Armored Core farbeyond Aleph   作:K-Knot

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破滅の影

メイは修理されたメリーゲートを点検しながらその視界の端で、ずっとそわそわしているセレンを見ていた。

わざわざクソ暑い格納庫にずっといるのは仕事で仕方がなくいる人間か、あるいは誰かを待つ人間か。

今日はガロアが帰ってくる日だったはずだ。会いたいとも寂しいとも漏らしてはいなかったし、ずっと携帯をいじるような真似もしていなかった。

まぁあの少年にこまめに連絡を取るという気を回せるような繊細さがあるとは思えないが。

とにもかくにもその姿は恋する乙女そのものである。ましてや戦いから帰ってくる男を迎えるとなれば尚更だろう。

女の自分から見てもいじらしいし、そんな心を独り占めしているガロアがなんだか憎らしい。

 

(幸せ者だなぁ……ガロア君)

もう一時間もああして待っているが、ちゃんと到着予定時刻は伝えているのだろうか。多分伝えていないのだろうなぁ、なんて考えていて30分後。

ようやく南の空から黒い機体が青空を背負って飛んできた。あれから襲撃も無かったようで、損傷も全く見受けられない。

 

すとん、と音を立ててネクストの背から着地したガロアは普段と変わらず眉根にしわを寄せて機嫌が悪いんだか最悪なんだか判別不能な顔をしている。

無表情にも色々あるがあれはあの表情が定位置で動くことがほとんどないタイプの無表情だ。笑顔が張りついたような自分とは逆に人間関係で苦労しそうだが、性格的に問題ないのだろう。

 

あの顔の下ではあー、疲れた、とでも思っているのだろうか。

その時セレンが早歩きで近づいていきガロアもそれに気が付く。

その瞬間の二人の顔たるやもう見ているこっちが幸せになってきそうな位だった。

ガロアは眉根の皺が無くなり、ほんっとうにうっすらとだが笑みを浮かべ、

セレンはセレンで普段は表情と言葉遣いのせいで冷たい印象を受けがちな美人なのに今だけは田舎の教会で評判の優しいシスターのような顔になっている。どちらかというとそっちの表情の方が似合っている。

モデルと真っ向から立ち向かえる180cm近い長身のセレンはそこらの男じゃとても釣り合わないが、顔はともかく身長差的にはガロアととてもお似合いだ。

 

もう完全に好きじゃん、という感じだがなんというかあまりにも初々しい気がする。

見せつける様に抱き着いて甘い言葉を吐くのでもなく、お互いに駆け寄るのでもない。

まだ何かが始まる前の予感を二人が感じているその一歩前のような空気を二人で出してぽつぽつ言葉を交わしている。

 

思い合っていても結ばれない男女というのは結構あるものだが、あの二人はなぜだがその気配が少し強い気がする。

それよりも不思議なのが。

 

(あれー……?)

なぜ同じベッドで寝ているのにあんなに初心なように見えてしまうのか。

実はメイこそがガロアとセレンが同じ部屋で寝ていると伝えた張本人であり、誤解されて同じベッドで寝ていることになってしまっていると気付きながらもまぁいいやと訂正しなかった張本人でもある。

余計な気を回した犯人はしれっとした顔をしてその光景を見ていた。

 

 

「どうだった、南極は」

 

「寒かったな」

 

「こっちは……暑かった」

 

「そうか」

 

「うん」

無粋な者がいればこの会話を生産性が1mmもない馬鹿みたいな会話だと頭を掻きむしるのだろうか。

だがこんな意味のない会話の中に二人の小さな幸せは確かにあった。この前までガロアが口を利けなかったことを思えばセレンは尚更嬉しい。

 

「疲れているか?」

 

「いいや」

 

「その、今から行かないか? 中心街に……。いや、本当は疲れているならいいんだぞ?」

 

「……行こうか」

大して疲れていないのは本当の事。しかし日曜でも無い平日の昼下がりにガロアが本来はするはずの訓練のことを考えずにその言葉を素直に受けたのは、

二人とも気が付いていないが途轍もない大きな一歩だった。超自分主義のガロアにしてみれば絶対に有り得ないセリフだったはず。

 

「本当か? じゃあ着替え」

 

「ガロア君! 今すぐ出撃よ!」

 

「おっ!?」

 

「んな!?」

煙のように二人の間に割り込んで現れたアブが声をあげた。

遠くから見ていたメイでさえ一体いつの間に現れたのか認識できなかった。

 

「ネクストが襲撃してきているわ。早く行ってちょうだい」

 

「ちょ……っと待て。俺は今帰ってきたばかりなんだ」

 

「そんな物アナトリアの傭兵に任せればいいだろう」

 

「今ならガロア君すぐ出撃できるでしょ? こうしている間にも足止めの防衛部隊や設備が攻撃されているから早ければ早い程いいのよ」

 

「そんなもんお前俺が……」

 

「アレフの調子は随分良さそうね?」

 

「……」

 

「ガロア君も気に入っているんでしょ? ねぇん?」

こう言われると途端にばつが悪くなる。後になって知ったことだが、実はあのアレフの素体となったものはこのアブが私財で全て購入しており、言うなればガロアのスポンサーだった。

じゃあいらねぇ、とはこれだけ使い倒した今となっては言えないし、その分ラインアークの為に働けと確かに言われている。

 

「ちっ……」

怒鳴ったり物に当たったりする訳では無いが、額に青筋が浮かんでおりガロアの怒りは明白だ。

しかし舌打ちをしたガロアは今降りたアレフにさっさと乗り込んでいってしまった。

アブは口を裂いて笑っておりセレンは肩を落としながらオペレータールームに向かった。

 

 

 

