再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#27 ビブロフィリアの内的世界

 

 

 

 

 

 唐突に登場し、会場の注目を集めたこの館の主は、今、すぐ手の届く所に居た。

 

 

 

 「お、相変わらず元気そうだな、お前は」

 

 「おかげさまでね。そっちこそエネルギーが有り余っているとみえるが」

 

 「酒とユーモアで活性化する質でね。酒宴じゃいつもに増して元気だ」

 

 

 本居小鈴は激しく緊張していた。

 

 すぐ目の前で、白黒の魔法使いと、「おとぎ話の世界から飛び出してきた」という表現がぴったりの、蝙蝠の羽根を背中に生やした少女が親しげに交歓している。よくよく考えてみれば非日常の極みにあるこの両者の間に板挟みになって、目を白黒させている判読眼の古書店員である。

 立場上、普段から妖怪の類いと接触することの多い彼女だが、ここまでおおっぴらに「人ならぬ姿」を誇示しているタイプと会うことはほとんど無かった。新聞の委託販売を依頼されている耳の尖った記者しかり、完璧に尻尾を隠した化け狸の棟梁しかり、基本的に、里に顔を出す妖怪はすべからく、人にかなり近い見た目に自らを設定している(後者に至っては未だに妖怪であることを知らない小鈴である)。

 

 

 「ねー魔理沙。最近変わった事とかない?」

 

 「変わった事、ねぇ……里の襲撃の件は聞いてるんだよな?」

 

 「聞いてる聞いてる。それ以外は?」

 

 

 さらに小鈴の心許を危うくするのは、先程からこの吸血鬼の少女が頻繁に、自分の方に意味ありげな視線を投げて寄越すことだ。ついでに言うなら、小鈴の斜め前方、レミリアと魔理沙のさらに後ろでムスっとして酒杯を傾けている血色の悪い魔法使い(パープル・カラー)の姿もまた、なかなかのプレッシャーを放っていた。

 

 (えーっと、私は手紙書いただけ、よね。「あの人を見極めて下さい」って)

 

 それがどうして大宴会ということになるのか、今一つ判然としない。やはり例に漏れずこの人も変な性格なのかしら、想像しつつ小鈴はちびちびとスパークリングワインを飲んでいる。里の酒は蒸留の荒い濁り酒ばかりなので、この味を彼女は新鮮に感じた。許されるなら両親への土産に持って帰りたいなどと考えている。

 と、「何か変わった事はないか」と訊かれて考え込んでいた魔理沙が指を鳴らした。

 

 

 「そういえば、アリス・マーガトロイド。知ってるだろ?」

 

 「……何だっけ。パチェ?」

 

 「……魔法の森の奥に生息する器用貧乏系魔術師。人形を用いた術式を好む」

 

 

 急に話を振られて淀みなく答える小柄な紫色は、「パチュリー・ノーレッジ」だったかな……小鈴はその名前を繰り返す。紅魔館の地下に眠る莫大な数の蔵書を管理しているとかで、古書大好き少女の小鈴としてはぜひお近づきになりたいところである。が、当の本人が中々に取っ付きにくいオーラを発しているため、今のところ叶わずにいる。

 

 

 「そう! そうだった、七色の器用貧乏だ。で、アイツがどうしたの?」

 

 「いいネーミングだな。あいつの二つ名は今度からそれにしよう……で、だ。先日野暮用で私がそこを訪ねたら、やっこさん大喜びでな。頼んでもないのにスクランブルエッグとお茶をご馳走になった」

 

 

 実際には卵の殼すら出てきていないのだが、魔理沙はあたかも自分が大歓迎されたかのように話を盛った。後ろの方ではパチュリーが「あいつ、そんな性格してたかしら」と首を傾げているが、この場の誰もがそれをスルーした。致し方のない処ではある。なにせ当の本人がここにいないので、言いたい放題言える。

 

 

 「そんな楽しい食事の最中に、奴の家の門番人形が少々おかしくなってな。姿が見えないんで、二人して探しに行ったんだ」

 

 

 これもまた実際には込み入った経緯があったが、魔理沙はいいように省略した。

 

 

 「痕跡を追いかけて行ってみたら、なんと人形が同士討ちをしていた。一体は家の門番、もう一体は門番に見た目もそっくりそのままな偽物だったらしい……端から見ても解らんくらいには似てた」

