腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
缶詰の製造工場への探索を決めてから二日が経った。
あれからやはり自衛隊の救助は来ず、俺たちの食料もまだいくらか貯蓄はあったが余裕を持たせておきたいのも事実で、今日その工場へと向かうことが決まっていた。
「全ての道を確認はできなかったけど、国道は道幅もあるし封鎖とかはなさそうだね」
「交渉用のガソリンは専用タンク二つで五十リットルですが、足りますかね?」
「あとはラジオと懐中電灯、乾電池などで納得してくれればいいのだけれど」
あの日俺を拾ってくれたドデカいハマーに物資を載せ、最終確認をする。多少足元を見られたとしてもそれは仕方のないことだと受け入れようとみんなで話し合って決めた。
だがこちらの物資を奪うだけ奪おうなどと向こうが血迷ってきたら。その時はまたこの猟銃の威光に縋ることになるだろう。
車の中に佇む長方形の箱に目をやりながら、俺は一人覚悟を決めていた。
「陽乃様、やはり運転は私が……」
「大丈夫だから任せてって。都築たちは家のことをお願い」
「……かしこまりました。どうかご武運を」
最後まで自分が向かうことを推していた都築さんも、陽乃さんの決意の前に引き下がる。この家のことは家主である雪ノ下家の人間よりも詳しい都築さんたちには屋敷の守護を任せた。そして、小町と由比ヶ浜のことも。
工場に向かうのは、運転する陽乃さん。交渉に雪ノ下。そして護衛というには少し頼りないかもしれないが俺がつくことになっている。
「ヒッキー、ゆきのん、陽乃さん、気を付けてね……」
「ちゃんとみんなで帰ってきてよ」
「ああ、任せろ」
心配そうな由比ヶ浜と小町にあえて軽く笑って見せる。道順も確認したし、途中までだがドローンで先行偵察も済ませた。あとは交渉だけでことが済むと考えれば危険も少ないだろう。何より工場近くは住宅街ですらない。つまりゾンビの数もそこまでではないはずだ。駅前のショッピングモールに近づくよりずっと簡単なミッションだ。
「都築さん、二人をお願いします」
「はい、たしかに。どうぞ安心してお任せください」
都築さんはこれから出立する俺たちに不安の一かけらも感じさせないような顔つきで綺麗な礼をとってくれた。この人ならば何があっても問題ないと信じられる。
「よし、じゃあ行ってくるね」
「大丈夫よ、すぐ戻ってくるわ」
「帰ったら缶詰パーティーだぜ」
見送ってくれた小町たちに手を振って、巨大なハマーが車庫から動き出した。自動開閉の門をくぐり、魔境となった街へ、いざ出発だ。
* * *
道中は特にいうこともないくらい、あっさりとしたものだった。道路には放棄された車や蠢くゾンビもそれなりに邪魔をしてくれたが、この車にとっては些事もいいところ。時に押し出し、時に弾き飛ばし、順調に道を進んでいく。
国道に入ってからは道幅があってそれらも避けることができるので時間的なロスも少ない。
「もう半分ほど進んだかしら」
「うん、このペースなら一時間もかからないかな」
雪ノ下姉妹が言うように、GPSの恩恵を未だ受けているナビは目的地までの時間を残り三十九分と表示していた。何が転がっているか分からない道路で最高速度は出せないためにその時間通りとはいかないものの、今のところ何も問題ない。午前九時に出たが正午を過ぎるころには帰ることもできそうだ。
「それにしても、あの日もだけど雪乃ちゃんとドライブすることがあるなんて思ってもなかったよ」
「私もよ。そもそも姉さんが車の免許を持っていることも知らなかったのだし」
「車どころか狩猟免許なんて、どうやって取ったんですか」
「大学は単位さえ取っちゃえば後は暇だからさ~、やってみたいことを片っ端から、ね」
