再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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 今までで一番長く、そして馬鹿っぽい回です。
 そして読者様にとっては本当にどうでもいい回でもあると思います。
 今後のストーリーの流れにおいては、わりに重要なお話です。





翼のない休日

 

 

 朝の八時である。

 

 少女がいつもの通りに定時出勤すると、職場に偉そうなひとがいた。「偉そうな」というのは単に立ち振舞いがふんぞり返っているとか、見た目がそれらしいとか、そういうことではない。身に纏う雰囲気というか、滲み出る神々しさがある。それに、そのひとの背後にはなにか巨大な円環の注連縄のようなものが見える。まるで後光のようだ。本当に神様かもしれない。どこかで見た覚えもあるが、今一つ記憶が曖昧である。少女は物事を覚えるのが苦手だ。

 

 とにかく、目の前のひと――背の高い、紫色っぽい髪の姉御――は「偉いひと」である。少女はそう判断し、咄嗟に頭を下げた。頭上で「偉いひと」が何か言っているが、少女の耳にはほとんど入ってこない。少女の特性というか癖のせいで、自分より強い力を持つ者の前では萎縮し、緊張してしまう。

 あまり聴こえなかったが、「偉いひと」が最後にこう言っていたのは分かった。

 

 

 「……うむ。お前にも少しは休暇が必要だろう。今日一日は炉を止めて、休んでいていいよ。わざわざ出勤してくれたのに、すまないね」

 

 

 これは詰まるところ、久方ぶりの休暇が貰えるということだ。どういうわけか知らないが、取り敢えず今日は働かなくて済むということである。少女はそれを純粋に嬉しく思った。「ありがとうございます」と何度か頭をペコペコ下げる。すると「まぁ頭を上げたまえ」とか偉いひとがまた偉そうな事を言う。しかし、その言葉に素直な少女はこれまた素直に従った。彼女はどこまでも従属的存在である。

 

 唐突に、偉いひとが手を伸ばし、少女の頭に手のひらをぽん、と乗せた。

 

 頭を撫でられるのかな、と少女は戸惑いながらも予想した。昔 (どれくらい昔なのかは覚えていない)、少女の主――ひいては地底、旧地獄の主でもあるが――が、しょっちゅうそうしたように、頭を撫でられるのかな、と。少女は頭を撫でられるのが嫌いだ。子供扱いされているような気分になるのはもちろん、「お前の事は何もかも分かっているよ」と囁かれているようで、嫌な気分になるからだ。

 そういえば、あの人のことを嫌いになったのはいつだったかな、と少女は思い返す。

 しかし、それすらも思い出せなかった。

 

 そんなことはどうでもいいのだ。

 目下、問題とすべき事柄は、この「偉いひと」が、少女の頭に手を乗せて何をしているのか、というものである。撫でるのかと思いきや、そうではない。代わりに、偉いひとは何やら呪文のような言葉をぶつぶつと並べている。意味は全く汲み取れない。だが、その呪文だか何だかによって引き起こされた現象は理解できた。

 力が抜けていくのである。

 単に筋肉とかそれに類いする肉体の力が抜けていくのではなく、心の内にみなぎっていた力――能力が――吸いとられていくような、そんな感じがした。少女は恐怖した。力は己のアイデンティティーである。奪われたら、彼女は彼女でなくなってしまう。どうしよう――どうしようもなかった。力の奪われる過程は不思議なことに、とても心地好く過ぎた。この「偉いひと」に「何をする……」と……抗議しようという意思も少しは残っていたが、今はただ、声を出すことすら億劫で、少女はぼんやりと立ったままでいた。

 

 掌が離れた。

 目眩のようなモノを感じて、少女はよろめきながら二歩、三歩と後ろにあとずさる。背中に何かが当たった。それは炉壁だ。分厚い耐熱素材で出来た、少女の職場であり、絶対的な心の拠り所である……核融合炉の……壁である。少女はその壁に寄りかかり、何とか身体を支えて、腰砕けになることを拒む。

 

 優しい眼差しで少女を見据えながら、目の前の偉いひとはこう言った。

 

 