 

 

 レミリアはこくこくと頷いている。パチュリーはすでに興味を失っているのか、何処かから分厚い本を取り出してページを繰り始めた。魔理沙はお構い無しに話を続ける。

 

 

 「最初は互角に見えた戦いだったが、どうも門番には同士討ちを防ぐためのセーフティ(安全装置)が架かってたらしく、アリスが『敵だ、排除しろ』って命令したらすぐ、一気呵成だ。負けた偽物は木っ端微塵になって、後に残ったのは偽物を造るのに使ったらしい人形の髪の毛が二、三本だけだったよ」

 

 「ふむ……」

 

 「どうだ? 妙だろ? 最近どうも何か引っ掛かることが多い」

 

 

 へぇ、そんなことがあったのかー、と小鈴は内心で少し驚く。「七色の魔法使い」ことアリス・マーガトロイドは里でもそれなりの有名人で、お祭り事などあると人形劇を見せに来る綺麗なお姉さん、という好意的な評判を得ている。小鈴も子供たちに交じって観賞に預かったことたあるが、アレはもう人形劇という名の別の何かだ。

 緻密な細工を施された種々の洋人形たちが織り成すストーリーはまさしく魔法そのもので、最初は「子供向け」……と冷めた目で見ていた小鈴も、終いには時が経つのを忘れて見入っていた。

 

 (その人形が何者かに模倣(パク)られたのかー。でも誰が、何のために?)

 

 首を傾げていると、話を聴き終わった幼い吸血鬼は自らの淡い紫色の髪を弄りながら、「そっか……あなたもそう思う?」と呟き、何事か考え込んでいるようだったが、ややあって頷いた。

 

 

 「そうか、分かったよ。他には何かない? 変なものを見たとか……」

 

 

 魔理沙はこめかみに指を押しつけて「うーん」と苦悩するそぶりを見せた後、破顔した。

 

 

 「突然、変な吸血鬼の変なパーティーに呼ばれたな。ちょっとした異変だぜ」

 

 「聞いたかい? 今度から魔理沙には招待状は要らないそうだ、咲夜」

 

 

 レミリアがある名前を呼んだ。「咲夜」さんって確か、ここのお屋敷のメイドじゃあ……そう気づいて小鈴はレミリアの周囲を見るが、件のメイドの姿は何処にもない。

 辺りを見回して探そうとして、小鈴はまったく突然に自分の背後に誰かが立っているのに気づいた。思わず「ひゃあっ」と声を上げてしまい、小鈴は慌てて自分の口を両手で押さえる。

 

 

 「はぁ。しかしそれですと強行突破に訴えて来そうですわね」

 

 

 泡を吹きかねないほど面食らっている小鈴に「いやはや失敬」ときっちり会釈したのち、十六夜咲夜は主であるレミリアの斜め後ろにポジショニングした。これによってますますパチュリー・ノレッジの姿が見えづらくなったが、やはり本人は気にも留めていない様子。小鈴は彼女の姿を視界に納めることを諦めた。

 従者の冗談ともつかない危惧を受け、レミリアは笑う。

 

 

 「その場合、不法侵入には実力行使で応えるべきだね。今度からは多目に見ないことにしようか」

 

 「刺すべきか、斬るべきか、それが問題ですわ」

 

 

 これは物騒なパロディだなぁ、と小鈴はちょっと怯える。いかにも吸血鬼らしいと言えばそうに違いないが。魔理沙はと言えば、いつものようににやりと笑って反撃を試みている。

 

 

 「刺すのも斬るのもルール違反だろ。よし、論破した」

 

 「侵入る(はいる)のも盗る(とる)のもダメったらダメっ。出禁だよ出禁」

 

 

 遂に威厳を放り捨て、頬を膨らませて立腹する紅魔館の主。魔理沙は「これが見たかったんだよ」とばかりのしたり顔、咲夜はあらぬ方向を向いて細かく振動していた。

 

 

 (あら可愛い。もって帰りたいかも)

 

 

 先程までガチガチに緊張していたはずの小鈴も、思わず妙な考えを頭に過らせるほどの眺めであった。チカラや種族としての恐ろしさはともかく、一つの人格としては親しみ易い人だなぁ……と、小鈴は自然に頬が緩むのを感じた。レミリアは周りの反応に拗ねた様子で、そばのテーブルの上のトレイに乗っていたカクテルらしきグラスをひっ掴み、グイとあおった。