「いるんでしょう? さっさと出しなさい!」

ラインアーク主権領域最南端開発地区で、レッドラムは暴れまわりながらしきりにガロアを出せと繰り返している。

中心街や重要施設には固定砲台や軍隊が設置されているが、財政の厳しいラインアークではここには精々ノーマル程度しか配備できず、アブの言葉通り一分一秒ごとに被害が増えていく。

 

「……! 来たわね」

シャミアの望みを聞いたわけでは無いのだが、黒いネクストが超高速で接近してくるのを捉えてショットガンを構える。

ロックオンが完了する前にはもうショットガンの射程圏内にいた。

 

『……』

前は色々と挑発的なことを言ってきたが今日は何も言ってこない。

それならそれで構わないとレッドラムは引き金を引いた。

 

(! 二段クイックブースト……)

敵機の背から出た光が一瞬収縮した後に倍ほどの光量を吐き出し左斜め前に瞬間移動していた。

シャミアでも地上戦でそれなりによく使う技術だが、使えない者は100年かけても絶対に使えない。

それだけでこの相手の才能の多寡が想定の最低値を超えているのは間違いない事を察する。

移動した先に突撃ライフルを向けたその時。

 

(消え……)

放たれた弾丸は霞のような残像をかき消すだけに終わり、本体は更に右斜め前に移動していた。

二段クイックブーストを二段クイックブーストで返すという針の穴を連続で通すような絶技。シャミアでも整った環境で意識して三回に一回出来るか出来ないか、といった技だった。

当然戦場でベストなタイミングで使えるような物では無い。

すでに全身からブレードの光が煌めいているのが見える。近づかせるべきではなかった。そう思った時には全てが遅かった。

 

その後シャミアが見たのはレッドラムの四つもある脚と二本の腕が宙に舞う光景だった。

 

オペレーションシステムを立ち上げていたセレンも、開発地区でゲリラ戦を強いられていたノーマル部隊も、ラインアークの指令室も絶句するしかなかった。

計測不能、一瞬で勝負が決してしまった。さんざん暴れまわって被害を出してくれたレッドラムはねじが一斉に抜けた人形のようにバラバラになり、コアがひときわ大きな音を立てて地面に落ちた。

ラインアークの重役はこのネクストが今は味方にいる幸運にひたすら感謝した。

 

「三度目……馬鹿な奴」

今の今まで黒い閃光のように動いたアレフはゆっくりとレッドラムのコアを抱え上げた。

 

『な……なに、どうするつもり……』

見えていなくても持ち上げられたのは分かったのだろうか、弱弱しい声の通信が入ってくる。どうやらようやく敗北を理解したらしいが飲み込むことは出来ないらしい。

 

「来てもらう」

確か今はこの女が実質アルゼブラのトップリンクスのはずだ。

もしかするとここ最近の未確認機の情報を持っているのかもしれない。

これでアルゼブラすらも知らないとなればどうしよう、と頭の中で淡々と状況の認識を進めていく。

 

『い、いや……連れて行って何をする気……』

 

「………。お前が想像していることを全部じっくりやってから……全身すり潰しておしまいだ」

ガロア自身そんな事をするつもりは全くないが、やはりようやく帰ってきたのに戦いに繰り出された怒りからついそんな嘘を言ったのだろう。

シャミアはコックピットの中で声にならない声を上げて震え上がり、通信を聞いていたセレンはやっぱりガロアって性格悪いかも、と思った。

 

 

情報次第ではすぐに動いてもらうから待機していてくれ、とアブに鼻と鼻がつくような距離で言われてガロアはつい頷いてしまった。

あの化け物に迫られるとどうしても強く跳ね除けられない。レッドラムのコアごとラインアークの兵士に渡したガロアはしょうがなく部屋までセレンと歩く。

 

「せっかく、天気がいいのに」

 

「……仕方ねぇ」

まだ日中、しかも雲一つ無いいい天気でクレイドルが呑気に浮いているのにどこにも行けないのは少々辛い。

いや、どこにも行くなと言われているから辛いのかもしれない。

 

「あっちで何をしていた? 襲撃はあれ以降なかったんだろう?」

 

「……こっちと変わらないな。走って、運動して……」

王と少し話したことは別に伝えなくてもいいか、と思った。

ここで美人の女性に誘われていたとなれば後ろめたさでもあるのだろうが枯れ木のような老人に奇妙な説教を頂いた話などここでしても仕方が無い。

 

「それだけか?」

 

「……そうだな」

あとはずっとセレンの事を考えていました、なんて言えるわけがない。

かちかちに踏み固められた雪をなんとなく手に取った時にセレンの冷たい指がふと恋しくなったことを思いだす。

今、手が届く場所にあるこの指は、こんな暑い中でもやはり冷たいのだろうか。

いてもいなくてもずっと同じ人の事ばかり考えてやがる、と表情を変えぬまま部屋に入る。

どうして自分の部屋に入る度に頭を下げなければならないんだ、もう少し大きくしてくれと思うが約180cmあるセレンが普通に入れるのだから別に小さくはないのだろう。

 

「私は……」

扉が静かな音を立てて閉じると同時にそっと身体を寄せてきた。

 

「う」

胸板に手を置かれ、少しだけはみ出した指が首に触れたがやはり冷たく声が出てしまう。

 

「ずっとお前のことを考えていた」

贅肉の少ない胸板にそのままセレンが鼻を埋めてくる。

セレンの愛情表現はずっとストレートだ。もしくは自分が捻くれているだけなのかもしれない。

一週間離れていたからだろうか。ほんの少し指先が触れている、ただそれだけで弱い電気が走っているかのように肌がしびれる。

どうしてこんなに甘い匂いがするのか、最初からクライマックスだ。

 