 「休暇だからと言って好き勝手暴れられては困るものでな。明日まで、この『神の火種』は預からせて貰うわ」

 

 

 差し出された掌の上には、大きな宝石の珠のようなものが載っていた。そこに本当にあるのかと言えば少々曖昧で、一種の概念が可視化されているようにも思える。真っ緋に焼けた石炭のような色合いのそれは、少女が直視するとますます輝きを増した。

 普段彼女の胸に収まっている巨大な「八咫烏の眼」によく似ている。つまりこの宝玉は、抜き取られた力の具現であろう。ようやくおさまり始めた目眩を眼窩の奥に感じながら、少女は考える。

 普段最も大切にしている能力を奪い取られたにも関わらず、怒りや悲しみは不思議と湧いてこなかった。「明日になれば返す」と言われた効果かもしれない。あるいは少女の気づかないうちに、催眠かそれに類いする幻惑行為( 堂 廻 眼 眩 )が行われたのかもしれない。

 理屈は納得出来るのだ。自分の力が強大であることは彼女自身、十二分に理解している。休暇という完全な自由の代償として、この偉いひとは私から力を預からざるを得ないのだ。分かってる。分かってる。彼女は自分の頭に言い聞かせるようにして反復する。

 しかし、いずれにせよ――

 

 

 「あの、一つよろしいですか」

 

 

 分からないことがあった。

 何だね、と偉いひと。優しい目をしているな、と少女は思う。

 大きく息を吸い込んで。

 

 

 「私は、何をすればいいのでしょう」

 

 「…………どういうことかな」

 

 「言葉通りの意味です。休暇に何をすべきなのか、私には分からないのです」

 

 

 そう、少女には「すべきこと」がないのである。

 勤務中なら、河童の用意した装置やメーターとにらめっこするだとか、侵入者を追い返したり殴り飛ばしたりだとか、義務には困らない。しかしいざ自由を与えられ、さらに力さえ奪われてしまえば、少女は「何者でもない」妖怪烏に戻ってしまう。尤も、力さえあれば……旧都の上空を流星のごとき速度で飛翔し、日頃の鬱屈を晴らすこともできようが。

 この力を手に入れて暫く経つが、こんな経験はしたことがない。

 だから訊いたのである。

 偉いひと――少女よりもやや背の高い、藤色の豊かな髪の女性――は苦笑した。

 

 

 「そうだな、人の子は……家でゆっくり休んだり、旨い物を飲み食いしに行ったり、親しい人々と交歓したり……人間は皆そうしているよ。人間の真似をしろとは言わないがね」

 

 「……うぅん」

 

 

 なおも少女は悩む。「偉いひと」は言った。

 

 

 「まぁ、たまには、自分の為すべき事くらい、自分で考えるが良いよ。うむ、それぐらい出来るようにならねば、お前はいつまで経っても(うつほ)のままだ。では、また明日会おう」

 

 

 「偉いひと」の姿は段々と薄く透明になってゆき、ついには虚空へと消えた。

 後に残された少女。暫くの間じっと考えていたが、やがて炉壁に備え付けられたエレベーターの扉へ歩いていった。これから休暇をどう過ごすか、依然としては決まっていない。しかしながらとにもかくにも、ここを出なければ休暇は始まらないのだ。

 

 人間の大人ならせいぜい二人入るかどうかという大きさしかない金属の箱に足を踏み入れ、扉の横に付いているパネルから「地上」の文字が書かれたボタンを選んで押す。ガッチャンガタン……ゴトンと騒がしい音を立てて扉が閉まり、エレベーターは上昇を開始する。

 

 力を取られたせいか、普段と比べて明らかに重くなった身体。そういえば、と思い立って自分の胸元を見てみれば、案の定「八咫烏の眼」はそこになかった。右足に嵌めていた「融合の脚」もまた然り。どちらも人目から隠そうと思えば隠せるものではあるが、自分の意思でないところで奪われているからか、胸の奥で小さな焦燥が芽生え、そして消えていった。力のない自分は小心者であることを、少女は自覚している。

 頭蓋の内で言葉が反響する。

 

 

 (たまには……自分で……)

 (それが出来るようにならねば)

 (お前はいつまで経っても空のままだ)

