腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。   作:ぴよぴよひよこ

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地獄が始まった日。③

「やはりこれでは応急手当にもならないわね……」

 

 部室に戻ってきた俺たちは平塚先生を横にしてやり、負傷した箇所に消毒液やガーゼを押し当てていた。

 だが傷が深く、出血が治まりきらずに今もじわじわと俺の手を(あけ)に染めている。

 くそっ、どうすればいい? 雪ノ下の言う通り、これじゃあ応急手当にもならねえ。応急処置とは救急隊員が行うことで、素人の俺たちがするのが応急手当だ。こんな時も言葉選びはしっかりしてやがる。だがやはり、言葉を間違えないようにそれは現状を正しく表していた。

 刀傷に絆創膏を張るような無意味さしかないのだ。本来なら迷わず119番に頼み込むレベルのケガだ、素人の俺たちの手に負えるものじゃない。

 それでも携帯電話は非情にも意味の無い音声だけを返してくる。一体どうなってるってんだ……!

 焦りから、両こぶしを痛みが走るほどに強く握りしめていると、校内各所に設置されたスピーカーから聞きなれた声が聞こえてきた。

 

『職員室からの連絡です。三年四組(・・・・)の生徒は視聴覚室へ移動してください。繰り返します――』

 

 聞き間違えるはずもなく、一色の声だ。いつもの甘ったるいあざとさを全く含まないせいで真面目な生徒みたいじゃねえか。こんな声も出せるんだな。

 そして、職員室からの連絡と銘打っているが、これは総武高の緊急連絡措置である。そもそも三年四組なんて存在しないしな。

 

 意味は、『緊急事態につき全校生徒は体育館へ避難』。

 

 その緊急事態を目の当たりにした俺たちにすれば遅すぎるとも思ってしまうが、一色に文句を言うのはお門違いだ。

 今はとにかく、体育館へ向かうことを考えよう。

 

「今の、いろはちゃんだよね? うちの学校に三年四組なんてあったっけ?」

「由比ヶ浜さん、今のは緊急連絡よ。校内に侵入した不審者に分からないように避難指示を出したの。入学して最初の授業で教えられたでしょう?」

「え、そうだっけ……」

 

 コイツ……。ってか入学して最初の授業に出てなかった俺でも知ってたんだが。まあ他人の話を盗み聞きしてただけだけど。

 

「とにかく、体育館へ行くぞ。戸塚、また二人で平塚先生を支える。いけるか?」

「……うん、大丈夫だよ」

 

 頼もしいぜ。友人があんな目にあったばかりだというのに、戸塚は俺たちを必要以上に焦らせないためにも落ち着いてみせてくれている。俺が女だったら惚れてるな。男でも惚れてるわ。やはり戸塚の性別は戸塚。間違いない。

 

「先生、体育館へ避難します。起き上がれますか?」

 

 戸塚が平塚先生に優しく話しかける。俺も毎朝そんな風に起こしてもらいたいぜ。

 

「ぐ、……ウウ」

 

 しかし平塚先生は呻くだけで起き上がる様子がない。むしろあの大怪我で起きろという方が酷なのだ。だが、もし。もし俺の嫌な予感が当たっていたら。この世界がホラーゲームみたいにおかしくなってしまっていたら……。

 

「戸塚、ちょっと離れてろ」

「え? どうしたの、八幡……?」

 

 戸塚を引き戻して後ろに下がらせ、平塚先生の容体をじっと観察してみる。

 呻いてはいるが気を失っているのか? それだけなら背負って連れていけばいいのだが。しかし、現実はどこまでも残酷だった。

 

「ウウウ、ガアッ!」

「うおっ!」

 

 呻くだけだった先生が突如吠えた。カッと目を見開き、身体を跳ねさせる。そこからゆっくりと上半身を起こし、感情の見えない血走った両の目を俺へと向けた。

 

「せ、先生……?」

 

 脳が警鐘を鳴らしている。危険だ。近づくな。早く逃げろ、と。

 けれども彼女は、俺たちの顧問であり、恩人のようなものなのだ。俺の予感なんて当たる訳がないんだ。ちょっと、気が動転しているだけなんだ。

 そう思い込もうとしても、平塚先生は理性が感じられない赤い目でこちらを睨みつけている。俺を見たまま、ゆっくりと身体を起こしている。

 

「……くそっ!」

「はちま……、ひっ!?」

 

 俺の後ろにいて先生の顔を見ていなかった戸塚が、彼女の血走った双眸に晒されて悲鳴を上げた。

 続いて由比ヶ浜たちも異変に気付く。

 

「ど、どうしたの……?」

「早く先生を……」

 

 俺たちの代わりに全員分の荷物を持ってくれていた二人が、訝しむようにこちらを見ていた。急げという目線だったが、平塚先生の様子を見てその表情が恐怖に染まっていく。

 

「え……? せ、先生?」

 

 由比ヶ浜の声にも応える事無く、平塚先生は今も身体を起こし、俺たちの方へと動き出していた。

 

「お前ら、早く部室から出ろ」

「で、でも先生は……?」

「いいから、早く!」

 

 不安そうな女子二人を部室の外へ追いやり、俺と戸塚も廊下へと飛び出す。

 すぐにドアを閉め、丸窓から中を覗くと――。

 

「ガアアアッ!」

 

 バン! とドアが外れかねない強さで先生が両腕を叩きつけてきた。

 後ろで由比ヶ浜と雪ノ下が小さく悲鳴を上げるのを聞きながら、反射的にドアを押さえる。平塚先生はドアがスライド式なのを忘れてしまったのか、力任せに押したり叩いたりするだけで、押さえずともしばらくは持ちそうだ。

 そう判断してゆっくり部室のドアから離れると、先生は恨めしそうに丸窓を叩き、その度に赤い手形がガラスの面に残っていった。

 

「……行こう」

 

 ガタガタと揺れ続ける部室のドアを警戒しながら告げると、由比ヶ浜が怯えた声で意義を唱える。

 

「で、でも……、先生、が……」

「……もう、ダメだ」

「だ、ダメってどういうこと!」

「俺だって分かんねえよ!」

 

 思わず叫んでしまい、三人がびくりと身体を震わせた。

 怖がらせるつもりはなかったが、俺も訳の分からない状況に憔悴しているらしい。くそ、落ち着け……。

 

「本当に、なんなの……? 先生はどうなってしまったの……?」

 

 雪ノ下が理解ができないと言いたげに、しかし今日ばかりは可愛らしく首を傾げるのではなく唇を戦慄かせながらつぶやいた。

 これまでの出来事から、根本的な原因は分からないが、どうして平塚先生がああなったのかは想像がつく。だがそれを雪ノ下に説明しても、こんな奇怪な現象をそのまま飲み込んでくれるとは思えない。俺がおかしくなってしまったと思われるのがオチだ。今はまだ、話すことができない。

 

「……とにかく、早く体育館へ行こう」

「そう、ね……」

 

 雪ノ下は必死に事態を把握しようと頭に指を添えながらも頷く。由比ヶ浜と戸塚は納得はできないが、今もドアを叩き続けている平塚先生の様相をちらと見て肩を震わせてから、歩き出した俺たちに続いた。

 

 ばん、ばん、と断続的に響くドアの音が平塚先生の助けを呼ぶ声にも聞こえ、後ろ髪を引かれながらも俺たちは体育館へと急いだ。

 

 

 

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