腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。   作:ぴよぴよひよこ

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腐った目の少年は。②

 

 中学校を飛び出してしばらく。もう一、二時間は歩いただろうか、すっかり身体が冷え切ってしまっていた。携帯で時間を確認してみると、もう七時を半分以上すぎている頃だった。くそっ、一人だからそこまで時間はかからないとはいえ、雪ノ下のマンションまではもうしばらく歩く必要があるか。

 闘志は燃え上がっているとほざいてみたものの、その炎は物理的に身体を温めてはくれないのだ。強がってみせたくても、実際に寒さというのは人間の身体にとって致命的な問題でもある。マフラーもしないで三月の夜を長距離歩く。それは人によっては次の日に高熱を出して倒れても不思議ではない。

 だが俺に倒れている時間などありはしないのだ。火急的速やかになんとかしなければならん。

 そんな俺の目に機械的な光が飛び込んでくる。街灯はずっと明かりを灯して立ってくれているがそれではなく。道路の脇でひっそりと稼働している自販機だった。しかもその外観は真っ赤なアレだ。決して血が飛び散っているとかではない。

 光に吸い寄せられるように自販機の前まで駆け寄り、お目当ての缶を探して「あったか~い」の欄を順に見ていく。

 

 っていうか冷たい温かい関係なく売りきれが多すぎる。そりゃそうか、この非常時にいくら割高だろうが飲食料品は貴重極まりない。だが端っこにあるボタンが唯一、売りきれの赤いランプを点灯させずにそこにあった。何でもいいから買うかと商品を見てみると。

 

 マッカンじゃねぇか!!

 

 思わず叫びそうになっちまった。いやいや、え? ありがたいけどよ。おい誰だよこの自販機で飲み物確保していったバカ野郎は。こんな時こそマッカンが必要だろうが! 温かく染み渡る糖分こそがこの地獄に咲く一輪の花だろうが!

 落ち着け俺……。事実マッカンが手に入るのなら何も問題はないんだ。

 尻のポケットにあった財布を取り出し、震える手で硬貨を投入する。ガタンと音がしてついにカイロ兼、精神安定剤兼、糖分補給物資が手に入った。決して水分補給物資ではない。かえって喉が渇くからな。あ、だから残ってたんだろうか。

 

 この先いつ買えるか分からんし、もう一本買っておこうと思い、また硬貨を投入していく。先に手に入れた練乳飲料を飲み、体内と体外両側から温めることもできるはずだ。

 二本目を購入すると、ついにマッカンのボタンにも売りきれの文字が浮かび上がった。そこはかとなく達成感を得て一本目のそれを口にした。

 

「ああ~……うめぇ……」

 

 思わずそう零してしまうくらいにマッカンの温かさと甘さは俺の中の何かを満たしていった。寒風吹きすさぶ夜中、地獄のような現実。その中においてもマッカンはマッカンであり続けてくれたことが何故か頼もしい。

 

 うっし、と気合を入れなおして、俺は自分が危機に陥っていることにようやく気が付いた。

 

「グ、ウゥ……」

「アァァ……」

 

 どうやら光に吸い寄せられたのは俺だけじゃなかったらしい。というか購入時の音で気付かれたのか。

 それにしても大したステルス機能だなクソ。それは俺の専売特許だってのに、こいつら一体どこに潜んでいやがった?

 

「ちっ、まいったな……」

 

 中学校を離れて歩き続け、電車には期待していなかったが一応確認がてら京葉線沿いにずっと歩いてきたが、花見川を渡ってようやく目的地につきそうだというところでこれか。

 狭くはないが広くもない道路にあった自販機に、囲い込むようにして死人どもが近づいてくる。数は五。すり抜けられるか? いや、危険だ。奴らは示し合わせてもいないくせに絶妙な位置取りをしてやがる。

 危機が目の前に迫り、俺の脳が未だかつてないほど高速回転してはたと気付いた。もっと簡単な方法があったじゃねぇか。

 

