再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#33 Hello,world!! (迷い子の唄)

 

 

 

 

 「ですからね、こっちが本当の『私』なのですよ」

 

 

 肩に預けた傘を得意げに指差しながら、女の子はにこにこ笑っている。

 群青色の夜が迫る帰り道。

 山の端に沈みゆく夕焼けを横手に見ながら、少女は僕を伴って歩いていた。右が水色、左が紅の瞳が空色の髪に不思議とよく似合う彼女の名前は『多々良・小傘』という。妖怪だと名乗ってはいるけれど、「どこか異国の生まれの人間」であると言われても、正直違和感はない。それほどに彼女は「ごくあたりまえ」の存在だった。圧倒的な力を持ち、存在するというだけで人々を恐怖させ、威圧する吸血鬼などとは違って、人々の生活や暮らし、思想などに寄り添い、根付いている……そういうタイプの妖怪もいるという阿求の蘊蓄を、そのまま体現したような妖怪。それが多々良小傘という少女のようだ。主食は「人の驚きや恐怖」。ささやかなものだと思う。

 

 で、さっきからその小傘が主張するには、彼女がいつも携えている紫色の傘 (番傘と呼ばれる種類だそうだ) 、それこそが「多々良小傘」であり、僕の隣でゲタを鳴らしながらてくてく歩いている少女の方は、本体ではないのだとか。でも傘がメインだなんて、誰が見ても思わないだろう。人目を奪う要素が満載の見た目ではある。可憐さ以外にも色々と。

 

 

 「思えば百ウン十年前! 前の主に見捨てられてからというもの、このダサ……ゆにぃくな見た目のお陰で随分損をしてきやした。けれどもこうして人の姿を得たことは福音……そう考えたわちきは、たとえ泥をすすってでも、石を枕にしてでも生きて行こう、明日の驚き(ごはん)の為に……! と、決心した次第であります。それから苦節……」

 

 

 長く使われた物には魂が宿るという話も、阿求から聴いた。精霊信仰のようなものだろうか? 物に宿ったその「念」が善いものであれ、悪しきものであれ、場合によっては小さな神――「ツクモガミ」を生み出すことがある、と。小傘の話を整理すると (なぜか身の上話になった途端、急に訛りだした。意味を汲み取りづらい) 、彼女は置き去りにされたまま忘れられた傘に無念が宿り、そのまま妖怪になった存在であるらしい。

 だからといって、元の持ち主や他の人間に復讐してやろうとか、そういう気は全くないと彼女は言う。

 

 

 「外の世界ではカガクが庶民に浸透し過ぎて、妖怪も神も力を失い消えつつある……と、山の上の神様が言ってました。それに比べれば、私の苦労なんぞ屁でもない。昼間は鍛冶や子守りで日銭稼いで、夜になったら墓場や路地で人間を驚かす……それでささやかな幸せが手に入る訳ですからね」

 

 

 そりゃあ、怨みつらみは無いとは言い切れませんがね。

 そう言って彼女はあっけらかんに笑う。下駄の音がカランコロンと重なった。

 

 

 「妖怪なんてね、人間をある程度見下してれば、それで何とかなっちゃうものなんですよ。……ま、まぁお兄さんを見下すことは当分出来そうにないけど」

 

 「あぁ、さっきは急に撃ったりして、その……」

 

 「余計に惨めになるから、謝るのはよして下さいな。それにね、毛ほども効きませんでしたから」

 

 

 傷ひとつない傘を見せつけてくる。痛い痛いとは言っていたものの、本当に大したことはなかったらしい。うーん、夢の中では凄まじい威力だったはずなのに。妖怪である小傘が取り立ててタフなのか、そもそも僕の「爪」には大した威力が無かったのか。その両方かもしれない。

 僕の胸の裡でも、この「爪」や「回転の力」には、まだ先があるような予感が渦巻いている。あの日の夢、霧の森の奥へと姿を消した男は――ジャイロ・ツェペリは――こう言っていた。

 

 【回転は無限に通じる力――】

 【闇を切り裂く……】

 

