Armored Core farbeyond Aleph 作:K-Knot
人口増加、止まぬテロ。
食糧不足、不安定な新技術も舐る様に使い倒し人間の業に地球がいよいよ耐えかねた頃…国家解体戦争の12年前。
テロリストの巣と呼ばれるほどに治安が悪化、
反体制勢力が聖戦の名の元に政府を崩壊させ時代に先駆けて国という概念が無くなったアフガニスタンは超好戦的な蛮族の住処という周辺国家の認識に違わず、手当たり次第に拉致略奪を繰り返し、
ここにある元病院でも国籍不明の子供が佃煮にできる程ごった返していた。
国籍も無い子供たちは犯罪行為の手先には最適であり、今日もまた男子は洗脳教育の果てに死をも恐れぬ兵士となり、新たな兵士を作り死をばら撒いていく。
女子も器量が良ければどこかに売り飛ばされ、そうでなければ明日にでも爆弾を抱えて国連軍の基地へと走らされるだろう。
隣国に生まれ、神の子と呼ばれた聖人は奇跡と呼ばれるような行為で人々を救いながらある日、
愛情も夢も知らずにペンの代わりに銃を持たされるこの世界に訪れ、10も数えぬ子供に背中から撃たれて人間滅ぶべしと呪詞を血と共に撒き散らしながら憤死した。
明日は6つになるこの娘もどこかの国の成金に売られる筈だった。
ドッ!!!
「あ…う…?」
目を開けるともうそこは地獄だった。
昨日もおとといと同じように同じくらいの年ごろの女の子たちと一つの毛布に5人でくるまって寝ていたはずなのに。
きーん、と耳鳴りは止まず三日間何も食べなかった日のように目の前が揺れている。
倒れた柱が壁の間で偶然隙間を作り自分がその間にいるということが分かった。先ほどの爆音の正体がだんだんと分かってきた。
他の女の子たちは吹き飛ばされ即死しているか、血を出しながら呻いているか。
『……』
アーマードコアの無機質なカメラアイが狭い窓から中を覗き込んだ。
「う…あ…!!」
咄嗟に目の前で動かなくなっていた女の子を掴んで自分の上に乗せる。
その瞬間、部屋の中を弾丸の嵐が暴れまわり生死関わらずそこにあった人間を全て挽肉にしていった。
「う…」
自分の上に乗せたときはまだ人の形をしていた肉袋をどけるとびしゃりと音を立ててバラバラに散った。
「げ…ぇ…あっ!」
むせ返るような血の臭いと呼吸も出来ない程の硝煙に晒され思い切り嘔吐いたが昨日の夜に食べた半分だけのカビたパン以外は胃液しか出なかった。
世界各国で起こるテロ、反乱。
もはや国に逆らう者の数の方が多いのではないか。そうだと言うのならば最大多数の最大幸福の考えから悪は国ではないのか。
そう思える程あちこちに戦争の火種が転がっている。
国際連合は、国家を超える世界政府は存在しないというアナキズムを完全に捨て、今の状態は国益にも地球益にとっても害悪という決断の元に、
積極的に国政に介入し世界を仕切っていたが、既に自分たち国連軍だけでは力不足と考え企業の力に頼ることにした。
この判断が益々国から企業に力を流すことになり、後の国家解体戦争へと繋がる。
「ふっ…ふっ…はっ…」
過呼吸気味の息をわざと止める。
こんな空気を吸い込むぐらいなら死んだ方がましだと脳が言うが本能は生きようとする。
「……えぐっ…」
もう空っぽの胃袋がせり上がるのを努めて抑え、普段はカギがかけられて出ることも許されない扉の外へとよろめきながら抜ける。
吐き気は止まらず口から胃袋が出てきそうだった。
「……」
階段を一つ降りるとそれより下は炎が上がっておりこれ以上下の階に行けそうにはない。
同様に扉ごと壊れた部屋に入ると目に入ってきたのは大人の死体。この女は自分達に食事を持って来たりしていた女だったと思う。
実際は大人と呼べるような年でもなく、子供たちの教育と世話、そして性欲処理の為にわざと残されたまだ14の少女だったのだが死体となった今、それはもう関係のないことだ。
「げほっ…ごっ…ごほっ」
充満した煙に涙を流し咳き込みながらその部屋に入ると上の階とさして状況は変わらず血塗れの死体が転がっているだけだった。
違うのは転がっているのがまだ乳飲み子ほどの大きさにしか育っていない子達だということだろうか。
倒壊した柱と壁の先に別の部屋が見えるが炎に巻かれて行けそうにない。
「どうしよう…どうしよう…」
辺りを見渡しても死体以外には何もない。
下へと続く階段からは火が上がって出る手段も無い。
「…!」
その時、死体の下で何かが動くのを見た。
細い腕に力を込めて屍をどけるとまだ一歳ぐらいの黒い髪の男の子が顔に大きな傷をつけ肉を覗かせながら気を失っていた。
「……」
何か考えがあったわけでもないし、このまま放っておいても自分もこの子も死ぬと思いながら何故かその子を腕に抱き、くるんだ毛布を首に回してしっかりと固定する。
「……」
水道の水は当然ながら出ない。それは昨日今日の話では無く物心ついたときにはもう出ていなかった。
転がる女の服を脱がせて血をまぶす。
「うっ…」
腹の底からの悪寒がまた襲い吐きそうになるのを抑える。
まだだ、これではまだ血が足りない。
「ううっ…!」
引き裂かれ飛び出たはらわたの中に突っ込み血でぐっしょりと濡れた服を頭からかぶる。
他に行ける場所も無い。
倒壊した柱と壁の大人ならまず通れない隙間を芋虫のように這いずりながら進む。
「ぐっ…うっ…!!」
渦巻く炎が背を焼くが血濡れの服のおかげでまだマシだ。
熱された鉄板のような床になるべく直接手を触れないようにして先ほど見えた部屋に進んだ。
彼女は気が付くことは無いがあと一分もあの部屋にいれば煙に巻かれて倒れるか、酸欠で意識を失って他の死体と同じように焼かれていただろう。
「……」
この部屋も地獄には変わりないが火の手は届いていない。
二つあるベッドには髭面の男の死体が転がっている。
「うっ…」
おちついたら急に背中が痛んできた。
被っていた服を投げ捨て背中に恐る恐る触れる。
ぬるりと付いた血がは誰の物かはわからない。だが朦朧としていた意識に鞭を打つような痛みから背中の状況は察するに余りある。
「……」
この部屋は自分たちがいた家畜小屋のような部屋と比べれば随分と良い環境だ。恐らくは大人だけが…あの女が言っていたように正しく成長した大人だけが入れる部屋なのだろう。
だが、そんなことよりもこれがあるのがいい。
「く…の…!」
窓にかかって幾つもの大穴があいたカーテンを引き落とす。
急いで端どうしを結んで、最後の部分を死体の乗ったベッドの脚に結び付けた。
ついでに男の腰についていた回転式拳銃を拾う。
「だいじょうぶ…だいじょうぶだから…」
窓からカーテンだったものの端を投げ捨てる。
地上五階建ての建造物の四階。飛び降りれば自分なら間違いなく死ぬ。腕にいるこの子も一緒に。
大丈夫、と言い聞かせて一気にカーテンを伝って滑り降りた。
キュキュキュキュッ!!
「くぁあ…あ…!」
貧相な尻から無様に着地してしまったがどこも折れていないしまだ歩ける。
手を見るとずる剥けた皮の下からどんどんと血が溢れてきていた。
「…逃げなきゃ…!」
そこら中から悲鳴と銃声が聞こえ敵がどこにいるかもわからない。
火の手の上がった街は真昼よりも明るい。
そばにあったどぶ板を外しその中に潜り込むと酷い悪臭がしたがそれでもさっきよりは大分ましだと思える。
(……どこへ?)