 自販機に振り向いて、その真っ赤な筐体によじ登る。肩が痛むが仕方ない。ここで食われるより万倍マシだ。

 思いついたのは簡単至極、自販機に登り、奴らが寄り切ったところで飛び越えて逃げる。たったこれだけだ。俺一人でいる時にしか使えそうにない方法だが、俺らしく地味で効果的な手段でもあった。

 

 登り切って眼下を見てみると、奴らが手を伸ばして俺の足を掴もうとしてきていた。しかし登ることはできないようで、あと一体が近づききったら、飛び越えよう。そう思ったところに、車の激しい走行音が聞こえてきた。

 

 ギャリギャリと音を立てて巨体が角を曲がってくる。その車はどうやら花見川を下るように勢いよく走ってきたらしく、その速度では厳しい直角のカーブにドリフトのような走法を見せてなんとか曲がり切った。が、さすがに一旦停止している。

 つーかでっけぇ車だな。ハマーってやつだろうか。あれなら軽自動車くらいなら押しのけて進めそうですらある。

 そんな車を運転してるやつを羨ましく思いつつ、俺は俺でできることをしようと思っていると、道幅の半分以上を占めるその車が再び勢いよく発進して、俺の足元のゾンビたちを吹き飛ばすようにして目の前に停車した。

 なんだ、助けてくれたのか?

 ありがたいとは思いつつ不審にも思ってその車の動向を探っていると、ふいに助手席側のパワーウィンドウが開いていった。覗き込むようにして運転手を確認すると、そこには陽の落ちた夜の中で、太陽のように輝く女性がいた。

 

「比企谷くん、何してんの?」

「雪ノ下、さん……」

 

 果たしてそこにいたのは雪ノ下雪乃の姉、陽乃さんその人であった。

 

「ま、いいや。雪乃ちゃんを迎えに行くんだけど、乗ってく?」

「是非」

 

 散歩行く? みたいに軽く聞いてきたその提案に、俺は一拍の間もなく答えた。渡りに船とはこのことか。ノアの箱舟のような安心感を覚える巨大な車に乗り込み、暖房の効いた車内で冷えた身体を休ませた。

 助手席も広々としていて疲れた足を伸ばすこともできる。元は軍用という車種だが、陽乃さん個人の所有車か雪ノ下家で管理しているものなのかは分からないが乗り心地はなかなかのものだ。

 

「さっき雪乃ちゃんと連絡が取れて迎えに出たけど、まさか比企谷くんがいるとはね。雪乃ちゃんと一緒じゃなかったの?」

「わけあって別れることになりましてね……。雪ノ下には小町も任せているので、俺もあいつのマンションに向かってるとこだったんです」

 

 まさかあいつも俺が生きているとは思ってもないだろうが。

 それにしても陽乃さん、免許くらいは持っていても不思議ではないが、まさかこんなゴツイ車を運転してくるとはな。今は頼もしくて仕方ないが、平時にこの車で出かけようとか誘われたら逃げる自信がある。街中を走ってるのを見ただけでビビりそうだ。

 

「……その怪我のことかな?」

「……そうです」

 

 陽乃さんの目がすっと細くなる。ああ、もしかしたら放り出されるかもしれんな。彼女も負傷したやつがどうなるかなんて、知っていてもおかしくはない。どうにか、話が通じてくれればいいんだが。

 

「"奴ら"に噛まれて、もうダメだと別れたんですが、どういうわけか俺は俺のままでまだ生きているみたいなんです」

「…………」

 

 邪魔なものを全て踏み潰していくような荒い運転をしながら、陽乃さんは黙って何かを考えているようだった。恐らく、彼女の中で俺の危険度を計っているのだろう。そしてそのメーターが少しでもオーバーすれば、晴れて俺は再び寒空の下というわけだ。

 放り出されるどころかこの場で殺されることすら覚悟させられるような空気の中、陽乃さんはその重い口をゆっくりと開いた。

 

