決闘の場は例の如く草原――ではなく川神院で行われることになった。昨日総一郎が燕と湘南へ行っている間に鉄心から由紀江に対して打診があったそうだ。少し前にルーとの決闘で滅茶苦茶にしてしまったので少しばかり後ろめたさが彼にはあったが、場所を貸してくれるというのならば借りる。差し伸ばされた手は引き込みながら受け取るのが彼の潔さでもある。
それに今回は自分の修行と由紀江に対する稽古、そしてもう一人直輝に対する手解きの側面を持つ。総一郎としては由紀江に稽古して直輝にはそれを観察させる、そこから自分も違う視点から新たなものを学ぼうと考えたわけである。
卜伝との決闘から何度か総代としての役割を果たしたが、今回はその時ともまた状態が違う。由紀江がまだまだ伸びることを確信しつつ、直輝が燻り、そしてその理由が自分であることも理解している。
だからこそ、剣術家としてしか出来ないこと。由紀江や直輝には鉄心やルーではできないこと、それを教えなければならない。
「剣術家にしか出来ない事、分かるか?」
由紀江が対峙、直輝は外野として正座している。無論、今の言葉は由紀江だけではなく直輝にも向けられた言葉だ。
「それは剣術家に教えることだ」
直輝は微動だにせず話を聞く。いつも言われていることなのだろうか、由紀江はゆっくりと頷いた。
「拳では教えられない事を剣術家に教えるのが剣術家にしかできないことだ。いいか二人とも自分たちに無い物は何だと思う?」
漠然とした質問だ。流石の直輝もすぐには答えなかった。
「人を斬る心でしょうか」
先に答えたのは由紀江だった。
「違う」
だが即断されてしまった。
直輝は未だ口を開かなかった。総一郎は求めるように彼を見たが分からないと悟らせるが如く目を逸らされた。
「長い刀を刹那に振る瞬発力、機を待つ忍耐力、懐に潜り込む速度、駆け引きを呼び込む勘、いざ斬らねば成らぬ殺意、一撃を喰らわぬために一合一合に必要になる技術、一撃を決める為の集中力――二人にはどれもある」
ではなんだ――二人は、特に直輝はその答えを声に出さず求めた。その心境を総一郎が分からないわけもない、視線をやり、焦るなと窘めた。
「それは決め技だ」
由紀江は那由他に達する神速の一撃を持ち、直輝も百代にやられた時よりも磨きがかかり総一郎にも届きうる抜刀術を持つ。確かに壁越え上位の人間にとっては決め技でないかもしれない、だがそれでもそれが二人にとっての全力である。それを否定され良い気持ちにはなれない。
だが総一郎の言いたいことはそういうことではなかった。
「それが那由多の一撃、勝つことのみを求めた抜刀。確かにそれは最高の一撃であり必殺である。だけど何時使うんだ?」
「師匠、もどかしいです、ハッキリ言ってください」
「初撃に那由多の一撃をぶち込むのか?初撃に必殺の抜刀を打ち込むのか?なんだお前らは相手が力を溜める時間を待ってくれると思っているのか……」
総一郎は怒気を孕むこともなく鼻で二人を笑った。侮辱である。
だが二人は総一郎の言葉を理解するとその侮辱を物ともしない恥辱に塗れた。
「必殺を打たれれば俺だとしてもただでは済まない。だが百代ですら最大威力の一撃を打ち込むには力を溜め、最後の一撃ではないと簡単には行かない。塚原の始祖ですら最高の一撃を放ってきたのは最後だけだ」
由紀江の視線は自らの収まったままの刀に向いていた。
「決め技……」
「八十%の力で出せる勝負を決める技だ」
♦ ♦ ♦
川神院に緊張が走った。
戦いが始まったかと錯覚する鋭い静の気が川神院を覆う。
「これは……まゆまゆ?」
心当たりのない気だったので確信はないが、それなりに付き合いの長い由紀江の感覚に似ていた。だが由紀江の怒気というのも初めて感じ、これ程の憤怒は一体何故沸き上がったのだろうかと百代は考えた。すると唐突に鉄心が「フォッフォッフォ」と長老の様に笑った。
「総一郎め、中々師としてのやり方が分かってきたな」
「爺?」
何故由紀江が激怒しているのか――その問いに鉄心は答えることは出来ない。だが「誰が、何故」という問いには答えられる。
総一郎が武人の心を煽った、由紀江に自分を殺させるために――
「通過儀礼じゃ」
遡ること数分前。
