「なんでそんな事をしたんですかっ!!」
「なんでって、そりゃあキミの為にベル君は……」
「リリはそんなことして欲しいだなんて一言も言った事はありませんッッ!!」
「そ、それはそうだけど……」
廃教会の地下室。そのヘスティア・ファミリアのホームに、リリの怒りの叫びが響く。
「騒がしい、ベルが起きちゃう……」
ベッドにベルを寝かせていたナァーザはその声に眉を顰めて立ち上がると、怒鳴るリリに対して近寄り彼女に抗議の視線をぶつけた。
けれどリリは近寄ってきたナァーザを逆に睨み返すと、彼女にも怒りをぶつけた。
「貴方も貴方です! 倒れた心配して付いて来るぐらいなら、何でそもそも
「それは……わからないけど……」
確かに彼女はベルの身が心配でここまで付いてきた。しかしそうしたのは自身のベルへの好意に因るものが大きいとはわかっているのだ。
相手がベルだからこそナァーザは彼の身を心配すると同時に、力になりたいと思い付き添って来た。もし別の人物が相手だったなら、きっと彼女はここまではしなかっただろう。
そういう意味では
けれど―――
「……ベルがあれを飲んだのは、貴方の為。それなのに……貴方は文句しか言えないの……?」
ナァーザはリリを睨みつけた。
怒りの表情を浮かべるリリを見ながら、ナァーザはベルがあの酒を飲んだ時の事を思い出す。
彼がどれだけの思いで、あの杯を呷ったか。それを間近で見ておきながら、あの覚悟を止める事など自分には出来ないとナァーザは思う。
あれだけの思いを見せたからこそ、あの場に居た誰もがベルの姿に心打たれた。
だからこそ神ソーマも自分のファミリアを省みると、そしてこの娘を自由にすると、そう約束してくれたのに……その彼の思いを認めないのか。
そんな思いを抱いてナァーザはリリを睨む。
けれどリリも、そんなナァーザの視線に怯みはしなかった。そもそも彼女は、最初から気に入らなかったのだ。
地下室で一人待っていた時に帰ってきた彼女たち。眠ったベルと、彼を慈しむ様に抱きかかえるナァーザ。そして笑顔のヘスティア。
どうしたのかと疑問を抱くリリにヘスティアは告げたのだ。もう大丈夫、キミはこれで自由になれると。
突然のその言葉に、リリは喜ぶより何があったかと訝しんだ。
そしてヘスティアから詳しい話を聞いていくにつれて、リリの眉は逆立っていったのだった。
ソーマとの交渉なんて危険なことを、しかも自分に黙って、何故そんな勝手な事をしたのか。
リリを守るため? リリを巻き込まないため?
自分が彼らを巻き込まないためにどれだけ迷い苦しんだか。彼らはわかっていない。その自分の思いを踏みにじって、ベル達は勝手に事に及んだのだ。
ベルが
自分を思ってくれる事への感謝と、そこまでの事をさせてしまった申し訳なさ。自分の言葉不足で神酒の恐ろしさを伝えきれなかった事への後悔、そして自分の気持ちを汲んでくれなかった事への怒り。
それらの感情がない交ぜになって、リリの中で溶岩のようにぐつぐつと煮えたぎる。
そんなリリの前で、ヘスティアは
ベルをベッドへと運んで行ったナァーザは、まるで大きな試練を成し遂げた弟を慈しむかの様に横たわるベルを優しく微笑んで見守っている。
―――冗談ではない。
そう、リリは思った。
何故彼女たちは笑っているのか。もう心配は無いと、何故そう思うのか。
ベルの事を案じながらも、彼ならば大丈夫だと、自分たちが力になると、何故そんな風に暢気に考えているのか。
「リリがいつ、そんな事をして欲しいと望んだんですか!! 貴方たちは、あの酒の恐ろしさがちっともわかってないっ!!」
そんな彼女達の笑顔に煮えたぎった感情を噴出させ、リリは吠えたのだった。
その彼女の焦りに気付いたようにヘスティアとナァーザも僅かに焦りの表情を覗かせる。
「そんなに……あれは危ないのかい?」
