腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
保健室はひどい有様だった。
そりゃ怪我人も死人も大量に出たのだから、ここもしっちゃかめっちゃかになるというものだ。幸運にも今は誰もいないし、
椅子に座る小町と雪ノ下の代わりに由比ヶ浜が指示に従ってあれやこれやと介抱してくれている。小町の足には湿布を。床に座り込む俺たちには不要かもしれないが、それでも包帯を巻いてくれた。
「これから、どうしましょうか……」
少しだけ体力を回復させることができた雪ノ下が、なおも暗い表情で問う。誰に向かって聞いたのではなく、思わずこぼしてしまったような質問に、誰も答えることができずにいた。
俺と一色は、ここまでだ。
だが、彼女たちだけで、これから上手く生き延びてくれるだろうか。情けないなんてものじゃない終わりを迎えた俺が言うことじゃないのかもしれないが、それでも憂えずにはいられなかった。
「すまん、な。……小町を、頼む」
「…………」
謝りながら、雪ノ下に託す。彼女は何も答えなかったが、それでも何かが通じたような気がした。
あの時、葉山もこんな気持ちだったのだろうか。
この謝罪はあいつや川崎にも向けられていた。
何一つ約束を守ることができなかった。託された願いに報いることも。謝って済むことじゃないだろうが、もう俺には何もできないのだ。
「やだ……やだよ、お兄ちゃん……」
「ひ、ヒッキー……」
小町と由比ヶ浜はずっと泣いている。助けに行くなんてカッコつけて、こんなざまだ。申し訳なくなって顔をあげられやしない。小町を助けてくれた大志にも……。
思えば、随分と助けられてきたものだ。平塚先生は生徒思いですげぇカッコよかったし、戸塚と川崎には無言で、だがしっかりと背中を押してもらったし、一色には身体を張ってまで守られてしまった。
雪ノ下と由比ヶ浜にも、いつも助けられてきたんだ。危うい時期もあったが、それでもあの奉仕部での出来事は、全て俺の宝物だった。
はは、何がぼっちだよ。俺は、こんなにも良い奴らに囲まれていた。こいつらに囲まれて死ぬのならば、それはきっと幸せなことだ。
「小町……雪ノ下、の、言うことを……ちゃんと、聞くんだぞ……」
きっと彼女ならば、この先も小町のことを守ってくれるだろう。責任を全て押し付けるようで悪いが、そうするより他にない。だが大丈夫なはずだ。雪ノ下は静かに涙をこぼしながらも、力強く頷いてくれている。
「由比ヶ浜……ハニト……連れてけなくて、悪かった……、雪ノ下のこと……支えてやって、くれ」
「ずるいよ、ヒッキー……一緒に死んでくれって言う方が、ずっと優しいよ、こんなの……!」
バカ言え、俺は、死んでもお前たちには死んでほしくない。その中には、一色も含まれていたはずなのに、本当にダメな先輩だ、俺は。
「もう、行け……」
今は、何時だ。地獄が始まったのが一時頃だったか。だいぶ時間をかけてここへ来たから、もうそろそろ三時くらいだろうか。春になったとはいえ、まだまだ陽が落ちやすい季節だ。明るいうちに動き出した方がいいだろう。
「やだ、やだぁっ! お兄ちゃん! お兄ちゃんっ!」
「小町さん……」
なおも喚く小町を引きずるようにして雪ノ下が保健室から直接外へ出られる扉を開く。最後に俺の方を見て、また小さく頷いた。俺も、わざとらしく口角を上げて見せる。ここへきて、言葉さえ必要なしに通じ合えることができた。それが、少しだけ嬉しい。
「ヒッキー……大好きだよ」
由比ヶ浜も最後に一言残して、大粒の涙をこぼしながら外へと消えていった。最後に告白なんかしやがって。俺もお前が、お前たちが大好きだよ。順位なんかつけられないが、家族の小町と同じくらいに大好きだ。愛していると言ってもいい。
全員がいなくなってしばらく。何も音がしなくなった。もう耳が聞こえなくなったのかと思ったが、風が木の葉を散らす音が僅かに聞こえて自分の五感がまだ生きていることを知った。
そういえば、この中学校はやたら静かだ。死体ばかりだから当然かと思っていたが、そもそもなんで死体が多いんだ?
死んだらゾンビにならずにそのまま朽ちていくやつもいるのだろうか。だったら俺もそうであって欲しい。いくらゾンビみたいな目をしているからって、本当にそんな存在になりたくはない。あんな、大事な物まで食い散らかしてしまうような、虚しい存在には。
「せん、ぱい……」
一色がかすれた声で俺を呼んだ。
包帯は巻いたが、その下から滲んでくる赤色は収まることを知らずに今もその勢力を強めている。俺に寄り掛かるようにしている一色は、力の入らない身体でしがみつくみたいに俺の袖を握り込んでいた。
最後まであざといやつだ。そこが、可愛いんだけどな。
「せんぱい……、最後に、聞いてもらいたいことが、あるんです」
「……なんだ」
俺にできることはもう、それくらいしかない。だから静かに、その先を促した。
どれだけの時間が残されているか分からないが、どうせならお互い悔いなく逝こうと思ったんだ。
「わたし、……わたし、嫌なやつ、なんです」
一色の言葉は、懺悔だった。
「わたし……葉山先輩が噛まれた時、思っちゃったんです……。『自分じゃなくて、良かった』って」
「…………」
そんなこと、当たり前だ。誰だって死にたくなければ、傷つきたくもないのだ。それは、生物として当たり前のことであって、恥ずべきことでは、全くない。しかし、それでも一色はぽろぽろと真珠のような涙を流して言葉を紡いでいった。
「憧れてた、だったはずなのに……あんなに、好き、だった、はずなのに……! 寄り添う三浦先輩に、危ない、って……言いそうに、なっちゃったんです」
「そう、か」
三浦の言動は、俺にも衝撃だった。薄い関係と馬鹿にしていたはずの彼らは、命の瀬戸際というその時までそれを失わずにいたのだから。きっと一色の中で、三浦と自分を比較してしまったんだろう。濃い色のそばに立てば、嫌でも自分の薄さが知れてしまうから。
「せんぱいは……『本物』、みつけられましたか……?」
「……ああ、そうだな。少しだけ、見えた気が、するよ……」
まだそれを引きずりやがりますか。でももう照れなんてものはどこかへ消え失せてしまった。
素直に頷くと、一色は俺の胸に頭を乗せて小さく震えた。
「わたしは、まだ、です……。こんなわたしでも、最後まで、そばに、いてください……」
「……ああ」
こいつも、ずっと探していたんだろうか。本物と呼べる何かを。それが俺のせいだったならば、少しだけ申し訳なくなる。あんな曖昧なものを見つけられるやつの方が希少なんだ。俺だって、ようやくその片鱗が見えただけなのだから。
一色は震えながら呟き、それが段々と小さくなっていった。
「どこにも、いかないで……やだ、やだよ……」
「大丈夫だ……大丈夫、だから」
無意味でしかない言葉しかかけられない自分が嫌になる。だがそれしか俺には、なんにもできなかった。せいぜいが、頭を撫でてやるくらいしか。
「…………しにたくないよ」
最後にそう零して、やがて一色の震えが止まった。
* * *