腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
到着したのは下駄箱のあるエントランスホール。気温が低いというのに入口は開かれっぱなしで今も冷たい風が吹き込んでいる。ともあれ外に繋がるここに不審者がいることは何ら不思議ではない。
だが、その光景は、不思議なんてものじゃなく。
その行為は、不審などというレベルではなかった。
「あ、ひ、ひいっ……」
驚いて尻もちをついていたのは先ほどの悲鳴を上げた戸塚だった。それを引きずるようにして目の前の惨劇から引き離す。
俺が肩に触れた瞬間、驚いてこちらを見上げた顔はなんとも可愛らしいものだったが、それを楽しんでいる余裕などなかった。
戸塚と同じジャージに身を包んだ生徒と、それに覆いかぶさるようにのしかかっているスーツの男。それだけなら良かった。いや良くはないだろうが、まだまともな思考を保っていられただろう。
辺りに広がっていたのは真っ赤な液体だった。見ただけで人が流していい量を超えていると分かる。のしかかった男の口、いや顔も胸元も真っ赤に染まっていた。
その瞬間を見ていない誰もが理解した。
首を、噛み切った……!?
「私の生徒に、何をしているッ!!」
駆け付けた俺たちの他にも周りに何人かの生徒たちがいたが、誰もがこの光景を前に声を出すこともできずに呆然と立ち尽くしていた。当然だ。人が死……いや、死んだと決めつけるわけにはいかないが、ともかく大量の血を見る機会なんて人生にそうそうない。というかあってたまるか。
凄惨という言葉しか浮かばないそんな場面に、誰もが立ち尽くすことしかできなかったのだ。
その空気の中でいち早く動きだせたのは平塚先生だった。生徒思いの彼女に、このショッキングなシーンがどの様に映っていたのか、知るべくもない。しかし、惨劇を前にして叫んだ怒声こそが答えだった。
弾丸のように飛び出して、その勢いのまま、体重を乗せた鋭い蹴りが不審者の脇腹に突き刺さる。
間違いなく骨の一本や二本は折れ、いや砕けているだろう一撃。あんなモノを俺が喰らったら死ぬね。だって、大の大人が数メートルノーバウンドで吹っ飛んでんだぞ。アニメでしか見たことないっつーの。
頼もしい先生のおかげで少しだけ思考が戻ってきた。周りに居たやつらも吹っ飛んできた不審者から離れて各々が逃げ出している。俺は未だへたり込んでいる戸塚を立たせてから、雪ノ下たちを振り返った。
「雪ノ下、警察と救急、頼む」
「かけてるわ。かけてるけど、……通じないの」
「な、なんでっ、こんな時に!」
俺が言うまでもなく、携帯を耳に当てている雪ノ下と由比ヶ浜。しかし先ほど先生が言っていた電話が通じないというのは事実だったようで、その顔には焦りがありありと浮かんでいた。
「先生、そいつは……」
「…………」
平塚先生は吹き飛んだ不審者から目を離さずに下がり、ぴくりとも動かない生徒の首に手を当てて首を振る。軍隊染みた行動に何者だよとツッコミたい気もしたがそんな状況ではなかった。
人が、死んだ。
その事実が、三半規管から平衡感覚を奪って足元がふらつく。辺りに漂う血の匂いが鼻を衝いて吐き気を催した。
「う、っぐ……」
口を押さえてうずくまると、視界の端で何かが動いている。
先生が吹き飛ばした不審者だった。あの蹴りを喰らってなお、起き上がろうとしていたのだ。見た目はただのサラリーマンみたいに背格好のくせに、どんな身体の作りをしてやがるんだ。
「ひ、平塚先生……!」
「大丈夫だ」
怯えきった情けない声しか出せない自分を恥じたくなったが、先生は俺を安心させるように力強く頷いて、隙の無い構えを取る。もしここが漫画かアニメの世界であったならば、その身体からはオーラか何かが迸っていただろう。俺とさほど身長も変わらないはずの女性の背中は、それほどまでに頼もしかった。
「う……」
その時、死んだはずの生徒がうめき声を上げた。
俺も、平塚先生も目を見開いてジャージ姿の男子を確認する。手も足も、間違いなく動いている。うめき声と一緒に、その口からごぼ、と嫌な音を立てて血があふれ出した。
「動くな! 大丈夫か、私が分かるか?」
先生が慌ててしゃがみこみ、白衣を脱いで真っ赤な首に押し当てた。まだ生きているなら、これ以上血を流させるわけにはいかない。
