腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
体育館には俺たち奉仕部と同じように、休日返上で卒業式の準備を手伝っていた生徒たちと先生たちが溢れていた。
ほとんどの生徒は何が起こったのか分かっていないようで、中には笑いながら友人とお喋りに興じている奴らもいるが、一部の、エントランスホールでの出来事を見ていた生徒は顔を真っ青にしてすがる様に携帯に耳を当てている。
それを見て俺も携帯を取り出し、小町に連絡を試みてみるも、やはり電話は不通のままだった。
この事件……と言っていいのかは分からないが、それがこの学校内だけの出来事ならば小町を心配する必要はないが……。もし、千葉中、いや日本、もしかしたら世界中でこんなことが起きているのなら。
俺は、どうすればいいのだろう。何をすればいいのだろうか。
「あ、先輩!」
雑多とした人ごみの中から、先ほどスピーカーから流れたのと同じ声が聞こえた。
ててて、とあざと可愛らしく走り寄ってくるのは卒業式の準備に駆りだす部活に奉仕部の名を挙げた生徒会長、一色いろはだった。
「いきなり先生に緊急連絡放送しろーって言われたんですけど、何があったんですか?」
「それは……」
こいつはまだアレを見ていないのか。
まあ、準備が終わって職員室にでも居たのだろう。錯乱させないためにも生徒には最低限の情報しか渡さないだろうし、一色は連絡だけ任されて先生たちは事態の収拾に走ったのか。その人たちも無事だといいが。
「俺も、まだよく分かってないが……。一色、様子がおかしい奴には近づくなよ。知ってる奴でもだ」
「え、なんですか? 他の男と喋るなって意味ですかすみませんドキっとしましたけど私は縛られるのが嫌いなのでごめんなさい」
「一色。……真面目に聞け」
「は、はい……。本当にどうしたんですか、先輩?」
いつもの調子でフラれたが、忠告はきちっとしておいた。まだ全容は話せないが……。校内で人が死んだなどと言われたら恐怖が伝播してしまうかもしれない。集団が恐慌状態になるのは不味い。
一色はまだ不安そうに俺を見上げているが、どこまで話したものかと考えあぐねていると、体育館の壇上に一人の先生が上がった。俺には見覚えが無いが、スーツを着ているし先生だろう。
「全員注目!」
大きな声が体育館に響き渡った。
喧騒が消え、シンとした空気が行きわたる。
まだぽそぽそと喋る者がいるも、朝礼のように完全に静まるのを待たずに先生が話し出す。
「この学校に、不審者が侵入しました。それにより、負傷者も出てしまいました……、何故か電話が通じずに警察に通報することもままなりません」
ざわり、と生徒たちに緊張が走った。
騒ぎかける彼らをたしなめることなく、先生が続ける。
「事態が落ち着くまで君たちにはここで待機してもらいます」
緊張の次は不安と不満が生徒たちの間で膨らんでいく。
だがこの状態で生徒だけで帰らせるのも、先生たちの立場からしてみれば無理な話なんだろう。
負傷者と言ったが、正確には死傷者、だ。最初に襲われていたあの生徒は、完全に死んでいたにも関わらず動き出した。あれを生きているとするなら負傷者でいいかもしれないが。
だから、平塚先生、も……。
このことは、まだ雪ノ下たちには伝えられない。彼女たちはまだ、平塚先生が生きていると思っているだろうから。
伝えれば、こいつらだけでなく、ここの全員がパニックになりかねん。正直に言うと、俺も平静を装うのが精いっぱいだ。今すぐにでも泣き叫びたい気分なのだ。
あの先生が。
曲がりなりにも、初めて俺を気にかけてくれた先生が、――死んだ、なんて。
そんなことが、すんなり受け入れられるわけがない。
「比企谷」
「……葉山か」
人ごみから一歩引いていた俺たちのグループに葉山が話しかけながら近づいてきた。
そういえばサッカー部も呼ばれていたんだから、部長であるこいつがいるのも当然か。後ろの三浦は何でいるのか分からんが。
戸部はおらず、こいつの周りにもサッカー部らしき人影はない。まあ作業が終わり次第帰ってもよいとお達しが出ていたし帰宅したのだろう。そのまま部活が始まった吹奏楽部や、戸塚のテニス部などはまだ残っていたみたいだな。
「いろはと一緒に職員室にいたんだが……、この騒ぎの原因が何か知ってないか?」
「なんで俺に聞くんだよ……」
「いや何となくだけど。君なら知ってるかなって」
葉山なら、事実を伝えても冷静に聞いてくれるか?