 

 

 「ふん、笑いたければ笑うがいいさ……あぁ、そういえば」

 

 

 紅い美麗な目が二つ、自分の方を向いた。小鈴は何か強大なものに射すくめられたように感じ、身を縮ませた。小さく可愛らしい姿をしていても、やはり畏怖は畏怖である。

 

 

 「あなたは鈴奈庵の子よね? 最近変わったこととか、ない?」

 

 「へ? え、えぇと……近頃戸棚の本が五月蝿くって……」

 

 

 小鈴はとっさに思いついた話を披露した。「変わったこととか」……今気がかりなのは例の青年のことで、他に何かが有るわけではなかった。そんな小鈴の心情を知っているはずのレミリアからは、その問題に関するアプローチは何もない。吸血鬼の思惑が読めずに、彼女は焦りはじめていた。

 ちなみに、戸棚の妖魔本や付喪神がたまに騒ぐのは今に始まったことではない。

 

 

 「……なるほど、書物は人を動かすだけでなく自分から動いたりもするんだね」

 

 

 分かったような分かっていないようなことを言いつつ頷き、今度は斜め後ろを向くレミリア。視線の先には、テーブル一つをまるまる使って象牙の塔を建設中の健康不良魔法使いがいる。

 

 

 「パチェ、ウチにはそういうのない?」

 

 「……叫ぶやつ、開かないやつ、読んだら失明するやつ、他々」

 

 「厄介者ばかりだなぁ」

 

 

 そのまま、レミリアは魔理沙を交えて奇書談義に興味を移したようだった。

 列挙される穏やかでない本たちの存在を耳にして、小鈴は「わたしのとこにある本、わりとマイルドだったんだなぁ」と実感した。少なくとも自分から叫ぶような物騒な書物は、今のところコレクションの中には無いはずだ。それもそのはず、鈴奈庵は表向き、小ぢんまりとした普通の貸本屋であり、同時にただの小規模な出版所であり……むしろ、そうでしかない。蔵書にちょいちょい混ざっている変なものは大抵小鈴の収集によるものである。決してそれら「厄介者」を商売にしている訳ではないのであって。

 

 そういえば、最近「彼女」は原稿を持ってこない。小鈴は急に、鈴奈庵から出版している人気読本の作者のことを思い出した。内容は推理小説、作者はアガサ・クリス「Q」……外の世界では著名な推理作家の名前のパロディを名乗る、新進気鋭、正体不明の女流作家である。各方面に幅広い知識を持っている「Q」は、「かつて幻想郷で起こった事件」を元にして、彼女の持つ生来の天才性を駆使し、瞬く間に一篇の怪奇推理小説を仕立ててしまうのである。

 「Q」の手による小説はどれもこれも大人気で、版元の鈴奈庵はかなりの恩恵を受けている。だが、当のQ本人はその収益にほとんど興味がない。というよりは、必要でないのだ。何故なら彼女は……

 

 と、その時、考え込む明るい飴色の頭に「こつん」と何かが当たった。聞き覚えのある声が、聞き覚えのある台詞を再生する。

  

 

 「何を考えてるのよ。その小さな脳みそで」

 

 

 へん、何よ、自分だって小さな頭してる癖に、と内心で負け惜しみをしつつ、小鈴は後ろを振り返った。予想通り、そこには彼女の数少ない、善き親友の姿があった。

 

 

 「あら『Q』……おっと阿求、どこに行ってたの?」

 

 

 稗田阿求は自分のペンネームを漏れ聞いて、少々あきれた表情を造り、右の手を腰に当てた。「『それ』は言わない約束でしょ」、そう言って彼女は辺りを見回しながら、

 

 

 「別に? ちょいと外の空気に当たってきたのよ。疲れたから」

 

 

 と小声で応えた。それを聞いてはっとする。Qは(おっといけない)――阿求は生来、虚弱体質である。本人がそれと悟られないように気丈に振る舞っているため忘れがちだが、彼女の身体を常人と同じように考えるのは良くない。長時間座る、立つ、歩く……何気ない日常の動作でも、積み重なれば身体に変調をもたらす危険性がある。阿求の場合、とみに気を遣わなければならない。

