腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
あれから、何時間経ったのかしら。
ようやくマンションに到着したところで、もはや電話として機能することはないと思われる携帯を取り出して確認してみると、六時を大幅に過ぎている頃だった。
三時前には比企谷くんたちと別れを告げて出発したから、四時間近く歩きっぱなしだったのね。私にしてはかなり頑張った方だと思うわ。
それにしても徒歩だとしても二時間はかからないはずの私のマンションが、ここまで遠くなるとは。警戒や回り道の仕方は比企谷くんに倣ってやってみたけれど、なるほど時間を消費して安全を取るとは言ったものね。
陽が落ちて暗くなっても街灯は生きていたため周囲を警戒することは可能だったものの、さらに時間を要してしまった。それでも私たち全員が無事だったのだからこの方法は正解だったと言わざるを得ない。
「やっと……ついた、わね……」
「そ……です、ね……」
「ふう、はあ、もう限界、だよぉ……」
全員が肩で息をしてそびえ立つ建物を見上げる。
中に入って背負った鞄からカードキーを取り出し、パネルの横で読み込ませてマンションのエントランスドアを開こうとしてみた。電気はまだ生きていてくれたらしく、カードキーをいつものように受け付けてガラス製のドアがスライドして開いていく。
エレベーターは危険かもしれないけれど、今の私たちに十五階へ歩いて登れというのは死ねと言っているも同義だった。一応外から見た限りではマンション内は静寂を守っているように思えても、実際はどうか分からない。扉が開いた瞬間地獄が広がっているのかもしれないが、もしそうだったならば私が飛び込んで時間を稼ごう。
二人に知られないように覚悟を決めて、エレベーターのボタンを押す。
果たして到着した私の住む階層は静かでいつも通りの通路が広がっていた。
内心でホッとため息をついて二人を案内する。でもまだ油断はしない。扉を開いて鍵を閉めるまでは、何が起こるか分からないのだから。
「ふう……。ようこそ、私の部屋へ。歓迎するわ」
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します。はー、すごい部屋ですね……」
やっと安堵の息を本当の吐息でつけて、玄関だというのに座り込んでしまった。情けないけれど、明日どころか今日中にも筋肉痛になりそうだわ。しっかりとストレッチしないといけないわね。明日からも何が起こるか分からないのは変わらない。常に何かを警戒していなければいけないのだ。
「ごめんなさい、案内してあげたいのだけれど、もう歩けないわ。部屋にあるものは好きに使っていいから、先に入ってちょうだい」
「もー、ゆきのんったら。ほら、また肩貸すから、一緒にいこ?」
「……ありがとう」
こんな私にも由比ヶ浜さんは変わらず手を差し伸べてくれる。繋いだ手の温かさに力を貰って、なんとか立ち上がることができた。本当に、助けられっぱなしね。
無駄に長い廊下を歩き突き当りの扉を開く。そこに広がるリビングは暖房もついていないのに温かく感じた。脅威に晒されないという安心感だけでここまで安らげるとは。
「雪乃さん、台所借りますね。とにかく今は何かお腹に入れておいたほうがいいでしょうし」
「ええ、お願いするわ」
小町さんにも気を使われてしまっている。やっぱり私は、一人では何にもできないのだと痛感するけれど、それを支えてくれる存在がいるというのが、私の心の何かを満たしてくれる。一人で強がっていた昔では考えられないことだ。
しばらくして台所から出てきた小町さんは、お盆に食器を乗せて戻って来た。足を捻っていた彼女だが、幸運なことにそこまで酷いものではなかったらしく多少は無理をしていたものの、マンションにたどり着く頃にはだいぶ回復してくれていた。まあ、行軍がゆっくりだったのと、私の体力のなさで休憩が多かったことも関係しているのでしょうけど。
温かな湯気を湛えた食事は、私たちの身体も心も存分に癒してくれた。これほどまでに五臓六腑に染み渡るという言葉を実感したことはない。実家での食卓も、一人で食べる食事も、どれだけ高級なレストランへ行ってもこんなに美味しい料理は食べたことが無いと思うほどに。
「ふう、落ち着いたわ……。ありがとう、小町さん」
「いえいえ、小町にできるのはこれくらいですから……」
「うう、あたしは料理できないし……」
ひとしきり舌鼓を打って、空になった食器をみんなで洗う。今は誰がやるというよりもみんなで一緒にという方が気がまぎれるのだ。彼女たちもやっと安心したような雰囲気を見せ始めてくれていた。
でも、その空気を壊さなければならない話題がある。
これからのことについては、どう考えても希望なんてものが見えてこないけれど、話さないというわけにもいかないからだ。色んな人に助けられたこの命、無駄にすることはできない。比企谷くんに託された願いもある。この悪夢の中で、私たちは必死に生き延びなければならない。
食器を洗い終えて、今までは無駄に大きいとしか思っていなかったソファに三人揃って沈みながらその話題を口にした。
「……さて。これからのことを話しましょうか」
「……うん」
「……はい」
