腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
缶詰の生産工場の人たちは異常事態が始まってから何人かは帰宅したが、一人暮らしをしている人たちは帰るよりも食料に困らない会社に残ることにしたらしい。しかしそこへ現れたのがあの凶悪に過ぎる化け物だ。一人が犠牲になり、入口という入口を塞いだものの、奴はずっとこの近辺をうろついて離れず、確保していた食料は少し離れた倉庫に保管していたこともあって絵に描いた餅になってしまっていたということだった。
「いやあ助かった。もうすぐ確保していた食べ物もなくなって、誰かが倉庫に行かなければと思っていたところでね」
「ほんと、あの時は怖くて怖くて、疑心暗鬼になりかけてたよ」
交渉用のガソリンは半分になってしまっていたが、彼らはそれでもありがたいと笑みをこぼし、追加でラジオと乾電池、懐中電灯などと交換で、車に入るだけの缶詰を渡してくれた。これだけあれば二、三か月、節制を心がければそれ以上もつんじゃないかという量だ。
車もあることだし生き残った社員の人たちにも雪ノ下邸への避難を提案したが、彼らはここに残り続けることを希望した。
まああの化け物さえいなければここはゾンビも少ないし、食料はまだまだ山のようにある。ここを放棄すれば俺たちと同じように考え、なおかつもっとえげつない連中が蟻のように集るかもしれない。
何往復もして缶詰を全て運ぶ労力も考えると、ここに残っていた方がメリットもあるだろう。
「渡した分がなくなったらまた来てくれ。あんたらにならいつでもあげるよ。倉庫にはまだ充分にあるからな」
「はい、ありがとうございます。その時は私たちも何か提供できるものがあれば持ってきますね」
「助かる。まあうちらの缶詰に飽きなければだがね」
「いえいえ、めっちゃ助かりますよ」
工場の人たちが冗談めかして笑うが、彼らが授けてくれた缶詰は種類も様ざまですぐに飽きるということはないだろう。特にフルーツ系の物はありがたかった。新鮮というわけではないがそれでも果物はこの先貴重になる。陸にいながら壊血病だなんてことになりかねない現状で、この食料の充実さはまさに太い命綱足り得るのだ。
そして、互いに互いの無事を祈って俺たちは別れた。未だ電話は通じにくい状況が続いているが、一応は連絡先も交換してある。綿密な情報交換はできないかもしれないが、時間をかければ互いの安否の確認もできるだろう。
「はあ……一時はどうなることかと思ったけれど、なんとかなって良かったわね」
「ああ、正直今回ばかりは死んだと思ったぜ……」
帰りの車内で未だ震えがくる身体を椅子に沈めて、俺たちは口々に言葉を述べていた。何かを話していないと恐怖と高揚がごちゃ混ぜになったこの感情をどうすればいいのか分からないのだ。
「あそこで飛び出した時はどうしようって思ったけど、結果的にあのタイミング以外でアレを仕留められるチャンスは無かったよね。比企谷くんグッジョブだよ」
「いや、もう必死で……。結局雪ノ下の機転に助けられましたし」
「私もよ……もしあの爆発で車がダメになっていたらと思うと、よくあんなことをしたと自分でも思うわ」
「この車が頑丈にできてて本当に良かった……」
この車のポテンシャル、雪ノ下の機転、自画自賛はしたくないが俺の決断のタイミング。全てが重なってあの凶獣を撃破することができた。何か一つでも欠けていたら、逃げることはできても食料は確保できなかったし、誰かが死んでいたかもしれない。陽乃さんの運転技術もあって俺も車も爆発をもろに受けずに済んだしな。あの工場の人たちだってギリギリで生存していたのだ。こんな俺でも運命というものを信じ始めるレベルだよ。
「それでも、随分と風通しが良くなっちゃったわよね」
「まああんな化けモンを相手にしてこれだけで済んだと思えば儲けもんだろ……」
雪ノ下が割れた窓ガラスを見やった。車の左後部はガラスが散っていて危ないので今は右側に座り、俺は助手席に位置を変えている。
土佐犬でさえガラスを突き破ってくるのだ。あの虎はその巨体故に車内に進入とまではいかなかったようで助かった。
