腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。   作:ぴよぴよひよこ

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地獄が始まった日。⑤

 

 学校の外は川崎が言っていたようにそこかしこでサイレンが響いているということはなかった。もちろん事態が収拾されてそうなったのならば喜びたいが、そういうわけではない。なぜ分かるのかというと、時おり悲鳴が聞こえるし、火事と思われる黒煙は今ももうもうと立ち上っているからだ。

 

「はあ、はあ……」

「大丈夫か、雪ノ下」

「大丈、夫よ……気にしないで」

「ゆきのん、もっと体重かけてもいいからね」

「あり、がとう、由比ヶ浜、さん……」

 

 角に差し掛かるたびに慎重にその先を伺い、ゾンビと思しき影も、生者かもしれない喧騒も全て避けて進む。自転車ならば数十分で辿り着く距離だが、行ったり戻ったり、時にはダッシュでの移動、しかも常に緊張状態での行軍は、もともと体力の少ない雪ノ下から強がり以外の全てを奪っていった。

 今にも泣きだしそうな顔に髪をはりつかせて息を切らす様子は、プライドの高い彼女が絶対に他人に見せない姿だ。しかし、この状況では言葉で強がってみせるのが限界なのか、由比ヶ浜の肩を借りてでもなんとか着いて来ようと必死に足を動かしている。

 

「結衣先輩も、いつでも交代しますからね」

「ありがと、いろはちゃん。あたしなら大丈夫だから」

 

 一色も見たことのない雪ノ下の乱れた姿を慮っている。由比ヶ浜は体力がないわけでもないし、雪ノ下を支えられることに嬉しさも感じているのか、気丈に笑って見せた。

 

「もうすぐ到着する。休憩もなしにすまんが、頑張ってくれ」

「気にしないで、と、言った、でしょう」

 

 フルラウンドを終えたボクサーのような雪ノ下が、それでも泣き言ひとつ言わずにしっかりと着いてくる。本当に自分に厳しいやつだよ。

 あと五分もすれば目的地である中学校が見えてくるかという時に、俺のポケットの中で携帯が振動を始めた。急いで取り出して確認する。

 ――――着信……小町からか!

 

「小町! 無事か!」

「おに――、やっと……った!」

 

 言葉の合間合間に空白が紛れ込むが、なんとか聞き取れる。良かった。まだ、生きてる――!

 数秒もするとノイズも消え去り、ようやく会話らしい会話をすることができた。

 

「大丈夫か小町! 今どこにいる?」

「おにぃちゃあぁぁん……うっぐ、ひぐ……」

「落ち着け、すぐに助けに行く。今、どこにいる?」

 

 電話が繋がった安心感からか、泣きだす小町をどうにか落ち着かせる。怪我による痛みで泣いているという可能性は、あえて無視して。

 しかし、どうやら無事のようではあった。小町の後ろからは聞き覚えのある男子の声がする。大志の声だ。いつもならば脅してやる場面だったが、今はその声にホッとする俺がいた。

 

「いま、いまっ、中学の、生徒会室……」

「良し分かった、もうすぐ近くまで来てる。安心しろ。大志がそこに居るな? 電話を代わってくれ」

「うん……」

 

 小町の声が離れ、ぼそぼそと音が聞こえた後に大志が電話を代わった。

 

「お兄さん、大志っす!」

「おに、いや今はいい。小町もお前も無事か? 怪我はしてないか」

「大丈夫っす! 学校に不審者が侵入したって聞いて、それからすぐ、パニックになったんすけど……」

 

 どうやら小町たちの学校でも、俺たちと同じような流れで悪夢が始まったらしい。スタートがいつなのかは分からない。朝までは確かに、いつも通りの日常だったのに。

 だが今それを知るすべはないし知っても意味がない。やるべきことは何も変わらない。

 

「ああ、俺たちも似たようなもんだ。今から向かうからそこで待ってろ。お前の姉にも頼まれてるからな」

「姉ちゃんが……分かったっす!」

「小町に傷一つ付けんじゃねぇぞ」

「任せてください、絶対に守ってみせるっす!」

 

 普段ならぶん殴りたくなりそうな歯の浮くセリフも、今は頼もしく思える。電話を切るのは惜しいが、話ながら進めるほど気を緩められる状態でもない。最後に小町に一言かけてから通話を切ろうとした、その時。

 

「きゃあああ!!」

「小町!! どうした!」

 