「やることもなくて退屈で、食事か睡眠か……それだけで」

ちらりと台所に目をやるとやはり洗い物が溜まっている。料理の前に洗い物が先だな、と少しずれたことを考える。

 

「もし……お前がいなくなったら毎日こうなるのかと想像してしまって……ぞっとしたよ」

ガロアがおらず、やることが強制的にないのだから羽でも伸ばせば、とセレンはメイに言われたが、どうしていいのかさっぱり分からなかった16歳の頃に戻ってしまったかのようだった。

むしろガロアと一緒にいることを知ってしまった分だけ孤独感ばかりが募り、一人で寝る肌寂しさに耐えられずとうとう生まれて初めて自分で慰めるなんて真似をしてしまっていた。

 

「……とりあえず、座ろう」

腰のあたりにどろりとする熱が溜まっていくのを避ける様にガロアは肩を優しく押すが、その時の切なそうな顔はどちらかというと肩に触れられた喜びが滲んでいるようだった。

 

「……そうだよな。喉乾いていないか。暑いだろう?」

 

「いや、大丈夫」

部屋の中は蒸し熱く、すぐに冷房を入れたがそもそも汗をあまりかかないガロアは喉は乾いていない。

 

「ならもっと話そう。静かに過ごすのもいい。だが、一週間も口をきいていないと静かなのは寂しいものだ」

同じことを感じていたんだなと思いながら手を引かれるままベッドに座らされる。

 

(俺が話せる様になる前からセレンはよく話していたよな)

当たり前のように自分の脚の間に座ってくるセレンのつむじを見ながら思い出す。

誰かに中身があるない関係なく話せるという経験自体がセレンには楽しく、そして人と関わらずに暮らしていたガロアにとっても嬉しいものだった。

今になって思えばそんな小さな積み重ねが自分を「人間」にしていったのではないかとガロアは思う。

 

(……また……)

ネクストに乗っているときだけは忘れられるというのに、また血まみれの過去がフラッシュバックする。

人間を刺し殺した感想は「手ごたえがないな」だったか。その一言でその人物が生きてきた何十年と未来を片づけた。

身体がどれだけ強くなっても、人間に近づくたびに心が弱くなっていってるのは間違いない。今になって振り返れば自分は。

絶対だと思っていた価値観は壊されるのではなく優しく包み込まれて変わっていき、棘となり過去を刺す。

 

 

「話をしよう、と言ってもな」

 

「う、うん」

隣に座らなくてよかった。このポジションなら顔を見られない。

今の自分がどんな顔をしているのかは分からないが、絶対に見られたくない顔をしていることは分かる。

 

「ケータイもあるんだ。電話でもメールでもしたらいい、そう思ったんだが……」

 

(同じことを考えていたんだな……)

セレンと自分の思考回路が似てきてしまったのか、それとも恋をする者はみんなこう考えるのかは分からないが。

 

「電話しようにも何を話すか。普段そんな実りあることを話していない事に気が付いたんだ」

 

「……」

悉くお互いに同じ悩みをしていた訳だが、実は充電器を忘れていたので三日目で電池が切れていました、とは言えない。

今もスクリーンは暗転したまま、なんの操作も受け付けない。

 

「……あ? お前……」

 

「あっ」

触れ合う肌から何か伝わったのか、止める前にポケットから携帯を抜きとられた。

 

「ほぉー。つまり全く無駄な葛藤だったわけか」

ボタンを押しても何の反応も示さない青いケータイを手にしてセレンはねっとりと言葉を出す。

 

「いや、その……三日目くらいで電池切れたから……」

 

「それで連絡が付かないことに気が付いて悶々とすることになっていたかもしれないと」

 

「……………」

嫌味だが、正しい言葉になんとも言えなくなる。

電池が切れた事を知ってからの四日間は持ち運んですらいなかったが、きっとその間もセレンは肌身離さず持っていたのだろう。

 

「……私の方が馬鹿を見ることが多い」

 

「いや、でも……連絡してくれたら普通に嬉しかったと思う」

素直な言葉を口にすると、息を急激に吸い込んだ時のひゅっ、という音が聞こえた後に大きく息を吐く音が届いた。

それと同時に全体重を預けてくる。何も言わずに甘えてきているのだろう、耳が赤い。

 

(柔らかい)

鞭のようにしなり骨を砕く拳を繰り出す身体は、しかし力を抜くと自分の角ばった自分の身体にフィットするようにくっついてくる。

女の身体というのはどうしても柔らかい物なのだろうか。

 

「最近、どうしていいか分からないんだ」

 

「何?」

 

「自分が作られた命だってことは分かっている。生まれた時から自分の命に愛は無く、利用する為に作られた。五年前まで私はセレン・ヘイズでは無く32号と呼ばれていた」

 

「……」

隠せると思っていたのかは知らなかったが、実に三年以上も自分の口からは話そうとしなかったその事実を口にするのは腹を割いて内臓を見せるように痛みが伴う物なのだろう。

それを根掘り葉掘り聞かれるのは日中に道行く男に恥部を開いて見せつけるよりも屈辱的な事であるはずだ。特に自分に言うのは。

自分がそれを知っているという事実を隠し続ける事は不可能で永遠に歪みが存在することになると思ってたからこそ、あの日に知っていると告げて、そしてそれ以降はその事を話題に上げることは無かった。

平気な顔をしていても今なお彼女の根幹に深く食い込む問題には違いない。

しかしそれを今、自分からほじくり返そうとしてる。

 

「なのに最近は……まるで生臭坊主みたいに……生きていることに感謝なんかしてしまっている。お前が呼んでくれるから、セレン・ヘイズで良かったと思えている」

 

「……」

いい事なのではないか、そう思うが言葉の節々から自分はそういう幸福に値する人間なのかという疑問が伝わってくる。

 