「そっか。まあ、無事なら良かったよ。きっと雪乃ちゃんも喜ぶだろうし」

 

 飛び出てきたのは許容のセリフだった。俺は意外に思う。雪ノ下の安全を第一に考えそうな陽乃さんが、負傷した俺を捨てずに連れていくことを。

 

「いいんですか、このまま乗せていって」

「なーに、降りたいの?」

「いいえ全く」

 

 思わず聞きなおしてしまったが、降りたいかどうかで言われたら絶対降りたくはない。俺だって早く小町や雪ノ下と由比ヶ浜の無事を確認したいのだ。乗せていってくれるのならば不満はない。が、陽乃さんはそうではないはずだ。

 

「雪乃ちゃんから連絡があったのが一時間くらい前。それよりもずっと前にその傷を負ったのなら、たしかに自我があるのはおかしい。けど逆に考えてみて。もし、君の身体がこの不可解な現象に打ち勝ったのだとしたら、もしかしたら君こそが希望の光になるかもしれないのよ」

 

 陽乃さんがハンドルを切り、一体のゾンビが跳ね飛ばされる。俺が自我を保っていなければ、跳ね飛ばされていたのは俺かもしれない。だがそんなことを気にしてられない言葉が、陽乃さんの口から語られていた。

 

「もともと比企谷くんじゃなければさっき助けもしなかったけど、もう君を守らないって選択肢はないね。ただ進行が遅いだけでこれからああいう風になるのかもしれない。それでも、私は君に賭けてみたい」

 

 それは陽乃さんらしくない言葉だった。彼女にとって賭けなんてものは、積極的に取る手段ではないはずだ。やるにしても周到に用意を重ねて確実に勝てる時のみだ。そんな陽乃さんが、ただ信じたいというだけで賭けに乗るというのは、それだけ今の状況が切羽詰まっているということをしめしているのかもしれない。

 

「そう、ですか」

 

 そんなことがあるのだろうか。あのホラーゲームのような地獄が広がるこの世界で、そのゲームの主人公のように抗体か何かを持つ存在。それが、俺だと? 何を馬鹿なと言いたくなるが、事実俺はまだ生きている。ほぼ同時に噛まれた一色を、変わり果てた彼女を置いてここまで来ているのだ。

 

「ま、仮にそうだとしても私たちの手には負えないんだけどさ」

「ですよね」

 

 その通りだ。仮に俺がそんな存在だったとして、それを活かすにはそれなりに規模の大きい研究が必要となるだろう。明日も分からぬこの状況の中、そんな環境が作れるとは思えない。

 結局のところ、俺たちは今を必死に生きることしかできないのだから。

 

「とりあえず、これからのことを考えよっか。後ろの席に行ってみて。長い箱があるからそれを開けて」

「うす」

 

 指示されたとおりに後ろへ向かう。時おり激しく揺れる車内で危なっかしいことこの上ないが、転がるようにしてなんとか辿り着く。そこには黒光りする細長いアタッシュケースのようなものがあり、言われたとおりに開いてみると。

 

「うおっ!? え、な、なんすかこれ」

「猟銃だけど」

 

 事もなげに言ってのける陽乃さん。いやいやあんた、猟銃って。

 

「私いろんな資格取っててさー、狩猟免許もあるんだよね。二十歳になって取ったばっかだけど」

 

 開いた中にはケースと同じように黒光りするでけぇ銃が泰然とそこにあった。猟銃とは言うものの、分類をするならばショットガンだ。ポンプアクション式の、中二心をくすぐるそれは、手に持ってみるとずしりとその重みを感じさせた。

 

「もうすぐ到着するけど、駐車場にアレがいたらそれで追っ払おうと思って」

 

 追っ払うとか、あの世まで吹き飛ばす気しかねぇじゃねーかよ。

 だが日本において武器としては最高峰すぎるこの銃の存在は、これから起きるどんな悲劇の中であっても、きっと役に立つことが確信できる。

 さすが陽乃さん、チートすぎる。例えるならばゲーム序盤から最強の乗り物に乗り、最強の武器を掲げてやってくるって感じか。そこにシビれるッ! あこがれるゥ!

