厚く積もった雪に閉ざされた山奥の木こり小屋から、澄み切った冬の空へと一筋の煙がゆっくりと立ち上って行く。
その小屋の中では、暖炉の中でで燃える薪がパチパチと弾けて暖かな光と熱を室内に満たしていた。
「それでフリヴァルドは戦いが終わったのに一人で旅立って行っちゃったの?」
「そうじゃ。それが亡き友との約束だったからな」
「凄い!やっぱり英雄になる人は格好いいなぁ……」
暖炉の前でロッキングチェアに深く腰掛け、椅子を揺らす祖父とその前で分厚い敷物に転がった僕。
小屋の中に閉じ込められる雪深い冬の間、僕はそうして飽きることなく祖父に英雄譚をねだっていた。
「ねぇお爺ちゃん。僕も英雄になれるかな?」
「ほう?ベルはフリヴァルドのようになりたいのか?彼は手に入る何もかもを投げ打って、一人過酷な旅へと立ち誰にも知られず消えていったのだぞ?」
「えっ!?それは、うーん……」
「ならばヘルサスのような英雄か?こやつなら勝利に勝利を重ねて助けた王女から打ち倒した女戦士、果ては女神とも愛を交わしたツワモノだ」
祖父の言葉に合わせていろんな女の人に囲まれる自分を想像する。清楚な深層の姫君。奔放で気心の通じる女戦士。天上の美を体言する女神様。
そんな人達に囲まれて全員を愛して愛されて?
「うーん……」
だめだ、自分にそんなことができる
そんな僕に祖父はいつもならば「男ならハーレムを目指すものだ!」って力説するのに、その時は違ったんだ。
「ベル、お前が望む英雄とはどんなものだ?何故英雄になりたいと思う?」
「僕はただ……」
あの時、僕はなんと答えたのだっただろうか。
薪が燃え弾ける音が穏やかに響いている。
ゆっくりと目を開けると、手を伸ばせば簡単に触れられる程の高さが厚い帆布がに覆われているのが見えた。
(そうだ、僕は昨日このテントで寝たんだった)
この薪が燃える音のせいだろうか。なんだか懐かしい夢を見た。
(ナァーザさんは……)
マントに包まったまま首をもぞもぞと動かすとテントの中にはもう僕一人しかいない様子だ。どうやら彼女は先に起きたみたいだ。
僕は上半身を起こして纏ったマントを緩める。そして体の上下の入れかえて四つんばいの姿勢でテントから這い出した。
テントのすぐ前では軽く掘り起こした地面の中で焚き火が燃やされ、渡した鉄棒からつるされた鍋がその火にかけられている。
焚き火の前に座り込んで、生木の枝をもって火の面倒を見ていた彼女がこちらを振り返った。
「おはよう、ベル……」
「おはようございます、ナァーザさん」
僕は挨拶を交わして立ち上がる。その時の動作で体が固くなっているのを感じた、うんと伸びをすることにした。
「ん~~~~っ」
体を天に逸らして筋肉を伸ばしほぐす。見上げた空は明るくなり始め朝の空気が感じられた。
「スープ、もう温まるから……パン、出して……」
「わかりました」
先に朝食のスープを温めていてくれた彼女の言葉に従って馬車の荷台から二人分のパンと食器を探す。
馬は馬車から外されて、テントにロープでつながれた状態でもそもそと脇に生えた草を食んでいた。
焚き火の傍に戻り二人の朝食を取り分けて、僕もナァーザさんの隣に座り込んだ。
「すみません、朝の準備ほとんど手伝えなくて」
「良い……先に、起きたから……」
いつもの眠たそうな瞳でそっけなく応える彼女に、僕は笑みを返した。
「それじゃあ、ありがとうございますナァーザさん」
「……うん」
そう頷いてくれた彼女と、穏やかな空気で朝食を済ませる。
(よかった、何時も通りに出来た)
朝食の後始末と出発の準備をしながら僕は内心でほっとすしていた。
昨日、トロールを倒した後の話から一日ぎくしゃくした空気になってしまったから今日はそんなことが無いようにしないと。
心中で密かに目標を立てながら旅の二日目は始まったのだった。
二日目の素材の採取はとても順調だった。
野営地点から少し北上したところにあるブレラ湖では、
これは岸辺にモンスターが好む
手早く鬣を剥ぎ取って次の目的地へと出発する。
そこから湖から流れ出る川沿いに下っていくと南の方角に木々が生い茂る森が見えてくる。セオロの密林と呼ばれる場所の北端部分だ。
密林の端につくと馬車を一旦そこで止め、馬が逃げ無いように木から縄をかけ繋いでおく。
