再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#36 i might be wrong

 

 

 【手記】

 

 七月×日 (Wed)

 

 今日も雨だ。どうもそういう季節らしい。そのくせ気温は日を追うごとに高くなっていくようで、じめじめした暑さが僕をいら立たせる。特にヒドいのは夜のね苦しさだ。(阿求の家にいるときはそうでもないけど) ゆうべみたいに森のテントに泊まる時なんかは特に、だ。近ごろはもうねぶくろを使っていない。床へしいて、その上に寝ころがっている。「虫にさされても知らんぞ」なんてあの子は言うけど、どうせ彼女が作った魔法? の虫よけ剤があるから、大したやつは入ってこない。せいぜいランプにさそわれたデカいガか、カ (くそっ、字がわからない) くらいのものだ。

 

 あぁ、虫と言えばそう、昨日の夕ぐれに、森の泉のほとりで僕が見つけたヘンテコな虫 (魔理沙が言った名前、何だったっけな) が、なんでも生薬とやらの材料になるスゴくめずらしい種類だったらしい。彼女は「どこに売りつけてやろうかー」、とか悪い笑みをもらしていたけれど、ちゃんともうけの半分は僕によこしてくれるつもりでいるようだ。貯金もけっこうたまってきていて、阿求によれば「あんたのその百年ものの車イスを買い換えるのには十二分な額」だそうだ。ちなみに、コイツを手放す気はない。

 けれど、馬を一頭買うのは思ったより――最初に考えていたよりは――大変な金額がいる。別に焦ることはないんだけど。……本当に? 焦る「べき」じゃないのか? 時間には限りがあるかもしれない。今はそう思えなくても。

 

 ずいぶんわき道にそれてしまった。本題にもどらなくてはダメだ。

 この日記みたものをわざわざ (日本語で) つけている本当の理由は、僕の――――

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 「おい」

 

 

 突然、背後から短い声がした。

 その声は耳慣れたものだった。とはいえあまり唐突だったものだから、反射的に身体が少し跳ね上がった。その拍子に手から鉛筆が離れて、僕が今いる薄明るいテントの隅へ転がっていく。テントの入口から漂ってくる雨の匂いと、煙の色をした陽の光。そして、その光を背にして入口にしゃがみこんでいる、とんがり帽子を被った黒い影。

 魔理沙だった。

 

 

 「驚かすなよ」

 

 「あはは、悪かった。で、何を書いてたんだい?」

 

 

 僕は肩をすくめた。ここで「何でもない」と言ってごまかしたって、霧雨魔理沙は引き下がらない。面白そうなことにはどこまでも一直線なやつだ。

 

 

 「大したものじゃない。見てもいいけどさぁ……」

 

 「おっと、その前に朝飯だ。ん? もう十時回ってるから昼飯かな? まぁどうだっていい、魚焼いてんだ。早くしないと焦げてしまう。でなくてもほっといたら無くなるな、私が食べるから」

 

 

 魔理沙の顔がテントの外へ引っ込む。閉じた入り口の辺りからは確かに、煙と焼いた魚の香ばしい匂いが漂っていた。雨よけの覆いの下で、彼女が獲ってきた魚が焼けているのだ。僕が寝ている間に近くの川へ出かけて来たのだろうか (起きたらもういなかった)。いずれにせよ空腹で胃袋がきりきり痛んでいる。これには勝てない。僕はおとなしくテントの外へ這い出ることにした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 小雨の下の蒸し暑さ。雨と魚と煙と、僕らを囲む森の雑多な匂いが混ざりあった、何とも形容しがたい不思議な臭気。森の中、雨避けの簡易テントの下、例の空き地の苔の上。

 

 

 「夢のスケッチ?」

 

 

 「魔法使いの跳ねっ返り」の怪訝そうな表情に「そう」と僕は頷いて、さっきまで魚が刺さっていた鉄串を水桶に放り込む。串を掴むのに使った濡れ手拭いで口の周りの油を拭いて、膝の上に乗せていた「日記帳」をめくった。ここ二、三週間分の夢が書き連ねられたページは幾分か嵩を増していて、ところどころ得体の知れないシミが付いている。外出の時も持ち歩いているから、多少の汚れは仕方がない。