この地獄と表現しても過言ではない世界になって唯一と言っていい良かった点は、彼女たちの不和の改善だろうか。もう本音を隠す意味がなくなり、陽乃さんが雪ノ下に対して悪辣とも言えるちょっかいをかけていた理由を知り、そしてそれを許した彼女たち姉妹はそれなりに良好な関係を築いている。
笑い合う美人姉妹はそれはもう絵になるなんて言葉じゃ表し切れない。未来はたしかに暗澹たるものかもしれないが、強制的にだろうと、それでも自分たちで選び取ることができる今、雪ノ下も陽乃さんも強い目をして前を向いていた。
「あの時はさ――」
「そうね、私も……」
昔話に興が乗り、俺も彼女たちの長いとは言えないが人生の一端を知る。何を隠すこともなくなった俺もかつてのトラウマを笑い話にするくらいにはドライブを楽しめていた。
「あはは! 比企谷くんの性格はそうやって作られていったんだね」
「まあだいたい親父のせいっすよ」
「そうやって人のせいにして……」
本心に触れ、俺たちの精神的な距離もぐっと近づいたころ、ナビもこの車が目的地へ近づいていることを示し始めた。
通る車道は工場地帯を入っていき、少しは人が住むような家も並んではいたが静寂が辺りを包んでいる。動く死体も見当たらず、気を緩めはしないが内心でホッとしたのも事実だ。
「よっし、もうそろそろ見えてくるはずだよ」
「あれかしら」
「そうみたいだな」
目立つ看板はないが、道路沿いに植えられた木々の向こうに社名が描かれている建物が見えた。間違いなくあれが目的地だ。
それなりに大きい建物が、雪ノ下家のそれとは違う安っぽい金網を柵として覆われている。入口は一応ゲートがあって関係者以外は容易に立ち入れない、会社としての空気も湛えていた。
「悪いけど押し通らせてもらうよっと」
ゲートは細いバーで入口を閉じていたが、車の力で無理やりこじ開ける。無論警備員などはおらず、警報も鳴ることはなく俺たちは工場へと入っていった。
社員用と思われる駐車場には車が二台あり、それだけでは従業員の存在は分からなかったが、血だまりと何かを引きずったような跡を見ないようにして車を停止させる。辺りにゾンビはいないが、警戒は怠らずに俺は猟銃を抱えて車の扉に手をかけた。
「あ、人がいるみたい」
ふと陽乃さんの言葉に扉にかけた手を離して、座席前部に身体を乗り出しフロントガラス越しに確認する。
建物の三階部分から、社員らしき人が手を振っていた。救出に来たわけではないが、一応歓迎はされているのだろうか。しかし、その表情はどこか鬼気迫るものを感じさせている。
「……何か様子がおかしいですよ」
「どうしたの?」
雪ノ下が俺に続いて前方へ身体を乗り出した、その瞬間。
――――ガシャァアン!
車が大きく揺れて、車体の左側、雪ノ下の座っていた方のドアがへこんだ。ガラスは割れてはいないが、僅かにヒビが入っている。
なんだ、何が起きた?
「雪ノ下、下がれ!」
「きゃあっ!?」
雪ノ下を俺が座っていた方へ引き倒すようにして押し込み、この巨大な車を揺らした原因を知るべくそちらへ目を向ける。ヒビの入った窓の外。車体の左側には。
そこには、あの土佐犬が可愛く見えるほどの化け物がいた。
「とっ、虎ぁ!?」
「なんでこんなところに!!」
陽乃さんも慌ててハンドルを切って車を反転させようと試みた。
ハマーの巨体にぶつかり、かつ傷をつけた獣は、あの狂犬たちのように身体を赤黒く変色させた虎だった。あの時の土佐犬と同じ、いやそれ以上に全身の筋肉が膨張して、もはや手のつけようのない怪物と化した大型肉食獣は、動き出した巨大な車にも怯むことなく追撃を加えようとしている。
全長は尻尾まで含めると三メートル以上はあるだろうか。しかし本来の虎ならばたるむはずの皮膚が裂けるほどの筋肉の肥大化で、体高が通常の三割増しくらいに見える。そしてその危険度は、何倍かなんて測りようもない。
どこから出てきたんだこの化けモンは!