 

 

 少女は自らの名を心の中でなぞる。

 霊烏路空。

 一体どういう謂われが有るのだろう。

 霊験あらたかな烏、その路は空――即ち至高、悟りの境地、天――に通ず。こんな風に素晴らしい由来であればいいのだが。きっとそうではないに決まっている。霊の読みはどうしようもない「零」とも取れるし、空と来たら「すっからかん」のことではないか。偉いひとの言っていたのは、きっとこういう意味なのだろう。零知……頭空っぽのカラス。

 

 

 「うつほ、かぁ……」

 

 

 呟きは狭い籠の中でくぐもって響き、ただでさえ淀んだ空気を一層重くした。

 霊烏路空は自ら造り出した重力に押さえつけられながら、ゆっくりと上昇していく。

 上昇を始めて一分ほど後、彼女は「制御棒」――左の手に装着していた、神の火を律するための神具――を抜き取り、小脇に抱えた。少なくとも今日一日は、ただただ重いだけのガラクタになってしまったものだ。別に取ってしまっても、大袈裟に言えば捨ててしまってもいいような、そんな気分だった。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 エレベーターがたどり着いた先は、妖怪の山の麓あたりにある、核融合研究所の地上部施設である。正式名称は守矢とか間欠泉がどうたらこうたらでもっと長いが、空にとってはどうでも良い事だった。ここで働いている連中 (大半は河童) の内、この施設の名前を覚えている奴の数など片手の指で足りることだろう、と空は思うのである。それくらい固有名詞は長い。

 やかましいエレベーターのドアが開くと、そこはちょっとした指令センターのようになっていて、正面のでかいスクリーンが研究所の各所を写し出している。その前で河童がわちゃわちゃと喋ったり働いたりしている。そこへ空はとことこと歩いていく。

 左右から聴こえてくる、空への労いの言葉。「お疲れっしたー」とか「もう上がるんですか?」「山の上からのお達しあったじゃん」。ちっとも労られていない。

 

 ここで主にやっている事は議論である。喧々とした議論は常時行われ、テーマにしているのは今日の夕飯の献立から、核融合炉周辺の広範囲に発生している地熱利用の方法まで様々だが、高尚な論争などほんの僅かで、大体下らない。空にとって河童は正直かかわり合いたくない連中だが、出口に行くまでには必ずここを通らなければならない。黙々とただ前へ歩いていく。

 

 ようやく騒がしい群れを抜け、出口の前まで来た空。自動で扉がぷしゅー、と静かに開く。エレベーターのドアもこれにすればいいのに。ここで働いている河童のように喧しいドアのことを考えながら、無駄にハイテクな敷居を跨いだ瞬間、前方から走ってきた小さな影が見えた。避ける間もなく、影は空の胸の下あたりにぶつかって、見事にひっくり返った。見れば、黒い髪をおかっぱにした河童の少女である。

 

 

 「あ、空さん。ちょうど良かった! 昨日お願いしてた進行速度の見積り、出来ました?」

 

 

 起き上がるなりこんなことを言う。どこかで見覚えがあるような、と思っていたら、昨日会ったばかりらしい。しかも「進行速度の見積り」「出来ました?」どうも、自分はこの河童から何らかの仕事を引き受けたらしい。

 しかし覚えていない。めんどくさいのに捕まったな、と空は思う。

 

 そこで「カチン」と、頭の中で何かが噛み合った。

 確か、こういう時に便利なモノがあったのではなかったか。

 

 (貴女は忘れっぽいのだから――)

 

 ブラウスの襟元に手を突っ込み (ここで何故かおかっぱが胸元を押さえた)、間から「それ」を引っ張り出す。古ぼけた、黒い表紙の手帳である。挟んでいたので微妙に湿気ている。

 少し端が焦げている。そういえばこれは熱に弱かったんだっけ、とページを繰りながら思う。そういう注意書きを主がしてくれた。非常なお節介。便利だから、棄てるのがもったいないから使ってるだけなんだ、そう自分に言い聞かせながら持ち歩きつづけている。これをくれた人の事は、出来れば思い出したくない。

 