総一郎との問答に詰まると由紀江はこれ以上言葉は要らず、戦いの中で見つけるしかないと悟る。相手は格上、万が一勝てるのか、無様は見せられない。同じ実力者である直輝も見ている、この決闘を通じて彼にも糧にしてほしい。もちろんそれ以外の心もあるが今は外野に置かなければならない。
心を強くして由紀江は刀を抜いた。真っすぐ一本通った凛々しい静の気、一目で分かるが義経と瓜二つだ。厳格の父の下で育ち、大人しさが拍車をかけ対人ではオドオドしていても武人としての由紀江は少なくとも感嘆を受ける資格が優に有る。
由紀江はそんな自分をみる総一郎に疑問を呈していた。
「何故抜かないのですか」
既に抜刀している由紀江。総一郎が抜刀術であるならば文句はないがそんな様子もない。左腰に差している刀に触れてすらいない。
どんな武人にも通過儀礼がある。総一郎の場合それは最悪のであったが、普通であれば師匠による手解きがある。肉親の場合はどうしても情が残るので変装や相手の実力まで落とし且つ殺意を込めるなど。百代はないようだが普通はある。
由紀江もあったのだろう。だが一回か二回、三回目はどうだろうか。総一郎は由紀江に対して通過儀礼を施すつもりだった。
「抜いてください」
澄んだ心、澄んだ瞳、誠実な気、誠実な剣先――淀みがない。それがいけないと総一郎は考えた。
「刀……?」
だから一度歪ませなければならない。弟子を持つ師に総一郎の行為を正しいか正しくないかと聞けば十中八九、正しいと答える。
「そんなものは抜かない」
一度心の底から憤怒に塗れさせてやろう――
「素手で相手してやる、俺を殺してみろ」
スンッ――怒る姿もまた誠実である。直輝は体を切り刻まれたような感覚に陥る。
由紀江が剣術家としての根底を侮辱され激怒した初めての日であった。
♦ ♦ ♦
日本刀に対する無手の技、それだけ聞くと専門的な技にも聞こえるが空手や柔術もそれに当てはまる。鉄砲が伝わっていても槍や刀、弓が主流の戦場で武器を失えばそれは致命的だ。その為に作られた対武器の流派、それは無手と武器を極めた者でしかなせない技だ。雲林院村雨は剣の道は勿論であるが無手の実力も同等の物を持っていた。あの頃の総一郎に勝つくらいの実力を兼ね備えていた。それはヒュームにも認められる程で、彼の作った雲林院脱剣流は門外不出である。
と言っても、雲林院脱剣流を伝承しているのは総一郎と燕だけである。
「キレるのは良いが、それでどう俺に一閃浴びせるつもりだ?」
脱剣流の特徴は対剣術でない事にある。あくまでも「脱」剣にある。その心は剣術にあり、足運びから捌き、剣術家を知っているからこそ出来る動きがある。振り下ろされる刃の側面に滑り込ませた手刀は相手の小手を目指し、突きは掌と掌に挟み込まれて最終的に日本の手刀が由紀江の体を襲おうとしていた。
由紀江にとってこの上なくやり辛いだろう。無手の相手という認識が全てを阻害させる、相手は無手の皮を被った剣術家でしかない。
だがそれに気が付かない、それだけで彼女の精神状態が分かる。
「冷静に憤怒しろ、やれ」
壁越えの一撃一撃を余裕で捌いていく自分の師に直輝はただ感銘を覚える他なかった。それにこれは明らかな稽古である。これ程までに実戦形式の稽古――彼には通過儀礼だと分かる――自分が受けたことの無い事、つまり自分がまだその段階ではないということの裏返しだ。
「まじめにやれ」
三閃が放たれた。それに総一郎が対抗したのは立った一撃。三閃の合間を縫うように縦横無尽に動く人差し指が由紀江の眼球を追尾した。総一郎が追尾したのは由紀江が直ぐにやられると気が付いて避けたからだ、それも尋常ではないことだ。
「はあ、はあ、っはあ」
「やっぱりだな」
言葉を続ける総一郎を他所に由紀江は不意打ち――がいつの間に自分が転がっていた。
「聞け」
総一郎が何かしたのだろう。だが由紀江が転びながらも意識を失っていないことから大したものではないさそうだ。
「目に見えた怒り、だがどこが中途半端だとは思わないか?」
「何がでしょうか……?」
「俺とは明らかに違うんだよ。鋭き冷静な怒りであるはずがどこか溜め込んだように刀身がブレている」