ここからだと割と近い千葉市動物公園には猫科の動物はいなかったはずだぞ。まさか新しく展示する予定でもあったってのか? だとしたら最悪のタイミングだ!
いくら不運を呪ったところで、化け物は目の前にいて恐ろしい牙を剥きだしにしている。猟銃という武器はあるがアレを目の前にしてみると急に頼りない物にさえ感じてしまう。それほどに狂った虎というのは強大さと危険性をこれでもかと見せつけていた。
「くっそ! 陽乃さん、一旦出ましょう!」
「分かってる! けど、ここじゃ狭くて二回は切り返さないと……っ!」
それほど広くもない駐車場、ハマーという大きな体をもつこの車には狭すぎた。花壇程度なら踏み越えて無理やり進めることも可能だが、壁に挟まれてしまっては切り返しを余儀なくされる。しかしこの状況においてそれは絶望的でさえあった。
「ま、また来るわ!」
「伏せろ!」
車内に破砕音が響き渡る。だが最初の一撃よりは衝撃が少ない。それもそのはず、虎の巨大な前脚が今度こそ窓のガラスを叩き割って車の中に突っ込まれたからだ。
「きゃあああ!」
「雪ノ下、俺の後ろに!」
頭を抱えて伏せていた雪ノ下を庇うようにして、爪を剥きだしにした野太い腕に向けて猟銃を構える。ドア程度じゃ兆弾はしないと信じたいが、狙いが外れた時どうなるかは分からない。だが、やるしかない!
ドパァンと破裂したような銃声と共に、虎の咆哮が俺たちの身体を震えさせた。こいつ、痛覚があるのか? それともタイミングが被っただけか。狂っているようにしか見えない虎はしかし、前脚に散弾を浴びて警戒するように飛び退った。
怖い物なしにただ真っ直ぐ向かって来るよりマシなのかもしれないが、思考能力があるというのが救いなのかどうなのか判断がつかない。それでも一旦距離が取れて、バックによる一度目の切り返しが終わる。次は正面にあの凶悪な肉食獣を捉えることになった。
「こん、のお!」
狭い駐車場で陽乃さんが思い切りアクセルを踏み込み、急激な加速度を得てハマーが虎に向かっていく。思考能力はあれどやはり恐怖を感じにくいのか、密林の王者はまさしく王のようにそれを迎え撃つ。
「ッゴォァァアア!」
間近で聞く大型肉食獣の咆哮は人間の本能に直接響かせるような恐怖をもって俺たちの身体を震わせた。頑強なハマーのフロント部と正面衝突した虎はさすがに力負けはしているものの、壁に押し付けられてなお狂気を湛えた双眸をこちらに向けて離さない。
このまま押し潰す算段だったらしい陽乃さんも怯んでアクセルを離しかけたが、こいつの動きを止めるチャンスはもしかしたらこれが最初で最後かもしれない。
手の震えを必死で抑えて猟銃のリロードをし、追加で弾を込めながら叫んだ。
「陽乃さん! そのまま全力で押さえてください!」
「ひ、比企谷くん、何をするつもりなの!」
止める雪ノ下を振り払い、車の扉を開く。安心感を得られる巨大な車の外は濃厚な死の匂いが漂っていることを強烈に感じさせたが、ここで怯んでいる暇はない。
外へ出て、車と壁に挟まれている虎の顔面に向けて猟銃をぶっ放した。
「くたばれ、くそったれ!!」
一発、二発、三発。一度に撃てる全ての弾丸をその凶悪なツラに浴びせかけても、やはり化け物中の化け物たる虎は死ぬことなく吠え続けていた。
元が軍用の、燃費を引き換えにした強烈なエンジンパワーを発揮する車を正面から受け止め挟まれているはずのそいつは、潰れることなく強靭な前脚をフロントに叩きつけて恐ろしい深さの爪痕をいくつも残している。
この距離なら上手くすれば殺しきれると踏んでいた俺は慌てて弾を込め直すも、奴もいつ抜け出してくるか分からない。一発新たにリロードできたが、何個かの薬莢を地面に落としてしまった。くそ、落ち着け!