 魚の小骨をぺっぺぺっぺと吐き出しながら、魔理沙は「ふーん」と気のない反応をした。

 

 

 「そりゃまた随分奇態なものを書いてるんだな。何のためだ? ……って、知れたことか」

 

 「そういうこと。何かを思い出す手助けになりそうだから」

 

 

 思い立ったのは一月ほど前の朝だった、ように思う。

 女中さんに起こされて、ぼやける目を擦って飯を食いながら「そういえば夢を見ていたなぁ」とか考えているうちに、だんだん夢の内容が薄れていく。日々の暮らしの中で、他の記憶やいつかの夢と混ざって、不明瞭なままでそのうち忘れてしまう。もちろん鮮明に覚えている場合もそりゃあたまにはあるが、大抵はきれいさっぱり。何か暗示的な、不思議な夢を見ていたような気がするのに……

 

 『夢の内容が思い出せない? そうねぇ……』

 

 阿求に相談したところ、「覚書、日記の形で書き留めてはどうか」との助言を貰った。

 

 『覚えてるうちに出来る限り書き出しちゃえばいいのよ。備忘録って読んで字の通りに、いつでも読み返せるように、ね。忘れたくない事がある時、大抵の人はそうするんじゃないかしら』

 

 『君はどうしてるんだ?』と訊いたら、彼女は人差し指をゆっくりと自らの頭にあてがった。小馬鹿にしたような顔が何だかムカッと来たけど、そういえば彼女は完璧な百科事典を頭のなかに備えているんだった。しかもその分厚い辞典は莫大な情報の量を抱えつつも未完成で、見聞きしたことが休むことなく書き込まれていくのだ。

 

 何はともあれ、その日から僕は「夢のスケッチ」を始めた。最初は僕の国の言葉でつらつら書いていたけれど、二、三日ほどしたころ、小うるさい僕の家庭教師に「『こっちの文字』の勉強もしなさい」と言われたから、四苦八苦しつつも漢字と平仮名、時々片仮名で書くことにした。

 数を重ねるうちに (ありがたいことに) 文字も上達してきたし、最初は磨りガラス越しの風景よりも抽象的だった夢の内容も、だんだん鮮明に書き出せるようになってきた。夢を見なかった日はただの日記になるが、毎日欠かさず続けて今に至る。

 

 

 「……なるほどねぇ。ちょっと失敬」

 

 

 そこまで話すと、魔理沙は頷きながらこちらに来て、素早く僕の手から「日記」を奪い取ってしまった。別に見せてもどうってことないモノだが、見るなら見るで許可を得てからに

 「……下ッ手くそな字だなぁ。今どき寺子屋一年目でも書かないぜ、これは」

 

 

 ――――――――――

 

 

 しばしノートの奪い合いになったが、今は魔理沙がそれをぺらぺらめくっている。彼女はすばしっこい。対して僕はほぼ動けないから勝負は見えていたが、プライドというか意地というか、いやそれとも羞恥と呼ぶべきか、とにかくそういう気持ちが僕にもあることは再確認できた。クソッ。

 魔理沙はふかふかの苔の上に寝っ転がって足をばたばたさせながら僕の日記を読んでいたが、やがて視線をこちらに向けた。お下げ髪が肩から流れて頬に掛かっている。

 

 

 「……ふむ。何だか雑然としてるな。カッコよく言えば混沌だが有り体に言えばぐちゃぐちゃだ。これ、脚色や虚構は無いんだよな?」

 

 「無いさ! ……多分ね。思い込み、ってのがあるかどうか、否定できないけど」

 

 「そうだよな。ありのままを描かないと素描じゃないからな……うん、ちょくちょく意味深なのがあるな。私という第三者の視点から客観的に見て興味深いやつ、挙げてみようか」