少なくともこいつがパニックになるところは想像できないしな。
俺もこんな大事(おおごと)を自分だけで抱えているのが限界っぽく、柄にもなく誰かと情報を共有したいと思ってしまっている。
一色や雪ノ下たちから離れ、葉山についてこいと合図を送る。
訝しがりながらも素直についてきた葉山に、小さな声で話しはじめた。
「いいか、落ち着いて聞けよ」
「……分かった」
俺の真面目なトーンを受けて、葉山も神妙な顔で頷く。
さらに声をひそめながら話し続ける。これから話す内容は誰にも聞かれたくない。
「……人が死んだ。少なくとも二人」
「なん、だって?」
「で、だ。それは、良くはないがまず置いといてくれ」
「な、人が死んだんだろ……!?」
不謹慎だ、と言いたげな葉山に、分かっている、と頷き返すが本題はここからだ。異常なんて表現では表しきれない現状を、どうにか伝えるべく言葉を選んだ。
「葉山、お前ホラーゲームってやったことあるか?」
「……それがなんだっていうんだ」
「いいから」
不承不承だが、「ああ」と頷いた葉山。ならば話は早い。
「俺もまだ信じられないんだが……、死んだやつが、動き出したんだ。まるで……ホラーゲームのゾンビみたいに」
「嘘だろう……?」
嘘ならどれだけ良かったことか。これが夢なら今すぐ覚めてほしい。もしそうなったら、これからは真面目に生きていきますから。ダメですか、神様。
俺の沈痛な面持ちを見て、ふざけているのではないと分かったのだろう、葉山も黙り込んで何か考え込んでいる。そして、顔を上げて言葉を紡ぎ始めた。
「その動き出したって人は、本当に死んでいたのか?」
「ああ。……喉を食いちぎられて、脈が無くなったんだ。あれを死んでないって言うんなら医者が要らなくなるレベルだ」
あの時点で生きていたとしても、ちゃんとした処置も受けずに動き回っているのだから、あれで正常な生者と言い張れるのならば、本当に医者はこの世に必要なくなってしまう。
「そう、か……。そんなことが……」
「まだ他の奴らには言うなよ。どうなるか分からんからな」
「……分かってるよ」
やはりこいつは理解が早いな。流石空気読むのが上手いリア充なだけはある。
全く解決はしていないが幾分か肩の力が抜けたな。まさかこの俺が、誰かに話して楽になるなんてことがあるとは思ってなかったぜ。
気を落ち着かせるためにも深く深く息を吐いた時、体育館のドアが勢いよく開かれた。その場にいた全員がぎょっとして振り返る。すわ、不審者が侵入してきたのか、と。
だが姿を現したのは息を切らせた川崎沙希だった。ポニーテールにした青みがかった髪を顔にはりつかせ、肩で息を切らしながらキョロキョロと辺りを見回している。
辺りを伺っているが川崎も俺と同じく知り合いが少ないのだろう、どこのグループにも近づくことはない。少しでも安心させるために話しかけるべく俺から彼女の傍へと歩み寄っていった。やはり柄でもないが、今は緊急事態なのだ。
「川崎、お前も来ていたのか」
「……比企谷。屋上にいて、放送を聞いてここに来たんだけど」
「そうか。大丈夫か? どこか、ケガとかしてねえか」