 無限とは何だ。

 闇とは何だ。

 問いはいつまでも反響して、そして返ってくる答えはない。きっと深い深い洞窟の奥に埋もれているのだろう。手に入れたければ、カンテラを手に飛び込むしかない。独りで? それは分からない。

 

 物思いに耽っていると、傍らで少女が両腕をいっぱいに伸ばして伸びをした。

 

 

 「あぁーあ、どっかにお仕事ないかなー。今晩掛け蕎麦食べたらすっからかん」

 

 「特技は?」

 

 「人を驚かすこと。あと鍛冶職かなぁ。んでも、針の注文は二月でお仕舞いだったし……」

 

 

 小傘はお腹をさすりつつ、がっくりと肩を落とす。しかし……鍛冶が得意? とてもそんな風には見えない。別に彼女の職探しに付き合ってやる義理はないんだけど、少し助け船を出してやろうかな、という気にさせられてしまった。

 車椅子の車輪を繰る手を止め、膝の上に乗せていた巾着袋をまさぐり、中から鉄球の片割れを取り出す。触れたときに、また一つ二つ言葉が走ったが、今度は気に止めないようにした。

 

 

 「これ、どうにかして直せないかな? ちょっと特別なモノなんだけど」

 

 「……何ですかこれ? ちょっと拝見……」

 

 

 訝りつつ伸ばされた小傘の指が、壊れた鉄球に触れた瞬間だった。

 パチン、と軽い音がして、彼女の白い指が数センチノックバックした。

 指をさすり、呟く。

 

 

 「っ痛……神道系の術……でもないか。霊夢さんのはもっと痛いし」

 

 

 小傘は懐からハンカチのような布を取り出すと、それを手に巻いてから、再度鉄球の片割れを手に取った。顔の前まで近づけ、くるくると角度を変えながら目を細めて半球を眺める。

 しばらくして、彼女はそれをハンカチでぐるぐる巻きにし、懐へ仕舞い込んだ。

 

 

 「んー、何かしら妙な気を感じますが……やってみましょう。この『念』は消せばいいので? それともむしろ引き立てる方向で修繕しますか?」

 

 「そんなことが? ……出来るのなら、引き立てる方がいいかな」

 

 「了解ですー。ちょっとお時間頂きますけど、完成したらお届けに上がりますね。えーっと、お住まいはどちらで?」

 

 

 稗田屋敷だ、と告げると、彼女の白い頬が、夕焼けの元でもはっきり判るくらいに真っ青になった。数回、口がぱくぱくと開閉して、やがて震え気味の声が紡がれた。

 

 

 「お、お客さんは一体何者で……?」

 

 

 説明が面倒だったので、「とある事情で居候中」とだけ答えた。小傘は「なんとかします」と小さな声で言って、そのあとしばらく黙ってしまった。どうも、阿求の家に居候しているというのは、大変なことであるらしい。里でも有名人だったし、幻想郷にとって特別な人間だということは知っていたけど、ここまでとは思わなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 なんとなく声を掛けづらくて、お互い黙ったまま歩いているうちに、もう目の前に稗田屋敷が見えてきた。西の彼方へ追いやられた夕日が、最後の光を地平線の向こうに隠そうとしている。濃紺に染まりつつある空には、幾つか大きな星が瞬いていた。もう少ししたら、東から半欠けの月が登ってくるのだろう。星の光を衰えさせる程に強い光。けれども、太陽の持つ生命の光からは程遠い、青ざめた輝き……

 

 見えもしない月の光になんとなく思いを馳せている。星は不思議と僕の心を惹き付ける。

 と、隣に聴こえていた下駄の音が止まった。おや、どうしたのかな……と、後ろを振り返る。空色の髪を持つ少女は足を止め、道の真ん中に立ち尽くしていた。

 

 

 「どうしたんだ」

 

 「……魔法使い」

 

 「え?」

 

 「……魔法使いの匂いがする」

 

 

 魔法使い? 急になんだ?

 というか、魔法使いに匂いなんてあるのか?