 暦の後ろ、空白のページにその殴り書きはあった。

 「地下○○区、炉壁および周辺機器の放射化現象の進行速度、概算」

 今の今まで忘れていた仕事だ、計算などやってあるはずもない。仕方がないので空は暗算を始めた。炉壁の厚さや素材、防護術の詳細をおかっぱに尋ねながら式を組み立てる。こういった芸当は得意である。河童にも解りやすいように、簡単にした計算式も手帳に書いていく。ほどなく計算を終え、おかっぱの目の前に手帳のページを差し出す。

 

 

 「はい。これでいい?」

 

 「あ、ありがとうございます……うわっ、式長い……これ頂いてもいいですか?」

 

 

 要するにページを千切って渡せという事だ。

 空は快く――

 

 

 「あー……これはあげられないかな。何か紙持ってない? そっちに写してあげるよ」

 

 

 思いとは裏腹の言葉だった。

 空は混乱をきたした。(なぜ――)

 おかっぱも少々戸惑っている。

 

 

 「……?……あ、はい。こちらにどうぞ」

 

 

 差し出された大きなノート (外来の品らしい装丁だった) のページに、手帳から式を書き写してゆく。普段書き物などしない手の肉が、慣れない動作に使役され不平の声を上げる。書きながら、なんでこんな面倒なことをしているのだろう、と空はぼんやり考える。自分のしたことだと言うのに、今書いている長い計算式よりも解り難い、自分自身への問いかけだった。

 式を書き終えたノートを突き返すと、河童は礼を言って立ち去った。その手に、何か紙袋のようなものが提げられているのを空は見た。何だろう、と訝りながら後ろ姿を見送る。やがて、騒がしい指令室内から、先程の黒髪河童の声が僅かに聞こえてきた。

 

 

 『お団子買ってきましたよー』

 『おぉ、ありがたいね。何処の?』

 『里です。最近運河沿いに屋台構えてる二人組から……』

 

 

 どうやら、黒髪は里へお使いを命ぜられていたらしい。団子とかいいなぁ、と見えない歌菓子の味を想像しているうちに、空は自分が精神的に空腹であることに気がついた。これでいつもなら、適当に山の獣を捕まえて丸焼き (直火) にでもすれば (精神的な意味での空腹は) 充たされるが、あいにくと今は力を奪われている身、獣一頭を捕縛し焼くのにも多大な労力を要するであろう。

 

 だとしたら、道は一つである。売っているものを食べに行けばいい。

 以前から里の食べ物に興味もあった。

 空は通路を進み、河童達が使っている更衣室に向かった。そこには、河童が人里に行く時、一般人に紛れるために使っている人間の衣装や道具が、一通り揃っている筈だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 間欠泉センターの地上構造物。

 その門を出た空は、地底のそれに比べると随分明るい太陽の光に目を眇めながら歩き出す。青空には雲ひとつない、見事なまでの五月晴れ。

 身にまとっているのは地味な藍染の着物。河童の考える「人間の女性」に合わせて仕立てられた着物、空の細身だが大柄な身体には少々丈が短い。目立つかなぁ、とも思うが、身長を縮めるような芸当はできない。髪は後ろで適当に縛って纏めてある。いつもの派手なリボンは置いてきた。これも人間に紛れるためには仕方ないと、空はおさまりの悪い後頭部を撫でる。

 

 目的地は里である。

 吹き上がる間欠泉を横目に、森沿いの道を歩いてゆく。そのうちに面倒になり、「飛ぼうか」などと何度も考えたが、八咫烏の力が無い今、飛ぶためには本来の地獄鴉の姿に戻る必要があった。せっかく選んだ服を脱ぎ置いて、鴉の姿で里へ行く。到着し、そこで人の姿に戻っても、着ているのは地味な着物ではない。普段とっている容姿、即ち白いブラウスに緑色のスカート、天を模したマントである。それでは妖怪か仙人か何かだと自分から名乗っているようなものだ……彼女なりにそう考え、地面の上をひたすら歩いた。春めく森は青々とし、下生えには色とりどりの花が争うように咲き始めていたが、空は目もくれない。

 