そこからは必要な荷物だけをもって二人で徒歩で進み、目的の対象を探すことにする。
ナァーザさんがくんくんと頻りに鼻を鳴らし、頭部の犬耳がピンとたって周囲の音を探っている。
「ん……」
先を歩く彼女が足を止めて僕に手で止まるように合図をする。
止まったまましばらく耳を動かしていた彼女は、確信を得たようでバッグから道具を出していく。
ここでまず採取するのはデッドリー・ホーネットのロイヤルゼリー。
オラリオのダンジョンでなら22階層以降に出現し、硬い甲殻に素早く空中を飛ぶ高い機動力、そして強力な大顎と太い毒針を備えた強敵だ。
中層域での探索を確立させられる程の冒険者達が下層へと進出するのを阻まれるとされる『
だがそんなモンスターも他種のモンスターがいないとわかっている環境であれば―――
彼女は用意してきた香の入った袋に火をつけると、蜂類のモンスターが嫌うという変わった匂いのする煙がもくもくと吹き上がる。
自分達がその煙に包まれながら、デッドリーホーネットの巣の傍にも同じく煙を噴き上げる袋を投げ込む。
しばらくマントで顔を被って煙に耐えながら待っていると、その煙を嫌がったデッドリーホーネットはどこかへ飛び去ってしまっていた。
後は巣を回収してロイヤルゼリーを採取してしまえばいいだけだ。
このアイテムも彼女の商品開発研究の成果の一つだ。
とは言ってもダンジョンで使うには、別種のモンスターは逆に引き寄せてしまう事があったり、効果のある対象でも逃げ場のない迷宮で使うと逆に凶暴性が増すなどの危険性があることから商品化にはまだ遠いらしいけれど……。
それにしたって普段からそうやって地道に研究した成果がこうやって今役に立っている。
素晴らしい弓の腕と、獣人の鋭敏な感覚を備えた優秀な斥候としての能力。LV2に到達するほどに鍛え上げられたそれらの力に加えて、心に深い傷を負って尚努力を欠かさずにこうして新たな力を得ようとしている優れた薬師でもある。
(それに比べて僕は……)
と、心に
(これじゃ昨日と同じじゃないか)
彼女の力で採取が上手く行っているのにそれに勝手に劣等感を感じて落ち込んでいたら、それこそ自己嫌悪だ。
(今はそんな事考えないようにしなきゃ。)
目の前の作業に集中して、余計な考えを追い出す。
デッドリーホーネットの巣を地面や木に密着した部分を切り出して回収し、荷馬車のところまで戻る。
中をあけロイヤルゼリーを回収してから、巣自体も丁寧に解体・保存していく。蜂蜜や蜜蝋等、他にも有用な素材が色々と取れるからだ。
その作業を終えたら休憩にして、二人で昼食をとることにする。
食事はパンと干し肉、それから干した果実類とナッツ類を取る。それから今取れたばかりの蜂蜜を加える。
火は起こさずに、飲み物は水で薄めたワインを合わせた。
パンにデッドリーホーネットの巣からとれた蜂蜜をつけてがぶりと齧る。ちなみに長旅ではないのでパンはそこまでカチカチなものではなく普通に食べられる硬さのやつだ。
口の中で租借すると濃厚な甘みと香りが口いっぱいに広がった。驚きとともに舌で崩れていくパンと蜂蜜を味わっていく。十分に堪能したそれをごくりと飲み込み―――
「美味しいですねこれ。普通の蜂蜜と全然違いませんか?」
その意外な美味しさに嬉しい驚きを感じながら、ナァーザさんに声をかけると彼女は口いっぱいにパンを頬張ってモグモグと咀嚼しながら僕に対して何度も頷いていた。
(ナァーザさんも薬効はともかく味までは知らなかったんだなぁ)
彼女も驚きからか、心なしかその眠たげな目もいつもより大きく見開かれている気がする。
―――意外な喜びのあった昼食を終えたら、次は馬車に乗って密林の外周沿いに南へと下り始める。
セオロの密林はオラリオの真東にあるアルブ山脈、その麓を南北に大きく広がる大森林だ。
その北側に生息するデッドリーホーネットの巣を採った後は、中央部に生息しているブラッドサウルスの卵を採取すればこの小さな旅の目的は完了になる。
そのために数時間かけて密林の外周を南下、できれば日が暮れる前にブラッドサウルスの卵を回収してから一夜を過ごし明朝に帰還を始める。
採取がスムーズに行かなかった場合は、翌日の朝から採取を試みて終わり次第オラリオに帰ると言う計画だ。