その時雪ノ下が赤いタンクを抱えて飛び出してきた。
「これでもくらいなさい!」
キャップを開けたガソリンタンクを投げかけ、中身を浴びせかける。そうか、これに着火させれば……!
着弾の瞬間に火花が散ってくれればいいが、それでは確実性に欠ける。発砲の火を使うしかない。タンクは虎が挟まっている隙間に上手く埋まり、零れ出た中身が流れ出している。この先端に向ければまだこちらの被害は少ないか? だが考えている暇はない。雪ノ下を再び車に押し込めて、その短い川の先端に銃口を向ける。
「比企谷くん!」
陽乃さんが咄嗟に運転席のドアを開けて俺に手を伸ばしてくれた。その手を掴みながら猟銃のトリガーに指をかけ、そして。
「ガァアアアア!」
強烈な爆発音と共に、陽乃さんによって車の中に引きずり込まれた。ほぼ同時にバックした車はフロントガラスにもヒビが入っているもののまだその機能を維持している。
狂った虎はまさしく暴れ狂いもがき苦しんでいた。向かって右側の顔面の半分ほどを失い、前脚、後ろ脚の一本ずつも千切れかけて脅威は半減している。それでも近づくことを躊躇するレベルの力強さでもって暴れていた。
「貸して!」
陽乃さんが俺の手から猟銃を奪い取って、サイドにはめ込まれていたショットシェルを手際よく詰め込んでいく。そして暴風のような暴れ方をする虎のそばへ慎重に近づき。
ドン! ドパン!
「ぐルッ、ルォ……」
二回の銃声が響き、収まることがないと思われた凶獣の動きが止まる。それでも油断なく様子を伺い、最後の一発を目から頭部に通すように引き金を引いた。
それきり呻き声さえ上げなくなった虎は完全に死んだのだろう。痙攣すらせずにその巨体を横たえて、辺りには静寂が取り戻された。
「や、やったの……?」
雪ノ下がフラグのような言葉を漏らしたが、奴の死亡フラグはきっちりとぶっ刺さり立っていたらしく、再び動き出すような悪夢が起きることはなかった。
俺も雪ノ下も陽乃さんも、その場にへたり込んで巨獣の死体を見つめ続けていた。これを仕留められたのは偏に運が良かっただけだ。犬でさえ自衛隊を殲滅しかねない脅威を持っているというのに、この百獣の王に並ぶ大型肉食獣を素人の俺たちが打破できたのは奇跡に奇跡が重なったような幸運のおかげだろう。これが群れを成す動物じゃないこともそのうちの一つに入るか。
今さらながらに震えが走る身体に活を入れて立ち上がると、目の前の壁にはめ込まれた窓が開いて社員らしき人が顔を覗かせた。
「あ、あんたら無事か! それ、そいつは死んだのか!?」
「なんとか……そいつってのは、この虎ですか?」
「ああ、どこから来たか分からんが、そいつはずっとここに居座ってて、俺たちは身動きが取れなかったんだ……」
そういうことか、と駐車場にあった血だまりを見やる。どこからともなくやってきたこの獣は、ここの人たちをターゲットにしてずっと狙い続けていたらしい。この周辺はもう生きている人間も少ないのか、決めた獲物を狙い続ける性なのかは分からないが、この人たちも生きた心地がしなかったろう。
「っはあ……私たちは、食料を求めて来たのだけれど、良ければ缶詰を分けてくれないでしょうか」
ようやく復活した雪ノ下が社員の人に交渉を試みる。が、交渉どころか彼は満面の笑みでそれに頷き返したのだった。
「ああ、ああ! 好きなだけ持ってけ! もともとこいつのせいで倉庫に行けなくって俺たちも手がつけられなかったんだ。あんたたちは命の恩人だよ!」
彼の後ろには何人かの社員たちの姿もあった。どの人も不満に思うことなく俺たちに感謝と労いの言葉をかけて喜んでいた。
雪ノ下姉妹と顔を見合わせると、二人とも一瞬呆けてから小さく笑った。俺も気が抜けてまたその場にへたり込んでしまう。情けねえ。
* * *