「それでもやはり企業は私を作ったという事実を忘れないし、それが現実なんだろう。どうしても……。お前の言ってた綺麗な街ほど残酷という言葉、この一週間で少し分かる様になった気がする」

 

「……大丈夫だ」

多分今はそうして欲しいのだろうと察して静かに腕に力を込めて引き寄せる。

鼻が触れた黒髪からはやはり甘くいい匂いがした。

 

「……」

 

「悪い、あまり口が上手い方じゃないから……全部を平たく片づけるようなこと、言えない。でも、大丈夫。なんとかなるから」

 

「……最近のお前は少し変だな。お前はそう言う事を言う奴じゃない」

腕の中で身体を捻って青い目をこちらに向けてくる。

猫が甘える様に身体をすり寄せる中で目には疑問が浮かんでいる。

 

「……、話せる様になって半年も経っていないんだ。何を言いそうかなんて分かるのかよ」

女の勘、という言葉はあって男の勘という言葉は無いように、女性の勘はどうしてこんなに鋭いのだろうか。

 

「お前の……性格的にだ」

頬に伸ばした冷たい指先は心の中の秘めた事を全て吸いだそうとしているかのようだ。

割と単純な性格だというのは知っているがそれでも妖しさと呼べる物がある。

 

「お前……そういえば全然髭が生えないな」

 

「そうだな」

顎に触れる掌の滑らかな感触を楽しみながら考える。

小さい頃からそのうち生えてくると思ったが結局この年までほとんど生えなかった。

カラードに入るまでガロアの知る大人の男はみんな髭を生やしていたので大人は生える物だと思っていたのだが、

今でも数週間放っておいてようやく、梅雨の時期に丸裸で置いておいたパンのカビのようなものがちょろりと生えるだけ。

 

「ひげそりも全然使わないしな」

一緒に暮らし始めた時にセレンが使うだろうと思い買ってきたひげそりはほとんど使った形跡がない。

箱から出ているから使ってはいるのだろうがそれでもガロアがそれを使っているところをセレンは見た事が無い。

ちなみにまだ17歳だったセレンがひげそりを買ってレジの店員の青年が衝撃を受けてその日一日元気をなくした、というのは関係のない話だ。

 

「……伸ばすか? すごい時間かかるだろうけど」

父が本を読みながらひげを触りナイフでのびっぱなしに伸びたひげを切るのをみてさりげなく憧れていたガロアはそんな事を言うが。

 

「やめろ」

セレンは一瞬で否定した。これほど大男に成長したのだからひげを生やしても悪くはないんだろうが、

顔的に絶対に似合わないしひげだらけの暑苦しい男はセレンは好きじゃなかった。

 

「………そうか。父さんが似合っていたから……俺もって思ったんだが」

 

「……」

血が繋がっていないことを忘れていないか、と言おうと思ってセレンにふとある考えが浮かぶ。

というよりも今までなぜ思いつかなかったのかが不思議なくらい当たり前のことだった。

 

「お前……」

 

「え? 何?」

 

「あ、いや……」

 

(本当の親が死んでいたとしても……)

自分の両親の名前も職業も出身地も分かっている。

セレン自身はクローン人間のため霞の肉親はいても自分の肉親は100%存在しないが、

ガロアの祖父母なんかはいるはずだ。地球でひっそりと生きているのか、クレイドルにいるのか、あるいはもう死んでいるのか。

だが、ここまで分かっていれば探そうと思えばすぐに探せる。

もしも生きていたのなら、もしも自分達の孫が実は生きているなんてことを知ったのならば。

 

「どうしたんだよ」

 

「……あ」

そこまで考えて悟る。ガロア自身が絶対に会いに行かない。

言葉の節々から分かるがガロアは自分が戦争屋であることを誇っていない。

自分が人殺しであることを受け入れていてもそれを上手く心の内で処理できていない。

例え肉親が生きていたとしても、今の自分を見せに行くような真似はしないだろう。

 

「……なんかして欲しい事あるか。食べたい物とかあるなら作るぞ。今日は無理だけどな」

セレンの挙動不審を自分がいない間に色々苦労したのかな、と結論付けたガロアはてんで的外れなことを言う。

 

「……」

性格悪いなと先ほど思ったが、それでも自分には優しいところを見て、急にガロアの腕の中にいる今の自分が恥ずかしくなり顔を赤くする。

して欲しいことがあるかと言われれば、作ってほしい料理もあるし一緒に出掛けたいとかもある。

アルメリアの花の株分けをしたいからその道具が欲しいなんていう女性らしいことも考えてはいたが。

 

「なんでもいいぞ、別に」

 

「……あー…それは……どの程度までの……」

 

「なんもねーのか? なら洗い物したいんだが」

 

「いや、あ、ある!」

実はそれよりもガロアと離れている間に一人で悶々と思い出していたことがある。

もう二度とあり得ないことだと思っていたが、なんでもいいと言っているしこのさい恥よりも欲求に素直になろうとセレンは思ってしまった。

 

「なに?」

 

「……」

 

「何だその顔」

口に詰め込んだものを一気に飲みこんでのどに詰まらせたような顔でセレンは何かを言いだそうとしている。

セレンがこういう顔をしているときは大抵いい事にならないのをガロアは思いだす。

一番近い思い出ではぶん殴られて噛みつかれてベッドが壊れた。

 

「く、首に……」

 

「……?」

冷房を付けているのに気が付けばセレンの血管が透き通る程白い首筋には汗が浮かんでいた。

 

「跡を付けてほしい、赤く」

 

「なんだって?」

そうきたか。

既に首まで真っ赤になりながら訳の分からないことを言いだした。

暑くて頭がゆだっている……ということではなさそうだが。

 

「元はと言えばお前がしたんだ! ももももう一度!」

 