 霧の湖の畔に差し掛かった時、遥か湖上に小さな人影のようなものが見え、思わず立ち止まった。目を凝らしてよく見ると、影は数人の妖精で、つるんで湖の上を滑って遊んでいることが分かった。そのうちの一人、青っぽい服を着た (他に比べて) 大柄な妖精には、何となく見覚えがあった。が、当然名前など覚えていない。無邪気にきゃっきゃと跳ね回る姿に少し苛々として、「力さえあればあんなの消し炭なのに」と呟く。足元の石ころを蹴飛ばすと、カラコロ転がって湖の中にポチャンと落ち、物憂げな波紋を拵えた。

 霧の中にうっすらと浮かぶ紅い館にも気づかず、少女はうつむいたまま歩いていく。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 無骨な岩で覆われた玄武の沢を抜け、小川沿いに里をさして歩く。既に日は高く登っている。空の気づかないうちに、彼女が歩いている道の周囲には水の入った稲田が広がっていた。まだ苗は植わっていない。もうそんな季節か、と空はようやく実感する。風は暖かく緩やかに吹きわたり、田の水面を撫でて毛羽立たせる。足元の短い草がさらさらと揺れるのを見て、ため息をついた。地底では到底見ることの叶わない光景。

 旧地獄が嫌いな訳ではない。むしろあの殺伐とした喧騒は好ましい。

 

 【――私はもう究極の力を手にしてしまった】

 思い返されるのは、かつて異変を起こした時のこと。

 

 【地上は核の炎で溶かし尽くされる】

 誰よりも高く高く飛べたことが嬉しくて。

 

 【哀れ地上は灼熱地獄に生まれ変わる――】

 誰よりも強い力を得て、有頂天へと舞い上がった自分。

 

 【――究極の核エネルギーは全てを溶かし尽くす――】

 地上、その全てを「どうでもいい」と断じて焼き払おうとした、霊烏路空という妖怪のこと。

 

 地底の妖怪は地上の者を恨んでいる。だが空にとってそれは「どうでもいいこと」で、だからこそ躊躇なく地上を火の海にしようと目論んだ。あの馬鹿げた強さを持つ巫女と、いくら追い込んでも諦めずに食いついてきた魔法使いに阻止されていなければ、草も木も、人も妖怪も融けて無くなってしまっただろう。

 自分たちさえ楽しければ良いと、何も考えなかった自らの愚かしさ……

 

 

 …………………………

 

 ふいに……

 心の静寂を打ち破り、声が響く。

 

 

 「オォイ……お嬢ちゃんァァァンンンン……」

 

 

 朴訥とした男性の声だった。はっと顔を上げ、声の方を見る。

 一つ向こうの田に人影が幾つか、豆粒のように見えた。百姓の一段らしい。田の中に足を踏み入れている所を見ると、彼らは早めの田植えに取り掛かるところなのかもしれない。空に声を掛けたのはその中の一人、声の調子や佇まいからして中年の男性らしい影。ゆっくりと手を振っている。

 

 

 「こがんとこ一人で出歩くとォ……危ねぇぞォォォォ……」

 

 

 (私のこと、人間だと思ってる)

 扮装しているから当然といえば当然なのだが、それが何となく可笑しくて空はくすりと笑う。

 他人を純粋に分け隔てなく思いやる人間の心が羨ましいような、同時にくすぐったいような気分になった。

 

 ぽっと思い立ち、背伸びして、名も知らない没個性な農業従事者に向かってちょっと手を振る。

 

 「気をつけてけよぉ」

 

 手を振り返した彼らを横目に見ながら、空は畦道を小走りに駆け出した。

 低い屋根が連なる人間の里まであとわずか。

 自覚している以上に素朴で純粋な彼女。つい先ほどまで雨雲の立ち込めていた心は、今や一片の雲もない青空のように澄んで晴れ渡り、力の使えない事も既に意識の外にあった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 そろそろ人家が多くなってきたな、などとぼんやり左右を見回しながら歩いているうちに、空の歩く道には段々と人通りが多くなっている。はて、もう里の真ん中に来たのか、と里の構造をよく知らない空は訝る。道の端に建つ建物は素朴な平屋ばかりで、一見すると民家のように見えるが、実は軒先に「染め物」「お食事処」等々の文句を染め抜いた暖簾が掛かっていたりして、そこでようやくその建物が商家であることが判ったりする。

