一二 前門の虎、後門の大尻
「待て!! 私は反対だ、反対だぞ!」
唐突な発言が呼び込んだ静寂が会議を止めた。
細身で神経質そうな外見に似合わない強い声を発したのは、テオ・ラケシル。エ・ランテル魔術師組合長を務める男だ。
「……突然、どういうことだ? あまり気が進まないが、理由を聞かせてもらおうか」
これにどうにか反応できたのは、ラケシルの友人でその性格をよく知るプルトン・アインザックだ。こちらはエ・ランテル冒険者組合長を務めている。元々は戦士で、往時の勇壮な雰囲気を残しているが、魔法などには詳しくない。今回の会議では場所の提供と、繋ぎ役に近い立ち位置にあった。
「だって勿体無いし……いいから静かにしてくれ!! 理由は今考えているところなんだ!」
途中で起こる疑問の声を、やみくもな大声で制するラケシル。
アインザックはたまらず顔を手で覆った。思ったとおりの理由だったが、その対応は想定の十割増で酷かった。
「ラケシルの意見は無視ということで、他に何も無ければ――」
「ま、待ってくれ! そうだ、戦争だ。次の戦争で帝国側の戦力としてそのマーレ殿が出てくることを想像してみてくれ」
苦し紛れに投げ込まれた爆弾は、その場の誰もが無視できない巨大なものだった。呆れ果て、この恥ずかしい友人が次に発言をしたら部屋からつまみ出そうと心に決めていたアインザックさえも、暴落していたラケシルへの評価を保留して引き締まった表情に戻っていた。
この会議に同席していながら猛者たちの間に存在感を沈めていたパナソレイ・グルーゼ・デイ・レッテンマイアも、たまらず肉付きの豊かな顔を獰猛な猪のごとく引き締めてその身を乗り出した。強さだ魔法だという分野なら他の者たちの方が詳しいので聞き役に徹するが、戦争となれば常に最前線の拠点となるエ・ランテルの都市長としては無視できない話題だ。
「戦士長、その場合の被害はどれくらいになるのですか? 都市を攻撃された場合は城壁はどうなるか、そして糧食を守ることは――」
「被害は一度の魔法で数百から千以上に及ぶこともあるでしょう。有効な反撃を加える手段が無い以上、最終的には数万ともそれ以上とも。都市の城壁がもつかは今後入ってくる法国の被害の詳細次第としても、転移などの手段から街を守る手段は無く、食料庫も同じでしょう」
淡々と語られる荒唐無稽にも思えるその判断に言葉を挟む者は居なかった。ここにいる者たちは、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフの口からカルネ村近郊での戦いと法国の件が語られた際にそういった反応を出しきっており、その法国の件もパナソレイだけが握っていた法国神都の外交拠点からの一報で裏付けられていたからだ。
もはや共有していない情報は、マーレが法国の側につきかけたことや、動死体やエンリについての部分くらいだった。
その場の殆どの者がただ戦慄する中、ラケシルにとってはガゼフが可能性自体の否定もせずに被害想定を語ったことこそ重要だった。ここぞとばかりに畳み掛ける。
「ガゼフ殿、念のため聞きますが、あなたはマーレ殿や同行している……エンリとかいう娘と完全な友好関係を築いているということでよろしいのですかな?」
ガゼフの背中を冷や汗が伝う。その微妙な表情の変化をラケシルは見逃さなかった。そもそも、ガゼフがどうにかできる相手なら自ら同行を求めればよく、このように先行して根回しを行う必要など無いはずなのだ。
「あなたはその者たちが帝国に味方することが絶対にありえないと、国王陛下に誓うことができますかな?」
「……そのようなことが無いよう、この場においても協力をお願いしたく……」
ラケシルは口の端に勝者の笑みを浮かべる。
「ならば、マーレ殿を国外へ誘導するという方針は撤回ということで、宜しいですな」