どこへ行けばいいのかわからぬまま蜘蛛やゴキブリ、木っ端のような虫々の溢れる狭い穴を這い進んでいく。
何故最初から今まで自分の意志と行動がこんなにも生きる方向へと向いているのかわからない。
「…あ!」
光が見えた。そこへ向かい必死に進むと泥にまみれた小さな堀へと出た。
ゲリラ戦に備えてそこら中に作られていた塹壕である。
もっとも企業の急襲によりその塹壕は全く意味をなしていなかったが。
「…ガキ?」
タァン!
「……!」
突然大人が飛び降りてきたのを見て、反射的に手にしていた銃の引き金を引いてしまった。
「あっ…!」
偶然、放たれた弾丸は男の脳に穴を穿ち、即座に命を奪い去った。
拳銃の衝撃に耐えられずに尻餅をつき、銃は水たまりの中に落ちてしまう。
「はっ…あ…」
敵だったのだろうか。いや、例えどちら側でも大人は彼女にとって同様に敵だと思えた。
水に濡れて使えなくなった銃をその場に捨て走る。
(どこに行けば…)
ひたすら小さな堀を進んでいくと梯子が見えた。
幼児を抱えたまま、まだ幼い彼女が梯子をのぼるだけでも一苦労だったが、
なんとか上がり切る。
「え…」
そこには先ほどとは比べ物にならない数の死体が山となって積み上がっていた。
ガシャン、無機質かつ巨大な質量を持った音が聞こえた。
「あ…」
建物の間から巨大な銃を構えたアーマードコアが出て、感情を示さないカメラアイが彼女にピントを合わせた。
一秒後にはミンチになっている。残酷な死の想像は防衛本能を働かせ彼女は気を失った。
「子供…?」
男の任務は塹壕を通って出てくる兵士を迎え撃つこと。
アーマードコア一機を配備する代わりに他に戦力は置いていない。
それだけ人間とアーマードコアの間には戦力差があった。下手に人間の兵士を配備するよりはよっぽど合理的で効果的。
ただ出てきた者を撃っていればいい楽な任務だった。
最初の頃はわらわらと出てきた、(どちらでもあまり変わりはないが)武器を持った、もしくは持っていない男たち。
そして10分ほど前からは鼠一匹通ることも無くなり別のエリアに移動しようかと思った矢先に飛び出してきた人影。
それは血塗れの子供だった。
「任務は殲滅だ…悪く思うな」
ここら一帯を包囲し、建物の入り口に全て火をつけ中に掃射。
さらに隣国には不干渉を前もって要請してあるので、亡命した者も逃れる術は無い。
極めて危険な洗脳教育をしているこの地域では例え子供ですらも逃すことは許されない。そういう話だった。
現に小型ながら強力な爆弾を抱えた子供が自爆するのをニュースで何度も見ているし、男の同僚も何人か死んでいる。
今倒れた子供も何かを抱えていた。
不用意に近づいて爆発に巻き込まれるのはごめんだ。
「……!?あ…?」
今、手の中の何かが確かに動いた。
動く爆弾なんて聞いたことがない。
引き金にかけていた指を外し、銃先で倒れた少女をひっくり返す。
「!イエローか!?」
極東以外ではほとんど見ることの無くなったマイノリティの人種、黄色人種。
血で汚れていてよく分からないが毛布にくるまれ抱えられてる子のあの肌の色、髪の色は間違いなく黄色人種のそれだ。
よくよく見てみれば抱えている女の子の肌は白く髪は金色。この顔立ちなら将来は間違いなく美人になるのであろうがこんな場所ではそれも不運だとしか言えない。
「ならここで殺しておいた方が…」
再び引き金に指をかける。
しかし、まだ小学生にもなっていないであろう少女が子供一人を抱えてあの包囲網を抜けてきたというのか。
しかも、明らかに姉弟でもなんでもないはずの子を抱えながら。
周囲の全ての国に戦争を売るような場所でこんな子が育っていたとは。
「………!!」
とうとうその引き金はひけなかった。
自分自身、そんな人間らしい感傷が残っているとは思ってもいなかった。
男の名前は井上竹光(たけみつ)。
何十代にも渡り日本国で剣に携わり生きてきた井上家、その分家の末裔である。
居合術として知れた山口一刀流の流れを継ぐ居合いの達人、辻月丹が開いた無外流を海外にも広めんという、竹光曰く「時代錯誤の考え」の元、
宗家は日本に残り分家の子だった竹光の曽祖父・実光がカナダで道場を開いた。
そのまま一世紀近く道場はカナダの田舎町で受け継がれ、それなりに教え子もいたが、この四代目免許皆伝、井上竹光はとんでもない享楽者だった。
道場経営の金で飲む打つ買うの三拍子、免許皆伝の剣の腕はあるというのにことあるごとに「時代遅れ」「今更流行らない」と繰り返し、
そんな師範の姿に弟子たちは幻滅し次々と辞めていき、父・正光の死と共に道場経営を止めてしまったのが27歳の夏。
別に戦いが好きとか血が好きという訳でもなかったが、「今、一番需要がありそう」という理由だけで傭兵を始めた。
果たしてその読みは大当たりで一月ごとに即戦力となる傭兵の需要は高まっていき、引く手あまたの戦場である日、中身が死んでいたアーマードコアを拾い、
借金をしながらその機体を修理をしてとうとう彼はレイヴンとなった。
それなりの腕のレイヴンだった彼は適当に戦場を渡り歩き、残骸を拾っては売って、敵を殺してなどとしているうちに金もたまっていった。
後の先だの守破離だの好きでも嫌いでもなかった教えはもしかしたら役に立っていたのかもしれないな、と敵機の残骸の前で無精ひげをこすりながら思い、
そろそろ金もあるし、せめて爺さんたちが大事にしてきたあの道場ぐらいは守ってやるかとの思いに至った38歳の夏、彼は二人の子供を拾った。
なんで自分が子どもなんか拾うのかな、と自問自答したがその理由の一つには、40を前にしても未だに妻も子も…つまり跡継ぎがいなかったことが一割くらいは関係あるのかもしれない。
跡を継がせよう、とはさらさら考えてはいなかったが、もしかしたら…という思いはあった。いくら立派な道場があっても人がいなければただの廃墟である。
10年以上乗ったアーマードコアを売り飛ばして、7年間務めたBFFを辞め、カナダの田舎に二人の子供を引き連れて彼は帰った。
一瞬だけ日本に行こうか、とも考えたが彼の故郷はカナダの古ぼけた道場だと思い出が言っていた。
出身地がばれないように闇医者に診せた二人の子供には消せない傷痕が残った。
上の女の子はともかく、下の男の子はもしかしたら戦場で拾った…いや、自分達が焼き払った街で拾ったなどと言わなくてもいいかもと思ったがどうやらそれは許されないらしい。
別に許してほしかったわけでもないが、これぐらいの傷も消せないヤブ医者にまともに払う金があると思っているのかよ、と思い切り値切り、戸籍をごまかして二人の子供を井上姓へと入れた。
下の男の子は置いといて、金髪碧眼の上の女の子はどう見ても養子だったが。
その少女…アンジェは戦いから連れ帰って暫くはほとんど口を効かなかった。
名前を聞き出すのに一か月かかったくらいだ。無理もない。あんな地獄を抜けてきたのだ。PTSDを患っていて当然だ。あるいは自分を恨んでいるのかもしれない。
馬鹿だな、と思いながらも正直に伝えたからだ。「あの街を焼いたのは自分達だ」と。
心的障害を負っている割には食事も普通にしていたし、無理やり入れた小学校にも普通に通っていた。自分は医者じゃないし、よく分からないが案外こんなものなのかもしれんな、と判断したのは誤りだった。