 

「弾も入ってるから、込めておいてくれる?」

「うぇっ? こんなん触ったこともないんですけど」

「説明書も入ってると思うから」

 

 某ゲームに置いても最強とされるショットガンをただ渡されても困る。こんなものは夜中に想像する最強の俺がテロリスト相手にぶっ放すくらいで、現実の俺は実物を肉眼で見たことすらなかったのだ。

 しかし車内のライトをつけながら任されれば、もはややるしかないのだろう。たしかにケースの中には弾丸と説明書らしき紙が入っている。なんか分厚いものをイメージしたが、まるでエアガンの説明書のように薄っぺらな紙切れだった。

 多分保管方や詳しい原理なんかが書いてるのは別にあるのだろうか、簡単に使用方法だけが記されたそれは、素人の俺をしても分かりやすいものだった。

 

「下から入れて、スライドを引くだけ……か」

 

 そもそも単純な構造をしているらしく、たったそれだけでいつでもその銃口が火を噴ける状態になってしまった。一発先に込めた状態でマガジンにまた弾を込めていくと、最大で三発撃てるようになるみたいだ。危なすぎるのでセイフティは絶対に触らなかったが。

 

「比企谷くん、撃てる?」

「……マジっすか?」

 

 変わらず運転しながら、陽乃さんが声をかけてくる。

 痛めた肩でショットガンなど撃ったらどうなるか分からんぞ。でも俺だって男子の端くれだ。こういう銃火器に憧れがないわけなどなかった。

 中学生のころにやめたはずの軍隊ごっこや戦争系のゲームで培ったフォームで銃を構えてみると、バックミラーをちらりと覗いた陽乃さんに褒められてしまった。

 

「あはは、結構サマになってるよ。本当は私が使う予定だったけど、運転席で待機できるならそっちの方がいいからさ」

 

 たしかにその通りではある。車から降りて雪ノ下たちの安全を確保しつつ戻るより、誰かがすぐにでも発進できる状態で待機できるならそちらの方が確実だ。

 分かりました、と頷いて、次は車内電話を指さして出す指示を受けた。

 

「四番を押して、受話器を取って。雪乃ちゃんの部屋に繋がるはずだから。もうすぐ着くから、どこから車に乗り込むのが安全か話し合って」

 

 繋がる、とはっきり言うからには繋がるんだろう。携帯とはまた違う方式の電話なのか。もう雪ノ下家が怖ぇよ。

 まあ使えるものは何でも使おう。情けないことだが陽乃さんが、そして雪ノ下家が持つ力を借りてでもやりたいことが、俺にはある。

 言われたとおりのボタンを押しこんで受話器を取る。しばらく無音が続いたあと、コール音がそこから聞こえ、やがて二度と聞くことはないと思っていた声がした。

 

『もしもし?』

「雪ノ下か? ……俺だ」

『比企谷くん!?』

 

 俺だ、ってなんだよオレオレ詐欺か。直通電話で詐欺とか意味分かんねぇな。しかし雪ノ下は俺の声を違うことなく聞きとめてくれたらしい。まるで死人が甦った……この例えはやめておくか。死んだはずのライバルがラスボス前に手助けしてくれた時の主人公みたいに驚いていた。比喩が長げぇ。しかもなんか俺また死にそうじゃねぇか。

 

「ああ。……なんでか、生き残っちまったみてぇだわ」

 

 気恥ずかしさから憎まれ口のようになってしまう。だが俺は生きたくて生きている。生かされてここにいる。もう簡単には死んでなどやれないのだ。

 

『よ、よか、……った……』

 