まだ希望はある、のか。後ろを振り返ると雪ノ下たちは今も携帯を耳に当てて焦燥しきった顔をしている。
くそっ、警察も救急もなにをしているんだ? いら立ちを感じながら俺も携帯を取り出して119にコールしてみると、回線が混みあっている旨を機械音声が喋り続けていた。
「先生、ダメです、救急に繋がりません」
「くっ、とりあえずこいつを頼む。私はあの男を取り押さえるから、それから保健室へ向かうぞ!」
そう言って今も朱に染まりつつある白衣を見やる。男子生徒は白衣を押し付ける平塚先生の手を掴んでいた。
先生はその男子を宥めるように、優しい口調で続けた。
「大丈夫だ、絶対に君を助ける。だから少しだけ待って――」
「――――え?」
漏れた声は、誰のものだったのか。
平塚先生の右腕から血飛沫が上がっていた。
男子生徒が掴んでいた腕に首を伸ばして歯を立てていたのだ。
「っぐ、あああ!」
噛みつく、というより噛み千切る、が正解だろう。腕を覆っていたタイトスーツの生地ごと、平塚先生の腕の肉を食いちぎっていた。
悲鳴とともに血があふれ出す。男子生徒から逃れるように二歩、三歩と後ずさると、そこには。
「先生! そっちはダメです!」
「うぐ、あっあぁあああ!?」
慌てて注意するも時既に遅し、先ほど吹き飛んだ不審者は立ち上がっていて、ゆっくりとではあるがこちらに向かっていたらしい。自分の方へよろめいた平塚先生に掴みかかると、肩口に歯を食いこませたのだ。
「きゃあああ!?」
「せ、先生!」
由比ヶ浜が悲鳴を上げ、雪ノ下は助太刀しようと駆け寄ってくる。
俺はあまりの恐怖に、しりもちをついてずりずりと後退することしかできなかった。
「来るな!」
先生のその声に雪ノ下の足がぴたりと止まった。不審者に後ろから組み付かれながらも、生徒を思いやるこの教師は本当に良くできた人だろうと思う。だが、今はそんな余裕がある様には思えない。
しかし先生はその不安を不審者ごと振り払った。肘で腹を強く打たれた不審者はまた何メートルか吹き飛ぶ。しかしやはり、先ほどと同じようにゆっくりと起き上がろうとしていた。
そして、倒れ伏していたはずの男子生徒も。
「どうしたと言うんだ、しっかりしろ!」
腕を押さえながらジャージ姿の男子に叫ぶも、意に介さないようにずるずると先生に向かって歩いて行く。
どうしようもない、と決めた俺は震える脚に活を入れてなんとか立ち上がって、勢いをつけて男子生徒を突き飛ばした。
平塚先生の横を滑っていき、起き上がろうとしている不審者にぶち当たる。それを確認して、先生をこちらへ引き寄せた。
「おい、比企谷! あいつは……」
「ダメです、先生。もしかしたら、……もしかしたら、アレは」
何を言おうとしているんだ、俺は。そんなことが現実にあるわけないのに。この世界はゲームやアニメじゃないんだから。でも、でも、こんなことが、目の前で起きてしまったら、どうしたらいい?
平塚先生も、まさか、と顔を青くしている。
吹き飛んだ生徒を見ると、不審者と一緒に立ち上がっているところだった。もう不審者は男子生徒に興味がなくなったかのようにこちらに真っ直ぐに歩き出している。
「そん、な、ことが……」
呆然と呟いた平塚先生を引っ張る様にして、雪ノ下たちの元へ向かう。どうすればいい。どうすれば……。
「と、とにかく、保健室へ!」
だくだくと血が流れ続ける先生の腕と肩を見て、雪ノ下が叫ぶように声を上げた。だが、由比ヶ浜が動揺を隠せずにそれを否定する。
「で、でも、保健室は、あっちだよ……」
あっち、とは。今まさに不審者と男子生徒がいる向こう側である。避けて行けばいいのだろうが、奴らがどんな動きをするか分からない以上、危険を冒すのは避けたかった。
「そ、れなら、……部室へ。包帯は足りないけれど、救急箱くらいならあるから」
「分かった」
雪ノ下は一瞬だけ考えてそう提案し、俺も頷きそれに従った。
痛みからか、血を流しすぎたことからかふらつく平塚先生を、俺と戸塚で両側から支える。戸塚はジャージが血に染まるのも構わずに手伝ってくれた。頼りになるな。やっぱり戸塚は男の子だよ。
のろのろとこっちに向かってくる不審者と男子生徒を一瞥して、俺たちは部室へ向かった。
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