たった6歳だったその少女の心の中にはそれ以上におどろおどろしいしい物が目覚めて巣食い育っていたのだとわかったのはそれから十年も経ってのことだった。
下の子の名前は分からなかった。
年は多分一歳くらいなのだろうとしか言えなかった。
だが、日に日に出来上がっていく顔立ちはエラは立たず、目は細くは無いが大きくも無く全体的にのっぺりとした顔、モンゴロイドの中でも間違いなく極東の島、日本人の物であった。
じゃあ日本らしい名前を付けるか、と思っても子供どころか嫁を見つけることすら考えていなかった竹光はご先祖の名前に肖って真改と名付けた。というかそれ以外思い浮かばなかった。
祖父も父もそうだったように自分も家では日本語で話していたら子供たちもいつの間にか家の中では日本語で話すようになり、気が付けば奇妙な一家が出来上がっていた。
一言に子育てと言っても竹光に子供らに伝えられることなど何もなかった。
何を伝えればいいのかもわからないというのに自分の顔の皺が出来るよりも早く子供らの背は伸び真改はあっという間に言葉を覚えていく。
しかし、竹光は思い出した。自分が10の頃に亡くなった母はともかく父は自分に何を教えたというのか。
正直何一つない。剣以外には。
こんなものが一体何の役に立つのだ、と思っていた剣を…いや、剣道を彼は子供たちに伝え始めた。真改3歳、アンジェが8歳の頃である。
繰り返し聞かされた道という物の教えを九官鳥のように伝えることで子供たちも道に沿った人間形成が成されていったように思える。
口にすることで40を超えて初めて教えの本質を理解するということも有ったし、もしかしたら父もそうだったのかもしれないと遅まきながらに思ったものだ。
教え云々はともかくこの剣という物は嫌いではなかったなと三尺八寸のささくれだった竹刀を削りながら考えていた。
相手と試合い対峙する感触は何とも言えぬ喜びがある。普段の稽古で暑いし寒いし臭いし重いし痛いし良い所なしだと思っていてもそれだけは別だった。
物心ついたときから竹刀を握らせていた真改はまぁそうだとして、アンジェが異様なほど剣に憑りつかれていったのは驚いた。
普通とはいった物の日々を半ば死人のような、薄皮に覆われているような刺激の無い顔で学校に通っていたというのに竹刀を握った瞬間に目にぞっとするような光が差すのは魅入られているかのよう。
少しだけ後悔をしながらも、自分とアンジェ、真改の三人ではつまらなかろうと月謝もそこそこにして門下生を募ってみたら平和を絵にかいたような田舎に退屈し、持て余すものが多かったのか、
全盛期には届かないとはいえ20人前後の子達が集まった。
真改には「剣道」の才能があった。
アンジェには「剣」の才能があった。
二人を拾って10年も過ぎた頃。
起きるのもだるい真冬の朝。
門下生が来る前に胴着に着替えて真改とアンジェは向き合った。
たかだか12歳前後の男の子と17歳の女性では敵うはずも無い。
だがあくまでそれは身体スペック上の話。
剣道はあらゆる武道の中で最も体格が関係が無いと言われる。
既に試合開始から20秒…構えたまま真改は動かず、アンジェは明らかにいらだっている。
(やっぱ筋がいいな)
二人に剣を教え始めて7年。傭兵を始める前と後を入れても真改ほど筋のいい剣士は見ていない。
左手を臍の上でぴたりと止めて切っ先は自分より20cmは高い面の向こうのアンジェの眉間に突きつけられ動いていない。
右手は添えられるだけで力は入っておらず、袴に隠れた足元は右前左後ろの形を正しく保ちながらすり足で少しづつ間合いを近づけていっている。
一方のアンジェは剣を突き付けられながら苛立ち竹刀を弾いたり揺らしたりしている。
自分より背の小さい真改に何故打ちこめないのか。
答は完全に正中線に保たれた構えにある。どのような奇策を弄しても有効打となる頭、右手、喉、胴への攻撃は最小の動作で捌かれてしまい隙を作ることになりかねない。
さらに言えば下手に打ち込めば突きつけられた竹刀に自分から刺さりに行くことになってしまい普通はそれだけの覚悟はまず持てない。
じりじりと縮められている間合いは横から見れば一目瞭然なのだが、目元に突き付けられた竹刀は点としか見えず、結果として近づいていることが分からない。
足を見ようにも袴で完全に隠れてしまっているのだ。
(奇策を弄するよりも結局基本に忠実なのが一番理に適ってる…俺がそう悟ったのはいつだったかな)
既にアンジェも真改も道場で敵う相手はいない。自分を除いてだが。
そのアンジェすらも今日、真改は食おうとしている。
もう真改の間合いに入っている。なのに真改が打ちこめないのは何故か。
アンジェから漏れてくるただならぬ殺気のせいである。およそ健康的なスポーツには似つかわしくない粘ついた雰囲気。
生まれつきの気質かどうかは知りようもないが、アンジェは剣道を教えた頃は相手を圧殺せんばかりの殺気を発していた。
真改の剣が理の剣、美しさが宿っているとすればアンジェの剣には魔が籠っている。
刺すような寒さ、外は雪だ。
だというのにほとんど動いても無い二人は汗をかいていることが面の外からもうかがい知れる。
理か魔か。二人の年が逆だったのならば間違いなく真改の理が大人が子供をあやすように制していただろう。
(…動く!)
アンジェの脚が爆発し突き出すような面。沿えるだけの右手は雑巾を絞る様に内側に捩じられており文句の無い面だった。
(フェイントだ)
岡目八目…ではなく真改も察していた。殺気が切っ先に乗っていないし、何より声が出ていない。
力点は左手…の下の腰にあった。あのまま腰からぶつかり鍔迫り合いの後に場外に押し出すつもりだろう。
無論、体格で劣る真改はそれに拮抗できるはずも無い。
剣道は竹刀を落せば落とした方が、場外に出たら出た方が反則となる。
戦場で発展した武道と考えれば、武器を落とした時点で死ぬのは当然のこと。
断崖絶壁の上だと思えばいかなる言い訳を用意しても外に出た時点で死である。
二回の反則で一本、二本先取で勝負ありとなる。
(うまいな…)
真改も鍔迫り合いに応じると見せてするりといなしてしまい、アンジェが大きくつんのめる。
体勢を崩しながらも素晴らしい速さで放たれた面を、真改が首を曲げながら大きく子供らしい声とは裏腹にえげつない小手を決めた。
声も出てしっかり抜けて残心も問題ない。間違いなく一本である。
「小手あり」
「く…」
「……」
剣道に体格は関係ない。
実力が低ければ体格差に押されることもあるだろうが大事なのはスピード、当て勘、動体視力である。
身長差があればそれだけ当てやすい部分と当てにくい部分が出てくるし、体重から来る当たりの強さも力学を理解している者ならば簡単にいなしてしまう。
それらを証明するように剣道には他のスポーツでは当然の階級差が無い。牛若丸と弁慶の話を思いだして竹光は静かに笑った。
特に真改は当て勘に天賦の才があった。アンジェの面を首を曲げて肩で受けながら不自然な体勢で放った小手は見事に吸い込まれていき小気味よい音を立てた。
「二本目…」
「待て」
「?」
「納得がいかない」
「当たってたの分かってるだろうが」
「……」
「そうじゃない。私の一撃が先に首を斬り飛ばして勝っていたはずだ」
アンジェの言葉に合わせて真改が文句を言うように首をこすった。あれは確かに痛かっただろう。本物の剣だったら今頃真改の首は足元に転がっている。