 電話口の雪ノ下は泣いているらしかった。後ろでは由比ヶ浜と小町の騒ぐ声が聞こえてきている。良かった、あいつらも無事みたいだ。さすが雪ノ下だな。お前に小町たちを任せて正解だった。

 

「さっき陽乃さんに拾ってもらえてな。もうすぐそっちに着く。俺たちはどこに車を停めたらいい?」

『ぐす……。まって、……ちょっと、まってちょうだい』

 

 泣いてくれるのは嬉しいが車は刻一刻と到着まで迫ってきている。この車は大きさに似合う轟音を立てているから、あまり長い間同じ場所に留まるのは良くない。到着と同時に雪ノ下たちが飛び出してくるのがベストなんだ。

 後ろで号泣しているらしい小町たちに釣られて、雪ノ下もなかなか涙が引かないようだ。この辺の地理に詳しいのが彼女だけだから代わることもできないし、落ち着くのを待つしかない。

 

『……ごめんなさい、車だけれど、姉さんなら分かるかしら。病院のある通りから入ってきて欲しいの』

「病院のある通りだな? 雪ノ下さん、分かりますか?」

「大丈夫だよ」

 

 陽乃さんがこちらを見ずに親指をグッと立ててみせる。そういうカッコいい所作をされると、あの生徒思いの先生を思い出してしまう。

 どうにか悲しさを追いやって雪ノ下と話を続けた。

 

「大丈夫だと」

『分かったわ。そこからマンションの敷地に入ると屋根付きの簡易駐車場があるの。私たちは二階から屋根伝いに出るから、足場として車をその屋根の近くに停めて』

「屋根伝いか? 大丈夫か、小町の足は……」

『小町なら大丈夫だよお兄ちゃん!』

「……そうか。よかった」

 

 耳をこれでもかとくっつけていたのだろう小町が、名を呼ばれた途端に元気な声を聞かせてくれた。先ほどから後ろで聞こえてはいたが、その声はやはり俺に力をくれた。

 

「この車はけっこうエンジン音がデカい。できれば到着と同時に出てきてほしいが、時間を指定できるか?」

『そうね……では八時半ジャストでどうかしら』

 

 車に備え付けられている時計を見る。八時半まであと七分を指していた。

 

「こっちの時計じゃあと七分だが、大丈夫か?」

 

 少しのズレがどんな危険を呼び寄せるか分からない。油断せず、確認できるものは確認しなければ。

 

『……大丈夫、私の携帯でも七分だわ。あ、今六分に』

「よし、ぴったりみたいだな」

 

 雪ノ下の言葉とほぼ同時、こちらの時計も残り六分を刻む。

 あとは陽乃さんの運転に任せ、到着したら周囲の警戒をすれば良い。できれば銃を使うようなことにならなければいいが、危険だと判断したら容赦はしない。人の物を振りかざして恰好がつかないが、蜂の巣になってもらう。

 そして準備のために電話を切る。この俺が通話を惜しむようになるとはな。

 

 陽乃さんが走行速度を落とした。到着時間に合わせてタイミングを計っているのだ。この騒音はなかなかに遠くまで響くようで、そこらじゅうからゾンビをかき集めかねない。できるならば一気に突っ込み、一気に離脱したい。

 目標のマンションがある通りの一つ前の角で一旦停止し、様子を伺う。時間は、あと三分だ。

 

「ここを曲がって、マンションに入って駐車場の屋根につける。一分と数十秒ってとこかな?」

「屋根伝いなら地上の脅威は車とコレでなんとかできますからね」

「あんまりソレ、過信しないでね。数がいるとどうしようもないから」

 

 この銃はどうやっても三発までしか連射できない。一応予備の弾丸はサイドにはめ込んでいるものの、素人の俺が素早くリロードなど到底無理な話だ。陽乃さんの警告をきちんと受け取って頷く。油断はしない。忠告は素直に聞く。必要ならば、どんな自分にもなろう。

 

「……いくよ」

「うっす」

 

 小さく呟いた陽乃さんに答えて、ショットガンを構えて後部座席のドアに張り付く。開けて、構える。まずはそれだけだ。落ち着け。

 マンションの駐車場入り口の花壇を踏み潰して、陽乃さんの操るハマーが敷地に侵入した。駐車場に"奴ら"の影は――――ない。

 チャンスだ。今のうちに乗り込めば!