異論は出ない。魔法一筋で政治力とは無縁なラケシルのまさかの逆転劇に、その人となりをよく知るアインザックは本当にそれで良いのかと頭を痛めた。結論は納得せざるを得ないものであっても、ラケシルが実際に理由をその場で考えてひねり出していたのは間違い無いのだから。
冒険者時代からの友人の働きによって、エ・ランテルの冒険者組合は恐ろしい怪物をその中に抱え込むことになった。それはアインザックの双肩にも重過ぎる事態だ。
もちろん、王都で貴族たちと接触させるのが王国の危機に直結することはガゼフの説明でよく理解できていた。帝国に味方されても王国の危機となるのは明らかだ。だとしても、それを自らが背負わされて良いということにはならない。
アインザックは空になったデカンタを持って部屋を出る。
完全に人払いをした状態では場所を提供した自身が行うしかないのだが、飲み物にはさほどの意味は無い。防音措置がなされているにもかかわらず、外に漏れれば大変な事になる会議の立ち聞きを防ぎたい気持ちが時折廊下と部屋を往復させていたのだ。
満たされたデカンタを持って戻っても、まだ戦争の話題が続いていた。気持ちはわかるが、話題としては冒険者組合として関わりたいものではなかった。
もっと関わりたくないものからは逃れられないのだから、これは八つ当たりと言うべきものかもしれない。
「あまり国と国との話になるなら、私はそろそろ――」
「この街が滅ぶかどうかの話に関心は無いか……そのあたりは戦士長に後ほど聞かせてもらうことにしましょう」
パナソレイは話の腰を折られたことで軽く毒づくが、冒険者組合長の立場を理解して話を中断した。
「では、国を滅ぼしかねないほどの者が新たに冒険者となった場合、その扱いはどのようなものになりますか」
ガゼフも流れを完全に断ち切らないまま話題を動かすことで双方に気を使ったつもりだったが、元々言葉の足りない不器用な男だった。そもそも、そのような危険な者が冒険者になるよう誘導したのはガゼフ自身であり、アインザックに面倒を押し付けた形となっているのにこういう言葉が出てしまうのがこの朴訥な戦士の限界だった。
貴族であるパナソレイは戦士長が宮廷の貴族社会に馴染めず王派閥からさえ疎まれていることを思い出し色々と納得するが、アインザックにはそこまでの余裕は無い。
「よしなに扱い安全を確保せよというご依頼ならば、アダマンタイト級に相当しますな。エ・ランテルにはミスリル級までしかおりませんので、すぐに王都で依頼されるとよろしい。依頼料の概算見積くらいならこちらでも算出できますぞ」
アインザックは昨日の会議を思い出し、大きな溜息をついた。
あのような場で王国戦士長をやり込めたところで状況がよくなるわけではないのだが、何度思い返しても自分は悪くないと思えるのだ。
そして、来るべきものは来た。
たった今、受付嬢の震える手から受け取ったのは、その戦士長の名が書かれた書状だ。但し、状況は想定とは少し違うものだった。
――彼から話を聞いておいてよかったな。
神殿で療養中の戦士団には、かつてエ・ランテルで冒険者をしていた男がいた。戦士長のことを疑うわけではないが、冒険者としての視点を持つ者に「国を滅ぼしかねないほどの者」について聞くことで情報を補強しておくのは当然の事だ。
マーレという
細かい質問を繰り返した結果、戦士団を圧倒していた敵部隊との比較でいえば予想される難度は最低でも百三十以上、魔法のモニターの中の出来事が真実という前提では百五十を超えていてもおかしくなかった。
それだけでも有意義な話だったが、帰り際には戦士長が伏せていた情報が得られた。マーレという非常識な存在を戦士長から託されるだけあって、同行者のエンリという娘も常人ではなかった。
血塗れの服を着て村を徘徊し、敵兵の指を切り落としたり、見せしめに敵兵を動死体にして仲間の死体を喰らわせるなど厳しい尋問を行っていた恐るべき魔女、それがエンリという娘の正体だった。旅立つ際に冒険者として様々な助言をした際も、魔物については王国戦士長より強いものでなければ説明は不要だと言い放った猛者だという。