 特に今夜は里から館まで歩き通しだった。魔理沙や小鈴にとっては大したことのない距離でも、この稗田阿求(九代目のサヴァン)に大変な負担を掛けていたことは疑いない。吸血鬼の館に招かれるという未知の体験に浮かれて、そのことを忘れていた自分を、小鈴は平手で殴ってやりたくなった。

 

 

 「……ごめん」

 

 「なんであんたが謝るのよ? 私ならもう大丈夫、気分も晴れたから……ね?」

 

 

 苦笑し、手を横に振って否定する友の姿。小鈴は、その内側で燃える命の灯火を幻視した思いでいた。静かな激しさで燃える、美しい焔。取り返しのつかないモノを燃やして輝く光。

 

 【我が蝋燭は両端から燃える 朝までは保つまい――それ故に――】

 

 父がどこからか仕入れてきた児童文学の小さな本、その作者の言葉を想起した小鈴は、心の内側で激しく頭を振った。それ故に? 阿求、命と引き換えにあなたが遺す物は……「一冊の歴史書」……

 

 

 (それだけでは寂しいでしょうに)

 

 

 そう、いくら宿命とはいえ、それだけではあまりに虚しい。

 だからせめてこの子のために、命の炎の灯籠になろう。風雨から灯火を護る、灯籠に……随分前から固く心に刻んでいたことだった。そしてふとした時、その碑文が浮かび上がってくる。

 しかし――有り難いことに――そんな義務感や使命感よりもなによりも、阿求と過ごす時間は愉しく、孤独なビブロフィリアにとってかけがえのないものだった。

 

 

 「……だから一体どうしたの? あなた今、物凄く変な顔してるわよ」

 

 

 気がつくと、そのかけがえのない友人の大きな目が目の前にあった。少し驚いて身を仰け反らせた小鈴だったが、その次の瞬間には平静を取り戻していた。ただし、それは本人が「私、今すっごく『平静』の演技してる」……と、思い込んでいただけであり、端から見れば十分に尋常でない様子だった。自分で思っているほど、本居小鈴は器用ではないようだ。

 

 

 「何でもないってばー」

 

 

 声ばかりは平常運転で答えると、阿求は一応納得したようだった。小鈴は胸を撫で下ろす。

 

 

 「……そう、ならいいのだけれど……あら? 『あれ』は何処に行ったのかしら」

 

 「え? 『あれ』って何よ」

 

 

 いや、正確には他の事物に関心が移っていたのだった。突然何かを、というよりは誰かを捜すように視線を右往左往させる阿求の姿に、小鈴は拍子抜けする思いだった。こちらは真剣に朋友の事を想っていたというのに、肝心要の本人が完全に無関心な様子だったので……いやしかし、自分は「阿求の生命を考えていたこと」を、阿求に悟られないようにしたかったわけで……小鈴は益体のない思考の水溜まりに顔を突っ込みかけている自分を発見して、少々落ち込んだ。

 さて、小鈴が結構忙しく頭を働かせている最中に、阿求は目的の人物を発見したようである。

 

 

 「あ、いたいた……って、あいつ何やってるの?」

 

 

 「あいつ?」目標物を発見するや否や、呆れた顔で眉をひくひくさせている阿求の視線を辿ってみると、会場の最も奥、小一時間ほど前に紫魔術師(彼女の二つ名を小鈴は知らない)が開会の挨拶をした小高い壇にたどり着いた。壇上では、レミリアが気まぐれで呼んだらしいポルターガイスト(器  楽  騒  霊)の一行がパーティー・ミュージックを演奏するために準備中で、トランペットやキーボード、ヴァイオリンにチェロ等が忙しなく宙を舞っている――宙を舞っている? 小鈴はそこで少々平静という能面を落っことしそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。ここは既に人の世界ではない。ないのよね――自分に言い聞かせる。

 しかし、「あいつ」とは誰なのだろう。大方の察しはついていたが、小鈴は未だに「彼」の姿を見つけることが出来ずにいた。

 

 

 「……仕方がない」

 

 