 クエスチョンマークだらけの僕を他所に、小傘はにわかに切羽詰まった様子になった。

 

 

 「に、逃げなきゃ! お客さん、お代前金で! 今ある分だけで構いませんから!」

 

 

 小傘は余程焦っているのか、下駄を鳴らして高速の足踏みを始めた。訳はさっぱりわからないが、僕も慌てて巾着袋をひっくり返し、中身のお金を全部渡した。けどそもそもお代が幾らなのか聞いていない。とりあえず阿求への言い訳を考えておかなきゃな、と思う。

 

 

 「た、足りるか?」

 

 「十二分です! それでは――えーっと」

 

 

 彼女はいきなり、肩にあずけていた傘 (こっちが本体、か) を僕に向けた。

 何のつもりだろう――考える暇もなかった。

 突如、傘の布地に巨大な『目』が現れ、僕を「ギョロリ」睨めつけた。さらにはその下に巨大な口が赤くぱっくりと開き、長大な舌のようなモノがでろりと顔を出す。車椅子から転げ落ちそうになった。

 

 

 「ふっふっふ。驚いてくれたね! いや満足満足」

 

 

 心底楽しげな笑い声と共に、砂利道から下駄がふわりと離れる。そのまま風に揺られるようにして、多々良小傘は宙へと舞い上がった。見上げる僕に投げ掛けられた言葉は、

 

 

 「それでは、完成の暁にまたお会いしましょう!」

 

 

 ……あっという間に彼女のシルエットは夜の闇に吸い込まれていった。

 後に残された僕は、しばらくの間その後ろ姿を闇の中に探して――やがて、自然と苦い笑いを口に含んだ。やれやれ、とんでもない子に仕事を頼んでしまったようだ。

 さて、「魔法使いの匂い」というのはお代欲しさから出た方便か、それとも――その答えはすぐに、道の向こう側からやって来た。風にのって聴こえてきたのは、楽しげな歌声。

 

 

 「~♪~……が来~た~、はーるが来~た~♪」

 

 

 取り立てて上手なわけではないが、その歌声は伸びやかで、聴くものを陽気にさせる成分が、たっぷりと含まれていた。僕は声を聴いているうちに、これはきっとあの子の歌に違いない……そう確信して、屋敷の前へと前進を再開した。やがて予感通りに向こうから歩いてくる、とんがり帽子を被った少女のシルエット。小さな魔女、霧雨魔理沙だ。

 

 

 「野ぉ~にぃ~も~……ありゃ? こんなところで何してるんだ?」

 

 

 向こうも僕に気がついたらしく、とととっと駆け寄ってくる。

 僕の前で勢いよく急ブレーキをかけて止まった魔理沙に、僕は遅まきながらも挨拶のつもりで手を挙げた。阿求に許しを貰って里を散歩していたことを話す。すると彼女は妙に納得したような顔をして、何度も頷きながらこんなことを言った。

 

 

 「なるほどなー。今日、里で漏れ聞いたんだ。『車椅子に乗った外来人がうろついてた』ってさ」

 

 「嫌でも目立つんだ、仕方ないさ」

 

 「違いない……あー、お前もしかして鈴奈庵に行ったか?」

 

 「なんで判ったんだ?」

 

 「いやなに、小鈴の台帳の貸出欄に『シェークスピア全集』なんて気取った横文字本が書いてあって、貸出先が稗田邸と来たもんだ。阿求の趣味じゃなさそうだから、もしかして……と思ってな。名推理だろう」

 

 

 彼女は胸を反らしてくつくつ笑う。僕は首をすくめて、その通りだ、と彼女の推理をパーフェクトなものにしてやる。ひとしきり笑いが収まると、魔理沙は言った。

 

 

 「さてと……私は阿求に用事があってね。そろそろ行くか。目の前だ」

 

 「こんな時間にどうしたんだ?」

 

 「ん、ちょっと野暮用ってやつだよ。お前には多分関係ない……」

 

 

 そこで魔理沙は言葉を切った。

 「うーむ」唸りつつ、顎に人差し指をあてがい、少し困ったような顔になった。かと思うと、次の瞬間には笑顔に戻っている。ちょっと嫌な予感がした。

 

 

 「どうも名前が無いってのは調子狂うなぁ。そうだ、私が名前を付けてやろうか」

 

 