今日は部活単位で呼ばれた人間しか学校に来ていないはずだが、そんなことはどうでもいい。川崎は見たところ、息は切らせているがケガをしている様子はない。
「大丈夫……はあ、なんか様子のおかしい奴らに追い回されたけど……」
「……無事で良かった。学校に不審者が侵入して、そいつらに襲われた奴も何かおかしくなってるんだ。まだよく分かっていないが」
川崎は普段の勝気な表情を曇らせて縮こまっている。
まあこいつも高校生の女の子なのだ。緊急事態にいつも通りでいろなどとは言えない。
「今日は進学のことで先生と話をしてて……、夕方までは暇だし屋上でお昼をとってたんだ。そしたら、街の様子が……。色んな所から煙とか上がってて、サイレンも聞こえてきて。それで放送があって、ここに来たんだ」
「そうなのか。……学校の外も、おかしくなってるってのかよ」
嫌な予感ばかり、どんどんと当たっていきやがる。
この奇怪な事態は総武高だけでなく、少なくともこの地域一帯で起きているのか。
小町……。
「けーちゃ……、京華を保育園に預けてるし、早く迎えに行きたいんだけど。先生たちは? 警察とか呼んでないの?」
「電話が通じねえんだ。俺も、早く小町のところに行きたいんだが……。先生たちは、事態が収まるまでここに待機してろってよ」
「そんな……」
絶望したように顔を伏せる川崎だったが、次の瞬間には覚悟を決めたようにいつもの勝気な表情に戻っていた。流石は俺が認めたブラコン&シスコン。やるべきことは決まったか。俺も、兄として妹を助けに行かないとな。
「比企谷」
「分かってる。俺も、ここを抜け出して小町のところへ行く」
「……そう。あんたの妹って中学校にいるの? もしそうなら大志もいるはずだから、あんたにお願いしたいんだけど」
「ああ、了解した。とりあえず、雪ノ下たちに抜けてくることを伝えてくるわ」
無言で頷く川崎を後にして、雪ノ下たちのところへ戻る。
彼女たちは不安そうにしてはいるが、人が多い体育館へ来たことである程度は落ち着いていた。とくに由比ヶ浜は三浦と会ってようやくその顔に笑みを取り戻し始めていた。しかし、それはすぐに曇ることになる。
「雪ノ下。川崎に聞いたんだが、学校の外もどうにもおかしいことになっているらしい。俺はここを抜けて小町を迎えに行く」
「待ちなさい。まだ何が起こっているのかも把握できていないのに、闇雲に向かうのは良い策とは言えないわ」
雪ノ下は正論を述べてはいるものの、憂色が混じった表情はすがる様にも見えた。どれだけ勉強や運動ができようと、どれだけ困難を乗り越えて来ようとも、彼女の人生においてこれほどの異常事態はなかっただろう。というか有ったら怖すぎる。
「それはそうだが、頼るべき権力も今は使えないみたいだしな。自分でやるしかないだろ」
「で、でもヒッキー、危ないよ……」
雪ノ下のそばに寄り添っていた由比ヶ浜も不安げに述べるが、俺の意志は固い。
千葉の兄なら、今行かなくていつ行くのか。
「危ないのは小町も同じかもしれないんだ。俺は行かなきゃならん」
きっぱりと言い切ると、雪ノ下は目を瞑りながら深く息を吐いて、
「私も行くわ」
と、真っ直ぐに俺を見て言ったのだった。
正直に言えばこの状況での同行は心強いが、雪ノ下は雪ノ下でやることがあるんじゃないのか?