 電話の向こうで小町の悲鳴が上がった。

 くそっ! 何が起こったんだ。確認しようにも電話が放り出されたのか悲鳴と何かが壊れるような騒音しか聞こえてこない。そしてぐしゃりという音とともに通話が切れてしまった。何かが携帯電話の上にでも落ちたのか。

 

「くそっ!」

 

 口汚く吐き捨てても何も状況は変わらない。早く、早く小町の元に向かわなければ。

 だが、どれだけ急ごうにもあと五分。危険を無視してダッシュしたとしても二、三分はかかる。

 

「比企谷くん、行ってちょうだい」

「雪ノ下、けど……」

「私のせいで間に合わなかったら、合わせる顔が無いわ……。私なら後から絶対に追いつくから……、お願い」

 

 民家の塀に寄り掛かりながら、雪ノ下がそう提案した。

 確かに最も時間がかかる理由は雪ノ下の進行ペースだ。でも彼女を置いて行って何かがあっても、俺はきっと死ぬほど後悔するだろう。小町と比べることなどできない。どちらも、秤などで比べられないほど俺の中で大きな存在なのだ。

 

「ゆきのんのことならあたしに任せて。ヒッキーは、小町ちゃんのとこに行ってあげて」

「由比ヶ浜……」

「わ、わたしも残ります。できることがあるとは思えませんけど、お二人は任せてください」

「一色……、すまん、頼んだ」

 

 二人が雪ノ下を庇うように支える。ダッシュで小町の元へ行き、また戻ってくる。その間に彼女たちも学校へ向かってくるのならば、十分もあればまた合流できるはずだ。……十分。ぼーっとしてれば気付けば過ぎているような短い時間が、この状況では恐ろしく長く感じる。何が起きるか分からない。一体の死者にでも出会えば終わりかもしれない。だが、俺には彼女たちを信じて任せるしか選択肢も、時間もなかった。

 短く答えて走り出す。バットが重くて邪魔だが、今これを捨てるわけにもいかない。代わりに特に何も入っていない鞄を投げ捨てて、曲がり角の危険も確認せずに真っ直ぐ走ると、すぐに中学校の校舎が見えてきた。

 

「っはあ、っがふ……!」

 

 運動はできる方だと自負していたが、鍛えているわけでもなく緊張状態に晒されていた俺の身体は、中学の校門をくぐったあたりで息を切らし始めていた。それでも歩みを止めるわけにはいかない。

 やたらと死体の多い校内を、吐き気をどうにか堪えながら走り抜ける。

 ここはかつて俺も通った学校だ。生徒会室は確か二階に上がってすぐだったはず。古い記憶を呼び覚まして頭の中で地図を構築しながら脚に鞭を打つ。階段の踊り場にいたゾンビ二体の頭をバットで打ち抜き、ようやく目的の場所にたどり着いた。

 

 ――――ガシャァァァアン!

 

「――小町!!」

 

 ひと際大きな音が、小町たちがいると思われる教室から聞こえた。妹の名を叫びながらその教室のドアを開くと。

 

「お、お兄ちゃん……!」

 

 果たして、小町は無事だった。怯えてはいるが、怪我の一つもない。震えた身体を抱きしめると、小町も縋りつくように俺の背に手を回した。大志は俺との約束をきっちりと守ってくれたようだ。そして、その大志はと教室内を見渡す。

 机に埋もれているようにして身動きの取れない学生服の男女が一人ずつ。先ほどの大きな音はこいつらを吹き飛ばした音か。そしてその反対側、教室の後ろ側に誂えられたロッカーに背を預けた男子が一人。

 

「大志!!」

 

 大志は、血まみれだった。

 それが返り血ならばどれだけ良かったことか。それだけならば、きっと同級生を攻撃した自責を慰めるだけで済んだだろう。けれども、それはこの悪夢のような現実においても理想を越えた願望でしかなかったらしい。

 

「おに、さん……」

「くそっ、気をしっかり持て!」

 

 いつかの葉山を責められない、無意味な呼びかけ。

 大志は身体のあちこちから血を流して、今にも気を失いそうだった。俺の方を向くその双眸は、恐らく俺の姿を捉えてはいないだろう。

 

「へ、へへ、約束は……守ったっすよ」

「ああ、ああ! 良く、やったな。ありがとう……ありがとう大志」

 

 力なく笑う年下の男子は、シスコンの俺をして妹を任せても良いと頷けるような、誇り高い男の顔をしていた。今も激痛が全身を襲っているだろうに、言うことがそれだとは。俺は、ただ、ただ感謝を述べることしかできなかった。