 

「雪ノ下!」

「今行くわ!」

 

 すでに車の音があるため声量を気にする必要はない。ドアを開けて雪ノ下を呼ぶと、彼女と二人の少女が二階層目の通路から駐車場の薄い屋根に降りたところだった。薄いとはいえ踏み抜けるような強度ではなさそうな足音が響いて三人が来る。

 

「お兄ちゃん!」

「ヒッキー!」

 

 小町と由比ヶ浜が嬉しそうに俺を呼ぶ。俺もまた会えて本当に嬉しいが、気を緩めてはいけない。

 女子たちは、見ただけで安心して身体を任せられると信じるに値する車の天井に飛び乗り、フロントガラスを滑り台のようにして地面に降り立った。小町、由比ヶ浜ときて最後に雪ノ下が降りる。全員がリュックやらデカい袋やらを持っていた。食料か何かか。

 

「よし、早く乗れ!」

「ええ! ……ってあなた何を持ってるの!?」

「雪ノ下さんのだよ、いいからほら」

 

 まあ驚くのも無理はないが、とにかく三人を後部座席に押し込んだ。四人が横に並んでも狭くないほどの空間をもつ車だ。俺もそのまま乗り込もうとした瞬間、知らない声が俺を止めた。

 

「ま、待ってくれ! 私たちも乗せてくれないか!」

 

 見ると駐車場の奥から走ってくる二人……いや、一人は赤ん坊を抱えているから三人か。その姿が確認できた。その後ろには、ゆっくりではあるものの蠢く影がちらほらとある。

 安心しきった顔で走り寄る二人と一人、恐らく夫婦だろうその片割れの男に猟銃を突き付けて接近を止めた。

 

「近づくな」

「なっ! なんでだ! どこへ行くのかは知らないが、わ、私たちも連れていってくれ!」

 

 黒光りする銃口を見て、男が反射的にか両手をあげて、しかし必死に説得しようと口角泡を飛ばす。

 別に乗せてもいい。ただ、条件があるだけだ。

 

「怪我人は?」

「さ、さっき妻が引っかかれて……、ま、まさかそれだけでダメだと言うつもりか?」

「……そうだ」

「は――――」

 

 信じられない、と口を開けて呆ける男に、油断せず銃を突き付けながら車に乗り込む。後ろからは由比ヶ浜の非難するような声が聞こえてきた。

 

「ヒッキー、どうして!」

「分かるだろ。引っ掻かれただけでもダメかもしれないんだ」

「で、でもヒッキーは……」

 

 そう、ダメかもしれない。でも特例こそが俺自身だった。しかしそれでも、危険を孕んでいるのならば秤にすらかけてやることはできない。俺はそこまで、責任をもてない。

 

「どうか、お願いします、この子だけでも……!」

 

 奥さんと思しき女性もすがる様に懇願する。引っ掻かれたのがこの人で、明らかに乳幼児なその子供。やはり、それは乗せられない。車にも、俺の中の天秤にも。

 

「――――ダメだ」

 

 ここで見捨てることはつまり、死ねと言っているも同然だ。俺の中の何かが軋みを上げるが、決定は覆せない。

 

「ふざ、ふざけるな! この――――」

 

 激昂した男から銃口を逸らしてトリガーを引く。

 狙っていた場所からはズレたが、散弾の一部が女性を狙っていた歩く死人の右胸を弾き飛ばした。

 

「ッ!」

 