 道は細かく枝分かれして、あちこちで細い路地が狭い口を開け、「面白い物があるぞ」と言わんばかりに空を誘っているようにも見える。好き勝手探索したいのは山々だが、ここで空は自らの持つ生来の鳥頭を想う。普段は飛んでいるから道など覚えなくても困らないが、今は徒歩である。足の赴くままに探索すれば、いずれは路地裏の迷子と化すに決まっていた。

 大通りならその心配は要らないはずだ。そう考えた空は今歩いている幅の広い道をずんずん進んでいく。目の前に繰り広げられる、旧都とはまた違った種類の賑やかな町並に目を奪われながら歩いているうちに、幾度か「なんでここ()に来たんだっけ」と自らの目的を見失いそうになるが、そのたびに空腹が思い出させてくれた。良さげな飯屋を求めて、彼女は行く。河童から漏れ聞いた団子のことも忘れていない。

 

 ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 

 しだれ柳の立ち並ぶ運河沿いに差し掛かった時、どこからか威勢のいい客引きの声が聴こえてきた。団子がどうとか……空は立ち止まる。微かに漂う甘い香り……

 

 

 「らっしゃいなーっ。みたらしにずんだ、黒胡麻だれによもぎ、よりどりみどりで一本四文だよーっ」

 

 

 声のする方に首を捻る。人通りの多い道端に、移動式らしい車輪のついた屋台が二つ並んでいた。屋台の主は二人ともうら若い女性だった。声を張り上げて、競い合うように客引きをしている。どちらがより多く団子を売れるかという競争をしているようにも見える。が、二人揃って兎の耳のような形をした珍妙な頭飾りを付けていた。示し合わせて付けているとしたら、あの二人実は仲が良いんじゃないか、と空は思う。

 それにしても、この空気に漂う香ばしさ、甘さの微粒子、美味の予感である。

 

 (ま、美味しければいっかな)

 

 たとえ店主は奇態でも味が良ければいいのだ。空は懐から財布 (これも更衣倉庫から中身ごと借りてきた。むろん無許可で) を引っ張り出し、屋台に歩み寄る。

 二つの屋台には、それぞれ一組ずつ先客の親子連れが並んでいた。彼らが会計を終えるのを待つ間、どっちの屋台で団子を買うか真剣に悩む。「片方の店で団子を買えば、選ばなかった片方の店主に申し訳ないから」などという理由ではなく、単にどちらの店の団子が美味しいか見極めようとしているだけである。

 結局、向かって右の屋台――亜麻色の短髪を鳥打ち帽にひっつめた少女の屋台――を選ぶ。団子を買った親子連れが去ったのを確認してから右の屋台の前に立つと、左の屋台の少女 (三角巾の後ろから薄い青の髪を覗かせている) があからさまに落胆の表情を見せた。空はまったく気にしていない。鳥打ち帽の少女がにかっと笑う。

 

 

 「らっしゃいー。どれにする? おすすめは期間限定品の練りよもぎだよー。今なら五本以上お買い上げで、おまけに好きなの一本サービス」

 

 

 それならウチだっておまけしてるのに、と左から小さく恨み言が聴こえた。右の店主は鼻で笑い、「味の勝利さね。センスが違うんだよセンスが」と煽る。左からうぎぎ、と聞こえる。空は団子選びに夢中である。細かく言うならおすすめの「よもぎ」を何本買うかで迷っている。

 左の店主。

 

 

 「んぐぐ。いいわよ別に。私だってお客を……あ! そこのお兄さぁん! お団子どお? ……あ、買ってくれるの? ありがとー!」

 

 

 空は「よもぎ」を二本、「黒胡麻」を一本、「みたらし」を二本買うことに決めた。おまけはずんだ。店主が竹の入れ物に詰めてくれた。詰めている間にも商売敵を煽る。

 

 

 「甘ったるい声出しちゃって。アンタんとこの黒蜜団子といい勝負だね」

 