 

「小町、さんを……連れて、行ってください……。ここは、俺、が」

 

 大志も状況は分かっているようだ。自分がこれから、どうなるか、も。

 だから、その言葉には従う他なかった。謝罪の言葉を繰り返しながら、俺は小町を連れて教室を出る。

 

「お兄ちゃんっ、お兄ちゃん!? 大志くんが!」

「小町、あいつの意思を無駄にするな」

「……でもっ」

 

 小町だって、本当は分かっているはずだ。恐らく小町たちを襲った奴らも、さっきまでは正気を保っていたに違いない。目の前で豹変されては、この悪夢も現実と認めるほかないのだから。

 閉じたドアにカチリと施錠音が響く。あの身体で、どこまでも小町を慮ってくれる大志には、頭が上がらない。川崎にも合わせる顔がない。もし過去に戻れるのならば、もっと優しくしてやりたかった。そんなことを考えても、やはり今は今で、ここは現実だった。悠長にしていられる時間はない。急いで雪ノ下たちの元へ戻らなければならないのだ。

 

「……行くぞ、俺の後ろを離れるなよ」

「……うん」

 

 小町を連れて、来た道を戻る。どうやら小町は足を挫いているらしく、走ることができないみたいだ。肩を貸してやりたいが、不測の事態に備えるためには自分で歩いてもらうしかない。ゆっくり、ゆっくりと歩き、階段へと向かう。

 来るときは無視していた物陰に気を配りながら階段を降り、さっきブチ倒した踊り場の二体がまだ起き上がっていないのを幸運に思いながら、小町が手すりに捕まって歩く周囲を警戒する。

 

 カタン、と階段を降りたすぐそばの下駄箱から音がした。

 小町を確認してから先に降りきり、壁に張りついてその先を伺う。

 

「っは、っはあ、っく……」

「ゆきのん、もう少し、もう少しだよ」

「気を付けてください、わたしがまた先を確認してきます」

 

 音を立てていたのは雪ノ下たちだった。どうやらあれからも歩き続けていたらしく、息も絶え絶えだったが怪我もなくここへたどり着いたようだ。由比ヶ浜が支え、一色が偵察するという役割分担で、無事に到着したらしい。

 

「一色、無事だったか」

「先輩!」

 

 角から飛び出た俺に悲鳴を上げかけた一色だったが、先に声をかけたのもあってすぐにその表情は喜びへと変わっていった。喜んでくれるのは嬉しいけど、抱き付くのはやりすぎじゃないか?

 

「良かった、先輩が無事で……」

「ああ、お前らもな」

 

 泣いている後輩を無理に引きはがすのも気が引けて、頭を撫でつけていると前後から視線が突き刺さるのを感じた。

 

「ヒッキー……無事で良かったけど」

「お兄ちゃん……」

 

 睨んではいても、やはり喜びと安心が勝るのだろう。誰もがため息を零して小さく笑っていた。

 

「げっほっ、ごほ!」

 

 約一名が無傷にも関わらず死にかけていたが。

 

「すまん一色、小町を支えてやってくれるか」

「あ、はい、分かりました」

 

 進行がゆっくりだったおかげもあって、体力が残っていそうな一色に小町を任せる。数回程度だが会ったこともある彼女らは気まずい空気もなく肩を組み始めた。

 

「雪ノ下、小町が足を挫いてるみたいでな。この廊下の先に保健室があるからそこで少し休んでいこう」

「わか、ったわ。ごめんなさい」

「謝ることじゃない」

 

 雪ノ下は気遣われたことに謝罪したが、小町が負傷しているのは事実だし、足の怪我はこの先の危険度を何倍にも引き上げることになる。しっかりと治療して、体力も回復させたほうが今後のためにもなるのだ。

 廊下には死体がいくつか転がっていて、いつ起き上がってくるかも分からないが、それは外に出たところで同じことだろう。治療器具があるならば今ここで寄っていくのが賢明だ。

 

 もともと高校の上履きのまま来たこともあって靴を履きかえる手間は要らなかったが、由比ヶ浜に付き添われて歩く雪ノ下を待っているとそれなりに時間がかかった。

 きっと彼女たちと合流できて気が緩んでいたんだろう。気を抜くことなんて許されるはずもなかったのに。たぶん俺は、俺たちは麻痺してしまったのだ。身近な存在が死んだという事実が、しかも立て続けに起きたそれが、慣れろというにはあまりにも残酷すぎる現実をどこかで拒絶してしまっていたんだ。