 阿求はため息を残して、壇を囲む人妖の群れに早足で歩き始めた。小鈴は慌てて後を追う。

 歩きすがらステージを見ていると、種々の楽器が飛び交うステージに一人の女の子が登って、黒い衣装の騒霊に何事か談義を仕掛けていた。どうやら「歌わせてくれ」との申し込みをしているようだ。その背中には雀の羽のようなものが生えていて、いやがおうでも少女が人間でないことが伺い知れた。酒の回っているらしいボーカル志望の妖怪少女と談義している、金髪に黒い衣装が良く映える騒霊の、酔っぱらいに絡まれた時に見せるものと同種の表情が印象的だった。

 

 阿求は人だかりをぐるっと迂回し、集団の最後列に向かった。

 そして案の定、そこには車椅子の青年の姿があった。彼はぼうっとした面持ちで、壇上の空飛ぶチューニングを眺めていた。阿求がそのとなりに並び立つと、彼ははっとした様子で隣を向いた。

 

 

 (……あれ……?)

 

 

 小鈴その瞬間、彼の見せた横顔が――以前とは微妙に違っていることに気がついた。姿形が、ということでなく、そこから受ける印象が異なっているのだ。以前はもっとぼんやりした、影の薄い感じで……少し不気味だと感じたが、今の彼から、その感覚は伝わってこない。

 今小鈴の目の前で阿求と並んでいるのは、わりかし何処にでも居そうな普通の人間だった。

 何が違うのだろう、と小鈴は考える。しかしその答えへの道のりは、喪われたという青年の記憶の在処へ延びる道程と同じくらい、遥か遠くへ続いているような気がした。

 

 何なのだろう、小鈴が俯いて思考の海に沈みかけたちょうどその時、どうにかして夜雀妖怪を納得させて追い払ったらしい黒騒霊が、小さなマイクを片手に、聴衆へ何事か語りかけ始めた。同時に、雑踏の音に混ざってずっと鳴り響いていたA音がストップし、ホールに奇妙な音の間隙を生じさせた。その空白が、彼女の潜水を中止させる。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 パチュリー・ノーレッジは、周りの空気が少し変わったことに気がつき、ページを繰る手を止めた。すぐそばで未だにやいやいやっている小さな吸血鬼と未熟な白黒少女の立てる騒音から耳を守るために掛けていた音を遮断する魔法を解除し、彼女はやや人工的な形に整形されたピアノの音の連なりが始まるのを聴いた。会場にいる者の殆どが、それを聴いているはずだった。人妖の反応はそれぞれで、お喋りを止めて聴き入る者も居れば、聞き流して会話や飲酒を続ける者もいる。

 知識と日陰の少女は暫く、目を半分閉じてその音を受容しているようだったが、やがて目蓋を上げると、テーブルの上に積み重ねられた書物の塔から一枚の羊皮紙を引っ張り出し、こう書いた。

 

 

 《持ってきて欲しい本があるのだけれど――》

 

 

 それは地下の大図書館で番をしている下級の悪魔への、直接のメッセージだった。パチュリーが数冊の題名を書き終えた数瞬のち、羊皮紙に文字が浮かび上がった。

 

 

 《おぉ、その名を目にしただけで魂まで穢れそうです。酒宴の最中に一体なぜこのような呪術書を?》

 

 《ちょっと気になる話を聞いてね。兎に角早く調べたいから、さっさと持ってきなさい》

 

 

 書き終えると、知識と日陰の少女はどっと疲れたように椅子に身を沈めた。恐らく、取り寄せた本の中にも答えは見つからないだろう――そんな予感をため息と一緒に吐き出しながら。

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 【*** *】

 

 

 

 

 それは全てを視ていた。

 

 様々な世界の重なりあった胎内に浮かぶ、それには名前がなかった。

 どうにかして名付けるなら、それは【*** *】と呼ばれるべきだった。

 

 自分がなぜ生まれようとしているのかについては、彼は薄々気づいていた。

 自分のチカラでできることを知っていた。

 

 しかし、自分は果たして何を為したいのか?

 「意思」について考えるだけの意思を、それはまだ持っていなかった。

 

 だが、そのうち思いつくだろう。

 その時まで、自分はただここ(・ ・)こうしている(・ ・ ・ ・ ・ ・)だけでいい。

 

 

 

 

 

 

 

 










 小鈴回でした(半分は本当のこと)。
 今後は週一ペースの持続を目指します。

 【追記】
 誤字報告ありがとうございます。ナレッジならともかくノレッジとは誰だったのか。



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