「何言ってんだ!? 記憶が混乱しているのか!?」

そんな事は無く記憶に問題があるのはガロアの方だが、間違いなく今、頭に問題がある発言をしているのはセレンの方だ。

 

「別に難しいことは言っていないはずだ!」

 

「恥ずかしいから嫌だ!」

 

「私だって恥ずかしかった!」

 

「?? そんなもん人に見られたら俺がやったってすぐわかるじゃねぇか!」

どうも時制が一致しない会話になっていることに疑問を抱くがささいな問題だ。

 

「わ、忘れられないんだ……」

 

「……?……??」

やっぱり疲れているのだろうか。

それとも自分の耳がおかしいのだろうか。

 

「人に見られたら恥ずかしいというのなら、ほら、ここに」

 

「いぃ……!」

上着を肌着ごと首から肩まで引っ張り下げて、セレンの光を反射する雪のような首が露わになる。

ブラの肩紐が見えてしまい目を逸らす。

 

「ここなら普段は見えない」

ナイスアイディアみたいなトーンで言っているがその前にアイディアを出す脳みそに問題がある。

 

「……」

珠のような汗の浮くその首に口を付けたいと思ったことは一度や二度では無い。

この一週間だって何度その身体を思い出したことか。

 

「完全に嫌だというなら……しなくてもいいが……」

 

「そういうわけじゃ……ない……んだけど……」

もしその首に唇を付けて肌を吸えば、想像どおりの本能を刺激するような声をあげるのだろう。

そんなの絶対に我慢が効くわけない。毎晩毎晩隣に寝るだけで劣情がせり上がるのをこっそり自慰をして抑えているのにこうも激しく誘惑されては耐えられない。

 

「ああ、私はお前がいない間……特に寝る前に隣を見て何も無いのが寂しくて寂しくて、手でも切り落としてそばにおいておけば良かったと思ったくらいだった」

 

(俺は……ここまで想われているのか)

 

「だから、一つくらい……何でもいいんだろう?」

そうだ、確かになんでもいいと言ったし難しいことでもない。

おまけに嫌な事ですらないのだ。

セレンの目が本気中の本気で『くれ』と言っていた。

 

「……わかった。そのまま、首を出していて」

 

「うん」

 

「……」

既に蕩けた顔をしてその瞬間を待つセレンの顔を見て生唾を思わず飲んでしまう。

理性を失くして勢いだけでやるのではなく、自分の意志でたった十何センチ顔を動かすという事はまるで気の遠くなる様のようだ。

自分はいつまで理性を保っていられるのだろうか。

 

(どうしてこんなに綺麗なんだ)

自然の中で雨風に晒されて育った木々のように真っ直ぐな筋に薄く浮かぶ血管、透明な汗に光る絹の様な肌。

自分とほとんど同じ生活をしているはずなのに何がここまで違うのだろう。

自分の脚の上でこちらを向いて座るセレンの首に顔を近づけていく。

鼻が肌までティッシュ一枚分ほどの距離になると芳しい香りと共に肌の熱が伝わってくる。

 

「焦らすな」

鼻息にくすぐられるのが耐えられなくなったのか、セレンは口を開くが焦らしているわけじゃない。

理性をしっかり保ちながらこんな行為をするという事はほとんど矛盾に近い。

 

「はあっ……!」

とうとう口が付いた時に感じた湿気はセレンの肌の物か自分の唇の物かは分からない。

だが正直な話、セレンの肌の方がよほど自分の唇より潤っている。

もう最初から声を抑えようともしていない。首を吸う力を入れると同時に頭を引き寄せてくる。

 

「……どうなった?」

 

「赤い……」

白い肌にぬらりと光る赤い跡は幼い頃に雪に血を垂らしながら歩いた日々と重なる。

自分の原風景とこの人が重なるのはなんでなのだろう。

 

「どこに、どうやって、どんなふうにしたか。今度は全部覚えておけよ」

 

「……ああ」

何を言っているのかやはり今一つ分からない部分があるが、跡がついた部分を嬉しそうになぞった指を舐めるその姿をどうして忘れられようか。

そう思っていると突き飛ばすよりはやや優しいくらいの力で押してきた。

 

「お前はいつ大人になったんだろうな」

 

「……」

そのまま押し倒されたベッドから舞い上がった匂いは全部セレンの物だった。

一週間いないだけで自分の匂いまでも消えてしまったのか。

 

「昔はちびっこくて可愛い子だったのに……大きくなるのが早すぎて気が付けなかったよ」

 

「……」

腹筋の上で指を踊らせるセレンのそんな言葉を聞いて気が付いた。

 

「なんだ?」

 

「そういえば今の俺の年ぐらいが、セレンが俺に出会ったぐらいの年なんだよな」

 

「そうだな」

 

「俺は全然大人になった気がしない。あの頃はセレンが大人に見えたけど実はそうでもないんだな」

 

「……」

ガロアの言葉は真実であり、年下がいるから年上でいようとするし、子供がいるから大人でいようとする。人というのはそんなものだった。

セレンだって最初は、いや、今でも時々うまく大人であるようにふるまうことが出来ない。そうして大人のふりをしているうちに成長して心も大人になる。

 

「案外20とか21もそう大人じゃないんじゃないの」

逆もまた真で、大人がいるから子供は子供でいられる。だからこそ子供には一緒にいる大人が必要なのだ。

そうでなければガロアのように自分一人で生きようとした結果、人としての道も踏み外しかねない。

 

「可愛くない奴」

そう言う事を理解できるようになるくらいにはガロアも大人になっているという事なのだろう。

そうは言いながらも本当はガロアのことが可愛くて仕方が無いのだが、想いが溢れだしてついセレンの動きが止まった時、ガロアがセレンの頬に口づけをした。

 