複雑な心境が顔に出ていたのか、雪ノ下はぽそりと付け足した。
「小町さんには私も世話になったこともあるし、ここに居ても、家に帰っても待つことしかできないなら、ね」
確かに雪ノ下は一人暮らしだが、実家の方はてんやわんやじゃなかろうか。この異常事態に県議である彼女の父はどんな行動を取っているのか、想像もつかん。
しかしまあ、そう言ってくれるのならば強く跳ねのける理由もないか。
「分かった。じゃあ、着いてきてくれ」
「あ、あたしも行くっ!」
雪ノ下に釣られるように、由比ヶ浜も同行を申し出てきた。
由比ヶ浜こそ、着いてくる意味はないはずだ。ここに居た方がまだ安全かもしれないのだ。今は、流されて選択をする場面ではない。
そういったことを伝えても、由比ヶ浜は雪ノ下の制服の袖を掴んだまま離さない。
「だって……、こんな状況で一人で帰るなんて無理だよ……。あたし、家がちょっと遠いし……」
ああ、確かにな。この中ではこいつだけがバス通だったな。今バスが動いているとは思えないし、いつになるかは分からないが歩いて帰るには怖い距離かもしれん。
この状況ならば距離的には同じく遠くにあろうと雪ノ下のマンションにでも泊めてもらった方がいいのかもな。
分かった、と了承を伝えてから戸塚にも向き直る。
「戸塚、そういう訳で俺たちはここを抜け出す。お前はどうする?」
戸塚は可愛らしく逡巡してから、決意を感じさせる顔で俺を見た。
「僕も行くよ。学校の外までだけど……。家でお母さんが一人でいるはずだから」
そうか、強いな、戸塚は。目の前で部活の仲間があんなことになったというのに。
先ほどまでは顔を青くして震えていたのに、今はこんなにも強い目をしている。
「よし、行こう。おい、川崎!」
少し離れた位置で、連絡できないものかと携帯と格闘していたっぽい川崎を呼び寄せる。ため息と共に携帯をポケットに戻しつつ、青い髪を揺らしてこちらへ近づいてきた。
「話は決まった?」
「ああ、5人で学校を出て、そこからはそれぞれ別行動になるが」
「ん、了解。で、どうやって抜け出す?」
川崎が体育館の出入り口や、グラウンドに面した扉を確認しながら聞く。
確かに扉には先生が付いていて、目を光らせている。だが俺たちを監視しているのではなく、外からの侵入を警戒している感じだ。
「適当に誤魔化すさ。親と連絡が付いて迎えに来てもらえたとかな」
「……それで大丈夫なの?」
「堂々としてれば大丈夫だろ」
いまいち納得のいかない様子だが、理由なんてどうでもいい。ごり押しで外に出てしまえばこっちのもんだ。
さあ行くか、と鞄を背負いなおしたところで、くいくい、と袖が引かれた。
引かれた方へ顔を向けると、一色がうるうるとした目で俺を見上げていた。その顔はあざといっちゃあざといが、どちらかといえば不安が勝っているだろうか。
「せんぱい、行っちゃうんですか?」
「ああ。妹が心配だからな」
「こんな時にもシスコンなんですね……」
ほっとけ。そういうお前は割とキャラぶれるよな。もう少し良い猫被っとけよ。
「まあ一色はここに残っておけよ。いざとなれば葉山に助けてもらえ」
「それは魅力的な提案なんですけどぉ……、わたしは――」
一色が何かを言いかけた時、体育館に悲鳴が響き渡った。
「きゃあああっ!!」
「か、かなちゃんっ! どうし――ひっ!?」
はっとして騒ぎの中心を見やると、エントランスホールで見たように様子のおかしくなった女子生徒が友人であろう女子に噛みついているという惨劇が視界に映った。
噛みついている方は大怪我をしているわけでもなければ、死んでいたはずもない。腕に包帯が巻かれているが、それだけだ。
それだけ、で……。
あの有名な、映画化されたゲームのように、感染したとでも言うのか。
そんな、そんなバカなことが。
「な、なに……あれ……」
一色が自分の見ているモノが信じられないように瞼をこすっている。
誰も動けずにいる中、襲われている方の女子生徒の抵抗が弱まり、やがて動かなくなってしまった。
それと同時に、他の生徒も悲鳴を上げながら彼女たちから距離を取り、体育館の中は一気にパニックへとなった。
