識は無かった。

 

「古い服だけどおかしくないかな?」

 

「よくわからないけど、私は格好いいと思うよ」

 

 ンフィーレアの前髪を上げて別人のようになった顔がだらしなく緩む。エンリが格好いいと言ってくれるなら、他の誰が何と言おうと問題はない。油を入れて後ろへ撫でつけた髪型はシャツと同様かなり古風なものだったが、それを指摘するような者はこの場には居ない。たとえエンリに街の若者の持つ常識が備わっていないということに気付いていたとしても、この言葉一つでンフィーレアの行動は決まってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 気持ちよく眠れる所を教えてほしいというエンリに対し、ンフィーレアが案内したのは冒険者や旅人でも泊まれる中では最高の宿だった。一見客でも問題無い場所となると、やはり冒険者の宿とならざるを得ない。金額は自分で出すつもりなので考える必要は無い。二人の一生の思い出になるのだから、その中で最も良い場所にしたかった。

 それでも、宿の入口で立ちすくむンフィーレア。その手をエンリがぐいぐいと引っ張っていく。そこで何か濡れた感じがして、エンリの手に血の汚れがついていたことに気付いたが、そのままできるだけ長く手を握っていてほしかったので何も言わなかった。冒険者の宿であれば、その程度のことで騒がれることもないだろう。

 

 

 エンリは一刻も早く拷問の場から離れたかった。過去に似たような状況で呆然とその場に留まり、その結果エンリの運命がどのようなものになったかを思い出せば、それは当然の行動だった。初日にトラブルとなった冒険者の宿というものは苦手だったが、ンフィーレアに迷惑をかけず快適に眠ってもらうために割り切ることにした。自分もあの光景を忘れて早く眠ってしまいたかった。

 男女二人でというのは気にならないではないが、冒険者の宿であれば仲間と泊まるのは当たり前のことで、問題もないように思えた。

 

 一階には以前に訪れた安宿と同じように酒場があって冒険者たちが酒を飲んでいたが、店の中は綺麗で客も全体に品が良いように感じられた。

 それでも、絡まれた嫌な思い出は消えない。頭で自分が悪かったとわかってはいても、心の中では割り切ることができないのだ。エンリは冒険者たちと目を合わせないよう、もたつくンフィーレアの手を引いて素早くカウンターへ向かう。その冒険者たちのプレートがミスリルや白金であったことにも、気付くことはなかった。

 

「……空いてるのは二人部屋が一つだけだが」

 

「今すぐ寝られれば何でもいいです」

 

 エンリは遠慮深いンフィーレアが金貨袋を出す前に速やかに言われた値段を支払うと、そのままその腕を掴んで階段を登っていった。ンフィーレアは二の腕に全ての感覚を集中して歩調を合わせる以外、何もできなくなった。

 

 珍客が上階へ消えると、冒険者たちの話題はそこへ集中する。

 

「おいおい、ありゃ何だ? カップルにしても服装とか色々おかしいだろ」

「銅級の方は知ってるぜ。戦士団にいる古い知り合いが『血塗れの魔女エンリ』って呼んでた、ワケありの女だ」

「ふん、何が『血塗れ』だ。銅級がこんな所に泊まるなんて、気にいらねえ」

「だったら絡んでくればよかったんじゃないか? イグヴァルジ」

「ミスリルの男が銅級の女に絡むなんて格好悪い事できるかよ」

「俺は組合で受付嬢が怯えてるところへ居合わせたんだが、あれは素手で狼の頭を潰す化け物女だ。実力を見るならお前くらいがちょうどいいかもな」

 

 イグヴァルジと呼ばれた男は黙り込んで酒を呷る。駆け出しが自分たちと同じ宿に来たことは大いに不満だが、そんな化け物じみた評判の相手でも所詮は銅級でしかない。名声を得られる要素も無く、リスクばかり目立つような相手に喧嘩を売るような馬鹿な真似ができるわけがない。

 

「銅級とかより、プレートの無い男の方の服がおかしい。古着を着た田舎者ってほど服も痛んでないしモノが良すぎる」

「あれは、特殊な男娼だ。今どきああいう服を用意してるのは、熟年向けの男娼しかないからな」

 

 話が男の服装に移ると、訳知り顔の盗賊に視線が集まる。

 

「熟年向けってお前、連れ込んだ女の方は服装はあれでも顔は少女って言った方がいいくらいだったぞ」

「別に老婆限定ってわけじゃない。誰もやりたがらないような相手にも尽くす、つまり男の方は組織に心を折られてて何でもありってことだ。普通の男娼相手じゃできないような無茶なプレイもできるってのが、あのテの連中の売りなんだよ」

「おいおい、それじゃまるで八本指の……」

「堂々と店は構えてないようだが、金持ってて特殊な性欲を滾らせてる奴はどこにでも居るからな。奴らの商売のネタは尽きないってことさ」

 

「でも、組合長もたまにああいうシャツ着てることあったような」

「古い世代はそうだが、さすがに組合長でも紐を緩めにして襟は開けてるだろ。それに若者はあんなもの着ないし、今どき売ってる店も無い。シャツの詰襟を紐できっちり閉めるのは、この街では昔を懐かしむババアどもに夢と色々なもんを売りつけてるあいつらだけだろうな」

 

「うへえ……でもあのガキ、今夜は相手が同世代でほっとしてるんじゃねえか?」

「そんなババア相手の男娼を好んで選ぶ女がいるかよ。それも『血塗れ』とか呼ばれてる女が普通にやるだけで満足するわけがねえだろ」

「だろうな。あのテの所だったら金額が高い代わりに、たとえ五体満足で返さなくても規定の金を払うだけでお終いだ」

「そういや、男を引っ張ってた手に血がべっとりついてたぞ」

 

 冒険者たちは『血塗れの魔女エンリ』の嗜好や嗜虐性について幾らかの伝聞と勝手な想像をもとに大いに語り合い、次に何故か男娼事情に詳しい盗賊の嗜好や性癖を疑い、最後にそのいくらか重い過去を聞いて口をつぐんだ。

 

 物珍しい話題に飛びつき無責任に盛り上がる周囲と違って、イグヴァルジは終始不機嫌だった。

 確かに自分も娼館などを利用しないわけではない。下位の等級だった頃には自分たちより上位の冒険者が使うような店で祝杯をあげたり自棄酒をあおることもあったので、時には羽目を外したい気持ちだってわからなくはない。

 しかし、この街の最上位の冒険者が多く利用する宿で、駆け出しのうちから堂々と男娼を連れ込むというのは、あまりにも常識から外れている。

 さらに、その者が化け物のような力を持ち、組合でも特別扱いされているとなれば、そこに生じる不快感は特大のものとなる。

 

――もし上がってくるようなら、チャンスがあれば蹴落としてやる。

 

 いつもより酒量を増やしたイグヴァルジには、それがそう遠くない日のことのように思えていた。




※次の話は【拷問回】です! 残酷なシーンが続きますので、苦手な方は読み飛ばせるようにします。
※第十八話を読み飛ばしてもストーリーは繋がるようになります。
※その都合上で、えっと、その、十八話と十九話の間は更新ちょっと急ぎます。

カジっちゃんの扱いが雑?
外装でなく本体(?)の方なら、まだ出番があるかもしれません。

さて、恐ろしい闇妖精に囚われてしまったクレマンティーヌ、この先生きのこることができるのか。
次回は待望の拷問回、マーレ先生の出番です。マーレとクレマンティーヌしか出ません。
エンリが好き放題できるのもここまでなのです。
エンリでは制御不能な展開を求めていた方々、本当にお待たせいたしました。

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