風がごうごうと吹きこんでいて少し声を張らないと会話もままならないが、これだけで済んで良かったと本気で思ってる。考えれば考えるほどこれだけのダメージで済んだのが奇跡に思えるのだ。もう一度アレと対峙しろと言われたら、俺は土下座どころか小便を漏らしながら気絶するまである。
「んー、これくらいなら家に帰ればどうにでもなるよ」
「陽乃さんって建築系の学科って言ってましたっけ?」
「そうそ、理工学部だけど、まあ工具と機材さえあればなんとか。分かんないところは調べればいいだけだしね」
そして工具も機材もあの邸宅に揃っているんですね、分かります。もうなんでもありだな雪ノ下家とその家族。
とはいえ完璧に元通りってわけではなく、応急処置程度にはなるだろうけども。ガラスを取り除いて窓を塞ぐとかそういう感じだろうか。
「親に無理やり入れられた大学だけど、こんな形で役立つとはね」
「人生何があるか分からないもんですね」
「まあ今は何が起こっているかも分からないのだけれど」
「違いない」
俺たちは往路と同じか、それ以上に会話を楽しみながら帰りの道中を過ごした。窓から吹き込む風のせいで若干肌寒くはあるが、危機を乗り越えて結束した俺たちの心には隙間風など入る隙も無く。
心地良い達成感に揺られて大事な者が待つ家へと向かっていったのだった。
* * *
無事帰宅できた俺たちを、由比ヶ浜と小町が出迎えてくれた。都築さんたちもあまり態度には出さないが、その表情は安堵以外の何物でもなかった。
「うわぁーすっごい! こんなに!?」
「こんなに貰ってきて良かったの、お兄ちゃん?」
そしてバックで車庫に入った車のリアゲートを開いて手に入れた缶詰の山を見せると、誰もが驚きの声をあげた。
「よくぞ御無事で……」
「いやぁ、正直ちょっとヤバかったっすけどね」
「うわっどうしたのコレ!?」
車を降りた俺の傍に駆け寄ってきた小町が車体のサイドを見て驚愕に目と口を丸くした。ガラスだけではなく、ドア自体にも深々と爪痕が残されている。これを見て何事もなかったなどとは誰も思えないだろう。由比ヶ浜もその惨状を見て小町と同じような表情を作った。
「だ、大丈夫だったの!?」
「なんとかな。この話は飯食いながらにしようぜ。もう昼過ぎてるしよ」
「そうだねー、車の修理はその後にするかな」
「はーい、お昼ご飯はもうできてるからすぐ用意するね!」
時間にしてみれば四時間程度の外出だったはずなのに、内容はお使いってレベルじゃないほどにハードだった。あの会社の人たちは快く食料を分けてくれたんだけどな。あんなところでボス戦が始まるなんて誰も思ってなかったし。
身体以上に精神的に疲労した俺たちを、小町たちが労いながらリビングへと先導してくれる。テーブルに着くとすぐに料理が運ばれてきて、みんなで消毒した手を合わせてありがたく頂いた。
「それにしてもあんなに缶詰くれるなんて、良い人たちもいるもんだね」
「まあ本当に比喩じゃなく山のようにあったからな」
温かい食事に舌鼓を打ち、デザートにフルーツの缶詰を開けてつまみつつ。
俺たちに譲られた缶詰も車にぎゅうぎゅうに詰まるほどの量だったが、あの会社の倉庫にはそれさえも小指の先ほどと言っていいくらいの缶詰が積まれていた。ちょうど出荷前だったのかなんかは分からないが、あそこはこの先も重要な物資の調達先になってくれそうだ。
「そうでなくても、あの虎を撃破したことで感謝もされていたしね。交渉の必要もなかったわ」
「と、トラ!? ゆきのん、大丈夫だったの!?」
「今ここに全員揃っているんだから大丈夫だったに決まっているでしょう」
由比ヶ浜がつまようじの先の桃を取り落としてあんぐりと口を開けた。雪ノ下はなんでもないように言っているものの、あの化け物を思い出したのか眉間にしわが寄っていた。
「アレは本当にびっくりしたね」
「ですね。ていうか二人に留守番を任せてて良かったですよ」
俺も陽乃さんもフルーツの甘さを噛みしめながら今日の出来事を反芻する。二人に留守番を任せて出発したのは本当に僥倖だった。あんな危険な目に遭わせないため、というより広い車内とはいえ全員で座っていたら誰かしらあの爪の餌食になっていた可能性が高いからだ。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫だって、ほら、ちゃんとぴんぴんしてんだろ?」