一部の生徒が逃げ惑い、止める先生を跳ねのけて出入り口の扉を開くと、外にいたであろう、死者もどき――もはや、ゾンビとしか言いようがない者たち――に襲い掛かられた。
「いやああああっ!」
「うわあああ!!」
パニックがパニックを呼び、侵入してきたゾンビは数体だがその数だけの生者が犠牲となり、もう収拾などつけようもない事態に陥ってしまう。少しでも安全な出口を探して、人気のないグラウンド側に面している扉へと駆け出した。
「くそっ! おい、グラウンドの方から行くぞ!」
「あっ、せ、せんぱい、わたしも!」
「優美子、俺たちも行こう!」
「う、うんっ……」
走り出した俺に、話をつけていた奉仕部女子、川崎、戸塚が続く。そして一色と、ついでに葉山と三浦も付随してきた。
「いったい、なんなの……!」
雪ノ下がいら立ったように呟く。彼女の常識の中には、こんな状況を説明する言葉などないのだろう。雪ノ下たちには人がいきなり豹変して誰かに襲い掛かるという事実だけが見えている。だが、実際はもっと恐ろしいことが始まっているのだ。
「信じられないかもしれんが、ホラー映画とかゲームが現実になっちまったと思え。奴らに噛みつかれるとああなっちまうみたいだ。できるだけ距離を取れ。恐らくだが引っ掻かれるだけでもアウトかもしれん!」
走りながら後ろに続く皆に情報を共有しておく。もう隠しておく意味もない。最悪の状況になっちまった。信じられなくても、そうなってしまったのだ。
「嘘でしょ……!」
「そんなことって!」
振り返らずに、女子の誰かが零すのを耳だけが捉える。俺だって信じたくねえよ。
昨日まではいつも通りの日常が続いていたのに、どうしてこうなっちまったんだ。俺たちはいつの間に地獄に落ちちまったんだ……。
「比企谷、どうするの……?」
素晴らしい脚力を見せて俺と並走する川崎が問う。
今、何が必要だ? 身を守るために。小町や、雪ノ下たちを守るためには……。
「外に出る前に、部室棟に寄ろう。野球部の部室からバットでもなんでも、武器になりそうなものを借りていく!」
「ぶ、武器って!」
由比ヶ浜が批難するように叫ぶが、もう体裁もなにも取り繕っている場合じゃない。あのゾンビが、本当に死んでいるのか、元に戻せるかなんて俺には分からない。しかし、必要ならば……たとえ生きていたとしても、襲って来るなら。その時は……。
グラウンドを横切り、幾人かのふらつく影を警戒しながら部室棟に到着した。
低いプレハブ小屋のようなひとつながりの建物から、野球部の立て札を確認してドアのガラスをたたき割る。内鍵を開け、中に侵入して金属バットを拝借した。川崎と戸塚、葉山が同じくそれを手に持ち、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「よし、西側の柵を越えて外に出る」
「ああ」
できるだけ開けた場所を選び、脱出経路を算出する。部室棟の前を走り抜けてそのまま真っ直ぐ柵を越えていくコースだ。
まだ不安そうな女子たちを後ろに、物陰に気をつけながら進んでいく。先頭に俺と葉山、一歩後ろに戸塚と川崎が控えてくれている。川崎を除く女子たちには背後や左右を警戒してもらった。
グラウンド側には何体かの"奴ら"が蠢いているが、距離があるため危険度は少ないと判断して無視。
そして、部室棟の端、ラグビー部の部室の角を通る時、大きな影が飛びかかってきた。
「うっ、お……、葉山!」
「大丈夫だっ……! くそっ、大和……!」
死角から飛びかかってきたのは葉山グループの一人、ガタイの良い男子生徒の大和だった。一番近くにいた葉山がターゲットとなり、しかしなんとかバットで掴もうとしてくる手を防ぐことができたみたいだ。さすが、運動神経が良いだけある。
「よし、そのまま押さえてろ! ……大和、恨んでくれてかまわん!」
先ほど入手した金属バットをこんなにも早く使うハメになるとは思わなかったが、いたしかたない。潰す、いや、ここまで来たら誤魔化してなんていられない。『殺す』覚悟はもう、してしまったのだから。
思い切り振り被り、恐らく弱点、というかそうであってくれと願うしかない頭部へ狙いを定める。
「待て、待ってくれ比企谷! 大和、俺だ! 目を覚ませ!」