嘘をついているようには見えなかったし、都市長の前であれば伏せておいたことも納得できる内容ではあったが、その時は話半分に聞いていた。王国一番の戦士を軽く見るような存在が、そう簡単に何人も現れてたまるものかという思いがあった。
しかし、今はそれをすんなりと受け入れている。むしろ同行者についての情報がなければ、状況を説明した目の前の受付嬢が過労でおかしくなったと考えざるをえないほど、状況がそれを後押ししていた。アインザックは部下の前で威厳を失わないようこっそりと深呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと階段を下りていった。
夕闇の中、外の風は心地よいものに変わっていた。澄み切った空気がエンリの五感を覆っていたもやのようなものを少しずつ剥ぎ取っていく。
日が暮れつつある街には所々に灯りが出て、表通りであればさほど危険も感じない。
エンリは聞いてあった道順を辿り、看板に必ず備えられている絵柄を見ながら、どうにか目的の冒険者組合を発見した。街の中で行き方を聞いていたのはここだけで、宿の一つもわからない。全て組合で紹介してくれると聞いていたので、間に合わなかったらこの大きな街で野宿ということになりかねなかった。
説明不十分なガゼフの部下に心の中で毒づきながら、建物の中へ入る。
内部のつくりは、初めての来客にも親切なものだった。少し広い空間の端には幾つかの扉や談笑スペース、沢山の紙を貼った掲示板など雑多なものがあるが、とりあえずは素直にカウンターへ行けば良さそうな形になっている。
しかし、安易に前へ進むことはできない。
エンリはこれまでの経験で他人の視線には敏感になっており、入口をくぐった時から気付いていたことがある。建物に入った時から、カウンターで唯一手の空いていた受付嬢がエンリの方をギラギラした目で値踏みするように見つめていたのだ。
他の受付嬢とは一線を画するただならぬ雰囲気は人間が苦手になりつつあったエンリにとって脅威であり、草原の狼どころではなく、言い伝えでしか知らないトブの大森林の虎にも匹敵するのではないかと思われた。孤高の獣を思い浮かべたのは、たった一人であのガゼフの取り巻きを超える何かを感じさせたからであり、エンリの中の何かが警鐘を乱打していた。
――あれは虎だ。近づいちゃだめだ。
初めて入った冒険者組合のホール。行き交う様々な格好の冒険者たちの姿は開拓村から出てきたばかりのエンリにとって物珍しく、それに目を奪われて歩みを止めるのは当たり前のことであって、決して不自然ではないはずだ。
エンリはその歩みを露骨に遅らせ、冒険者たちの世界を観察した。
それでもカウンターの虎からの鋭い視線は外れない。
あちらから声をかけてくるという手段もあることに思い至り、エンリは取るべき態度を修正して周囲を観察する視線を嶮しいものにする。あの猛獣に隙をみせるわけにはいかない。田舎者と思われれば、あちらから動く口実を与えてしまうかもしれないからだ。
こうなったら、たとえ荒くれ者たちと目が合っても、目を逸らして弱気を見せるわけにはいかない。これは戦いだ。
エンリは自分を鼓舞した。
大げさに騒ぎたてたり変な目で見たりしてこないような、ただ強いだけの人間ならどうということはない。たった一人でオーガに正面から向き合ったあの時に比べれば、どんな荒くれ者でもどうにかなるような気がする。突然マルカジリとか言い出すこともないだろうし。
まだ少し瞼が重かったが、そのことで最初から目つきが悪くなっていたことには気づかなかった。
雑踏の中、覚えのある草の匂いが迷い込んできた。決して良い匂いではないが、見知らぬ場所で覚えのあるものに接すると若干の親しみを感じずにはいられない。それを辿ってみると、がっしりとした体格の野蛮な雰囲気を持つ男に行き着いた。腰に下げた袋には薬草が入っているのだろう。一緒にいるのは金髪碧眼の、特徴の少ない戦士風の男だ。
