腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 作:ぴよぴよひよこ
ふと、くぐもった唸り声で目を覚ました。悪夢を見ていたのかと思ったが肩の痛みで記憶の中のアレが現実だと思い知る。だが、俺はいったいどうなっている? 確かに噛まれて、雪ノ下たちを見送ったあとに気を失った。
この声は……。もしかしてゾンビになっても自我があるというのだろうか。そうだったならば、どこまでこの世界は悪辣な趣味をしているのだろう。思考だけがいつも通りで、身体が勝手に何かを、誰かを壊していくところを見せつけられるなんて。
しかし視界はやや暗いものの、自由に動かすことができた。陽が落ちかけ、赤色もすでに消えかけて暗闇が広がり始めているが、真上に見上げる天井のタイルを数えるように視線の先を動かしていく。ああ、動く。この身体はしっかりと俺のものらしい。
何気なく横を見て、一色の顔がすぐ近くにあって飛び上がりそうになった。
ただそこに居ただけならばまだしも、その目は真っ赤に染まり、俺に向かって噛みつこうともがいている。だがタオルで手足を縛られ口にもそれを噛まされているためにベッドの上にすら上がることができないらしい。
なんでこんなことに、と考えてすぐ自分でやったことだと思い出した。
一色の声も鼓動も聞こえなくなったあと、最後の力を振り絞って彼女と自分の身体を縛ったのだ。俺もこいつも、自覚もないまま誰かを殺すなんてことをしたくないしさせたくなかったから。
そういうわけで俺も手足が封じられているわけだが、隣のベッドに寝かせていた一色が先に……これを起きたと表現していいのか甚だ疑問であるが、起き上がり俺の方へ近づき、そして登れずにもがいていたのか。まさか気恥ずかしさから添い寝できずにベッドを分けたことが今につながるとは。
手足の結び目は固いものの、理性さえあれば解くのにさほど時間もかからない。なんとか気を落ち着かせてタオルを解きながら、変わり果てた一色の姿を見る。
「一色……」
思わず呼びかけてしまったが、それでもなお一色は狂ったように呻きもがき続けるのみだった。
俺が守りたかったはずの少女。俺を守ってくれようとした彼女のその有様に、とめどなく涙がこぼれて止まない。
「一色、すまなかった……。それと、ありがとう」
どういう因果か死なずに済んだこの命。きっと何か理由があるのかもしれないが、それでも今ここにいる俺の命は、一色が助けようとしてくれたものだ。それがまだ失われずにいるというのなら、俺は生きなければ。そして、今度こそ。
まだ間に合うだろうか。俺は今度こそ守れるのか。
身をもって味わってしまった己の手の短さ。俺が守れるものはあまりに少なく、範囲はあまりに狭い。だからこそ、選択を迷ってはいけない。力の無さを、容赦の無さでカバーしなくてはならない。守るべきものを、それ以外の全てを失ってでも守り切らなければならないのだ。
眼前でもがく後輩に誓う。
「お前に救われた命、絶対に無駄にはしない」
生き残る。自らの身体を犠牲にはもうできない。代わりに、きっとたくさんのものを捧げることになるだろう。それは、他人の命であったり、俺の人間性であったりするだろう。でも、もう迷わない。俺の狭い腕の中にいる数人のためになら、世界すら生贄にしてやる。
俺の腕の中で死んだ一色には、きっとあの世で叱られるかもしれないな。
それでも俺は、この地獄を生き抜いてみせる。
だから……、ずっと先になるかもしれないが、待っててほしい。
魂なんてものを信じたことはないが、狂ったように暴れる彼女の中には、もうすでにそれが無いことを願わずにはいられない。どうか、一色の魂よ。あの世で安らかに休んでていてくれ。
身体の調子を確認し、動き出す。肩は大きく動かすと傷が引きつって痛むが多少の無理はききそうだ。あの血管中を巡っていた熱さも今はない。
後ろはもう振り返らずに保健室を出た。冷たい風が肌をさす。しかし闘志は炎の如く燃え上がっていた。
まずはあいつらを探そう。
雪ノ下ならどこへ行くだろう?
考え始めて、雪ノ下のマンションを思い浮かべた。
まず距離的にはかのマンションか比企谷家になるが、セキュリティや何やらを考えた時、雪ノ下のマンションの方が安全に思える。それに小町はたしか鞄を持っていなかった。あの騒動でどこに置いたかも分からないが、家の鍵は鞄に入れていたはずだ。
両親が共働きで鍵がなければ入ることができない俺たちの実家。カマクラには悪いが、俺も帰るわけにはいかなそうだ。すまん。
母ちゃんと、クソみたいな親父だが二人も心配だ。会社という組織が、守ってくれていればいいのだが。まあ二人と無事に会えても、小町を連れていなかったら俺がその場でブチ殺されるのが目に見えるので、やはり小町を優先させてもらおう。両親がこの場にいてもそう言うだろうからな。
とりあえずは、雪ノ下のマンションへ。
そこにいなかったら、一応俺の家へ一度戻ってみよう。
そう決めて、俺は黒に染まったばかりの夜の帳に潜り込むように歩き出した。
* * *