ヘスティアは心に浮かぶ不安を抑えたくて、リリにそう問いかけた。
ナァーザも僅かに身構えてベルを見る。もしやベルがこの声で目を覚まし、神酒をよこせと暴れだしはしないだろうか、と。
そんな二人を見てリリは冷ややかに答えた。
「別に、目が覚めても急に暴れだしたりすることは無い筈です。だからそんな風に構える必要はありません」
「そ、そうか……ならよかった」
「ええ……今更、そんな風に警戒しても手遅れですから」
怒りを塗り固めたかのように冷たい声を出すリリに、ナァーザが問いかける。
「どういう……こと?」
「あのお酒は、別に判断力は知性を失わせるわけじゃありません。酔う、と言っても普通のお酒のようにそれで物がわからなくなって異常な行動をとったりするわけじゃないんです」
「それじゃあ、
「あれは飲んだ人間に、ただ限りない幸福を与えるだけ……。そうして、心を捉えるんです」
「心を……捉える……」
「ええ。そうしていつも心のどこかで、
「夢……か」
リリは二人に説明しながら、自分の苦い記憶を思い出し、皮肉げに唇を歪ませた。
幼かった自分の記憶……。
彼女が物心ついたころ、最初に覚えたのは物乞いの方法だった。
『金を持って来い』
彼女が両親から与えられた事を覚えている言葉は、それだけだった。
それだけを言われて、そしてそんな両親はいつの間にかいなくなり、後に誰かから迷宮で死んだと聞かされた。以来彼女は、路上で憐れを乞いながら、路地裏でゴミをあさる。そんな日々を過ごしたのだ。
ただひもじくて……。
ただ寒くて……。
それから逃れることだけが、幼いリリの全てだった。
そんな幼い自分がどうやって生き延びる事が出来たのか、彼女はもう覚えていない。小さく蹲る彼女を見咎め、そっと自分の側に置いた神がいたことも、彼女はもう忘れてしまった。
確かに彼女に与えられていた筈の温もりの記憶に代わって、彼女の心に焼きついたのは、
美味しかった……感動したのだ。こんな素晴らしいものがこの世にあるのかと、そう思った。そして求めた。またもう一度、あの幸せをと。
自分の生きる理由、生まれた意味はこれだとさえ思った。あの酒の為にならなんでもするつもりだった。けれどリリは、短絡的に
二人に言ったように、神酒はその味に酔ったとしても、知性や判断力を奪うような事はない。むしろ、リリに知恵を与える事さえした。
それまで流されるまま無力に生きていたリリは、
「あの時リリにとって、
あの時感じた虚しさを、彼女は忘れた事はない。
リリはぶるりと体を震わせて、眠るベルに彼女は視線をやった。
自分なら良い。
どうせ掃き溜めの中で生まれて這いずり回るように生きてきたのだ。
夢などなかった、思い出もなかった、大切な記憶なんて……無かった筈だ。
だから、自分ならば良い。
けれど、もしベルがあんな風になってしまったら? そう思うと、リリは背筋に氷を差し込まれたような気になった。
眩しい夢を持ち、優しさに溢れ、周りの人々と大切な絆を繋いでいる少年。
そんな彼の心が
唇を噛んでベルに視線を向けるリリを見て、ヘスティアは真剣な表情で口を開いた。
「よくわかったよ。あの酒はボク達が思ってたよりも、ずっと恐ろしいものなんだね……」
「そんな……ベル……」
ナァーザは顔を青ざめさせてベルを心配そうに見詰める。
(ソーマの奴、本当に下界の子供達には過ぎた物を作った上に、考えなしに配りやがったんだな……)
怯える二人の子供達を見て、ヘスティアは改めてソーマの所業に憤る。
神々にとって、子供達の自然な心は最も価値ある宝の一つだ。少なくともヘスティアにとってはそうだった。
たとえ不完全で未熟でも、子供達が自分の魂を傷付けるようにして彫り上げて作り出された形にこそ、神々は心を打たれる。
ソーマは
確かに、ルールに反してはいないのかも知れない。