「あのなぁ~…これは剣道だから」
「それが間違っていると言うんだ!!剣の道の癖に何故ぴしぴし打ち合う?一の太刀にて全てが決まるのが剣だろう?」
「……」
「まぁそれが間違っているとは言わねえよ。お前が真剣に剣に挑んでいるのも知っている。ただ真改の剣には理が…」
「理があるのはわかっている。だがそれではダメだ。ダメなんだ…」
ぶつぶつと言いながらアンジェは小手を外し面を外し胴紐もほどき始めた。
「…何?」
(馬鹿だなぁ、ほんと)
考えていることはよく分かる。アンジェが求めているのは本当の剣。それを丈夫な防具に守られ安全な竹刀で得られるはずがないとか考えてしまっているのだろう。ねじが飛んでいる。
真面目か不真面目かは今はもう非常に答えにくいがそれでも割と長い事剣の道に携わってきた。真改は確かに随一の才能があるし、それだけでも剣道の盛んな日本に行っておけばよかったと思ったくらいだ。
だがアンジェの剣も見たこともないような鬼気迫る迫力が籠っている。それを『剣道』で出し切るのは難しいだろう。
「何しているの…?」
「黙っていろ」
(本物のアホだ)
今度はするすると剣道着まで脱ぎ始め袴だけになってしまった。
下着を着けていない白い肌の上には柔らかな双丘と痛ましくうねる火傷の痕が自然の作った刺青のように浮かんでいる。
初対面時の感想通り美しく育った顔に高く縛った金髪という完璧な健康武道少女の美をその傷がさらに際立てている。
これならばあらゆる男どもから言い寄られよう。
噛み殺すような視線とぎりぎり食いしばられた口元を無視できるのならば。
飲む打つ買うの乱れた生活をしていた竹光も女は大好きだったが不思議な事に美しく育ったアンジェに対しては食指はぴくりとも動かなかった。確かに美人だと認識しているのに。
病気の日には、どうせ仕事があるわけでもないしと誰に聞かせているのかわからない言い訳を呟きながら一晩中傍で見守り、
寝小便した日にはガキがあんな目に合えば仕方ねぇよな、と言いながら下着を洗い風呂に入れ、
気が付けば自分の白髪が増えるのと同じくして初潮が来て、胸が膨らんで、四肢が伸びやかに育って。
そんな日々を毎日見てきた竹光に劣情が起こりようはずも無かったのである。
そう、いつの間にか親心が芽生えていた。
「さぁ、二本目だ」
ぶんぶんと空を裂く音と共に素振りをしてから言う。
「怪我するよ…」
「やってみろ」
「ダメだよ姉さん」
「姉さんと呼ぶな!!」
物心ついたときから一緒に屋根の下で暮らしている者を姉と、父と呼んで何が悪いのか。
真改は自分を父と呼びアンジェを姉と呼ぶが、その度にアンジェは自分を姉と言うな、と怒るか無視を決め込んだ。
ある日どうしてなのか、と聞いたら「知るか。呼ばれたくない訳じゃない。ただダメなんだ」と返された。
元々こういう性格なのか、やはりあの日歪んでしまったのか。とりあえず今のアンジェは理屈の通じない馬鹿だとしか説明できない。
「来い」
「知らないからな」
口では強気な事を言いながらも真改の剣先からは凛とした気が消えてしまっている。
迫力に食われてしまっているのだ。
(ヤバいな)
姉弟のつもりで育ててきたというのにアンジェの手には一切の情も映っていない。
真改は剣に好かれているがアンジェは憑りつかれてしまっている。
「だ、ダメだ…姉さん」
「真改ぃいいいいぃい!!」
裂帛の怒喝と共に面一閃。鮮やかな一撃は速やかに真改の意識を彼方へと消し飛ばした。
「マジかよ…お前…」
面を受けるとともに気を失い前に倒れた真改の面を外す。
後頭部から倒れなくてよかった。面の上から意識を奪う程の威力は無かったはずだが…気合だけで意識を食ったのだ。
脱ぎ捨てられた剣道着を枕にして寝かせておく。
「クソォオッ!!ダメだ!!ダメだ!!」
「何がダメなんだ。もう終わりだ。朝飯にするぞ」
「ふざけるなよ…次はお前だ竹光」
「はぁ?はぁ…」
ぽい、と真改が落とした竹刀を放り投げてくるアンジェ。
「竹刀を投げるな…。それに長さが違う。ちゃんとサブハチ使うから」
真改の横に竹刀を置き、神前に置いていた三尺八寸の竹刀の傍に座り手ぬぐいを頭に巻き始める。
「いらないだろうそんなもの」
「なんだって?」
「私はつけない。お前はそんなものをつけるのか」
「……」
意地になっているな、とは自分でも思ったがつい言葉に乗せられて防具をつけずに向き合ってしまう。
「…ふぅーっ…」
(う…お…なんてヤロウだ)
立ち上る汗の蒸気が陽炎のように剣先を歪めていく。
先ほど真改に切っ先突きつけられてイラついていたのが嘘のようにピシリととどまり動いていないのに歪んで見えると言う矛盾。
(ダメだ…目を…)
剣先に吸い込まれるような錯覚を打ち払う為に視線を目に移す。
「……」
(…う)
額の汗が目に入っても瞬き一つしていない。
猛禽類のような目でこちらを睨めつけてくる。
(俺が…この目を作ったのか)
戦場から拾ったころは普通の生活をしながらも半死人のような目をしていたのに今のこの目は…自分の命までも欲している。
…ダメだ、打てない。
脚が竦んで打てないし、昨日今日会った奴ならともかく十年寝食を共にしたアンジェを打つことは出来ない。
なぜ?お前は出来るんだ、そんなことが。
「参った。降参」
「なんだと…」
切っ先は下げたが戦闘から心を離していない。自分が構えた瞬間にでも打ちこんでくるだろう。
「ダメだ。戈を止めると書いて武だと言ったろ。お前の武にはもう勝てん」
「戈で止めるとも読めるだろう。さぁ!!」
「いいや、ダメだ」
「子なんて思わなくていい!!親だと思っていないから!!私を殺しにこい!!」
(参ったな…見抜かれてやんの…)
竹刀の先に情が映っていたのを見たのか、道場の床を踏み抜かんばかりの地団太を踏む。
どうしようか、と助け船を探し見回すがまだ朝7時前。助け舟どころか鳥の声すら朧だ。
「…うぇ…」
「お!真改、大丈夫か大丈夫か!?」
ふらふらと起き上がった真改にわざとらしく駆け寄る。
別に脳に深刻なダメージがあったわけでは無かったのだから直ぐに起きるのは当然だ。
「もう剣道は飽き飽きなんだよ…」
「なんだって?」
「剣術を私に教えろ、無外流居合術免許皆伝、井上竹光」
「…え…?何?」
突然の展開についていけなくなった真改が年相応の呆けた声をあげた。
「参ったな…お前…何になりたいんだよ…」
曽祖父の代からある道場の裏の家の一室、書斎。
書斎としては全く使わずに自分は物置にしていたがそこに真改やアンジェが入り込んでカビた本を読んでいるのは知っていた。
まぁ本なんだし読んだ方がいいだろうと思い放っておいた。幸い教育に悪い類の本では無く剣術指南書やら思想書やら時代小説やらだったのだから。
しかし、ブン投げておいた印可目録まで見られていたとは。
「何に、だと?」
ビシビシと、整った顔が崩れていき歯を剥きながら目が歪む。剣に狂う者の目だ。
まさかこんな時代にそんなのを見るとは思わなかった。
「……」
姉と呼び慕う女性の顔が変貌していく様を、次の言葉は真改の心の奥底まで刻まれることになる。
そしてそのただ一言が真改の人生までをも狂わせた。
「天下無双」
その表情の奥深くには人の命を喰らう魔物が棲んでいた。
(悪影響…受けてんね…)
何を読んでそんなことを言い始めた?
