雨の日から一夜が明けた。
学校が未曾有の襲撃事件に遭い、新一たちが危機から奇跡的に脱した直後の時間に至る。
「ん、大分腫れもひいてきたみたいだね」
「おー、それはよかったぁ。一時はこのまま走れなくなるんじゃないかと」
「圭は大袈裟だよ」
リバーシティ・トロン・ショッピングモールの店員室で巡ヶ丘高校の制服を着た女子高生がもう一人の女子高生の足に包帯を巻きながら和やかに話に華を咲かせていた。
いつだったか、新一に助けられた祠堂圭と直樹美紀である。
祠堂圭―――パンデミックが起きた直後、助けを待つだけの美紀の方針に疑問を抱き、一度は袂を別ったものの、失敗して再び美紀の元へ戻ってきた。
直樹美紀―――祠堂圭と共に運よく『奴ら』から逃れて今もなおその命を繋いでいる。一度は別れた祠堂圭を再び受け入れ、現在は祠堂圭の足の治療にあたっている。
二人が和やかな雰囲気で談笑していると、二人の傍に小さな影が近寄ってきた。
それに気づくと二人も微笑んで受け入れる。
「おはよう、るーちゃん。よく眠れた?」
目を擦り、寝癖を付けた少女が小さくうなずく。
その片手には大きめのタブレットが握られている。
圭と美紀はその意味をちゃんと理解しており、タブレットに大きく書かれた『おはよう』の文字に顔を見合わせて微笑む。
そこへ、用務員室の扉からリズムのいいノックが響く。
数日前の自分たちであればそれに出ることはおろか、怯えて入り口を塞ぐこともしただろう。
しかし、今はそんなことはしない。
外から来る人が、どんな人だか知っているから。
「あ、今開けます」
足を療養中の圭に休むよう伝えて『奴ら』を阻む重り用の荷物を下ろしていく。
扉を開けられるくらいの最低限のスペースを確保した後、扉を開けて外で待つ人を迎えた。
そこには、気の弱そうな笑みを浮かべた少し頼りない大人がいた。
「や、朝ご飯取ってきたよ」
「いつもすみません。宇田さん」
スーパーから持ってきただろうコーンフレークを片手に持った宇田を部屋の中に招いた。
「ごめん。もう少し開けてもらえないかな……」
「あ、すみません!」
出っ張ったお腹に突っかかる宇田に慌てて美紀が入り口のスペースを空ける。
その様子に圭も瑠里もクスクス笑い合った。
デパートに取り残された生存者の一日は穏やかな雰囲気から始まっていた。
宇田と美紀たちとの出会いはデパートの外で圭を救助した日に遡る。
美紀たちは知らないが、宇田とジョーによって襲われていた圭を救出した後、気絶する直前に残した言葉を頼りに生存者―――美紀を探し回った。
デパートの中の「奴ら」をジョーが駆逐しながら用務員室を探し回り、それを見つけることができた。
美紀も圭と別れた直後に自分たち以外の声を聴いて期待と怯えから中々受け入れることができずにいたが、圭が負傷したことと怪我を治すために途中の薬局で拝借した薬と包帯があること、何より子供がいるから入れて欲しいとのことを伝えると警戒よりも先に、孤独から来る恐怖から扉を開いて宇田たちを受け入れた。
そして、頭部から血を流して気絶する圭の姿に絶句はしたものの、宇田から手伝ってほしいとのことで色々と問い質したい欲求を抑え込み、一緒に圭の治療に取り掛かった。
当初は男の大人である宇田に強い警戒を表していたものの、圭を本気で治療する真摯な姿と連れている少女への柔らかな態度と懐かれ具合、そして治療が終わった後の軽い会話から伝わってくる人の好さに疑念は薄れた。
程なくして圭が起き上がった後、詳しい話を聞き、間一髪のところを助けられたことを聞いてから警戒心はすぐに消えた。
ジョーが人に舐められやすいお人好しの気質が美紀の警戒心を消したことに密かに賞賛したことは宇田本人も知らない。
その後、圭は自分が焦って早まった行動に出て暴走したことと酷いことを言ったことを美紀に謝罪し、美紀も自分から動き出すことを恐れて圭の気持ちを察してやれなかったことを互いに吐露し、謝って和解した。
そんな中、自分たちよりも号泣する宇田と『いつものこと』だとタブレットに映して見せてくる瑠里の姿に毒気を抜かれ、苦笑しながらも完全に宇田を信用した。
今では四人顔を合わせて朝ご飯を食べるほどになっている。
「「「いただきます」」」
『いただきます』