けれど神の手でそんな風に地上の子供の心を強引に歪めてしまうなんて、ヘスティアにはとても容認できることではない。
彼女は苛立つ心を抑えて深呼吸をする。
「でも、もうベル君はあの酒を飲んでしまったんだ。過ぎた事をあれこれ言っても仕方ない。それで、
ヘスティアがそうリリに問いかける。しかしリリは俯いたまま首を横に振った。
「ありません……リリの知る限りでは。酔いが醒めるまで、
その彼女の言葉にヘスティアは頷く。
「そっか。それなら、後はベル君の心の強さを信じるしかないね……。なぁにベル君ならきっと大丈夫。それになによりボクがついてるんだ。彼が
そう言ってヘスティアは二人に向けてにかっと笑って見せた。
彼女のその無邪気とも言える笑みに、リリとナァーザは暗くなった心に灯火が灯ったような暖かさと明るさを感じたのだった。
ヘスティアに勇気付けられた気がしたナァーザは、にやりと笑って彼女に応じる。
「それなら、私だってベルを癒せる……ヘスティア様よりも……」
「な、なんだとっ!? 一体何を根拠にそんな妄言を吐くんだキミはっ!!」
怒りの気炎を吐くヘスティアに向かってナァーザは不敵に微笑んだ。
「忘れたんですか……半年も落ち込んでたベルを立ち直らせたのは、私……」
「ぐっ……そ、それは……最後のきっかけになったってだけだろう。ベル君が立ち直ったのは、ボクの献身的な介護があったからの筈……」
「そうかな……。じゃあヘスティア様も、出来るだけ頑張ってください……」
「なんだその言い方は! 言っておくけど彼と寝食を共にして一番近くで癒してきたのはボクなんだからな! キミはさっさとミアハの所へ帰りたまえ!」
「あ、それなら私も……暫くは、ここで寝泊りすることにしたから……」
「な、なんだって!? ボクに断りもせず何を勝手な……だいたいキミはミアハの眷族だろ。アイツを放っておいてどうするんだ!」
「ミアハ様は……しばらくベルについててあげろって、言ってたもの……」
「ミ、ミアハの奴またしても……。だが、ここはボクのホームだ! ボクの許可無く勝手に滞在だなんて―――」
「ヘスティア様は、ベルを大変なのに……私が助けるのに反対……?」
「う、が、ぐぐぐ……」
ナァーザにやりこめられて、悔しさに顔を赤くするヘスティア。
そんな彼女達を見て、リリもまた微笑んで二人の争いに口を挟んだ。
「お二人ともベルさんを助けたい気持ちはわかりますが、そこまで気負う事はないです。そもそもこれはリリの事情が招いた事態。ベルさんのことは私がきっちり面倒見ますから、二人はどうぞ気楽に見守っていてください」
「なっ!? キミまで何を言い出すんだ!」
「生意気……まだベルとの付き合いも短いくせに……」
「付き合いは短くったって、ベルさんの唯一の仲間ですから。ただポーションを売ってるだけの知り合いの貴方とは違うんです」
「私だって、ベルとパーティを組んだ事ぐらいある……」
「へ~~。でもそれじゃあ何で今はパーティを組んでないんですか? 結局お二人の関係には何か問題があったってことですよね」
「そんなこと、ない……。私だって、ベルとパーティを組めるなら……」
「ちょ、ちょっと待てぇい! 何ボクを差し置いて二人で言い争っているんだい! 言っとくけどベル君はボクの眷族なんだからな! 他派閥の二人が何をしたってボクとの間には絶対割り込めない強い絆がボク達にはあるんだ!」
「「今はパーティの話なんですからヘスティア様はちょっと黙ってて」」
「ひ、ひどい。ボクだってベル君が迷宮に行くのについて行きたいのを我慢してるのに……」
眠るベルを横にリリ達はそんな風に言い合いを続けた。
後悔も不安も無くなった訳ではない。けれど、それに囚われてもしょうがない。
今一番大事なのはベルが目覚めた時、彼を助けたいという気持ち。
最初は怒りを覚えた筈のヘスティアの笑顔で、リリは今そう想う事が出来たのだった。