 これは言下に拒絶した。ジョニィ以外の名前なんて要らない。

 僕がジョニィ・ジョースターであったこと。それを知った経緯を、彼女になら話しても良いかな……と思って、大雑把にかいつまんで説明していく。大体説明し終わるころには、僕らは稗田屋敷の大きな門の前に立っていた。ちょうど門番の男性が閉門の準備を進めているところで、門を叩いて彼を呼び出す手間を、ギリギリのところで省くことが出来た。

 

 間近に迫った家の灯りは橙色。ここに初めて来てからまだ一週間も経っていない。

 なのにもう、灯火は語っているような気がしてならない。「あなたの帰る場所はここだ」

 この光を好きになることが、僕に許されるだろうか……

 

 前庭を横切る小道の途中。

 並んで歩く魔理沙が言ってくれた言葉を、僕はこれから先もずっと覚えているだろう。

 

 

 「『ジョニィ・ジョースター』……ねぇ。良いんじゃないか? なんかもう『名は体を表す』って感じだな、お前のイメージにピッタリだよ。いい名前だな。本当だよ――」

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 屋敷に上がった後、小間使いのおばさんが阿求を呼んでくるまでの間、魔理沙と僕は客間に通されて、何をするともなくただ座ったまま、ぼうっと宙を見つめていた。魔理沙の用事とやらが何なのか少々気になるが、「お前には多分関係ない」と言われた以上、追及するのはちょっとためらわれる。

 それにしても、こうして二人揃ってぽかんとしているのは変だ。何か話題を提供しよう、そうだ、今日町で起きたことの話でも……と決めたとき、突然彼女は口を開いた。

 

 

 「……車椅子じゃあ、外に出るとき何かと不便だよな」

 

 

 どうやら僕の「脚」(移動手段としての) を心配してくれているようだ。

 確かに昨日・今日と車椅子で長距離を踏破したお陰で、腕が疲労に悲鳴をあげている。当然のことだけれど、車椅子で遠出などするものじゃあない。あの素敵な競争馬が早く手に入れば良いんだけど……

 

 

 「実は、馬を買う約束を取り付けてあるんだ」

 

 「なっ……その身体で馬に乗れるのかよ!?」

 

 

 僕は自信たっぷりに頷いてみせる。魔理沙は眉をひそめて、被ったままだった帽子を思い出したかのように取り、指に引っ掛けてくるくる回し始めた。これは明らかに信じていない顔だ。

 

 

 「本当だって。現に試し乗りは成功したし、あとは代金さえあれば……」

 

 「……ふーん。まぁいい。で、その金は誰が出すんだ? 阿求か?」

 

 「まさか。自分で買うよ。どうにかして働いて……」

 

 「お前さんに働き口なんてあるのかねぇ」

 

 

 僕は言葉に詰まった。魔理沙の言葉は正論だ。正論はいつだって辛辣なのだ。

 そう、僕は働くつもりでいる。阿求にねだれば、もしかすると買ってくれるかもしれない。だが、もう彼女には充分すぎるほど借りを作ってしまった。これ以上の甘えは許されない。人里で稼ぎ口を探したいものだが……半身の自由が効かないよそ者を雇ってくれる所など……冷静に考えれば、ない。

 

 

 「それでも……何とかするさ。いつか……」

 

 

 部屋に沈黙が降りた。

 ただっ広い客間。二人分の息遣いだけが微かに漏れ、やがて畳に染み込んでゆく。

 何十秒くらい経っただろうか。魔理沙が再び口を開いた。この上なく優しい口調だった。

 

 

 「……じゃあさ――私の仕事の手伝いをしないか?」

 

 

 驚いて、思わず見上げた少女の顔。至って真面目な表情だったが、すぐに相好が崩れた。

 

 

 「なに、そんな顔をすることはないじゃないか……口を閉じろ口を」

 

 

 僕は慌てて空いたままの口を閉じた。ちょっと恥ずかしい。一つ咳払いをして、一気に緊張した身体をほぐす為に深呼吸をして、先程の言葉の意味を問う。

 

 

 「それは……どういう意味だよ」

 