宇田は現在、美紀と圭と共にデパートで生活しながら散策を行っている。
元々は物資の確保目的で寄ったのだが、そこで偶然襲われている圭に出くわしたのだった。
ほとんどジョー頼みで救出し、美紀と出会った。
初めて会った時はすっごい警戒されていたのは鈍い僕でもよく分かった。
今まで女子高生だけで生きてきて、急に大人の男が加われば仕方のないことだと理解できる。
しかも、今は何しても「罪」という概念は存在しないような無法状態だから……よからぬことを考えているとさえ思われてたのかもしれない。
しかし、そんな彼女の誤解は「娘」の瑠里の姿でほとんど霧散した。
ジョーからの提案で、僕とるーちゃんとは「実の親子」という設定になっている。
これは前もって決めていた設定だ。
デパートは物資も多く予防線も張りやすいために生存者がいることを前提に考えていたけど、ここで一つの懸念が生まれた。
幾ら生存者がいたとしても、いつ死ぬか分からない追い詰められた状況で他人を受け入れることは難しい。
つまり、そういうことを懸念したが故の策だった。
だからこそ、「実の親子」になってしまおうという設定が立った。
ジョーは、どんなに切羽詰まっていても殺人を良しとしなかった今までの性を改めるのは難しい……わずかに残った理性を揺さぶるといったギャンブルに近い策を弄した。
たとえ得体のしれない男の大人が現れたとしても、いたいけな少女が一緒にいたらそれだけで印象も変わるだろう、そう諭された時はるーちゃんを利用することへの罪悪感もあったけど、自分の半端な躊躇いでるーちゃんまで割を食うことは僕が良しとしなかった。
その結果、僕は二人に受け入れられたと言ってもいい。
逆に言えば、僕だけだったらこんな簡単に受け入れてもらえはしなかっただろう。
救助したと言っても、今のような信頼関係を築くのにもう少し時間がかかっていたと思う。
それでも、年頃の女の子たちと一緒の部屋に眠ることは憚られたために僕だけは別の用務員室に泊まっている。
流石にジョーを見られる訳にはいかないっていうのも理由の一つだった。
「宇田さんって凄くお強いんですね」
「ん?」
朝食を食べていた時、ふと圭ちゃんが予想外なことを言ってきた。
今まで言われたことも無かったから、つい否定してしまった。
「強いって……今までそんなこと言われたことないなぁ。よく分からないや」
「でも、こうして私たちのために食料を取って来てくれたり、気を遣って別の部屋で寝泊まりしてるじゃないですか……万が一があった時、るーちゃんが悲しみます。私たちだって……」
美紀も圭と同意なのか申し訳なさそうに目を伏せる。
宇田はデパートに泊まってから毎日欠かさず、「奴ら」が蔓延る外へ繰り出している。
「奴ら」の恐ろしさを目の当たりにした美紀たちは、久しく出会えなかった頼りがいのある男の大人であり一児の父(だと思い込んでいる)である心優しい宇田の人柄に絆されていた。
そんな人が「奴ら」となるのは想像するだけでも冷たい汗が流れるのだった。
そんな不安を他所に宇田は何でもない様に力こぶを作る。
「はは、大丈夫だよ。これでも男なんだし、これくらいはね」
「……あまり無理はしないでくださいね」
笑って見せる宇田に圭と美紀は互いに不安な顔を合わせる。
ジョーを知っている瑠里は不安を見せずに牛乳を一気飲みしている。
そして、宇田は人の好い笑みを絶やさずに続ける。
「子供を護るのは大人の役目でもあるからこんな所で倒れちゃいけないことくらい僕にも分かる……助けるなんて軽々しくは言えないけど、無責任なことはしないって決めてるんだ」
これはジョーにも言われたけど、僕は自分から大変な道に進んでいるのだろう。
本当はこのまま新一くんと合流したいとも思っているけど、美紀ちゃんたちはこんな壊れた世界に翻弄された被害者だ。
奪われ、傷付いた子たちを見捨てるなんて僕にはできなかった。
「……出会えたのが宇田さんでよかったです」
「? 何か言った?」
「いえ、何でもないですよ」
美紀ちゃんが何か言ったようだけど、何ていったかなんて聞こえなかったけど気にしてないように流されたから大したことじゃないんだろう。
それを機に穏やかな朝食の時間は静かに過ぎていった。