直輝の表情が変わった。多様な実力者を見てきた彼だからこそ、一番弟子である彼だからこそその意味を理解できたのだろう。
その言葉は通過儀礼というよりはもっと前の段階で言うようなものであった。
「君は静の気を持つ者ではない、動の者だ」
静と動は共生できない。気というものに触れる者ならば誰でも知っている常識である。ただの気合でないその気は半ば超常的な半面を持つ、その為リスクが伴うのは当たり前だ。それぞれの長所を兼ね備える気はそれだけで矛盾を生む、矛盾の中にあるリスクは体を蝕む。気を爆発させる動と気を制御する静、それを強制させることは途轍もない瓶の中でダイナマイトを爆発せているようなもの、決して壊れない故にダイナマイトは爆発し続ける。
外見は保てても体はいずれ崩壊していく。
だが総一郎は由紀江が静の気ではなく動の気の者だと言った。
おかしい――由紀江はそれを口にした。
「勘違いするな。静と動は共生は出来ない。だが片方だけ、もしくは両方ということならば使える。動を一切出さなければ静を出せる、両方を混ぜさせしなければどちらも使える。ただ相当な技量が必要だけどな」
「私にそんな技量はありません」
「知ってる。だが動の気を一切出さなければ静を出せる――君が静の気を持つ者として生きてきたならばあり得ないことじゃあない。環境と思い込みが動というものをない事にしていたんじゃないか?」
唾をのみ込んだ音が体内で木霊した。自分が動の気を持つ者かもしれない――鼓動が速まっただろうか、言われからもしかしたら動の気が奥底から湧き出たのかもしれない――由紀江は不安に駆られた。
「いいか。静は自分の気をコントロ―ルしてそれを鋭さに変え、時には流れる川のようにする、それはまるで水だ」
由紀江の変化を見た総一郎はまるで師のようだ。しかしあくまで決闘である、総一郎の警戒心は未だ健在。
「だが動の気は爆発だ。何をも縛れない爆発。囲いも何もない、爆弾程度じゃだめだ、中途半端が一番危険。イメージしろ、それは超新星のようであり苦しくて仕方ない後の嘔吐のようだ。奥底にある全てを出せ、受け止める相手を考えるな、お前の気で真っ白を変えろ!」
由紀江の息が止まった。心臓も止まる。体の奥底ではないどこからか、その何とも言えぬ物は湧き上がってくる。
体勢が崩れた――だが完全に倒れきる前に彼女は動きを止めた。いや、止まったというべきだろうか。その姿勢からゆっくりと元の体制へ戻っていく。
その姿からは動という気を察することは出来ない。気の解放状態は湯気のようであり、爆発的とは感じられなかった。もしかすれば失敗したのかもしれない。直輝の脳裏に最悪が過った。精神の崩壊、廃人への近道、どれもが直輝の焦燥を誘った。
だが、正面で対峙している総一郎は一筋の汗を掻いただけだった。そしてその汗は焦燥から来るものではない、眠れる獅子――この場合は少し違う。総一郎は悟らせないその獰猛さを「毒」と評した。
隠された凶暴さ。動であることは間違いがない。たが穏やか。その本性に触れてしまえば最後。
由紀江はゆっくりと息を吐き、そして吸った。
吐いたと同時に踏み込んだ。
速い――枷が無くなったのだ、それは当たり前である。だからといって総一郎がそれに遅れを取るわけでもない、まだまだ未完成の気、だが全体の底上げは勿論の事だが特にパワーは桁違いの物となっていた。掠れば太い血管まで断ち切ってしまうような風を切る鋭音が総一郎の耳に通り、当たってしまえば――という発想を嫌でも想像してしまう。更に切っ先は振動しているのか、もしくはただ揺れているのか。最終的に刃が通る場所が予測し辛い。
静に染まっていた動。両生できない二つだが、彼女には鋭さだけ残滓として残っていた。
「百代の方が怖いね」
人生最大の強敵であり強敵である百代、更に乗り越えなければならない先祖。それらと戦ってきた総一郎。いくら弱体化したとはいえ目覚めたばかりの赤ん坊に負けるつもりは無かった。
だが勿論、彼女も勝てるとは思っていない。体には違和感だらけ、ぎこちない関節がもどかしい。
だが、何かを示さねば、見せなければならない。
決め技――それが脳裏に過った。
横に薙ぎ払うつもりであった刀がいつだいつだ、と囁く。由紀江は遂に刀を振ることなく総一郎の横を突き抜けた。