荷台の上で揺られながら僕はのんびりと予定を再確認する。
ここまでは素材の回収はとても順調だ……もちろん、最後の採取が残っているから気を緩めて良い訳じゃないんだけど。
ミアハ様やナァーザさんの事前の話によれば、おそらく今回取れる素材は複数種類の
その複数の
つまり、今まで回収できた素材だけでもおそらく
そう考えると、油断は禁物と思いながらもある程度安心してしまうのは止められなかった。
そんな考えから僕は気楽な調子でナァーザさんに話しかける。
「いよいよ次で最後ですね」
「うん……。ブラッドサウルスの卵が取れれば、後はオラリオに帰って薬を完成させるだけ……」
「ブラッドサウルスですか。確かダンジョンなら30階層以降で出てくるって言う凄いモンスターですよね。今回はどうやって素材を採るんですか?」
「必要なのは卵……。生きてる成体は倒す必要は別にない……」
「なるほど。それじゃ、デッドリーホーネットみたいにアイテムでモンスターを巣から遠ざけてその間に採るとかですか?」
その僕の推測に彼女はゆっくりと首を横に振った。
「あれに効きそうなその類のアイテムは用意できなかった……」
「うーんと、じゃあどうやって?」
「なので、ベルを囮にしてその間に卵を採取する」
「なるほど。僕を囮にするんですね」
……んんん?今そのまま納得しちゃいけないことを言われたような気がするぞ。
でも、気のせいかもしれない。もう一回聞き直してみることにしようかな。
「えーっと、聞き間違いかも知れないんですが、今僕を囮にって……」
「……大丈夫、地上のブラッドサウルスはたぶんダンジョンのオークよりちょっと強いぐらいの筈」
「オークってダンジョンの10階層に出て来る大型モンスターじゃないですかっ。僕じゃ勝てませんよっ!?」
思わず泣きが入って詰め寄る僕を見て彼女は嘆息する。
「ブラッドサウルスはかなり大きいから木々が密集している所までは追ってこれない。
生息地周辺は木々も開けていると思うけど、ベルのはしっこさなら私が弓で援護すれば十分逃げ切れる……」
たしかにそう説明されれば成算のある計画に思えるけれど、それって結構危険な役なんじゃないだろうか。
「それにベル、ここで働かないと……殆ど役立たず」
「うっ……!?」
(き、気にしていたことを容赦なく……!?)
「それに、なんでもしてくれるって……言った……」
「そ、それは……」
たしかにあの時、ナァーザさんたちの為なら何でもすると言うような事を言った気がする……。
「そういうことだから、お願い」
「……わかりました」
僕は白旗をあげて、覚悟を決める事にしたのだった。
ゆっくりと南下を続け、丁度オラリオの真東辺りに位置するところまで来た頃に馬車を止める。
密林の北でしたのと同じように馬を木につなぐと、ついに最後の採取を始める時が来たのだった。
二人で森へと入り、再度斥候の能力に長けたナァーザさんに先導してもらう。
彼女はその鋭い感覚を働かせて、付近を警戒しながらゆっくりと歩を進めていく。
そうしてしばらく密林を進んでいくと―――
「ベル、あそこ……」
と、彼女は足を止めて前方を見つながら僕を呼ぶ。僕は彼女の横に立つと、その視線の先を追って森の奥を観察する。
その先には、ぽっかりと開けた広々とした窪地があった。
「ベル、これ」
ナァーザさんがバックパックから小さな陶器の玉を出すと僕に手渡して来る。
「なんです?これ」
受け取った玉を指でつまんで眺めながら僕はそれが何なのか聞いてみる。
「
「なんでそんなもの作ったんですかっ!?」
有効な用途が限定的過ぎやしないだろうか。
今は良いけど、ダンジョンでモンスターを怒らせて良いことがあるとは思えない。
「悪臭でモンスターを遠ざけるアイテムができないか研究してできた副産物。本命の完成には悪臭が弱いので要改良……」
モンスターが嗅いだだけで激昂するような悪臭を更に酷くするつもりなのか……。
有効性はわかるけど酷すぎるアイテムだ。
「ともかく、ここを進めばブラッドサウルスの巣。出てきたらそれを投げつければ突進してくる筈だから、後はよろしく……」
そう言ったや否やナァーザさんは脇の木々の中へと素早い動きで紛れて行った。
流石LV.2と感心させられるほどの速度で、殆ど音を立てずにあっという間に姿が見えなくなる。