葉山が慌てて俺を制止する。既に正気など欠片も残していない大和へ向かって呼びかけているが、そんなことをしたって無駄でしかない。友人を思う心からの行動、それを責めたくはないがもはや事態は緊迫などというレベルでなく差し迫っているのだ。
身体へ伸ばしてくる手を巧みに防ぎながら何度も名前を呼ぶも、やはり反応はなく。唸り声だけを上げて、気が触れていることしかその姿からは読み取ることができなかった。
「葉山、無駄だ。分かってんだろ!」
「だが……くそっ、大和っ、ぐ、ああああ!?」
ついに恐れていたことが起こってしまった。いくら葉山が運動神経に優れていようと、単純な力比べなら大和は互角かそれ以上だ。しかも理性を失って、明らかにリミッターがかかっていないその膂力は、いかに上手く抑えようとも容易くそれを弾き飛ばす。
掲げられていたバットに腕を叩きつけた大和は、ガードの下がった葉山の右手を今度こそ掴みとり、そして一気に引き寄せて噛みついたのだった。
「隼人!!」
「ひっ、葉山先輩……っ!?」
背後で女性陣が悲鳴を上げる。それを聞きながら俺は自分を責めていた。
俺が葉山の言うことなど無視して大和を潰していれば、その後いくら責められようとも葉山は無事でいられたのかもしれない。この男をここで失うのは痛すぎる損失だ。この後すぐに別れて行動するということになっても、雪ノ下家かそれに並ぶ名家だと分かっているのはこいつだけだ。
打算的で嫌になる思考だが、この状況、俺一人で小町を守り切れる自信なんてない。強力なバックボーンを持つ誰かに保護してもらうことも念頭に置いていた俺には、葉山には無事でいて欲しかった。そうでなくともリーダーシップを取れる人物が、今は必要だというのに。
「くっそぉおおお!」
遅すぎる後悔を雄叫びに乗せて、思い切りバットを叩きつけた。力の入りすぎたスイングはしかし、大和の頭部を狙い違わず打ち抜き、一撃で沈めるには至らなかったが吹き飛ばすことには成功した。大和は飛び出してきた部室の角の方へと転がり、痛みを感じているのか定かではないがすぐには起き上がってくる様子はない。
解放された葉山が腕を押さえて後ずさり、三浦がそれを支えるように後ろから抱き留めた。
「隼人、隼人っ! 大丈夫!?」
「ぐ、うう、優美子……離れてろ……!」
痛みに呻きながらも三浦を気遣う葉山。そう、すでに手遅れなのだ。噛みつかれてしまったら、この先いつになるかは分からないが、今度は襲う側として俺たちの前に立つことになるかもしれないのだ。ゆえに、心配そうに寄り添う三浦を遠ざけようとするも、彼女は頑なに葉山のそばを離れようとはしなかった。
「み、三浦先輩……!」
一色が何かを言いかけて口をつぐむ。由比ヶ浜も同じグループである葉山、そして吹き飛んでもがいている大和にさえ心配そうな顔を向けていた。
葉山が、やられた。どうすればいい、何をすればベストなんだ。
焦る思考の中、俺も知らなかったほどに非情な部分が囁く。
――――見捨てるしかない。
だが言えるはずもない。ここにいるのは少なからず葉山と関わりがある面子だ。たとえこいつを好いてなくとも、見捨てるなどできようはずもなかった。だが、俺よりももっと、冷静に現状を見ていたやつがいた。
「みんな、先に行って。あーしたちは、ここに残るから」
「優美子!?」
三浦の言葉に、由比ヶ浜が叫んだ。ここに残る。それは、ここで死ぬという意味そのままだった。彼女はそれほどまでに葉山を思っていたのか。死ぬまで、いや死んでもそばに寄り添っていたいと思えるほどに。
「優美子……ダメだ、そんな……」
腕を噛まれただけ……「だけ」と言うには大きすぎる負傷だが、それでも歩けないほどではない。そのはずなのに、葉山はすでに身体に力が入らないのか、うずくまるだけで立ち上がることすら困難な様子だ。それでも、顔だけを上げて三浦に懇願するような視線を向けていた。
「隼人……。あーし、隼人のことが好き。ここで離れるくらいなら、死んだ方がマシってくらい」
「優美、子」
はっきりと言ってのけた彼女の顔は、もはや誰もが説得を諦めるくらいに覚悟が滲んでいた。それは葉山も同じだったようで、諦めた表情を俺に向けてくる。