「……珍しいな」

こんな幼児がするようなキスよりもずっと進んだことを何度もしているのだが、ガロアが自分からすすんでそういう事をしてくるのは初めてだった。

 

「……俺も寂しかった」

本当に小さな、蚊の鳴くような声でぼそっとガロアはその心の内を漏らした。

 

「……」

やけに素直なのはやはりその言葉通り、ガロアも寂しかったからだろう。

 

「一人の方が生きていくのは楽だ。自分の事だけを考えてりゃいい。でも一人は嫌いだ」

 

「分かるよ。よく分かる。そうだよな」

そのままセレンもガロアの頬に何度も口づけをし始める。

その部屋の空気を固めてしまえば甘い甘い砂糖になるだろうと思えるほどなのに、ガロアの頭は割れるように痛んでいた。

 

(なんでかな……病気かな)

幸せなはずだ。自分の好きな人にこうまで好かれているという事は。

なのに頭の中は赤い電気が散るかのように酷い頭痛がする。まともであろうとする度に、幸せだと感じるたびにこうなるのはどうしてなのだろう。

日に日にじわじわと酷くなってくる。ネクストに乗っているときだけは全くこんなことにはならないのは何故だろう。

いよいよ頭が爆発して身体が割れてしまいそうだった。

 

 

「とりあえず今日はそばにいてくれればいい」

 

「ああ」

 

「……どこか具合でも悪いのか?」

妄想とともに頭痛に苛まれているのが表情にも表れてしまっていたのか、下から見上げながら聞いてくる。

 

「時差ボケ、だな」

誤魔化す為に口を開いたが、それはそれで嘘では無い。

普段ならまだ外を走り回って転げ回っている時間だがもう目がしぱしぱしてきている。

 

「ふーん……もうほぼ鉄人になっててもひょんなところで人間だな……。うん……確かに身体がぽかぽかしている」

 

「人を超合金みたいに」

 

「お前は……寒い場所で育ったのにどうして温かい手をしているんだろうな」

ガロアの右手をセレンが両手で握りしめてくるがそれでもまだガロアの手がはみ出す。

いつの間にセレンより手が大きくなったのか覚えていない。

 

「そんなことない」

 

「あるさ。少なくとも私にとってはそうだ」

 

「……そうか」

いつも右手をセレンに預けて寝ているからだろうか。上に乗ったセレンの温かさもあって少々うとうとしてきた。

 

(森は……つっかえる物が多かったなあ)

すっころばないように小さい頃はいつもアジェイに右手を引かれて森を歩いていた、そんな思い出が蘇る。

夢の中だけは優しいことばかりだ。

 

「眠いか?」

 

「……うん」

 

「どこうか」

 

「いや、軽いし……いいよ」

本当に重さなどほとんど感じてはいないが、セレンの体重は67kgもありとても軽いですませられるような物では無い。

 

「私も眠くなってきた気がする……」

二人して体温の放出を始めて温かみを感じて眠気が出始める。

セレンもセレンで今日帰ってくるのが楽しみでついつい眠りが浅くなっていたのだ。

 

「……」

 

(あ、もう……寝ている)

眠いと言って僅か数十秒でガロアは眠りに落ちてしまった。

左腕でがっちり固定されて自分が身動きできなくなっている事にも気が付くが、

喉も乾いていないしトイレも今は平気。それよりも眠気がどんどん強くなってくる。

 

(しみじみ幸せだ……想像もしていなかった……)

窓際の椅子に座り波風の音を聞きながらぼんやりとアルメリアの花を眺めていた一週間の間、考えていたのは自分の過去のこととガロアの事だった。

霞のようになれと言われ自分の名前すらなかった日々。自分と同じ人間がいて外でのうのうと暮らしていてしかも朝から晩まで訓練に打ち込んでいる自分よりも強いという。

憧れると同時にいつか自分の手で殺してやると思う程までに恨んでいたのに勝手に死んでいて。

こんな人生になんの価値があるのだろうと考えることは出来てもその価値は全部自分以外に決められた。

幼い自分がそれ以外に道がないと言われたのならばそれにすがるしかないのは当然のことだろう。

だというのに勝手に放り出された自分にどんな未来の希望が持てようか。

戸籍も無いから学校に行くこともまともに働くことも出来ない。

 

(辛いことしか無かった……未来の希望なんか一個も無かった……)

その渦中にいたときは一滴も流れなかった涙が今になって出てくる。辛いことというのは後になって思いだして泣く物なのだろう。

部屋で一人でいては孤独に苛まれるが街に出ても誰一人として自分の孤独を紛らわしてくれる物など無く、そもそも自分が何なのかすら分からなかった。

自分が美しい容姿だというのは知っていた。だがその皮を全て引っぺがしてしまいたいと思っていたのに近寄って褒め言葉を投げてくる男はただ気分を逆撫でするだけだった。

 

(どうしてこうなったのか分からないとお前は言ったな……私にも分からないよ……)

生まれながらにして戦いの元にいた自分が戦いの輪廻から逃れることなど結局出来るはずも無く、自分だけの理由を求めて誰かしらを育て、オペレーターになろうとした。

その時はただ自分のあるのかも分からない希望とアイデンティティーを求めていただけだった。

あの時出会ったのが、あの時選んだのがどうしてガロアだったのか。

運命だという言葉にしてしまうと陳腐になってしまうが、運命としか言えない。

あの養成所で珍客の自分を誰もが見ていた。やはり自分の容姿を舐めまわすような視線もあった。

しかしガロアの視線にだけはそういった汚い感情が一切なかった。それが全ての始まりだった。

理由を辿ると霞が引き合わせたということになるのだろうか。

 

(希望はあったんだ……そうなるようになってたんだ……)