一様に表情が曇る。当たり前だ。私たちは大事な人を失った。失いすぎた。けれどその人たちのためにも、この話は必須なのだ。
「一つの提案として、私の実家に助けを求めることがあるわ」
「実家、ですか」
小町さんが首を傾げる。そういえば彼女は私の家が県議をしていることを知っていたかしら? 知っていたとしてもそれを気にして態度を変えるような子ではないけれど、この様子だと知らないみたいね。
お家自慢なんて下品で嫌いだけど、今はその力が必要だ。雪ノ下家ならばこの事態にも多少なりとも対応はしているはず。そうでなくとも、あの大きな家はそのままシェルターにもなるし、被災用の貯蓄もこの家よりはずっと多い。だから一先ずの目標として雪ノ下家を目指すのがまず思い浮かんだ。
「ええ、私の家ならここよりも安全だし、食料その他も充実しているはずよ」
「ほんとのゆきのんちかぁ。行ってみたいかも」
説明しても彼女たちのイメージではぽやんとしたものしか浮かばなかったみたいだけれど、それ以上の案があるわけでもなさそうなので、とりあえずはということで決定した。
問題は、どうやって辿り着くか、ね。
「歩いて行くにはちょっと遠いのよね……。いつもは車で送り迎えしてもらっていたけれど、今は電話も……」
「そういえば家電(いえでん)もダメなのかなぁ?」
家電(いえでん)と聞いてハッとする。そうよ、アレがあるじゃない。
ソファから飛び起きた私に驚いていた二人だったけど、今は気にもしていられない。
壁に埋め込まれている今時の電話にしては大きすぎるそれのボタンの一つを押し、受話器を取る。
これは雪ノ下家に直通で掛けられる特殊な電話だ。一人暮らしをするに当たって過保護な父が付けてくれたもの。当時は無駄すぎると嫌っていたし、緊急の用でもなければ携帯で済ませられるので無意味だとも思っていたけれど、まさか本当に使う時が来るとは。
ただし、通じたとしても誰かが出るとは限らない。この状況、実家に誰もいない、もしくは考えたくもないことだけれど、全滅……なんてことも有りえるのだから。
嫌な予感はしかし、受話器の先の声によって覆される。
『雪乃様でございますか!?』
「ええ……、ええ! 雪乃です!」
思わず声が昂ぶる。由比ヶ浜さんたちも何事かと私のそばへと近づいてきてくれていた。
『よくぞ御無事で……!』
「友人に助けられてさっき帰宅したところなの。明日になっても構わないから、迎えをよこしてくれないかしら」
『かしこまりまし……陽乃様!』
『雪乃ちゃん!!』
突然電話口の声が変わり、甲高い叫びが私の耳を貫いた。
「……姉さん」
『よか、良かったっ……! 無事で……。怪我とかしてない? 大丈夫?』
「大丈夫だから落ち着いてちょうだい」
ちょっと意外に思う。あのいつも飄々として、時たま意地悪な顔を見せるあの姉が、涙声になって私を心配してくれていた。知らず知らずの内に私の目頭も熱くなる。なんなのよ、もう。小町さんに言ったら叱られそうだけれど、今更になって思う。家族とは、良いものね、と。
けれど姉さんの次の言葉は、その家族愛に感動していた私をして驚愕に値するものだった。
『今から迎えに行くから、待ってて!』
「ちょっ、姉さん、やめて! 危険だわ!」
時刻は既に七時を過ぎている。陽は完全に落ちて、電気が生きているとはいえ道路には何が転がっていて、何がいるのかも分からない。夜に行動するのは危険すぎる。私の部屋にはまだ食料が少し残っているし、そこまで緊迫した状況でもないのだから、迎えは明日でも構わないのに。
『ダメ。明日どうなるか分からないんだから。もしかしたらこの電話も使えなくなってるかもしれない。その前に絶対に迎えにいくよ』
姉さんの声は覚悟が滲んでいて、とてもじゃないけれど説得のしようがなかった。その気持ちは嬉しいけど、それで姉さんに何かがあったら私はどうすればいいの?
『大丈夫、お姉ちゃんに全部任せなさい♪』
黙り込んだ私に向かって、事もなげに言ってのける姉さん。確かに姉がやると言ってできなかったことなど何もない。でも、それは条理の通った世界でのこと。この世界中の悪夢をごちゃ混ぜにしたかのような現在において、その自信が裏目に出る可能性だってある。不安はどうしても拭えなかった。
『都築、後はお願い。私が出たらすぐシャッターも閉めてね』
『陽乃様おやめください、陽乃様!』
「姉さん!」
『……行ってしまわれました。
「……分かったわ。ありがとう」
それきり通話が途切れる。
受話器を戻すと途端に嫌な想像が私を襲った。真っ暗な道で、生き物かどうかすら分からないモノに囲まれて車ごと埋もれていく姉さんのイメージが、頭にこびりついて離れない。
そんな私の両手がふと温かいものに包まれた。私を挟んで座った由比ヶ浜さんと小町さんが、いたわるように手を取って私に微笑みかけてくれていた。
「きっと大丈夫だよ、信じてあげよう?」
「そうですよ。妹のために普段の何倍も頑張れちゃうのが、千葉の
指先から溶けていくように、私の中の暗いイメージが消え去っていった。ああもう、本当に助けられてばかりだわ。このままだと借りばかりが膨らんでいきそう。でも、でもそうよね。そんな貸し借りで物事を考えないのが、私の、私たちの、そして『彼』が求めたものでもあるのよね。
私は、そっと寄り添ってくれる二人に身体を預けて、信じて待つことに決めた。
* * *