その二人組の冒険者は、別の受付嬢から幾らかの銀貨を受け取っていたところだった。あれは魔物を倒したことへの報奨金なのだろう。カウンターに置かれた袋からはその証でもある血で汚れた耳がはみ出ていて、それを前にした受付嬢の柔らかい笑顔との対照が今いる世界がどういう場であるかを如実にあらわしていた。
あの虎はまだエンリから視線を外さない。いくらそういう世界だといっても、最初から獲物を狙う猛獣が身構えているような場所へ飛び込んでいけるほどエンリは勇敢ではなかった。
エンリは柔らかな笑顔が印象的な接客中の受付嬢に狙いを定め、冒険者組合の中を見て回るふうを装いながらも、その前の二人組の動向をちらちらと気にしていた。あくまで目的はまともそうな受付嬢であって、その二人が若干の居心地の悪さを感じていたことまでは気がつかなかった。
「い、いらっしゃいませ」
「あのっ、そういうの、ここで大丈夫なんですか?」
エンリの作戦はその問いから始まった。危険な受付嬢に絡まれないよう、わざわざ空いている所を避けたのではなく、それが気になったからここへ来たんですよ、というメッセージを含めたつもりだ。
受付嬢は先客が席を立ってすぐにカウンター前に滑り込んできた黒衣の少女に若干戸惑っていたが、その視線の先にあるものに気付いて言葉と行動の意味を理解した。
精算の終わった袋を後ろの台に移しつつ、すぐに適切な回答に辿り付く。
「モンスター討伐の報奨金でしたら、冒険者としての登録のある方にお持ちいただければ、こちらで可能です」
受付嬢はエンリの装備を見て、土地勘の無いワーカーか、旅の途中でモンスターを狩った法国の人間あたりだろうと予想する。プレートの有無は目の前に座った時から確認済だ。
「私、冒険者として登録したいんですが」
「……は?」
受付嬢ウィナ・ハルシアは、目の前の珍客の扱いに困っていた。
登録を願い出た久々の新参者は、高価そうな魔法の服に身を包んでいながら魔法詠唱者では無いという。それどころか野伏や盗賊の技術も持たず、武器も剣も数度しか振るったことがないという話だ。
ふわりと酒の臭いが漂う。しかし、冷やかしに来た酔っ払いと考えるには服装と持ち物がおかしい。髪や手先を見れば金持ちの道楽とも思えず、ワーカーや法国の実力者がそういうことをするとも考えにくい。
これはいったい何者なのだろうか。
こんな時頼りになるのが、いつの間にか空席の隣のカウンターへ移動してきていた同僚のイシュペン・ロンブルだ。たまに何を考えているのかわからないところがあるが、この件に興味駸々なのはその態度から明らかだった。彼女なら喜々として珍客の相手をするに違いない。
タイミング良く向こうから来てくれた願ってもない助けに感謝し、ウィナはイシュペンに満面の笑みを向ける。
仕事を押し付ける形になるので笑顔のまま助けを求める言葉を選んでいると、何が気に入らなかったのか、不満げな表情と舌打ちが返ってきた。確かに変わった所があるのはわかっていたが、このように急に感じが悪くなるような人間ではなかったはずだ。
手をぱたぱたと振って何か言いたげなので耳を寄せてみるが――。
「勝ち誇るな、泥棒猫」
顔を歪めてそう呟くと、イシュペンは素早く手元の書類をまとめて席を立ってしまった。足音が無駄に大きい。書類を残さないということは、今日の仕事は終わりだということだ。
もはや同僚の行動や意味を考えても疲れが増すだけだ。完全に孤立したウィナは覚悟を決めて、黒衣の珍客に向き直った。
「さすがに戦えなければ冒険者は難しいと思いますが……」
「弱いモンスターばかりですが、一応戦ったのでこれだけでも換金したいんです」
エンリは討伐の証の入った袋をカウンターの上に置いた。その量に受付嬢は目を丸くする。袋の口が少し開いて中身が見えると、先客には涼しい顔で対応していたはずの受付嬢が少し眉をひそめた。
「こっ、これだけの量を、おひとりで?」
「いえ、一緒に