 「言葉通りさ。私は魔法店――まぁ便利屋みたいなモンだけどさ――をやってるんだ。基本的に一人で回せる仕事なんだが、時には人手が欲しいこともあってね。森で薬や魔法の素材を地道に集めたり、同じマジックアイテムを沢山造ったりしなきゃいけないときとかに、な」

 

 「僕に出来る仕事なら……」

 

 「まぁそう焦るな。ちょっと危ない仕事……妖怪退治とか警備とかも、そりゃたまにはあるが、まぁそこは私の専門だ。お前は心配しなくていい。メインはチマチマした作業とか、向こうの森――平坦な場所が多いから車椅子でもなんとかなるだろう――森で採集、ってことになるはずだ。どうだ?」

 

 

 「この話、乗るか?」

 その言葉と共に差し出された小さな手のひらを、僕は躊躇することなく叩いた。

 魔法使いの少女はにっこりと笑って、僕の手をがっしりと握った。

 

 

 「契約成立、っと。後は阿求を説得するだけだが、果たしてあの堅物は動かせるかな」

 

 「頼むよ」

 

 

 ややあって、少し自信無さげな「任せとけ」が返ってきた。

 大丈夫だ。きっと阿求は僕の意思を尊重してくれる。そう考えた後にふと、なぜ自分がこんなにも稗田阿求という少女を信頼しているのか、唐突に分からなくなった。この気持ちは何処から来たのだろう……

 その時ちょうど、客間の襖が開いた。

 

 

 「少々体調が優れなくって、昼から臥せっていたの。ごめんなさいね、魔理沙さん……それと、あぁ、お帰りなさい。遅かったから心配したわよ」

 

 

 魔理沙と僕の両方に言葉を掛けながら部屋に入ってきた阿求は、きちんと衣服を整えてはいたものの、顔色が普段よりも冴えず、また頬や耳に熱っぽい紅が差していた。意識して気丈に振る舞おうとしているのだろうか? しかし足取りはしっかりしていた。今朝よりも良くなっているといいのだが。

 阿求は魔理沙の正面に座って言った。

 

 

 「それで、何の用件ですか?」

 

 「おぉ、悪いね阿求。ちょいと相談事があってな……えーっと……ジョニィ? すまないが少し外してくれるか」

 

 

 遠慮がちに投げ掛けられた台詞を受けて、僕は素直に部屋を出ることにした。そそくさと襖を閉めて廊下に出る寸前、阿求が僕に言った。

 

 

 「夕御飯、貴方の部屋に準備させておきました。けどその前に、部屋の隅にお湯の入った桶と手拭いとが置いてあるはずだから、一旦それで身体を拭いておきなさいね。それと、食べ終わったら、私の部屋まで来てください」

 

 

 分かったよ、と頷いて襖を閉じる。

 車椅子に乗り、廊下を進んで自分の部屋へ向かう途中、さっきの阿求の言葉を思い出して苦笑する。何から何まで世話を焼いて……そりゃあ確かに、彼女にとって僕は「右も左も分からない、脚の不自由な外来人」なのかもしれないけれど、にしたってこの扱いは……まるで口うるさい母親が子供にするそれのようだ。

 母親……僕にその人の記憶はない。

 でも、先程の僕の疑問――彼女に対する僕の気持ちが、一体どこから来るのか、という疑問――その答えは、「母親」……その単語の「近く」にあるような気がした。あくまでも「近く」に。もちろん、彼女を母のように想ったりはしていない。それはとてもおかしなことだし、許されることではない。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 「阿求、入るよ」

 

 

 そう言いながら書斎に入った僕の頬を、ふいに夜の風が撫でた。その冷たさにはっとする。

 風になぶられた頬に無意識に触れながら、灯りのない部屋を見回す。彼女の姿はない。

 障子が開け放たれている。庭から流れてきた夜気が渦巻き、文机の上の紙束をぱらぱらとめくりあげていた。まるで生きている人間がそこに居るかのように、紙束はばたばた鳴る。

 

 

 「私はこちらです」

 

 