 「鈴瑚、うるさいよ。あ、いらっしゃい! 何にする?」

 

 

 その時、財布の中の小銭を数えていた空は、左側背から聞こえてくる奇妙な音に、思わず顔を上げた。……ギシ、ギシリ、キィ……何かが擦れるような音。甲高いが小さく、不快ではない、物寂しい音。それは徐々に近づき、空の真横、右の屋台の前で止まった。

 そして、若い男の声。

 

 

 「えっと、何でもいいよ。おすすめを四本くれない?」

 

 

 低く落ち着いた声の色。しかし、どこか少年のような初々しさも感じられる。それでいて力強く、大きな声ではないのに不思議と、場の空気を震わせる成分が含まれている。それ自体はありふれた人の声なのに、今まで聴いたことのない音だった。空は横を見る。

 

 屋台の前に立っていた――いや、「座って」いたのは――痩せた青年だった。

 空には人間の年齢はよくわからないが、まだ若いのは分かる。よれよれの白いシャツを着て、くしゃくしゃの金髪を少し長く伸ばしている。頬骨や鼻は高く、里の一般人とは顔立ちがはっきり異なっていた。おそらくは、たまにいるとかいう『外来人』だろう――空は予想する。

 しかし、それよりも何よりも空の目を吸い寄せたのは、彼が身を預けている、古ぼけた木の車椅子だった。脚の不自由な人間が、こういうものを使うことは空も知っている。しかし、男が身動きするたびに僅かな音をたてて軋むこの車椅子は、まるで――

 

 (身体の一部みたい)

 

 年季のはいった車椅子は何故か、男の細い身体と同じくらいに、男という存在を構成している、切り離せない大事な要素であるように、空には思えた。脚が不自由で不憫だ、などという感情は一切湧かず、代わりに心へ飛来したのは、男へのおぼろげな疑問だった。

 彼を包んでいるこの感覚は一体何だろう……と……

 

 

 「あいよ、まいどありー」

 

 

 店主の挨拶もそこそこに聞き流し、空は青年の横顔をぼーっと見る。彼を包む異様な雰囲気の正体を案じながら、上の空で団子の入った竹の器を受け取ろうとした。

 

 

 「あ、危なっ……」

 

 

 店主の切羽詰まったような声にふと視線を戻せば、気づかないうちに傾けたまま持っていたらしい竹の器から団子が一本 (それも期間限定のよもぎだ) 、滑り落ちようとしていた。慌てて団子を捉えようとした右の手がかえって仇となり、串はぽーん、と跳ね上がった。放物線を描いて飛ぶフライング・ファンタスティカ。その向かう先は……

 

 ぽてん、と。

 あろうことか、件の青年の膝の上であった。

 あーあ、と肩を竦める店主二人。どうしていいか分からずに、空はちょっと固まった。

 彼もまた黙って、戸惑ったような面持ちで膝の上の緑色を見ている。

 

 ふいに、男の指が動き、団子の串をつまみ上げた。ひっくり返してじっくりと見る。ホコリが着いていたのか、親指と人差し指が何かをつまみとって捨てた。どうするのだろう。店主二人と空は訳もなく固唾を呑んで見守る。

 

 食べた。

 

 (食べた?)

 三人があっけに取られて見守るなか、青年はよもぎ団子を念入りに咀嚼している。十回、二十回と口許が動く。やがて喉がごくん、と音を立てて鳴る。

 青年は口を拭い、ぽつりと言った。

 

 

 「ウマいなぁ」

 

 

 そして空の方に向き直り、頭の後ろに手をやって、困ったように微笑んだ。

 薄い青色をした目は澄んで、静かな川面に映る星々のような光が浮かんでいた。

 

 

 「ごめん。僕が払うから、もう一本買うといいよ」

 

 

 差し出された小銭四枚。空は訳が判らないような、それでいてどこか納得してしまったような中途半端な気分で、どうにか「ありがとう」と言ってそれを受け取る。注文はよもぎをもう一本。ありがとっしたー、とこれもどこか戸惑ったような、店主の気のない挨拶。空が団子を受け取るのを確認して、青年は軽く会釈し、もと来た往来へと戻っていった。自分の竹器を手に提げて、軋む車椅子を本物の足のように操って。