そこから先の過去はもうほとんどガロアとの思い出と言っていい。

あっという間の4年間だった。自分が分からないだとか辛いだとか考えている暇も無かった。

一体自分はどれだけこの赤毛の少年に救われているのか。

10年前の自分に会ったならば、未来はそう悪くないと言うのだろう。

人生を生きる喜びを貰えたのだ。

ただ……もう少しわがままを言えるのなら。

 

(抱いてほしい……)

寝息とともにゆっくり上下する胸の奥、強い鼓動を耳に聞きながら唇を震わす。

女の悦びが欲しい。もっと自分を見てほしい。こんなに好きでそばにいるのだから。そうセレンが考えるのも年を考えれば当然の事だった。

当然未経験だから知らないが、きっと幸せなのだろう。本能がそう言っている。

これぐらいの年の男ならば好きでなくても隣に年頃の女性がいれば普通に手を出す物だ。自分だって拒否する素振りすら見せていないのに(時と場合にもよるが)。

それに自分の事を嫌っていないとも言いきれるし、女性として見ているとも言いきれる。

まったく意味が分からない。こんな性格で敬虔なキリスト教徒だったりするのだろうか。

すれ違う日々がセレンの心身を焦がしもっと自分の事を見てほしい、認めてほしいという欲求が沸点に達していた。

もう本当に足りないのだ。わがままなのは分かっているが。人としての信頼も性欲肉欲情欲から切り離した子供のような愛情ももう十分だ。お人形のように大切にされるのももう結構。

もっと有機的に、この焦げ付きそうな程の身体の感覚をどうにかしてほしい。前までは繋ぎ止める為の手段の一つだと、目的意識も混じっていたがそれも薄れた。

頭の中に好きだという感情以外ない。好きで好きでどうにかなってしまいそうだ。少なくとも馬鹿になっていることが自分でもよく分かった。

 

(どうしてだ? ダメなのか? 私では……)

『あなたは私の全てなの』とそんな馬鹿馬鹿しいことをまさか自分が思う日が来るなんて思ってもいなかった。

だが酸っぱいブドウの理論のように馬鹿にしながらも内心憧れているところはあったのだろう。

友達も恋人も、もちろん家族もいなかった。あの日出会った子供が今ではその全部なのだから全てとしか言えない。

 

(……、恋人じゃないよな)

そう思いなおしてしゅんとなる。

この世界で一番自分という存在を認めてくれているのは間違いないし、全てをくれているというのにどうしてそこから一歩先に行けないのか。

悪人面から一転、間抜け面一歩手前で眠るガロアの顔に顔を寄せていく。

本当に眠っているときだけは顔から魔が落ちている。

殺さないぎりぎりのレベルで毎日ぶっ飛ばしてここまで強く磨き上げたのは自分なのだと思いながら唇に触れていると下腹がもやもやと熱くなってくる。

もうその相手は出来ない。ガロアは強くなりすぎた。

 

(…………。ああ…ダメだなぁ…私は……)

とうとうここまでやってしまった、と小さく自己嫌悪をしながらも止められず寝ているガロアに口付ける。

もちろん反応は返ってこない。

 

(……柔らかい…起きるかな……)

このまま起きないならそれでよし、起きたとしても怒りはしないのだろうと思いながら夢見心地で口だけ使って遊んでいるうちに本当にそのまま夢の世界へと落ちてしまった。

 

 

 

軽い、とは言っても呼吸も阻害されるし寝返りも出来ない訳でそれからほんの少ししてガロアは目を覚ましてしまった。

ここで真夜中までぐっすり眠っていてはいつまでも生活リズムが治らないから悪いことでは無いのだが。

 

「……うっ」

目を開けると今にも触れてしまいそうな距離に熟れた桃のような唇が入ってくる。

これだけ美しい物がこれだけ無防備にあるという事実。人間に狩りつくされ絶滅した動物もやはり無防備だったのか。

 

(俺はまだ夢を見ているのか)

どれだけ眠っていたのかは分からない。電気のついていない部屋に夕陽が差し込んで長い睫毛が影を落としている。

幸福そうな顔で寝息を立てるセレンはガロアの知るどんな物よりも綺麗だった。

 

(俺は馬鹿なのか?)

手の届く距離にある果実にどうして手を伸ばさないのか。

自分は愛されて生まれてきたらしい。人を愛することは素晴らしいことらしい。

自分だってそうしたい。

そうしたいのに、頭の中ではずっと銃声と血で満たされている。

 

(日に日に酷くなりやがる……)

ガロアの高いAMS適性は恩恵ばかりをもたらしたわけでは無かった。

ガロアの力への渇望に応える様に隠されていた才能を引きずり出した。

だがそれと同時にその力を得るに至るまでに必要だったはずの夥しい数の戦いと血を要求してくる。

大いなる力には代償が伴うのは当然の話なのだ。

その精神汚染はもう、ガロアが戦えなくなるその日まで消えることは無い。そしてその痛みはこの世界が平和に向かう戦いに参加すればするほど酷くなっていく。

ガロアはその原因を知ることは無いが、その苦しみを自分にはふさわしい事だと受け入れてしまっていた。

 

(生きることは苦しいって……小さい頃思ったっけか)

殺した動物から血抜きをしていて気が付いたら夜になり隣には誰もいない恐怖。

真綿で首を締めるような苦しみがどこに行ってもあった。

 

(これは苦しみじゃない……幸せって言うんだ)

この戦争が終わったら、この世界が平和になったら自分の居場所はどこにあるのだろうか。

蚯蚓が脳内でのたうつ様な痛みの中で考えても答えは出ない。

セレンのそばにいれば心は安らぐが痛みが止まらない。いつも突然に襲ってくる。

戦いが無くなったらずっと痛み続けるのか。

 