「……わかりました、手早く鑑定をさせていただきます。これだけあれば登録料を差し引いてお渡しできますので、しばらくお待ちください」
受付嬢は袋の中を覗きこみながら奥へ向かう。
エンリは周辺に這い寄る虎――いつの間にか隣のカウンターまで迫っていた危険な方の受付嬢が居ないことを確認し、安堵の笑みを浮かべて受付嬢の大きめのお尻を見送った。
ただの村娘でしかなかったエンリが冒険者になるといえば、心配されるのは当たり前のことだ。そういう当たり前の対応をしてくれることが嬉しく思えた。
――ふつうの人にして、よかった。
「あの、確認ですが、あなたと
「はい」
カウンターに戻った受付嬢は、引きつったような笑顔を浮かべて確認する。
エンリは嫌な予感に囚われかけるが、手探りでカバンの中の書状と金貨袋を確認して気を落ち着ける。不味いものは出していない。今の段階で、おかしなことになる要素など一つもないはずだ。
何より、目の前の受付嬢は、今のところ普通に対応してくれている。逆にこちらに何か不備があったら詫びなければならない。
「……あなたがモンスターと戦えるということは充分にわかりました。しかし、次からはオーガの耳は引っ張らず刃物で切り取っていただけると助かります」
「あっ、ハイ。慣れないもので、不器用ですみません」
幾らかの怒りを含んだ声をうけて、エンリは素直に謝った。
かつて薬草採りを習った時も、最初は色々言われながら学んだものだ。自分の分は丁寧にやったつもりだったが、オーガはマーレがやってくれたものなので、後で伝えておけばいい。
受付嬢が苦い顔で頬を震わせていたが、エンリは気付かなかった。
「狼については、頭蓋骨を含まない鼻先の部分だけで結構です。上あごの骨ごと持ってきた人なんて初めてです」
「ごめんなさい。初めてでよくわからなくて」
少し大きい震えの混じる声で言われ、しっかりと頭を下げて謝る。
今度はエンリの責任だ。自身の判断を思い返せば、声を震わせるほど不機嫌な声で文句を言われるのも仕方ないかもしれない。
鑑定をするということは、相手は専門家を抱えている。素人判断でわかりやすくしようと牙まで付けておいたのはやりすぎで不愉快だったのかもしれないし、取り扱う人が怪我をするおそれがあるとか言われれば本当に平謝りしかない。
しかし、エンリの真摯な反省の気持ちは、受付嬢には全く届いていなかった。
「よくわからないと、あなたは素手でオーガの耳を引きちぎったり、狼の上あごを掴んで骨ごとむしり取ってくるんですか!!」
苛立ちと恐れの狭間から搾り出された声は、最後は悲鳴のようでもあった。受付嬢の今にもすり切れそうだった笑顔は、いつの間にか半泣きに変わっていた。
周囲の冒険者たちに助けを求めたいような気持ちでぶちまけられたその声は、冒険者組合の猛者たちの喧騒を一気に鎮めてしまった。
エンリは釣りあげられた魚のように、口をぱくぱくとさせるしかなかった。
急に情緒不安定になった受付嬢が何を言っているのか理解する前に、まず不意の静寂と集まる視線に混乱した。間違いを次々と指摘され平身低頭のエンリだったが、今は詰問されている内容の方向性に強い違和感を覚えた。
「確かに武器に慣れてないというのはその通りでしょうよ。オーガの硬い皮膚や狼の頭蓋骨を素手で引きちぎれる人に武器なんていらないですよね」
「な、何を言って……」
必死に受付嬢の言葉を追いかけながら、エンリはマーレが刃物を持っていなかったことを思い出した。
仕事が早いので勝手に魔法でやっていたと思っていたが、その作業を確認したわけではなかった。狼の上あごは自分ではとても無理だったが、ほとんど言う通りにマーレがやってくれたのでそのまま任せていただけだ。ということは……。
図々しく居座る静寂が息苦しい。
無遠慮に刺さる視線が気持ち悪い。
何が悪かったというわけではない。
何も悪くないか、全てが悪かった。とても思考が追いつかない――。
「とぼけても全部わかってるんですよ。オーガの耳は相当伸びてたし、狼の上あごは三本の指で骨ごとえぐった跡がありました」