 

 

 空はその後ろ姿が人混みの河の中へ消えてしまうまで見送っていた。

 が、しばらくして気を取り直したらしく、二人の団子売りに別れを告げた。そのまま運河沿いに歩いて行く。どこか座れる場所を探している。

 もちろん、今しがた買ったばかりのものをゆっくり味わうために。 

 

 

 ≡≡≡≡≡≡

 

 

 歩きながら、あの不思議な人間のことを考える。

 自分の身体さえ思い通りに出来ない。それはそれはふしあわせなことだろうに、どうして彼の目は光に満ちていたのだろうか。遠い異邦の地に (恐らくは) たった一人で、彼はなぜ、あんなにも――

 

 自分の為すべき事が分かっている人間の目だった。

 何となく空は思う。

 私よりも『分かっている』目。

 

 (お前はいつまで経っても空のままだ) 神様の言葉。

 

 運河の畔に見つけた平らな石に腰を下ろし、団子を食みながら少女は考える。

 自らの為すべきことは何か。

 幾つかの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。

 

 ふと、あの手帳を棄てられない理由が判ったような気がした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌日。

 朝の八時のことである。

 

 空がいつものように定時出勤すると、職場に「偉いひと」がいた。名前は相変わらず思い出せないが、この間欠泉地下センターの管理側に名を連ねる一人であり、空の上司である。というわけで取り敢えず頭を下げ、挨拶をする。「まぁ頭を上げたまえ」と偉いひと。もうこの「神様」のことは信用している。緊張せず、萎縮せず、空は「神様」の話を聞く事が出来た。

 

 

 「休暇はどうだったかね」

 

 「美味しかったです。ご飯とか団子とか……あ、そういえばこれ、お土産です」

 

 「おぉ、饅頭か? 里へ行ったんだな……わざわざすまないね……さて、お前に『神の火』を返してやらねばなるまいな。少しそこへ屈んでいてくれ」

 

 

 空は素直に従った。その頭の上へ、山の神の手が重ねられる。彼女はどこまでも従属的存在であった。そしてそれは、これからもずっと続いていくことだろう。彼女に力が有るかぎり。

 

 

 「あの、私、思ったのです」

 「……どうしたんだね」

 

 

 彼女に主が在るかぎり。

 

 

 「私、あんまり難しいことは判らないし……たとえ空っぽだったとしても、べつに良いかな、って。あなたと、それと……あの人の……言い付けをちゃんと守って。それが為すべきことの全部で、後は『うわのそら』でも……別に良いかな、って」

 

 

 彼女に心がある限り、ずっと。

 

 

 「今はまだ、それでいいと思ったのです」

 

 

 「神様」は苦笑した。優しい目をしているな、と空は思う。

 あの人の目は――心の奥を全て見透かすあの人の目は――どうだっただろうか。

 空は思い出そうとした。私がまだちっぽけな鴉でしかなかったとき、誰よりも好ましく思っていたあの人は、どんな目をして、私を見ていたのだろうか。

 

 しかし、それすら思い出せなかった。

 神様は言う。

 

 

 「それは『自分で考えた』んだね。霊烏路空」

 

 「はい」

 

 

 短い沈黙の後に、頭の上の手が離れた。同時に少女は、失われていた力が四肢に満ちてゆくのを感じ取った。それは黒い太陽の火。天をあまねく照らす大いなる神、そのしもべに授けられた光。そして今は彼女が借り受けている力。少女と、少女が仕えるすべてのモノのために振るわれる力。

 

 今はまだ鞘に納まったまま、危機が訪れるのを待っている。

 

 

 

 








 
 団子屋清蘭&鈴瑚のくだりは三月末日発売の公式本「東方文果真報」より。色々と衝撃的な本でしたが、東方らしいっちゃ東方らしいノリ、極彩色の冊子です。まだ手元に無い方々、ぜひ一冊どうぞ(ダイレクトマエケン(マーケティング))。

 夏コミで配布されるとアナウンスのあった東方最新作の要素ですが、このssには恐らく盛り込まないと思います。精々チルノが日焼けする程度です。



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