「すまん、比企谷……俺はここまでみたいだ。……皆を、頼む」
ふざけるな。ふざけるなよ。確かに傷を負った以上、お前はここまでだろう。無理を押して連れていったとしても、それは時限爆弾を抱えているのと同義だ。だが、しかし。
「くそっ!」
ちくしょうが。最期まで俺に責任を負わせるのか、リア充王のくせして。
『皆を頼む』という言葉が、呪いのように俺に染み込んでいく。こいつらを、二人を見捨てろという判断を、命令を、俺は皆に下さなければならない。
クラスメイトの前で。幼馴染の前で。こいつに憧れている後輩の前で。
「分かったよ……」
「……すまない」
たったそれだけのやり取りだけで、俺と葉山の間で一生分の会話は終わった。
もうこの男とは、会うこともなく、話すことすらないのだ。
ぼっちだった俺には、これまでと大して変わらないはずのその事実が、なぜか今はとても空虚で、悔しさを感じさせた。
「……皆、行くぞ」
「せ、先輩……、でも……」
「隼人くんをこのままになんて……!」
一色と由比ヶ浜が俺の腕を取って反対する。あの雪ノ下でさえ、縋るような目で俺を見ていた。
しかし、俺にできることは何もない。何もないんだ。
今は葉山たちの犠牲を無駄にしないために、先に進むことしかできない。
それに、こんな惨劇がそこかしこで広がっているのならば。なおのこと急いで小町を迎えに行かなければならないのだから。
「……恨んでくれてもかまわん。だが、今は行かなきゃならねえんだ」
掴まれた腕を振り払い、今にも泣きだしそうな彼女たちに背を向けた。目の前では大和がもがき続け、葉山も痛みに呻いている。こいつももしかしたら、今すぐにでも俺たちを襲うモノとして立ちあがるかもしれないのだ。嘆いている時間はない。
「……さあ、早く」
歩き出した俺に、振り返り振り返り、とぼとぼと続く三人の女子たち。俺の横に並んで歩いてくれる川崎と戸塚が、この上なく頼もしかった。
少し離れたところで、後ろでドアが開き、そして閉じる音がした。きっと三浦が葉山を引きずって部室に立てこもったのだろう。そしてそこが、彼らの墓標にもなるのだ。
俺が嘲笑っていた薄い関係。青春という言葉に踊らされているリア充ども。
そんな風に思っていた彼らの繋がりは、想像以上に強いものだった。
カーストの最上位にいた葉山は、文字通り命がけでそれを証明した。
いつもとなりにいた三浦は、死してなお寄り添おうとした。
俺の腐った目は、実のところ何も見えていなかったのかもしれない。いつも皮肉でしか言ったことがなかったが、俺はお前を尊敬するよ、葉山。そして少し羨ましい。お前はあの関係に、命をかけられると本気で思っていたんだな。俺は……俺も、そうありたい。だから、お前の最後の願いも聞いといてやる。俺の手の届く範囲で、どんな手段を取ってでも、こいつらを守ってみせる。
這いずるようにして追いすがる大和を振り切り、周囲にも気を配りながらようやくたどり着いた総武高校を囲う柵が、これから何度も立ちはだかる壁の、最初の関門のように俺たちの前にそびえ立った。
柵に跨り、一人でよじ登るのが難しそうな雪ノ下と由比ヶ浜、一色を支えて、全員が高校の外へと降り立つ。地獄のような校舎での出来事だったが、これからもっと凄惨な場面が目の前で起こるのかもしれない。誰もが沈痛な面持ちでいたが、いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。俺には、俺たちにはやるべきことがあるのだから。
「じゃあ、俺たちは中学校に向かう。川崎、戸塚、……気を付けてくれ」
「うん、八幡も」
「大志のこと、頼んだよ」
一応連絡先を交換し、それぞれが深く頷いて少しでも未来を明るく見せようと強がってみせる。どうか、どうか生きて欲しい。これ以上知ってるやつが減ったら、ぼっちの俺でさえ立ち直れなくなりそうなんだ。
全員に付き添ってやりたい気持ちを堪えて、俺は二人が去っていくのを見送った。皆を頼むという遺言だが、俺の身体は一つしか無い。自分の無力さを痛感しながら、俺たちも慎重に、しかし急いで目的地へと向かった。
* * *