「いや、それは私じゃなくて――」
「一緒にいたのは
何か開き直ったような、有無を言わさぬ態度の受付嬢に退路を塞がれ、ようやくエンリは理解した。目の前の女が立ちふさがっている限り、まともでない世界から出ることはかなわないということを。
何より、これ以上状況が悪くなることなどありえないという確信もあった。
詰め所での扱いもまともでなかったが、少なくとも人間扱いはされていた。最後の方はよく覚えていないが、その場を出ることができたからこそ今があるのだろう。それに比べて、指で骨をえぐるなどというのは明らかに人間の所業ではない。
この女を相手にしていても出口も見えない。周囲の冒険者たちの視線は詰め所の兵士たちのそれよりずっと鋭くて痛い。もはやエンリには他にとりうる手段は残されていなかった。
「もういいです。これを偉い人にお願いします」
一刻も早くこの女をどかさなければならない。
エンリは状況の好転とは言わぬまでも、せめて仕切りなおしを期待して、ガゼフからの紹介状を受付嬢に手渡した。
書状を手にして、涙目になって震える受付嬢の蒼ざめた顔は、すぐに視界から外した。
もう目の前の女が黙ってくれればそれだけでよかった。
「エンリ・エモット様、大変失礼致しました! すぐに組合長を呼んでまいりますので少々お待ち下さいませ!」
――ここでフルネーム……!
去り際の重い一撃が鳩尾のあたりをキリキリと締め上げる。
エンリはカウンターの端にお尻をぶつけて全力で走っていく受付嬢を見送りながら、その大きめのお尻を忘れまいと心に誓った。顔の方は、最近ああいう表情をされるとすぐに記憶から消してしまいたくなるので、今回も覚えられそうになかった。
「組合長、こちらです」
エンリが一番嫌いな表情で固まった受付嬢は、それだけ言うと組合長と呼ばれた男の後ろに隠れてしまった。
「私が組合長のプルトン・アインザックだ。エンリ・エモット君だったかな、戦士長から話は聞いている」
組合長と呼ばれた男は、エンリの近辺を見渡して一瞬怪訝な顔をするが、すぐに歴戦の強者にふさわしい余裕のある表情に戻った。
エンリは書状を出す前から急変していた受付嬢の対応と周辺の冒険者たちの視線やざわめきに辟易していたが、ようやくまともな大人に出会えたことに心から安堵していた。
災厄の象徴であるガゼフの書状を見ても、さらに直接話を聞いていても堂々とした態度でいてくれるアインザックは、それだけでエンリにとって信用するに足る人物となった。
――さすが冒険者の親玉、まともな人でよかった。
組合長の方からわざわざ会いに来た上、戦士長という言葉が出たことで周囲の注目の質がさらに変わっていくのだが、エンリは既にそのあたりの感覚が麻痺しかけていてよくわからない。
「はい。冒険者になりに来ました」
「仲間は、どうしたのかね?」
会ってみたいような、みたくないような、そんな心境を抑えての問いだ。
アインザックは今は立場に相応しい余裕のある態度を装っているが、相手がエンリだけでも階段を下りる間に深呼吸を七回繰り返していた。もちろん、組合長が直々に出てきたことによる周囲の雰囲気の変化やその反応などを気にする余裕など残っていようはずもない。
「それなんですけど、旅の途中でエルヤーさんというワーカーに出会いまして……ご存知でしょうか」
「……あの男か。あれはかなり特殊だからな、話くらいは聞いたことがある」
「私も、ああいう形なら冒険者でもやっていけると思ったので、同じやり方で自分だけ登録しようと思うんです」
エンリは自嘲するような、開き直ったような態度で申し出た。受付嬢と話をするまでは、それだけで全てうまくいくと思っていたのだ。
その申し出は、一人の人間としても、個より群の力を重んじる冒険者組合の長としても忌むべきものだった。
アインザックは露骨に顔をしかめるが、目の前の少女を敵に回すわけにはいかない。表情を戻しながら、態度に出ないよう不快感を抑えつけながら、接し方を考え直すためにガゼフらから聞いていたことを思い出していった。