 すっと聴こえてきた声は、庭の方からだった。見ると、障子の陰から阿求が顔を出して、ちょいちょいと手招きをしている。畳の上を這いずるようにしてそこへ向かう。

 庭に面した縁側。微かな月と星の光の下で、彼女はそこに座っていた。普段の彼女はとても気が強く、独特の存在感を放っている。けれど、今ここに座っている少女の気配はとても希薄で、今にも深い夜の中へ消えてしまいそうなほど、おぼろげでもの悲しい……僕は出来るだけ慎重に、ゆっくり縁側に腰を下ろした。たとえば僕が言葉を発しただけで、もしくは指でちょっと触れただけで、彼女を支えている何かが音もなく崩れてしまいそうで、それ以上動くことも、何か言うことも出来なかった。奇妙な感じだけれど、本当にそんな気がした。

 

 だから、僕はただ静かに待っていた。

 夜は時間が止まってしまったように静かで――僕は、この空間だけが世界中から切り離されて、どこか別の宇宙かなにかに放り出されてしまったような感覚を味わった。少し離れて隣にいるのは阿求だけれど、彼女は彼女で、また違うところに一人でいるような気がした。

 

 そうして、どのくらい経っただろうか。

 阿求の声が、僕と彼女の間にあった見えない壁を突き破った。

 

 

 「……魔理沙さんから聞きましたよ。あの人の下で働くんですってね」

 

 「……ああ」

 

 「『無理をするな。馬ならいずれ買ってあげるから』……なんて、私がそんなことを言っても、貴方はきっと心を変えないんでしょう? 分かっています。……許可しますよ。もう少し養生したら、行ってらっしゃい」

 

 

 阿求はくすくすと笑う。僕はどんな表情を造ればいいのか分からなかった。

 そんな僕を横目でちらりと見て、阿求は笑顔を引っ込め、代わりに空を見上げた。

 つられて見上げた僕の目を、幾百もの星が見つめ返してきた。

 阿求の声が聴こえる。

 

 

 「私ねぇ、最近こう思うの。あの空と、目の前いっぱいに広がる地面……草木も、岩も、川も全部、全部ひっくるめて私たちの世界。そして、私たちは皆それぞれに、自分を主人公とした物語を抱えて生きている。この幻想郷は狭いけれど……それでも、一人一人の物語のために用意された舞台としては広すぎるくらい。だから皆必死なんだ、って」

 

 「……難しい事を言うんだね」

 

 「何が難しいもんですか。貴方だって『私たち』の一人よ。こうして生きているだけで、もうとっくに舞台に上がっているじゃない。時々、他の役者とも出会って、自分で考えた台詞を言って、思うさま立ち回って……逃げることの許されない物語を、最後まで演じ切るしかない」

 

 

 一息ついて、阿求は声を低めた。

 

 

 「自分自身の書いたストーリーだから、誰にも邪魔出来ない……『頑張れ』って、客席や舞台袖から囁いて、見守ることぐらいしか。貴方に私の邪魔は出来ない。同じように、私に貴方の生き方をどうこうする資格はない。簡単なことでしょう」

 

 

 分かっている。けど、そんな風に割り切って考えることの出来る人が、どれほどいるだろうか。

 そう言おうとしたが、身体はさせてくれなかった。代わりにこう訊いた。

 

 

 「妖怪も神様も、それは同じなんだろうか」

 

 「きっと。見ている世界は違うかもしれないけれどね」

 

 

 そこで言葉を切ると、阿求はすっと立ち上がった。

 

 

 「話しすぎましたね。貴方も疲れているでしょうし、そろそろ終わりにしましょうか」

 

 「君も早く寝ないと、身体に障るよ」

 

 

 ちょっとおどけた口調でそう言うと、阿求は一瞬何か言い返しかけたようだったが、やがて静かに笑った。

 

 

 「そうね、ジョニィ・ジョースター……私も寝るとしましょう。さ、貴方は部屋に戻りなさい」

 

 「そうさせてもらうよ……おやすみ」

 

 「おやすみなさい」

 

 

 僕が再び書斎を横断し、襖を開けて廊下に出たとき、阿求はまだ縁側に立っていた。襖を閉めながら、僕はその青白く浮かび上がる後ろ姿に向けて呟いた。

 

 

 「また明日」

 

 

 

 

 

 









 第一部はあと一話です。

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