 

 だから忘れてしまっていた。踊り場で打ち倒したゾンビは、活動を停止していなかったことを。

 

「先輩、危ないっ!」

「うおっ、いっし……」

 

 空気の抜けたゴムボールが弾むような、しかし不快な水音が混じるそれに気付き、振り返る前に一色に突き飛ばされた。咄嗟のことで加減ができなかったのだろう、肩から壁にぶつかって激痛が走る。だがそれよりも――――。

 

「っあああああああ!!」

「いろはさん!!」

「いろはちゃん!!!」

 

 悲痛な叫びが廊下に響き渡った。

 階段の上から転がってきたゾンビはその勢いのまま一色にぶつかり、けれど弾くことなく肉食獣のように捕らえて離さなかった。そして、倒れた一色の横っ腹に、思いっきり噛みついたのだ。

 

「一色!!!」

 

 小町と由比ヶ浜に続いて叫ぶ。でも、もう。

 だからとて見逃しておけるか。これからどうなろうと、目の前で後輩を食われてそのままで置けるはずがない。そいつは、そいつは俺たちの大事な、たった一人の後輩なんだ。

 

「くそったれがぁあああ!!」

 

 肩の痛みを無理やり無視して、持っていたバットを振り上げる。こんな、痛み。一色が今受けているものに比べたらゴミみたいなものだ。

 ゴギン、と嫌な音がして頭を弾かれたゾンビが一色からわずかに離れる。でも、まだ動いている。

 ごしゃ、ごしゃり、ぐしゃ。その身体が動かなくなるまで、俺はバットを振り降ろし続けた。自分の罪を、そいつになすりつけるみたいに、何度も、何度も。だが、怒りは力を生み出しはしても、やはり代償というものがあるらしく。周囲への注意を失った俺は、何も学べちゃいなかったんだ。

 

「ダメ、比企谷くん……! もう一人、来てる……!」

 

 唖然と俺を見ていた由比ヶ浜と小町。そしてバットをふるい続けた俺には気付けなかった。知っていたはずなのに。さっき、二体、打ち倒したんだ――――。

 

「ぐあ、っがぁああ!」

「ヒッキー!!」

 

 さっきと同じ音。同じように転がり落ちてきたゾンビが、今度こそ俺にぶつかって来た。その衝撃は先ほど壁に打たれたのとは比較にならず、一瞬どころでなく息が止まってしまう威力だった。そして、動けない俺に抵抗できるはずもなく、肩口に食い込む歯の痛みを甘んじて受けるしかなかったのだ。

 

「せん、ぱい……!」

 

 せっかく一色が助けてくれたのに。後輩の頑張りを無駄にするなど、先輩の風上にもおけないクズだ。ブチブチと音を立てる、さっきとは違う肩の痛みを味わいながら、俺はそんなことを考えていた。クソッタレは俺だ。これは、その罰か。

 

「お兄ちゃんを……離せぇ!」

 

 唐突に、俺に圧し掛かっていた重圧が消えた。転がって上を確認すると、俺が取りこぼしたバットを持った小町が怒りの表情でそこに立っていた。吹き飛んだゾンビは、まだ完全に死んではいないが、それでもしばらく立ち上がることはなさそうに見えた。

 まさか妹に助けられるとはな。ますますをもって情けない。俺ができることは大分少なくなっちまったが、せめてここから安全に送り出してやらなければ。

 

「わ、悪い、な。……一色、立てるか?」

「げほっ。すい、ません、ちょっと……無理かもしんない、です」

 

 ただの怪我ではないことは、身をもって知ることができた。受けた傷が異常に熱をもって、そこから全身に"何か"が確実に巡っているのを実感する。それが巡っていくごとに、力がどんどんと入らなくなっていくのだ。

 

「小町、雪ノ下たちを、案内してくれ……」

「お、お兄ちゃん……!」

 

 言うことを聞かない身体を無理やり服従させて、一色を支えてやる。歩く速度はさっきの雪ノ下以下になってしまったが、保健室へ連れて行くことくらいはできるはずだ。足を痛めた妹には申し訳ないが、小町には自分で歩いて行ってもらう他ない。

 

「すみ、ません……」

「いいんだ……俺こそ、すまなかった」

 

 俺たちを振り返りつつ歩く小町たちに続いて、なんとか、足を動かすことができた。

 

 

 

* * *

 


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