隣に座った小町が怯えた目を向けてきたのを優しく撫でつける。ギリギリだったとはいえ俺たちは全員無事で帰ってこれたのだ。しかもあの中ボスなんかに収まらない凶獣を撃退ではなく撃破したのだ。次に向かう時はもっと安全に往復できるだろう。
うんと頷きながら抱き付いて離れない妹に微笑ましいものを感じつつ、俺は今日という日を生き抜けたことに感謝した。まだ昼過ぎだがな。
「ふー、ごちそうさま。さてと、私は車の修理を始めようかな」
「あ、陽乃さん、あたしも手伝っていいですか?」
「うん? いいけど」
「あたし、何にもできないから……せめてお手伝いだけでも」
休憩もそこそこに陽乃さんが立ち上がると、由比ヶ浜も追随するように立ち上がった。どこか暗いものを湛えた表情に陽乃さんが訝しんでいると、ぽそぽそと呟くようにその心中を吐きだす。
「料理もできないし、調べ物も苦手だし……」
彼女は俺たちの任務達成を喜んでくれたが、その道中の困難を知ってどこか卑屈になってしまっていた。
手をくねらせながら紡ぐ言葉は後ろめたさを内包していてどうにも普段の由比ヶ浜らしくない。雪ノ下もその姿を眉尻を下げて見つめていた。
「由比ヶ浜さん、別に矢面に立つことばかりが役立つということではないのよ?」
「そうだぞ。適材適所、お前にしかできないことだってあるんだからな」
雪ノ下はお前が言うなみたいな目を向けてきたがそこは見ないふり。だが由比ヶ浜は納得ができていなさそうな表情を浮かべている。
「あたしにしかできないことって……なに?」
こいつも少しムキになっているのか、ふて腐れたような雰囲気を醸し出している。これまで任された仕事といえばどれもが誰かの手伝いで、その中でも食事の準備には参加すらさせてもらえなかったことでいじけているのだろうか。
俺もあまり上手くは言えないが……。
「その、なんだ。……俺としては、お前がここで帰りを待っていてくれてるだけでも頑張れるんだけどな」
あああ言葉が上手く見つからずにすげぇ恥ずかしいこと言っちゃってるよ俺ェえ!
だが由比ヶ浜はそれでも多少は分かってくれたらしい。僅かに頬を上気させて俺を見ていた。
「ヒッキー……」
「このタラシ」
「小町ちゃん? お兄ちゃんベッドでもがきたくなるからやめてね?」
「まったく……。由比ヶ浜さん、私もよ。あなたがいてくれる、それだけでも頑張れるの。今日を、明日を、その先も。こんな世界になってしまったけれど、生きていこうって思えるのよ」
「ゆきのん……」
雪ノ下も少々くさいセリフだと自覚しているのか耳が赤くなっているが、やはりそれは本音だったのだろう。俺たちの言葉で、由比ヶ浜はまたいつもの明るさを取り戻してくれた。
「あとはあれだな、俺たちだけだとどうにも会話が事務的っつーか、暗くなりがちだからな、お前がアホみたいなこと言ってくれると場が和むっていうか」
「アホってなんだし!」
雪ノ下姉妹とは今日ようやく、そして初めて『会話』ができた気がする。それでもこの先暗いニュースや気落ちすることもたくさんあるだろう。その中で由比ヶ浜という存在は俺たちにとって安らぎのひとつとなりえるのだ。俺には妹の小町もいるが、雪ノ下に対等で、かつそばに寄り添えるのはやはり由比ヶ浜しかいない。
仮に本当に仕事がなくったって、いてくれるだけで心の支えになれる。それは素晴らしいことだと思う。かつての俺の真逆だな。いるだけで疎ましがられるもんな。言ってて虚しくなるが。
「分かったよ。でも、ちゃんと頼れるときは頼ってよね!」
「ああ。料理以外はな」
「ええ、そのつもりよ。料理以外は」
「小町も頼りにしてますよ! 料理以外は」
「最後の一言がひどすぎる!? うわーん、行きましょう陽乃さん!」
「はいはい、仲がいいんだからまったく」
すっかり調子を取り戻した由比ヶ浜に押され、陽乃さんが苦笑しつつ駐車場へと向かっていった。
残された俺たちもまた、やるべきことを探して立ち上がる。今日も、明日も、生き延びるために。
* * *