 

 「よろしく」

 

 「お願いされた。じゃあ……これなんかどうだ」

 

 

 魔理沙はぴょこんと起き上がり、胡座を掻いて座ると、ノートの一節を声に出して読み上げ始めた。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 (Mon)

 

 こんな夢を見た。かなりキミョウなヤツだ。

 つかれている時はヘンな夢を見ると彼女は言うけれど、これは今まで見たなかでもけっこうひどい。何のミャクラクもなく、いくつもの場面が切りかわり続けるんだ。その場面の、一つ一つの長さはまちまちで、まばたき数回で終わることもあれば、永遠かと思われるほど長かったりした。できるだけ正確に思い出して、全て書き出してみるつもりだけど、正直自信がない。でも、今までで一番ハッキリした夢だった。

 

 ――――――――――

 

 まず最初に……「本当に最初だったか」? 分からないが……

 「どこか」の部屋だ。ものすごくウス暗くて、生ぬるい空気が重く立ちこめている。すごくいごこちの悪い場所だということはまったくたしかで、ガマンできないくらいひどいニオイがしていた。何だろう。血や、くさった肉や、クソや小便、汗。悪くなった水。あたりには人の気配がたくさんあるが、姿は見えない。苦しげな息が聞こえる。二つ、三つ、四……から先は数えなかった……苦しむ人の数が、あんまり多かったので……

 そういう場所の天井を見つめて、僕は横たわっている。

 手も、足も、指も、まぶた一つさえも動かせない。ただ、生きてそこに横たわっているだけで、黒黒とした天井の一点を見ている。ナワか何かでしばられているのではなく、身体に力が入らない。動かす気力が……ない。昼と夜、そのどちらともとれるうす暗がりの中……

 

 生あたたかいしずくが一すじ、僕のほおを流れてゆく。何かひどいこと、たえられないくらいひどいことをされたんだ。何をされたんだろう。何を言われたんだろう。今はただ……

 

 ……悲しい……

  ……悲しい……

   ……悲しい……

    ……悲しい……

     ……悲しい……

      ……ベッドの端のかげ……

 

 

 ――――――――――

 

 

 気がつくと、見知らぬ場所に立っている。足もとは白い大理石の床。目の前にはまっすぐに伸びるろうか。左右は小ぎれいな白いかべ紙におおわれている。やわらかな明かりが充ちるろうかの向こうの曲がり角には小さなテーブルが備え付けてあって、花ビンなんかが置かれていた。

 さっきとはうってかわって、とてもきれいで上品なところだ。すごく大きな家……

 そして何より、僕は『立っていた』。自分の足で立っていたんだ。あいにくと、その時の感覚は今一つ思い出せない。なぜだろう? 他の感覚は全て、ありありと思い出せるのに…… 

 

 ふと、左の方から空気の流れを感じた。見ると、そこには木のドアが一枚、開きっぱなしになっていて、向こう側に部屋があるのが見えた。風はここから来ていたらしい。

 この部屋もまた小しゃくなくらいきれいだったが、特に何も主張してこなかった。部屋の中央のテーブルや椅子、すみっこのベッドやかべ際の本だな、じゅうたんや小物にいたるまで……何というか没個性……で、住んでいる人間がイメージできなかった。どんなヤツの部屋なんだ? ここは……見ていると、なんだか不安になる。それでいてどこかなつかしいような……

 

 そして、突然に気づいた。

 部屋のすみ、ベッドのそばの床にブーツが一足、無ぞうさに投げ出されている。この、表情も体温もない部屋の中で、そのブーツだけが妙に生なましく、生きているように感じられた。さっき脱ぎ捨てられたばかりのようだ。

 

 でも、あのブーツには……

 穴が開いてるぜ……底が抜けてるんだ……

 

 (代わりを取りに行かなきゃ)

 

 

 ――――――――――

 

 