しかも夢見がちな子供が遊び半分に言うそれとは違う。臓腑からの響きが言葉に籠っている。
(……)
美人なのだから、放っておけばそのうちいい男を捕まえて幸せになると思っていたのだが。
自分は一体何を作り上げてしまったのか。
「さぁ…早く!!」
「はぁ~…ちょい待ち」
これは下手にのらりくらりと躱し続けるよりも一度心を折っておいた方がいい。
そう判断して、道場の端の板を剥がし始める。
「父さん、何してるの」
「いやぁ~…」
いつの間にやら、子供たちが寝静まった後に女を買いに行くのではなく、夜な夜な研ぐようになっていた先代の宝を取り出す。
「それは…」
「なんでかなぁ…こうなることが分かっていたのか…期待していたのか…馬鹿だねぇ俺も」
木箱に収められたそれは、紫の幔幕と見紛うばかりに美しい柄を鈍色の柄頭が支えており、妖しく光る鶴丸の鍔が舐るようにこちらを見る。
「日本刀だ…」
真改が呆然とした様子でぽそりと言う。
「見ろ」
鞘から抜いた刀身には見ているだけで眩暈を起こすような直刃が浮かび、粒が細かくはっきりと華やかな沸が見る者全てを魅了する。
「……」
「俺の先祖も先祖…大先祖の井上真改…の大阪正宗…」
ぎょっ
真改とアンジェ、二人して思い切り目を剥いてぎょっとする。
他に話は無いのかと思えるくらいには酔っぱらうと必ず話していた先祖の刀工の話。
半信半疑ではあったが、田舎だとしても日本以外に立派な道場を構え、竹刀を持って相対してもかなり手加減されているのが分かり、
おまけにこの間書斎でトイレットペーパーのような家系図を見つけてしまった。流石に信じざるを得なかった。
とどめにこの刀である。まさかあれは…
「…に憧れた俺の曽祖父が打った三尺三寸の大太刀、『木洩れ日丸』だ」
「なんだ」
肩透かしを食らい一気に気が抜けてしまうアンジェ。だが、偽物の刀にしては随分と、と思った。
「そうだ。模造して作られたとは言え執念に近い物が籠っている。分かる奴に売れば多分ン万ドルにはなるだろうな」
「…すごい」
「…はっ。老後の年金代わりにとっておいた方がいいんじゃないか」
「馬鹿野郎。ガキどもにおまんまの心配されるほど年食っちゃいねえ。まだ47だ。(ん?48だっけ?)」
「…で、いきなりそんなものを出してどうしようと?」
(…興味無さそうなフリしてもばればれ。目が刀を追っちゃってるぜ、アンジェ)
「どうせ俺のことヒゲ無職とか思ってんだろ。天下無双だが弁膜症だか知らんが世の中の壁の高さって奴を教えてやる」
「そこまでは思ってないんだが」
「……どうするの?父さん」
「庭に出ろ。真改もだ」
道場で今の今まで稽古をしていたのだから当然だが、竹光は裸足のまま外に出る。
「……」
「……」
三日前に降った雪が何にも踏み込まれた跡すら残さずに残っており、裸足で踏み込むと少しだけ足が沈んでジンとした。
「木洩れ日は木の葉の間を縫う光。それに倣う柔の刀が木洩れ日丸だ。居合いは柔と速の力学の世界。よ~く目ん玉ひん剥いて見とけよガキども」
自分が先代から言われていた言葉をそのままに子供たちに伝えて帯の左側に鞘を入れて帯刀する。庭にいくつも生えている竹の前でふぅ、と息を吐いた。
「一世紀…本流から外れて大分変っちまったかもしれんが、それでも大筋は変わらねぇ。初の太刀で制し次の太刀で殺す、居合い」
「……!」
アンジェがただの酔っぱらい無職だと思っていた竹光を中心にざざざと風が流れる。
いつの間にか普段の尻の位置にまで下げた腰、支える左脚に伸ばした右脚。
「す………はぁ…」
(!!)
右手が完全な弧を描いて左手の支える木洩れ日丸へと伸びた。
ザザンッ、と平和ボケした田舎に似合わない鋭い音が乾いた朝の中に響いた。
「つむじ風。どうよ」
「……!!」
「……」
真改は口と目を大きく開いてあんぐりとしているがアンジェは目を閉じていた。
今の光景を忘れないように瞳の裏へ焼き付けようとする、半分以上本能からの行動だった。
刀身が鞘から抜けた瞬間には最高速度で竹の間をすり抜けた。
問題は次だ。鞘に添えてあった左手がいつの間にか柄を握って返す刀を斬撃にせしめた。
初太刀の斬撃の速度。次太刀の両の手からくる重さ。速さと重さで作られるエネルギーは、二つの太刀を完全に同等の斬撃にしていた。
その証拠に。
(斬れた竹が…落ちていない…)
斜め下から斬られ、次に斜め上から一閃。
全く同じ斬撃でなければ切れた竹は倒れて雪に埋もれていただろう。
「まだだ」
「え…?」
「何?」
庭にあるあまり足を入れない倉庫へとごそごそ入り何やら取り出す。
「ほいっ」
最初と何も変わらず立っていた竹を指でつつくとそれだけで倒れ葉にかかった雪が落ちてきた。
「何をしている?」
「まぁまぁ、見てろや」
するするすると慣れた手つきで斬った竹に畳表をくくりあっという間に何かのオブジェクトを作り出す。
「なにこれ?」
「…!これは」
(アンジェは気づいたか)
青竹を畳表で巻き、きつく縛った物は試し切りによく用いられる。
と、いうのもその感触が人体に非常によく似るからとのこと。
(人なんて斬ったことないから知らんがね)
竹光は意地悪く、大人げなく笑っていた。
「……」
「……」
「ほら。斬ってみ。人と同じくらいの固さだ」
鞘に納めた木洩れ日丸を手渡し、巻き藁の前に立たせる。
(まぁ無理だろ。巻き藁は俺だって2回に1回はしくじるんだ)
肉を切らせて骨を断つとの言葉通り、人体を骨ごと一刀両断するのは並大抵のことでは無い。
大抵は肉に勢いを殺され骨に食い込みもう刀は使えなくなる。
さっきの素竹の居合いですら成功するか内心ドキドキのヒゲ無職だったのだ。
さらに意地の悪いことに、あの見せた技。あれは竹光が先代の構想からヒントを得て10年以上かかってようやく完成させ、それでも精神統一に1分以上かかる超難易度の物。
おまけに剣の重さを利用して引き斬る通常の斬撃とはかけ離れた、斜め下からの速さだけの初太刀。
一回見ただけで出来るはずがない。
底意地は悪いが、これで剣への変な思いは捨てて普通の女の子に戻ってくれたらいいのだが。
(………戻って…?)
戻るとは何だ。最初に会った時から血にまみれていた少女だったというのに。
「!」
「姉さん…」
「……」
(…なんてことだ)
居合い…つまり鞘から抜いて斬る動作しか見せていないのに、最初から抜いて両手を額の高さへ構えた大上段。
あれならば振り下ろす事だけに意識を集中すればいい。女の細腕でも十分な速さが乗っていれば刀身の重さだけで食い込んで、後は引くだけで両断出来る。
(勘か…?最初からあの形を選び取るとは…)
「…………!」
ザザンッ、再び響いた音は、不思議と最初の物よりも粘度の高い音だった。
「これで満足か?」
「うおぉ……」
(燕返し…!)
初太刀は振り下ろす事だけに意識を集中し、振り下ろした刀を手首の動きだけで返して振り上げる。
完全な次太刀だった。
「……ダメだな。私は人が斬りたいんじゃない」
「え?」
「なんだって?じゃあ何がしたいんだ」
「強い奴を斬りたい」
「ね、姉さん…」
(壁の高さを見せつけるつもりが…大失敗だ)
完全に目覚めてしまった。いや、見誤っていたのか。ただ憑りつかれていたのではなく、本物だったという事だ。アンジェの剣への渇望、力への欲求が。
「…飯にしよう、とりあえず」
「これは?」
「…お前にやるよ。持っていてもどうせ使わん」
「…ふん。用意してくる」
「父さん…」
「……」
もうアンジェがこれからどこへ行き、どうなるのかが完全に分からない。
いや、最初から分かっていなかったのかもしれない。ただこうあるべきと自分で決めつけていただけか。
「父さん…姉さんは一体何になりたいの?どうしたいの?」
「……ちょ、そこに座れ真改」
縁側を指さし座らせて自分も隣に座る。
言葉も覚えていなかった子供がよくもまぁこんなに大きく育ったものだ。
「俺は…お前らを拾うまで長い事傭兵をやってきたから分かる」
「……」
「あいつを拾った時…まだ物心もついていないお前を抱えてたった6歳のあいつは…大人ですら生き残れないような生き死にの際をくぐってきた」
「…どういうこと?」
「まぁ聞け。ちょくちょく話したろ。俺たちが焼き尽くしたあの国の生存者は0。お前ら二人を除いてな。そんな死線をガキが経験したらどうなるか…」
「……」
「精神がイかれちまうんだ。二つあるが、どっちかにな」
「二つ?」
「一つは壊れること。もう一つは…生きている実感が無くなること。こうなると、命のやり取りでしか命を感じ取れなくなっちまう」
「……」
「というかね。ちょくちょく生まれるんだよ。生きながらにして生きている実感が薄い奴。生死の境を見なきゃ命が実感できない奴。でもな、大抵は自分がそういう生き物だとは分からない」
「どうして?」
「分かるときがまさしく命の危機だからよ!分かった時には死んでる。でもな、そういった危険な時にこそ頭が冴え、生き残り勝ち残ることに全神経を向けられる奴がいるんだ。それがアンジェみたいな奴」
「……」
「さっきも言った通り…長い事傭兵やってきたからわかる。そういうやつをたくさん見てきたが、たいていはすぐに死んじまう。臆病なくらいがちょうどいいんだ。長生きするには。だから…」
「……父さんは」
「ん?」
「姉さんに普通に生きてほしかったんだね」
「……」
素直に慕ってくれる真改に救われているような気もすれば、一緒にいると湧き上がる後ろめたい気持ちを、突き放しながらも自分を憎んでいる訳では無いアンジェが消し去ってくれているような気もする。
矛盾しているのだろうが、そんなアンジェに普通に生きてほしかった。
「姉さんは…俺のことが嫌いなのかな…いつもいつも…」
「いや…そうじゃないよ。あいつは俺を憎んでいる訳でもお前を嫌っている訳でもない」
「じゃあなんで?」
「…分からん、俺には。違う生き物だから、とか大馬鹿だからとしか言えん。燃え上がってやりどころのない感情を…天下無双というただの言葉にぶつけているだけ…そう、思っていたんだがな」
「…俺、姉さんと話してくる」
「料理の邪魔してやるなよ」
「……」
分からない。分からない。
同じ屋根の下にいて、同じように育って、どうしてあそこまで自分と違うのか。
父や姉の剣に憧れ必死に素振りをし身体を鍛えてきたのに、姉の剣とは全く違う。映る物が違う。
『天下無双』ってなんだ?一体何になりたいんだ?