「あ…………俺は……」

痛みながらも冴え続ける頭の中に浮かぶ映像。

あのままインテリオルの養成所にいれば今ごろ自分は既に「鍵」を強奪し、汚れ仕事を押し付けられていると知りながらもラインアークに住む人々を嬉々として地上から欠片も無く消し去っていた。

その姿には人間性は残っていない。インテリオルのマインドコントロールはガロアの心の中の獣を殺さず否定せず優しく餌をあげ続け見事に育てあげた。

想像だと言うにはあまりにも鮮明で、否定しようにもあまりにも自分の精神世界に似合った映像だった。

 

「おかしくなっちまったか……」

それはまた一つのあり得た世界だった。

殺して殺すその世界の自分は生き生きとしており、頭痛などは皆無といった様子だった。

アレフ・ゼロとは違う機体に乗って西へ東へ生身の人も機械も平等に吹き飛ばしていく。

そして……そして戦いの無い日は……

 

「……………」

ベッドしかない部屋で一人、大きくなった身体で膝を抱えて日が沈むのを眺めているだけ。

灰色の眼の渦は殺しの螺旋にどこまでも落ちていった証のようだった。

セレンと出会っていなくてもいずれは自分の力でホワイトグリントを壊しアナトリアの傭兵も殺していたのだ。

その未来との違いは今のガロアには分かりやすかった。

 

「この人がいたから俺は……」

目の前でみっともなく口を開けてよだれを口の端からこぼして眠るセレンは美人を台無しにしている。

ずっと昔からだらしないことこの上なかった。師として尊敬しきるにはあまりにも人間として社会で生きていくため欠落しているところが多すぎた。

初めて人のために料理をした。初めて人の分まで皿を洗った。初めて朝日の中で人の服を干した。初めて人の為に何かをした。

この人がいたから自分は人間になれたのだとガロアは今になって気が付いた。

 

「み、みっともない」

あと少しで身体が濡れてしまうというところでセレンの口を袖で拭く。

 

「……うあ…」

袖についた口紅を見てようやく気が付いた。

今日のセレンは普段よりもほんの少しだけ化粧が濃かった。

今日は自分が帰ってくるから。いじらしい女心だった。

 

「そんなことしなくても俺は……」

 

(セレンの事が何よりも好きなのに)

良心が揺れるのと同じくらい目玉があちこちに揺れてむらむらと抑えていた欲求が溢れ出てくる。

そんなことをしなくても大好きなんだと口にしたらきっと死んでしまう。

 

「起きてたら……それだけじゃすまないからな」

自分に言い訳しながら痛む頭を下げて口紅がにじんでしまった唇に口付けた。

 

(あ)

セレンと目があった。

いつの間にか心の中の言葉が口から出ており、しかもそれを全部耳元で言っていたのだ。

割と眠りの浅いセレンが目覚め無いわけがなかった。むしろ今の今までよく眠れていたものだ。

 

「……」

起き上がったセレンが指先で自分の唇に触れながら花開くように笑顔を広げていく。

 

「違うんだ」

言い訳は一つも思い浮かばない。

 

「何が違うんだ。いや……もういい」

寝起きにしては酷く冷静な声を出しながら抱き着いてきた。

セレンからしてみればたった数十分前の願いが神か何かに叶えられたかのような幸福だった。

 

「抱いてくれ」

耳元で囁かれたその言葉でガロアは鈍器で後頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。

そしてガロアは。

 

「うん」

どろりと鼻血が出た。

 

「……?! なんだ……どうしたんだお前……」

現実に女性から迫られて鼻血を出すなんて現象はないし、あったとしてもたった一言でそこまでなるような男でもない。

唐突な出血はどこかしらの異常の証拠だ。そのコミカルな様子に似合わない程セレンは血の気が引いていた。

 

「あれ、なに……これ……」

後頭部を殴られたかのような衝撃がガロアの頭の中で未だに続いている。頭の中で銅鑼が鳴り続けているようだった。

ガロアの脳内だけの幻痛だったはずがとうとう身体に異常を起こした。

 

「ティッシュ……ほら。どうした?」

 

「うん……大丈夫」

 

(嘘だ)

痛みを隠しながら鼻血を拭くガロアの言葉の嘘をすぐに見抜いたセレンだったが、

つい先日隅々見た全く異常の見られないガロアの身体検査結果以上の情報がない。

 

「ぶっ、ぶっつけたんだ……大丈夫。ホラ、もう止まった」

 

(考えすぎ…なの……か?)

確かに止まっている。乾燥していたり鼻炎であれば僅かな刺激で鼻血が出ることも珍しくはない。

少々考えたくないことだが、自分がまだ夢の世界にいる間に激しく鼻をほじっていたなんてこともあるのかも。

 

「顔洗ってくる……どいてくれ」

 

「……ああ」

行かないでくれとは言えなかった。

すっ、と離れていくと同時に急激に二人を包んでいた夢のような柔らかい空気も消えていく。

ずっと欲していた物は鼻血一つで壊れる脆い物だった。

 

コンコン、ともう大分慣れてしまった音が聞こえる。

 

「誰か来たな」

 

「俺が出る」

流石に鼻血を出しながらじゃまずいかと思ったガロアが血を拭いながら扉を開けると、そこには鼻血どころでは無い客がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰も知らない、知るはずがない。

コジマに汚染されきって虫の一匹すらも生きていけない地域で、無人の機械が動き回りあるネクストを完成させた。

不思議なことにその機体にはコックピットに人の入る隙間がなく、その代りに精密な機械が入れられていた。

 

闇に溶ける色合いの機体は汚染されたこの世界こそが自分のいる場所だと言わんばかりの存在感を放っていた。

 

その姿はかつてのリンクス戦争の英雄が駆ったラインアークの守護神とよく似ていた。

 


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