 ………………

 冷たい風が吹きすさぶ荒れ野だ。またもや、直前のけしきとかけはなれている。

 見渡すかぎりの赤茶けた地面……枯れ木……うめくように、叫ぶようにうねり続ける風の音が耳を打つ。心なしか空気がうすいように感じる。何もない……いや、足元に何かが落ちている。見たところ、丸くてうすっぺらい金属の板のようだ。

 拾い上げてみると、茶色くさびついた……何か、お面(マスク)のようなものだった……

 

 

 ――――――――――

 

 これで終わりにしておこう。

 他にもいくつかイメージはあったが、どれもぼんやりしすぎている。書くには不十分だ。

 それにしても……何だ? あれらは……

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 魔理沙はノートから顔を上げ、僕の顔をまじまじと見た。僕は半ば途方に暮れて、深い黄金色の目を見返す。その目もまた、「私に訊くんじゃない」と半分突き放していた。

 

 

 「……分からん」

 「判らないよな」

 

 

 そうして二人同時にため息をついた。意味なんて僕にも分からないんだ、完全な他人である彼女に分かる筈もない。彼女はああ見えてとても聡いから、少しは期待する気持ちもあったが……無理がある。本当に記憶の断片かどうかすら疑わしい「場面」もある。

 

 一体何が言いたいんだ? 僕の「夢は」……

 

 魔理沙は焚き火の燃えさしを串で突っついている。つつくことで何かが進展するわけでもない、僕と同じようにただ途方に暮れている風にも見えるし、僕を慰める言葉を探しているようにも見えた。串が焚き火に突き込まれる度、灰の白と炭の黒が積み重なった燃えさしの、黒々とした硬い部分が割れてゆき、中に閉じ込められていた紅い残火が仄かに揺らめいて見えた。

 

 徐々に黒く冷えていく残り火を見つめながら、僕たちは言葉もなくじっと座り込んでいた。朝寝坊の森には風の吹きわたる音すらなく、細かに降りしきる雨は苔へ静かに染み入っていく。雨よけにパタパタ当たる雨粒の騒がしささえ、森の冷厳な沈黙には勝てないように思えた。

 静かさにまかせて、色々なことが頭の中を渦巻き出す。記憶の沼の泥寧の上に、今まで出会った人々の顔が泡のように浮かんでは、また泥の中へ消えていく。

 

 どれくらい経った頃だろうか。

 彼女の発した声はやや掠れて低く、静けさに掻き消されそうなほど小さい。

 

 

 「ジョニィ……いや、ジョースター。燃え滓をいくらつついても、意味はないんだ」

 

 

 篝火はすっかり灰の山に変わり、湿った静寂が辺りを包んでいた。

 

 

 「息を吹き込めば少しは盛り返すかな? いや……この場合は違うな。焚き火ってのはそう、始末せずに放っておくと、たまに再燃したりするもんだよ。余計つつき回すと、(かえ)って消えたりする。上手く言えないが……判ってくれ」

 

 

 僕は黙って頷いた。分かってるんだ、無理をしても記憶は戻らないってことは。かといって、彼女の言う通り、自然に「戻ってくる」のを待つのは……耐え難く……

 数瞬、何か言葉を返そうとして単語の群れをこねくりまわしたが、結局出てきたのは何の芸もない、つまらなくて単純な一語だった。

 

 

 「悔しいな」

 

 

 心を言葉で描き出すことは出来ない。豊かな知識と無数の言葉を持っていたとしても。一言で描写の完成に近づくこともあれば、一晩中悩んでも無駄になることだってある。でも、僕のこんがらがった心の淀みを表すのには、この一言で十分だったような気がした。

 記憶はただの「一枚絵」だろうか。単なる「長短さまざまな映像」だろうか。きっと違う。例え夢の中の景色が全て僕の過去だったとしても、今のところそれらは全部「映像」にすぎない。「映像」を見ることは出来ても、自分の物には出来ないのかもしれない。「見る」のではなく、「思い出す」感覚は……「これこそが自分の一部だ」と納得できたことは一度しかない。

 

 (おかえり、ジョニィ・ジョースター)

 

 僕の名前を見つけた時。あの時は彼女(吸血鬼)の力を借りた。

 自力で答えにたどり着くことは出来ないのか?