――戦士長はマーレという
この女は戦士長の求めに応えてか、本当の脅威であるマーレを隠蔽するつもりなのだろう。他者にそれを刺激させないための身代わりとして、自ら泥を被ろうとしている。それがアインザックのたどり着いた答えだった。
「……規則の上では問題は無い。世間体はよくないが、それでもいいのかね」
「わかってます。今さらどう思われても仕方ないですから」
「では、少し話したいこともあるから、今日は私が手続きをしよう。上へ来てくれ」
ギルドの上階での話は、殆どがマーレの使う魔法やその力に関する問答や確認だった。
戦士団とともに戦ったところを見ていないという答えにアインザックは落胆したが、騎士が爆発したという辺りでは詳細に、何度も聞き返していた。見たことも聞いたこともない魔法については、明日朝にでも友人に確認せねばならない。
時間が遅いので簡単に、と言われながら全く簡単にはすまなかったが、エンリは目の前の貴重な理解者のために時間を使うことに悪い気はしなかった。威厳はあったが、普通の冒険者であれば立場の割にやたらと紳士的で丁寧だったことを気に掛けたかもしれない。
しかし、冒険者組合長という地位の重さをよく知らないエンリは違和感を覚えなかった。村を出る頃からの短くも濃厚な経験のために、苦労を察してくれる人間には強い親近感を覚えるようになっていた。
冒険者としての登録自体は、非常に手早く済まされた。それだけ話を聞くことが大切だったのだろう。
規則で最低ランクの銅級からとせざるをえないことを説明され、平常通りの取扱いをされたことにエンリは安堵した。
エンリの機嫌を損ねずに済んだことで、アインザックも安堵した。
互いに相手がそうする理由も分からないまま、疲れた微笑みを向けあうことでその場の空気が和んだものになった。
「周囲から色々言われることもあるだろうが、私は常にエンリ君の味方だと覚えておいてくれ」
あくまで和やかに、穏便に進んだ話の最後は、冒険者御用達の安宿の紹介だった。
駆け出し冒険者にとって宿の役割は泊まるだけではないため、相応の場所に行かないと変な目で見られるという。紹介されたのは粗末な宿ではあるが、銅級冒険者には銅級冒険者なりの分というものがあって、それをわきまえておいた方が問題が起こらないということだ。
最も安い宿かと聞かれれば、アインザックは申し訳無さそうに頷く。それは村娘だったエンリの金銭感覚において、むしろありがたいことだった。
そこでは、他の銅級冒険者たちとは釣り合わないということで、相部屋で仲間を見つけることは考えず個室にするよう釘をさされる。
確かに村娘と荒くれ者たちでは釣り合わないのは当然で、元よりそれらと相部屋など怖くて考えもしないが、これも人を見る目のある組合長なりの配慮なのだろう。
ガゼフは会議の後、何度かアインザックの言葉を反芻していた。
別に恨みに思ったわけではない。王都に帰ったらアダマンタイト級冒険者チームに依頼することは、最初から考えていた選択肢の一つだった。
これが王国戦士長になったばかりの頃のガゼフだったら、素直にそのまま概算見積を頼んでしまったことだろう。そして、次に会った時には何故か距離を置かれているのだ。
カルネ村を去る前にマーレを村娘でしかなかったエンリに任せたのは、一時的な逃避と言われても仕方の無い行動ではあったが、ただ背を向けて遁走したわけではない。自らが同行して王都にでも連れ帰ろうものなら、貴族たちのちょっかいで一気に王国の危機となる可能性さえあった。
この状況では、苦手な根回しを行って、エ・ランテルと王国の安全を確保しつつ次の手を打つしかなかったのだ。
アダマンタイト級冒険者チームは王国に二つ存在し、ガゼフが依頼を考えていたのはそのうちの青い方と言われる『蒼の薔薇』だった。より歳が若く考え方が柔軟であろうことと、かつて所属していた古い知り合いの存在がそちらを選ばせた理由だ。