「……なんだ、真改」
「……あ」
味噌汁温めながらねぎを刻むアンジェの横顔には竹刀や剣を握っているときのような鬼気がなく、普通に美人だと思える。
少なくとも真改が関わってきた大人や、すれ違ってきた女性の中では一番美しいはずだ。
「ね、…姉さんは」
また無視されている。でもいい。とりあえず耳に音は入っているのだから、言葉を続ける。
「美人なんだからさ…彼氏とか…」
「真改!…いや、いい機会だ言っておく」
ダン、と音をたてながら強くまな板に包丁を叩きつける。
「……」
「そんな物じゃ…まるで埋まらない…心が満たされないんだ…命が感じられないんだ。…下らん」
「…どうして、姉さんって呼んじゃダメなの…?」
「知らん。…いや…。お前は強くなるだろうよ。才能がある。その時に竹光みたいに変な情を持ち込まれては困るんだ…多分…だからかな…そうなんだろうな…」
ピンポーン
「……?」
ぶつぶつと何事かを言いながら必要以上にねぎを刻む姉の手を止めようとしたとき、滅多に聞こえないチャイムが鳴った。
「…何故道場の入り口では無くこの家の呼び鈴が鳴る?」
「俺が出る」
玄関へと向かい少し考えて、まぁ胴着のままだし裸足でもいいかと扉を開くとそこには田舎に似つかわしくないスーツで身を固めた男がいた。
「…という訳で我がレイレナードは適性者を探し回っているのです」
突然訪れた男はレイレナードから来たと言い、慣れぬ座布団の上で靴を脱いであぐらをかいている。
「さいですか」
そんな珍しい客を竹光はめんどくさそうに応対していた。
「……」
「……」
「無論、検査に協力してくれるだけでも謝礼は十分に致します。適性が無くてもよし。あっても協力する意思が無ければそれでもよし。要するにどういった人物に適性があるのか、データを集めたいのです」
「はぁ」
「……」
「……」
「是非…」
「帰ってくれんか」
「何故です?」
「レイレナード…ずっと北にある湖にけったいな建物おっ建てて喜んでた戦争屋だろ。見ての通り…ここには子供とヒゲ無職しかいない」
それよりも気になっていることがある。
その適性を持つ奴を探すというのはまあいい。企業に携わる者…特に私兵を中心に調べ終えたら次は近くの街に金をチラつかせながら降りていく…ここまでは想像がつく。
こんな奴が来ているならば、こんな田舎だ。すぐにでも噂になるだろうに全く耳にしなかった。
いの一番に自分を尋ねてきた、その理由が気にかかるのだ。
「長い間…戦場で生き延びた傭兵、タケミツ・イノウエ。是非、あなたに協力していただきたいのです」
(やっぱりね)
先ほどの話では適性というのは完全にランダム。適性があったとして戦争のせの字も知らない青びょうたんではそのネクストとやらを操れるのかも怪しい。
だから先に自分のようなベテラン含む、戦争経験者を訪ねて回っているのだ。他の企業との取り合いになる前に。
「……」
「……」
「今はただのヒゲ無職だ。アルコールにやられてまともに操縦桿も握れねーよ」
「ネクストならば関係ないのです!脳髄さえあれば!地上最高の力を手にできるのですよ!そのチャンスを…」
「私が行く」
「は?」
「姉さん!?」
「強い奴と…戦えるんだな?」
「それは…はい、適性があれば…」
「行こう。止めるなよ。結局あんたは親じゃないんだ…とは言え」
「アン…」
自分でも何を言おうとしたのかは分からなかったが、とにかく何か言わなくてはと思い名前を呼びきる前にアンジェが自分の目の前で姿勢を正し正座をする。
「……!」
「姉さ」
「ここまで育てて頂いた恩は一生忘れません。十年間、ありがとうございました。私は家を出ます」
綺麗に手をつき深々と下げた頭から垂れる金髪が床板に広がる様を見て、竹光も真改も何も言うことが出来なかった。
その晩。
アンジェが作っていった最後の味噌汁を啜りながら真改と竹光は向かい合って座った。
「間違えたなズズッ」
「え?何?」
味噌汁をすする音でよく聞こえなかった。
「育て方…というより」
「?」
「生まれた時代を…千年ほど」
「……」
「引き金一つで100からの命が消し飛ぶ時代に…刀の一対一のやり取りで最強を決めたいなんて…時代錯誤もいいとこすぎる。そう思うだろ?アホだと思うだろ?」
「…うん」
「でもな…」
「え?」
「剣に生きて剣に死ぬ…そんな馬鹿が一番溢れかえったのが…矢だの鉄砲だのが戦場で跋扈し始めたときだったんだよ」
「……」
「何事も…消えゆくときは派手に美しくってか?ハハハ…アホだな…ほんと」
「父さん…泣いて…」
「あいつの味噌汁…最後まで…しょっぱかったな…料理も出来ねぇ女なんざ…」
「……」
二年の月日が経った。
その間、報せは無くとも毎月必ずレイレナードから金子が送られてきた。
本当にリンクスとかいうのになってしまったのか、あるいはレイレナードに就職でもしてノーマル乗りにでもなったのか。
父はたった二年でぐっと老けこんだ。酒で手をやられたとか、そんなことは全然なく、48にして30後半と言っても差し支えない程若々しく強かった父の背は見る見るうちに丸まり…
背はいつの間にか自分の方が高くなっていた。今の父は還暦過ぎた老人と言われても分からないだろう。剣筋にも艶が無くなった。
とうとう、送られてくる金には一切手を付けなかった。
その間に世間ではとんでもない事件が起こった。
あの時にレイレナードの男が言っていたリンクス…そのリンクスがたった26人で世界を敵に回し、国という概念を破壊してしまった。僅か一か月の間のことである。
通貨と管理者は変わったものの、平和ボケした田舎町自体は大して変わらなかった。
通貨が変わったといっても、地元ではそのままカナダドルが使えるし、企業通貨のコームにも変えてもらえる。
管理者が変わっても下っ端役人は変わらないし、全世界を巻き込む戦争が起こったというのに何かが壊れたようには見えない。
姉はどうしているのだろうか。
天下無双とかいう妄言を今も追っているのか。途方も無い現実に飲み込まれてしまったのか。
それでも金は送られてくる。父はただ酒を飲んで管を巻く。
そんなある日。
『悪しき体制に終止符 国家解体戦争から三か月』
「……」
日課の素振りを終え、手首の柔軟性を高めるために酒瓶を左手で掴み手首でくるくると回しながらなんとなくテレビを見ていた。
「……」
「……」
「……」
画面に映るネクストは常識では考えられないような動きをしながら国の防衛網を突破していく。
その中で一際鮮烈な戦い方をする一機を見たとき口をついて声が出た。
「…姉さん!?」
「!?ど、どけ!真改!!」
後ろでぼんやりと酒を飲んでいた父がテレビの前まで這い寄り食い入るように画面を見つめる。
「これ…姉さんだろ…親父…」
「あ…う…あ……」
歴史に名前を刻んだ26人の名を美辞麗句で飾りたてるテレビの中の女は三か月前までは企業を名指しで批判していた記憶がある。
いや、そんなことよりも。
「No.3アンジェ…間違いない…姉さんだよ親父…」
「あ、あ…おう…おう…」
「……!」
報せは無かったし、今どうしているかな、なんてぼやくことも無かった。
だが父がどう思っていたのか、それはくしゃくしゃにした顔から零れる滴が雄弁に語っていた。
それでもやはり手紙の一つも来ないし、姉は姿を見せなかった。
各地で勃発するテロは国があった頃とさして変わらない…いや、もっとひどいようにも見えた。
噂ではアフリカの方ではネクストが反企業勢力として戦っているらしいし、最後まで国の方について戦っていた最強のレイヴンも未だに戦い続けているらしい。
国家解体戦争から十年。地球の環境は明らかに悪化していた。
真改二十三歳の夏。
父から免許皆伝を受けた。あの時見た居合い術含め、父の持つ技で自分が再現できない物は何一つない。
ここ無外流居合術道場五代目当主は自分。自分は強い、誰よりも。だというのに。
只管剣に打ち込んだが、姉の言っていた事は見えてこない。天下無双?何故?姉は強かった。それではダメなのか。何をそんなにこだわる?