 

 

 「……悔しい」

 

 「……『分かる』とは言わないよ。お前はお前だもんな。私がボランティアでどう頑張っても、結局はお前の問題だ。……しかし、これだけは言わせてくれ」

 

 

 顔を上げると、霧雨魔理沙の真剣な面立ちがあった。

 

 

 「ここ一ヶ月半、何度もお前と会って分かった。お前は、うわべばかりは前を見ちゃいるが、結局深いところでは見てない。言い方は悪いが、虚構に生きていると言ってもいい。……最初に会ったときは虚ろだった。今はそうじゃないが、別の意味で怖いぜ、お前の目は」

 

 

 一言一言が鈍い針のように僕を取り囲む。刺さるのが怖い……だが頼む、刺さってくれ……彼女の言う通り、僕は間違っているかもしれないから、変わりたいんだ……

 魔理沙は立ち上がった。帽子を目深にかぶり直して言った。

 

 

 「……変なこと言ったな、私。すまない……そろそろ行こうか。昼までには切り上げるって、阿求に言ってあるんだよな。なあ……」

 

 

 僕は再び頷いて、側にほったらかしになっていた車椅子の肘掛けに手を置いた。彼女が投げ掛けた言葉の針は、あともう少し、すんでの所で僕の心に刺さらなかった。「僕には過去しかない、記憶を探し続けろ」という、半ば強迫観念じみた考えと激しくぶつかって、やりきれない靄だけが頭の中に残っている。

 

 

 「テント畳むぞー、退いてろー」

 

 

 魔理沙は、自分が言ったことがどれだけ僕にとって重要な事だったのか、結局は分かっていないのだろう。見ろ、さっきまで黙りこくっていたのに、既にけろっと平気な顔をしてテントを片付けている。けれど、それは決して悪いことじゃない。今考えてみると、彼女のさっぱりした気性にどれくらい救われたことか。一緒にいるだけで気持ちが軽くなるし、些細な悩みなんてすぐに忘れてしまうんだ。

 それでいて、今のように「言ってほしかったこと」をさらりと言ってくれたりもする。気恥ずかしい言い様だが、この子と会えて本当によかった。

 

 雨よけのテントの支柱を倒して、防水布を枠から外す。陽の光が頭上から降り注いできて、はっと気づいた。雨が止んでいる。眩しさに目をすがめながら見上げると、分厚い雲の切れ目から白い太陽が顔を出して、凄まじい光で僕を睨んでいた。あっという間に目は眩まされ、思わず閉じたまぶたの裏に緑色の影が残った。

 

 

 「お、こっち来てみろよ。ぎりぎり見えるぜ」

 

 

 空き地の端で魔理沙が読んでいる。苔のデコボコに気を付けながら側まで行くと、彼女は片方の手で帽子のつばをくいっと上げて、もう一方の手の人差し指で、梢で円形に切り取られた空の向こうを指差した。

 

 

 「……梅雨はもう少し続くが、とりあえず今日の雨はもう終わりかな……」

 

 

 森と空の境界線の上へ僅かに顔を出していたのは、薄い虹の半円の頂点だった。雲の灰色と晴れ間の青が曖昧に混ざり合った空の上に弧を描いて、虹はいかにも雨の終わりを告げているように見えた。

 僕が虹をぼーっと眺めている間に、魔理沙はごそごそと自分の帽子の中をまさぐっていた。やがて一枚の紙切れと羽根ペンを取り出して、何事か書き込みながら言った。

 

 

 「消える前に書いとかなきゃな。お宝ゲットのまたとない好機だ」

 

 

 唇の間から舌の先をちょっと覗かせて、どうやら地図らしいその紙切れを楽しげに眺めている。僕の視線に気づくと、少々恥ずかしそうに頭を掻きながら説明してくれた。

 