古い知り合いの名は、リグリット・ベルスー・カウラウ。200年前に幾多の魔神の脅威から世界を救った十三英雄の一人で、おそらく人間であるため存命なこと自体が非常識に思える老婆だ。
伝説に謳われるほどの存在とはいっても、それでもあのマーレに対抗できるほどの力があるわけではない。ここで重要なのは、彼女が「死者使い」と呼ばれていたことだ。
不死者の扱いに長けたリグリットがいたことのあるチームであれば、動死体を作って死者を喰らわせることで戦いの跡を「きれいに」するような感性の持ち主とも問題を起こさずうまくやれるかもしれない。
ガゼフはリグリットから貰った不思議な指輪のことを思い出す。
今の自分は、その力を次の世代に託そうという英雄の思いに応えるだけの存在といえるだろうか。
今、世界の危機と正面から対峙しているのは、ガゼフではなくエンリだ。そして、依頼を受けてもらえるなら『蒼の薔薇』がその役目にあたることになるだろう。今は、しがらみの無い若者たちに未来を託すしかない。
「銀級が今さら俺の店に来るとは珍しいな。新入りへの挨拶なら、脅かすだけにしておけよ」
主人の野太い
久々にこの店に現れたのは『漆黒の剣』といって、ニニャとルクルット、そして冒険者組合で合流したペテルとダインからなる四人の銀級冒険者チームだ。
ここは主に銅から鉄のプレートを持つ冒険者や顔を知られたくないような流れ者が利用する安宿であり、『漆黒の剣』のような銀級以上の冒険者の利用は少ない。
「ちょっと尋ね人があってね、そっちが目的じゃありませんよ」
「新入りといえば、今日はとんでもないのが組合に来てたぞ――」
ペテルが口を開く。ニニャとルクルットが持ってきた話がなければ、今日はこの話を近いランクの冒険者たちと語り合っていたはずだった。
一緒に居たダインが説明を補い、ルクルットが大げさに驚き、隣で飲んだくれていた鉄級チームも話に加わる。話題の新入りの非常識な
「恐ろしい女がいるもんですね。ムシャクシャしてたんで、話聞いてなかったら危うく絡むとこでしたよ」
「そこは敢えて挑めや。相手はド外道なんだし遠慮なくガツンと行っとけ」
「報奨金も出ないのにそんな怪物女に挑む馬鹿はいねえですよ」
助かった、という表情の鉄級チームの一人にルクルットがハッパをかけるが、あっさり流される。
「その人、本当に外道なんでしょうか」
「ん? エルヤーってのはそういう奴なんだろ?」
「いえ、女性が同じことをするとは考えにくいし、あれを真似て一人で登録したというだけかもしれないなと。それに、駆け出し冒険者の収入では
最後に滲み出てきたのは、あどけなさも残るニニャには似合わない嘲るような薄い笑みだ。そこにはドロドロと纏わりつくような憎しみが込められていた。
そこにただならぬものを感じた鉄級冒険者の一人は、奴隷の値段なんてどうして知っているのか、という疑問を呑み込んでおいた。
「ふーん、言われてみればわかる気もするな。それにしても、お前さんの貴族嫌いは相変わらずだねー」
「実害を目にすれば誰でもそうなります。……まあ、その人も傲慢だとは思いますよ。一人で登録するのは、ただ自分の強さに自信があって、仲間なんてどうでもいいってだけかもしれないってことです」
ニニャは基本的には冒険者という種類の人間が好きになっていた。貴族に奪われるだけの村人として何もできずにいた昔の自分や隣人たちと違って、冒険者とは仲間たちと一緒に悩み、協力しあって自ら目の前の問題を解決することができる存在だ。
エルヤーのような途中で道を踏み外したドロップアウト組はともかく、これから冒険者の世界に踏み込んで来る者が、醜い貴族の豚どものような奪う側の存在と同じであるかもしれないなどとは想像することもできなかった。
黒衣の少女が二人の幼い少女を伴って店に入ってくる、その瞬間までは。
勝ったのはラケシルさんでした。
王派閥やレエブン侯とも仲良くできていなかったガゼフさんの政治力だけではこんなもんかなと。