虚を突かれた総一郎。殺意、敵意なく制空権を通過していく由紀江に唖然。由紀江は振り返らなかった
後ろへ突く――直輝にはその姿が切腹にも見えた。
自身の右脇腹を掠めるように相手の脇腹を貫く。名を付けるならば無理心中であろうか。虚の虚を突く、意識外の攻撃に関しては必殺にも匹敵する決め技である。駆け引きを極めれば極める程決め技として高みを目指せるだろう――総一郎は最速を以て脇腹を捻り由紀江の首筋に本来は致死性のある手刀を捻じ込んだ。
♦ ♦ ♦
川神院の一室で由紀江の目は覚めた。知らない天井とは思わない、意識を失う寸前に見た木造と同じ作りだ。寧ろ一番新しい記憶だ
顔のすぐ横から食べたいという衝動に駆られる桃の香りがした。香りの正体に視線を送ろうとする途中、そこには直輝の姿があった。こちらを微笑んでいる。
「良かった。意識が戻った」
そこまで喜怒哀楽の強い人ではない直輝の微笑みと言うのは程よく乙女に効果的である。しかも夕日が背景にあるため甘いマスクではなく男らしい彫りが強調され、武士娘の心をくすぐられる。夕日のせいだ――と思いながら由紀江は頬を紅潮させた。
だが、少しずつ直輝の表情は陰りだす。心境の変化を表すように雲が機を見るに敏、夕陽を半分ほど隠してしまった。
「直輝さん?」
「……僕は師匠にどう思われているんだろうか」
次の微笑みは嘘だとすぐに分かった。
「僕は一生勝てないのかな、師匠に……君にも」
「勝てます」
考える暇もなく、直輝の心境なんて考える暇もなく答えていた。だが疲労感が溜まっているのだろうか思ったよりも声が張れない。強く伝えたい気持ちを由紀江は表面に表せなくてモヤモヤしていた。
「直輝さんは素晴らしい剣術家です。凄く鋭い抜刀術も使えます。集中力も凄くて凛々しさに比例して静の気も凍えるようで……それに凄く優しくて――カッコいいです!」
細々した声、だが強調された言葉が剣術家としての誉め言葉には合ってなかった。それが由紀江の羞恥心を誘ったし直輝の笑い――そして羞恥心を覚えさせた。
「……ありがとう。由紀江ちゃんも――綺麗だよ」
「――きゅう」
由紀江は卒倒した。
♦ ♦ ♦
「決め技か……」
相手を殺す必殺も勝負を決める決め技も持ち合わせていながら総一郎はその自答を精神、もしくは卜伝、または心、自分を自分たらしめる物に投げかけていた。どれからも返答はない。
彼がそう呟くのには理由があった。散々講釈を由紀江にたれた訳であるが、本物の最強と本物の最強が戦った場合その決着は決め技によってつくのだろうか。新当流、足利流、新陰流、そして自身だけが受け継ぐ塚原流、その数だけ奥義がある。その奥義は決め技となり又必殺となりうる。
しかし、最強と最強の決着は駆け引きや一瞬の出来事によって終わるのだろうか。
――最強の最大と最強の最大――
それがぶつかり合う時、それが彼らの決着だ。
それは過程であり結果、最大と最大がぶつかり合わなければ決して勝負は終わらない。
果たして自分がその最強として最大を放つ時が来るのだろうか。
その相手は誰なのだろうか。
鉄心かヒュームか、それとも無手と武器の長だろうか――
風が運んできたのは黒髪の好敵手の面影であった。
水上体育祭前最後の決闘、突如釈迦堂から延期の知らせが総一郎に入った。それと同時に九鬼から揚羽戦の日程変更が告げられた。
二日後の水曜日、丸一日を使った決闘が九鬼完全動員によって川神郊外の採石場で行うことになった。自身も予定変更を良くしているので総一郎は特に驚かなかったが、島津寮に届いた豪勢な招待状が届いた。
「なんて?」
朝餉の時間。それを開いた総一郎は口角を上げそれを握りつぶした。
『最近調子に乗っているようだな。百代の戦闘衝動を止めたのは良いが今度はお前が負けを知るべきだ。安心しろ、我も万全な状態で仕上げた。少しばかり我も決闘の旅に出ていてな、お前に必ず黒星を進呈しよう。待っているぞ』
熱い果たし状。
同封された写真には膝を着いた武人の姿。
塚原純一郎、塚原信一郎、足利興輝、上泉藤千代。
総一郎が炎に包まれた
婆さんの見舞いに長崎まで行ってきました。天神行きましたよ。