 

 「いや、虹の袂には宝が埋まってるって話だよ。結構レアなんだぜ……ふふふふ」

 

 

 そりゃあ……また随分メルヘンチックな夢だな。

 

 

 「夢? 馬鹿言うな、常識だろうよ」

 

 「……え?」

 

 「あぁでも、外の世界では『夢』なんだろうなぁ。いつだったか(ゆかり)が言ってたぜ、『外の世界で廃れ、忘れられたモノこそ、幻想郷ではますます力を得る』……とか」

 

 「……八雲紫?」

 

 「そう。めんどくさいことに、アイツは大体何でも知ってるよ。最近とんと見ないが。それにしても」

 

 

 それにしても、外の連中は損してるよなぁ……と、彼女は虹を眺めながら呟いた。

 

 

 「だって、虹の根本を掘り返しても、何にも出てこないんだろ? 魔法使いも妖怪もいなけりゃ……妖怪は居なくても別に構わないが……神頼みしようにも神様もいないと来たもんだ。不便じゃないのかな?」

 

 

 「そうかも」と僕は曖昧に頷きを返して、森の向こうの虹を見上げた。言われてみれば不思議なもので、あの多色のアーチを見ていると、なんだか気持ちが沸き立ってくる。「触れるんじゃあないか」とか、「どこから見ても同じような形の虹なのか」とか、どこから「生えて」いるのだろう、とか、子供じみたヘンテコな発想や疑問が山ほど。

 

 けれど、そういう子供の夢を追いかけたその先に、本当にお宝が眠っていたら大したものだ、とも思う。本当だろうか。本当なんだろう。今まで過ごした数ヵ月間、幻想郷(ここ)はいつだって突拍子もない不思議の国だ。傘の化けもの、吸血鬼、闇に包まれた「よくわからないあの子」に会った。妖精やら幽霊やらもいるらしい。神様は星の数ほどいて、人間だっておかしなのばっかりだ。

 だったら、「虹の袂に金の壺」ぐらいは別に、おかしくもなんともない。

 

 

 「おーい、早く帰ろう。阿求にどやされてしまう」

 

 

 僕はどのくらい考え事をしていたのだろうか。いつの間にか、魔理沙は荷物を背負って広場の向こうに立っていた。テントや重いものは置いていくつもりらしい。近いうちに、またここに来ることになるのだろう。僕は最後に空を一瞥し、さっきまでそこに架かっていたアーチをもう一度見ようとしたが、大抵の虹がそうであるように、その虹も既に短い寿命を迎えて、透明な水滴の群れになってしまっていた。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 帰り道、湖の方へ抜ける道の途中。

 

 

 「そういえば魔理沙、あの夢日記なんだけど、先週の水曜日の分は気にならなかった? 僕としてはあれも随分謎めいているように思えるんだけど」

 

 「どれだっけな」

 

 「ほら、『赤いナイトキャップを被った色の白い女の子』が出てきて『貴方も大変ね。食べておいてあげたわ。ご馳走さま』……って言って、ケラケラ笑うヤツだよ」

 

 「……あぁ、アレは良いんだよ。気にしなくて」

 

 「……なぜそう言いきれる?」

 

 「そういう夢には覚えがあってね。誰しも一度は見る夢だ。気にするな。いや本当に」

 

 「そういうものなのか?」

 

 「そういうものなんだ」

 

 

 どうにも腑に落ちなかったが、それ以上の質問に対してはただ「忘れろ忘れろ」と苦笑しながら手を振るだけで、魔理沙はなにも答えてくれなかった。家に帰ったら阿求にでも訊いてみよう。

 

 

 

 









章タイトルのfireflyは例によってbump of chickenのアルバム「ray」より、「firefly」から。ところどころジョジョっぽい歌詞の曲です。

今回のタイトル「i might be wrong」は(これも再び)レディオヘッドのアルバム「Amnesiac」の収録曲より。アムニージアックというのがそもそも記憶喪失の意味を持つそうです。

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