朝食が終わると、私たちはそれぞれの役割を果たしていく。
宇田さんやるーちゃんとは奇跡的な出会いを果たしたけれど、ただこうして無駄に日数を重ねるだけじゃない。
宇田さんと出会う前のように無気力な生活を改め、私たちはできることをしている。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。昼にはまた戻ってくるから」
「いつもありがとうございます。余計なお世話かもしれませんが、気をつけてください」
「まあ、無理しない程度にするよ。何か欲しいものある?」
「そうですね……今はこれといって欲しい物はありません」
「そっか。じゃあ行ってくる」
部屋を出る宇田さんを皆で見送りながら、今までのことを振り返る。
宇田さんは自ら進んで外に出て、「奴ら」の情報や物資の確保をしてくれる。
私たちは食われるかもしれない恐怖から今までできなかったから「奴ら」について最低限なことしか知らなかった。
何でも、「奴ら」は一種の生物としての性質、人だった時の記憶があるらしい。
これは宇田さん情報で本人もまだ確証が得られないと言っていたけど、少なくとも外で、しかも圭を助けた様に「奴ら」との交戦経験がある宇田さんの理論は私たちの考察より信憑性がある。
その話を初めて聞いたとき、よく言えば優し気、悪く言えば気が弱い外見に反した行動力と強さ、推察力に脱帽したことは覚えている。
そういえば、難しい話をするとき偶に口調が乱暴になったり牙が生えているように見えるのは何だろう?
「そういえば美紀、宇田さんのことなんだけどさ」
些細な疑問に首を傾げていると、私は朝食に使った食器を集めて小さい洗面台で洗う私にるーちゃんと部屋の掃除を始めている圭が話してきた。
思考を放棄して耳を傾ける。
そうでなくても、圭の言わんとしていることは分かる。
「宇田さん、“また”『ジョー』さんと話してたよ」
「……そう、なんだ」
その話題に圭も私も深くため息を漏らす。
それは呆れではなく、どうにもならないことを前に悲壮を滲ませる類の物だ。
るーちゃんもその話題に動きを止め、俯いて垂れた髪で表情が見えなくなる。
こんな小さい少女の胸の内など私たちなんかじゃあ計り知れない。
無理もない、自分の父親が『幻覚』を見て、それを現実の一つであるかのように見えているなんて信じたくないもの。
一度、宇田さんに用があって比較的「奴ら」の数が少なくなる夜に宇田さんの泊まる隣の用務員室の前へ行った時だ。
何かあったらと思い、私が武器を、圭が見張り役で二人で尋ねようとした時だった。
宇田さんが部屋で独り言を話していた。
ドアノブに手を置いた瞬間、それを聞いた私たちは身が凍るような悪寒に襲われて部屋に入れなかった。
中を恐る恐る覗いても、宇田さんは私たちに背を向ける様子で顔は見えなかったけど、明らかに誰かと話しているような会話をしていた。
しかも、「ジョー」という一人二役で声を変えるという周到な真似までして。
それを見た私たちは、最初、こんな状況で宇田さんが壊れてしまったか、薬に手を出してしまったのかさえ思ってしまった。
そんな考えに行き着くと、いつか妄想がひどくなって私たちを―――なんて考えに行き着き、宇田さんのことが恐ろしくなってしまった。
急いで部屋に戻った私たちを怪訝に思ったるーちゃんがタブレット越しで何かあったのかと尋ねた時、私たちは話すべきかどうか悩んだ。
るーちゃんを通して今夜の『あれ』を見たことがバラされてしまうのではないか、と。
でも、今まで見てきたるーちゃんを想う優しそうで、何より圭を助けてくれた恩人を疑いたくなく、るーちゃんに尋ねた。
最初、るーちゃんは溢れんばかりの冷や汗を流した後、思いを馳せるかのように月明りを眺めていた。
実の父親の異常な行動を白日の下に晒す、その勇気を考えると私たちは急かすこともできず、許されない物だと自覚した。
しかし、るーちゃんは覚悟をにじませた強い眼差しで、勇気を振り絞って思いの丈と共に真実をタブレットに映してくれた。
元々、この街には尋ねる人がいたのだが、それとは別にこの街には宇田さんの友人がいた。
それが『ジョー』という外国人だったという。
彼は口が悪かったものの、中々のタフガイで元は軍人だった。