一人取り残された僕は渡された
「やるしか、ないか」
よし、と覚悟を決めて僕は足を踏み出した。
やけくそ気味にずんずんと歩いていくと、窪地の中心部近いところまで来たところで死角になっていた地面がえぐれていたところから、ゆっくりと巨体が立ち上がって来た。
その数、三体。
そして完全に立ち上がったその巨体は、高さ5
「グルルルルルルル」
侵入者である僕を見下ろし、唸りをあげる紅色の恐竜達。
その威圧感に僕は思わず一歩、無意識に後ずさった。
「あ、あはははは。こんにちは~なんて……」
馬鹿なことを言ってみると、奴らは首をじりじりと前へ傾け、歯をむいて口からはボタボタと涎を垂らし始めた。
どうも僕をみて食欲を刺激されているようだ……美味しそうに見えるとして、少しも嬉しくはないけれど。
「さ、さよならっ!!」
僕は逃走を告げて、手に持った
投げつけられた
その匂いを嗅いだ三体のブラッドサウルスは、強烈な悪臭に身を震わせて顔を背ける。
「グルウアアアアアアアアアアアアアアア!!」
そしてその一瞬後には、怒りの方向と共に
先に逃走を始めたとはいえ、ブラッドサウルスの巨体の歩幅から生み出される走力は僕を明らかに上回っている。
ズシンズシンと背中から聞こえる地響きがどんどんと近づいてくるのがわかる。
(お、おいつかれるっ……!!)
必死に走りながら僕が顔を青くしていると、雷のような速度で飛来した矢がブラッドサウルスの右目へと深く突き刺さった。
痛みの咆哮をあげるモンスターは、並走していたもう一匹のブラッドサウルスを巻き込んで転倒する。
(ナ、ナァーザさん!)
その援護のありがたさに感謝しながら僕は必死で木々が深くなって行く方へと逃げる。
倒れた二体のブラッドサウルスを飛び越えて、三匹目の恐竜がこちらへと迫る。
しかし追いつかれそうになる直前には、またしても銀の軌跡を描いて飛来した矢がその竜の背へ深々と刺さった。
(流石!よぉーし、これなら……)
僕は開けた窪地を抜けて、木々の中へとわけ入る。
まだブラッドサウルスが追ってこれる広さはあるけれど、あの巨体にとって木々が障害物になるのは間違い無い。
完全にあいつらが追ってこれない所まで、ナァーザさんの援護があれば十分逃げ切れる!
僕はある程度の余裕を取り戻して森の中を走る。
立ち上がり僕への追走を再開したモンスターの一匹が迫ってくる。でももう十分に矢を引き絞り狙いを定める時間は稼いだ。これなら―――
(援護が、こないっ!?)
右目に傷を負ったブラッドサウルスが、怒りと共に僕をその鋭い刃の如き歯が並ぶ顎で捉えようと襲い掛かる。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!?」
咄嗟に僕は姿勢を崩すと、木を盾にするように地面を転がって逃れる。
僕が木の裏に転がりつくと、バギリ!と背後で異音が響く。
背後を見るとブラッドサウルスが右目から血を流しながら残った目で僕を睨みつけ、噛み付いたその木をバキバキとその顎で砕き追ってしまった。
(たしかに太い木じゃなかったけれど……そんなっ!?)
その顎と歯の恐ろしさに僕は血の気が引いた気がした。
(に、逃げなきゃ……)
慌てて立ち上がろうとするも、ブラッドサウルスは右足を大きく振り上げ僕を踏み潰そうとする。
「やばっ!?」
またも地面を転がって振り下ろされる巨大な足から何とか逃れる。
ごろごろと転がった勢いを利用して何とか立ち上がったけれど、その先には残りの二体のブラッドサウルスが僕の前に並んで涎をぼたぼたとたらしていた。
「ううっ……!?」
(やばい、ヤバい、ヤバイ!!)
生存本能が全力で僕に警鐘を鳴らす。
(援護は?援護はまだなんですか!?)
必死で心で助けを求めるけれど、どこからも矢が飛んでくる様子は無かった。
何故、何故、何故―――心の中が疑問で埋め尽くされる。
逃げずに戦ったら勝てるだろうか?10階層の大型モンスター相当の相手三匹相手に?絶対無理だ……。
自分の弱さがたまらなく恨めしい。
僕は一人じゃ何も出来やしない。
なのに……なんで助けてくれないんですか―――
「ナァーザさーーん!!!」
僕の叫びに応えたのは、ブラッドサウルスたちの怒りの咆哮の三重奏だけだった。