何故そうまでして戦いたがった?何のために?
(何故…?)
一番強いのは自分だし誰よりも剣に打ち込んできたというのに、何故自分は未だに姉の背中を追いかけているのだろうか。
悶々とした思いは何万回素振りをしても打ち払えない。
邪念、邪念、と思い続けてきたがもしかして邪念では無く、それこそが剣の道の正道なのか。
答える者はいない。一番強いのが自分なのに誰に聞けると言うのか。
そんな自問自答を繰り返して数年後のある日、報せが来た。ただ金が送られてくるのではなく、しっかりとした文字の含まれた報せである。
それを見た瞬間、父を引っ張り車に乗せて田舎道を北へと飛ばした。
姉が意識不明の重体だというレイレナードからの報告だった。
「姉さん!?」
「アンジェ!」
「……」
酸素補給機に繋がれ、右目を横切る様に施された包帯にはほんのり血が滲んでいる。
一通り手術は終わったが意識が戻らない…そういう話だった。
「……うぁ…」
「アンジェ!しっかりしろ!コラ!」
「……」
大人の顔…いや、多少肌に張りが無くなったし髪の艶が減った気がする。
当たり前だ。最後に会った時からもう14年経っているのだから。
酸素補給機の内側が曇らない。自律呼吸がほとんど出来ていないのか。
「姉さん!!何やってるんだ!!おい!天下無双になるんじゃないのか!!姉さん!!」
「……」
「ふざけるな!!こんなところで!!姉さん!!」
「……」
「お、お、俺の方が」
全く反応しない姉に何故その言葉をかけたのかは今となっては分からない。
ただ、後になって思えば姉を叩き起こすのにはその言葉しかなかった。それは自然と口にしていたのだろう。
「俺の方がもう…強い、姉さん」
「……………姉、さんと…呼ぶな…」
閉じられっぱなしだった左目がぎょろりと真改を睨んだ。
大人になっても、目だけは変わってない。
「アンジェ!?」
「姉さん!」
「……………老けたな…竹光……お前…真改…?なのか…?」
「バカ野郎」
「そうだ…姉さん…」
「姉さん、って…呼ぶな……いくつだ…今……」
「25だ。免許皆伝も受けた」
「……戦って戦って……そんなに時間が経っていたのか……はっ…」
目つきが朧になり、また意識が飛びそうになってるのを見てヤバいと思ったが先に父が声をかけていた。
「誰にやられた?こりゃあ…戦闘の傷だな?」
「ふっ…ふっ…うっ…伝説…最強のレイヴン…伊達じゃなかった…」
「レイヴン…!?」
「ノーマルにお前がやられたのか!?あんな化け物に乗って!?」
「強かった…本当に強かった…命!命が…実感できた…!私、うっ…は、あの男に会うために生き延びて…戦って…ここまで来たんだ…」
「……マグナスか!!生きていたのかあの野郎!!」
「斬った…ふぅ…」
「!勝ったのか、姉さん」
「この手で斬った…はっ、…ははっ…本当に強かった…何故…」
「……?」
「何故あいつは…レイヴンなんだ…?…もう…もう…いないのか…あいつは…」
「!!」
「アンジェ、おい!!」
すぅ、と薄く息を吐くと同時に一粒の涙がアンジェの目から零れていく。
「つまらん……」
「お、俺が!俺が姉さんを殺しに行く!!」
「真改…?」
「…はっ…本当、か…」
閉じかけた目に再び光が宿り真改を睨んでくる。
薄く消えようとしていた命が嘘のようだ。
「本当だ!だからそれまで死ぬんじゃない!」
「はっ…はは…」
「……」
暫くの沈黙。父はただ黙ってアンジェの顔を見ていた。
「ふっ、くっ…殺しに…来い…」
再び閉じられた瞼だが、その顔からは死に行く者の弱さは消えていた。
この瞬間、真改の行く道は決まったのだった。
「親父、これ」
「………本気か」
容体は安定し、病室の外へと追い出された。
車のキーを押し付ける。このまま戻る気は無い。
「本気だ。…アンジェを止めるのは俺しかいない」
「……雑魚を幾ら斬ったところで満たされずに今日までひたすら殺し続けてきたんだろう」
「…?」
「全力でぶつかる相手がぶつかってようやく命が見える。で、殺して殺して…一人になる」
「……」
「自分の強さを示さないと強いと分からない…生きていることが感じられない。アンジェは世界一弱いのに強いという矛盾を抱えて生きてきたんだろうよ。そしてこれからも」
「…親父?」
「俺ぁ遊び人でな。酒も女も博打も好きで…家族なんて考えたことも無かった。だが…お前に父と呼ばれる日々…悪くなかった」
「…ああ」
「戦いの中で生まれて剣で育ったお前達が、いずれは戦場に戻るのは、あるいは定めだったのかもしれん。行け…アンジェの所へ。…出来るなら殺さずにケリをつけろ」
「今までありがとう、親父」
「…元気でな」
小さくなった背を丸めて去っていく父をいつまでも見つめていた自分は何を考えていたのだろうか。
こうして、唐突に出来上がった奇妙な家族は離散した。
ネクスト…ノーマル…どちらでもよかった。
もう躊躇わない。姉の背中を追う。理では突き詰められない鬼気を凝縮したかのようなあの剣を、姉の追い求めた理想をこの手に。
どういう運命のいたずらか、万人に一人の才能、AMS適性が真改にはあった。
三年の厳しい訓練の後、彼はレイレナードのテストパイロットとなった。
厳しいと言うのは客観的な評価であり、真改にとっては今一つ厳しいとも思えなかったが。
当初はネクストに標準的な装備が付けられ、それなりの成果は出していたものの、真改としてはイマイチだった。
トレーナーから言われたように頭の中でコックピットをイメージするよりも、何十万回と剣を振り続けた手をイメージした方がずっと上手くいく。
元々があまり口を開くのが好きな方ではない真改はそれを言うべきか言わざるべきかテストパイロット生の寮で悩んでいたある日。
「……?」
なんだか騒がしい。良くも悪くも個性的な人物の多いリンクス候補生が一堂に騒ぐような物などあるのだろうか、とちらりと騒ぎの中心に目を向ける
「…!」
木洩れ日丸を腰に差しゆらりと歩くその女の顔には流れるような金髪がかかり、右目にかかる眼帯にはネクスト『オルレア』のエンブレムが象られている。
(アンジェ…!)