しばらく、そんな友人と昔話に華を咲かせてこの街と共に夜を越した時、運命の日がやってきた。
日常が壊れ、人々が食われていく地獄の中、宇田さんを庇ってジョーさんが……
それ以来、助けられた宇田さんとるーちゃんは生き残った物の、宇田さんの中では『ジョー』さんはまだ生きて、困難な状況に直面した時は助言をしてくれているという。
それは、常日頃から宇田さんに無理矢理サバイバル知識を説いて、染みつかせようとした時のフラッシュバックを『幻覚』を通して思い出させているというのだ。
そう言った、故人との思い出が気弱だった宇田さんの気持ちを昂らせ、強くしているのだという。
一連の話に、私たちは涙を禁じ得なかった。
それは、宇田さんの身に起こった不幸を憐れむものであり、同時にそれは自分たちの醜さに対する戒めでもあった。
精神に異常をきたしながらも、宇田さんは堅牢な心で私たちを見守り、圭を助けてくれたのだ。
私は専門家じゃないから詳しくは分からないけど、あの正義感は宇田さん本来の優しさと、『ジョー』さんに成りきった影響から来るものだった。
自分を見失っても、幻覚を見ても彼は大人として子供を護ると言ってくれたのだ。
強い、一児の父とはここまで強いものなのだろうか。
そんな人を私たちは疑ってしまった……恩を仇で返すのと同じだ。
もし、これが現実逃避の一種だったら私は苛立ち、一悶着起こしていただろう。
でも、宇田さんはこんな現実を生き抜くため、るーちゃんを護るために、『正常』を棄てたのだ。
私たちに、それを責めるなんてできない。
『ジョー』さんが宇田さんの心の中で生きていることを、私たちは否定するなんてできない。
むしろ、こんな状況で「正常」でいようとすれば、そっちのほうが苦しいのではないか?
そうなってしまえば本当に壊れて、取り返しがつかないことになっていたかもしれない。
つまり、私たちは見守って、肯定するしかないのだ。
今、るーちゃんが、私たちが生きていることは全て『ジョー』さんのおかげだ。
私たちはその人を『居る』人として認識し、合わせるしかない。
治すにしても、少しずつ時間をかけなければならない。
それまでは、せめて優しい夢だとしても―――
「大丈夫、きっと良くなる。今はそっとしてあげよう」
「うん……でも、見てるだけじゃダメだよね。もし、その時が来たら」
「……私たちで受け止めよう。それが、今までの恩返しだから」
圭は私の言葉に強く頷く。
あぁ、やっぱり圭が生きてくれてよかった。
こんなにも心強い仲間を失わずに済んで。
そして、そんな彼女を助けてくれた宇田さんを今度は私たちが助けよう。
どれだけ時間がかかろうと、どんなことが起きても。
宇田さんのために、るーちゃんのために。
~閑話休題~
掃除中に圭と美紀が強い覚悟を以て頷く光景を瑠里は目にしていた。
「……」
冷や汗ダラダラの顔を必死に隠して。
元々、ジョーの存在を知られたと思った時は本当にショックで出ないはずの声が出るかと思ったけど、この時だけは声を失ったことを幸運だと思った。
一番の幸運は、宇田さんが出口を背にして顔を見られなかったことか、美紀たちがジョーを見てパファされなかったことだというのは間違いない。
とりあえず、自分の思いつく嘘八百を並べ立てた結果、美紀と圭は事態を間違った方向で納得してしまったのだ。
幻覚どころか、実在してるから! と言いたいところだが、言ったら言ったで何が起こるか分からないが、大惨事になる以外の未来しか思い浮かばない。
如何に子供の豊かな想像力を以ってしても最後はパファしてしまうのだ。
本人には言わないが、宇田は自分の知らない所で『幻覚を見ている異常者』だと勘違いされているのだ。
しかし、嘘を並べ立てた手前、もはや真実を告げる勇気も力も自分にはないと諦めていた。
既に投げられた賽にイカサマできるほど器用じゃないことくらい、小学生でも理解しているのだから。
逆に、自分の作った物語で二人が泣いたことから「もしかして作家の才能があるかもー」と現実逃避までした。
若狭瑠里……彼女こそが間違いなく、陰の功労者であり、苦労人であることは言うまでもない。
美紀「あの、『ジョー』って誰ですか?」
るーちゃん「Oh……」
宇田さんは犠牲になったのだ。