 耳鳴りのしそうな轟音と、肩の痛みが頭を突き抜けていく。しかしそれを感じさせないように、見せつけるようにポンプを動かして次弾を装填した。

 夫婦は銃声に驚き、怒りから恐れへと表情を変えていった。赤子は泣きだし、俺たちが去った後も何かを呼び寄せることが予想できる。

 

「車には、乗せられない。……恨むなら、俺だけを恨んでくれ」

 

 そう言い残して、絶望する彼らの前でドアを閉めた。

 待っていたかのように陽乃さんがアクセルを踏み込んで、二人の男女の後ろに迫っていたゾンビどもを弾き飛ばしながら車を発進させた。

 後ろと、座席に座る女子たちの顔を見ないように、俺は助手席へと足を伸ばして座り込んだ。セイフティをかけ直した銃を支えにするように、深く、深くため息をつく。

 

「ヒッキー、なんであの人たちを乗せてあげなかったの……?」

 

 再会の嬉しさより、不信が勝ってしまったのだろうか、由比ヶ浜が責めるように聞いてきた。

 俺は答えられない。俺のためと言い張ればいいかもしれないが、どうしたってすぐに真実に行き着いてしまう。自分のために誰かを犠牲にしたと分かれば、この優しい少女はまた傷ついてしまうだろう。

 

「ねえ、ヒッキー!」

 

 沈黙を返しても、なお問い詰めてくる由比ヶ浜に、思ってはいけないことだが少しだけ苛立ちを感じてしまった。ダメだ、やめろ。俺はなんでもやると決めたが、それを理解して欲しいなどと思ってはいけないんだ。そんなのは、残酷すぎる押し付けだ。

 

「やめなよガハマちゃん」

 

 そこに、陽乃さんの冷たい声が割り込んできた。熱くなりかけた俺の頭に冷却水のように染み込んで落ち着かせてくれる、そんな声が。

 

「あの人たちを乗せても発症しない可能性はたしかにあるよ。けどもしオカシクなった時、その責任は誰が取るのかな? 自分じゃない誰かがどうにかしてくれるって思ってる?」

「あ、あたし、は……」

「比企谷くんにヤってもらうのかな? それとも私なら心が痛まない?」

「姉さん、そこまでにして」

 

 はいはい、と陽乃さんがそれきり黙って運転に集中してくれる。後ろでは由比ヶ浜が泣いているが、雪ノ下と小町に慰められているし大丈夫だろう。

 こっそりと、後ろには聞こえないように「ありがとうございます」と呟くと、陽乃さんは一瞬だけこちらを見て、星が飛び出そうなウィンクを返してくれた。

 

 由比ヶ浜の考え方は当然だ。

 誰も見捨てたくないし、誰も傷つけたくない。それは当たり前のことであって、責めるべきことではない。けれど世界は残酷で、それを許してはくれないのだ。助ける対象は慎重に、しかし迅速に選び、取捨選択しなければならない。

 そんなことは、彼女にはできない。どんな状況下においても、由比ヶ浜結衣という少女には荷が重すぎていつか壊れてしまうだろう。

 だから俺がやるんだ。こいつらにどう思われようとも、俺が、この手で。

 俺はきっと自己中心的な最低野郎だ。

 由比ヶ浜という優しい少女の手に群がる亡者も生者も、一緒くたにして弾き飛ばすことしかできない。たとえ、本人がそれを批難しようとも。

 

 どんな罵声を浴びようと俺は甘んじてそれを受け止めなければならない。でも腐り始めたこの世界で俺の精神も荒み始めていたようだ。カッとなって言ってはならないことを喚いてしまいそうになった俺を、陽乃さんはすぐに察して由比ヶ浜を止めてくれた。言葉は辛辣だったが、だからこそ俺も落ち着けたし由比ヶ浜たちも大人しくなってくれた。

 

 本当に頼りになる人だ。

 あまり寄りかかりすぎてはいけないが、せめて、この車が止まるまでは、優しく揺られていたい。そう思った。

 

 

 

* * *

 


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