自分がレイレナードに所属してからも一度も会いに来ることは無かったのに何故?
現存するリンクスの中で最も魅力のある戦い方をする、あらゆる兵士の憧れのリンクス。
ついに始まった企業同士の戦争でも既に何人もの敵ネクストを撃破しており、確実に勝てる作戦を組んで複数戦を仕掛けるベルリオーズよりも一対一ならば強いのではないかとすらまことしやかに言われている。
きらきらと分かりやすい目で憧れの視線を投げかける女性社員に薄く笑いながら手を振ると黄色い声が上がった。
(擬態…)
企業の中で生きていくうちに抜き身の殺気を隠す方法を覚えたのだろうか。
上手い事演技をしているが猛禽類のような目だけは変わっておらずにこちらに一直線に向かってくる。
「いい男になったな真改」
目の前で立ち止まり日本語で話しかけてくるアンジェの姿に周囲は首を傾げている。
突然耳慣れない言語を口にしたのもそうだろうし、何よりも周囲と全く交わらない自分に話しかけているのが不思議で仕方ないのだろう。
「アンジェ…」
「…これは免許皆伝のお前が持つ方がいいだろう」
「……」
突き付けられた木洩れ日丸にはかつて見られなかった禍々しさが宿っている。
一体どういう使い方をすればここまでの妖気を帯びると言うのか。
下緒におよそ趣味とは思えないような銀色のペンダントのような物が巻き付いているのが気になる。
「お前に私の月光をやる。…ずっと思っていた。木洩れ日…日の光など血には似合わん。屍に照り返す月の光こそ刀の名を冠するのにふさわしい」
「……ムーンライトを?」
「予備の二本だが、もう必要ない。もし次の戦いを生き残ったならば私はレイレナードを抜ける。最早ここにいては敵を得られない」
「……」
「私を殺しに来い、真改。もしも私を殺せたのならばその時は…天下無双を名乗れ。この世でお前に勝てる人間はいないだろう」
「アンジェ…」
「はっはっ。ようやく…姉さんと呼ばなくなったな…それでいい。それでいいんだよ…。じゃあな。私は頂に行く」
心からの笑顔。初めて見たが途轍もなく歪んでいる。それでいて一切の邪念が無い純粋さも見える。
けたけたとひとしきり笑ったアンジェはくるりと踵を返して去って行った。
本当にこれだけの為に来たのか?と木洩れ日丸を握りしめる。
「……」
「…お前…あのアンジェとどういう…?」
「……?」
誰にも話しかけないし、話さないのが常だった自分に唐突に後ろから声がかけられる。
若い…アンジェが家を飛び出したのもこれくらいの年頃だったか。16,7ぐらいの癖の強い黒髪をボブカットにし大きな猫目と真っ赤な唇をした娘がそこにいた。
「……」
「……」
この娘も口が動く方ではないのか。よくまぁ話しかけられたものだ。
「……」
「……知り合いだ」
「……ほう」
「……はぁああぁ……」
狭い工場の中で熱い息を吐く。
懐かしい。
あの時と真逆だ。
閉所では機動性に圧倒的に優れたネクストでもスピードを殺され優位性を保てないと嫌と言う程教えられた。
「……ふぅううぅぅ……」
強固なPAに守られていてもブレードによる一撃は防ぎきれなかった。失くした右目が疼く。
如何に強烈な武器を持っていても障害物に阻まれた挙句当たらなければ意味がないのだった。
何もかもがあの時と逆だ。
(来た)
ビシッ、と鋭い痛みが身体中の古傷から奔った。
あのシャッターの向こうから感じるプレッシャー。あの時と…いや、あの時よりも…凄まじい。まさしく逢魔。
『……』
「アナトリアの傭兵か」
月光を起動しシャッターを切り裂く。
「できる、と聞いている」
飛び出してきたネクストはノーマルの頃と同じアセンブルのままだった。
粘つく殺気を隠そうともせずに敵機はレーザーブレードを起動した。中身を確認するまでも無い。あの男だ。
(生きているって感じがするだろう?)
今日こそ間違いなく自分か奴かのどちらかが死ぬ。
この感覚。地位も名誉も脱ぎ捨てて命がむき出しになる様なこの感覚を求めて生きてきたのだ。
命を大事にしろと誰もが分かったように言う。
自分の命が何の為にあるのか分からないのが。
たった一発だけの弾丸だ。それは誰だって分かっている。
だがそれを撃たないまま死ぬなんて、そんなんでなんのために命があるのか分かるものか。
「ははっ…!いくぞ!!」
アンジェの耳には土砂降りの雨のような音が聞こえていた。そしてアナトリアの傭兵のネクストが全てを鮮やかに打ち砕き自分に向かってくる姿すらも。
どちらかが死ぬまで終わらない本物の死合。今や如何なる世界の事情も相手や自分を取り巻く全ても滑稽な幻想だった。ここにはミッションどころか恨みや憎しみなんて感情すらもない。
邪魔な肉も骨をも捨てて斬り合いただ一つの魂となろう。
『……』
コロニーを守るために戦う、なんて似あわないことをしていたアナトリアの傭兵が笑ったように見えた。
好きなんだろう?お前も。
……そして真改はとうとうその背中に永遠に追いつくことが出来なくなった。
アンジェ
身長167cm 体重59kg
出身 フランス
殲滅戦の行われた街で多大な幸運によって生き残った6歳のアンジェと真改はベテランのレイヴンで居合術の達人でもある井上竹光の元で育てられることとなる。
拾われてから暫くは塞ぎこんでいたが、その間ずっと死の気配があまりにも濃厚な戦場において数々の機転を見せて生き延びた日の事を思いだしており、数年の月日を経て自分があの戦場に焦がれていることに気が付き力に固執し始める。
暴力の前では法律も地位も何の役にも立たないというのは人間の築き上げてきた文化に対しては悲劇なのかもしれないが、アンジェは一方で暴力の前では誰もがそんなものを脱ぎ捨ててただ一つの個のみとなると考え、暴力が一番生き物の命を光らせると考えた。
そしてその頂点には何が待っているのか、それを知るために全てを捨てた。
同じ屋根の元で弟として育った真改や、拾ってくれた竹光を嫌っていたのかと言われれば当然そんな事は無く、真改は可愛い弟だったし竹光には感謝していたが、心の中で凶悪に育った欲求に負けてしまった。
もちろん戸籍上の名前はアンジェ・イノウエ
なんてゴロの悪さだ…
日本語と英語を喋れるバイリンガル。
ちなみに拉致被害者であるアンジェの本当の両親は生きていたのだが、国家解体戦争で死亡している。
最強の男マグナス・バッティ・カーチスを自分の運命の男だと思い、閉所に誘いこんで一対一の決闘を行い殺されたが、一つも恨んでなどいない。
その後月光の一つはマグナスに持っていかれた。
書かなかったことの一つに、17歳年下のメカニックの少年に熱心にアプローチされてアナトリアの傭兵と戦う前に一晩だけ…というエピソードがあったが、どこに入れるべきか悩んだ末、入れなかった。
趣味
素振り
刀の手入れ
好きなもの
スイカ
再々々々々々々々放送しているセレブリティアッシュ
純粋に最強の座を目指していたアンジェとその真似をしていた真改では、アンジェですら到達できなかったその目標を達成できるわけがない…と真改は気が付いてガロアに月光を託しました。
遠回しのラブコールみたいなものです。ガロアの目指す誰にとっても平等な暴力というのは世界最強の座と同じものですから。
竹光は時代が時代なら相当な禄を貰っていた剣豪になっていたでしょう。
彼のイメージは伊藤一刀斎です。
ちなみにベルリオーズの見た目はノーマン・リーダスをイメージしています。渋い。
さりげなくジュリアスが登場しています。