再生と追憶の幻想郷   作:錫箱

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#23 1890.9.25

 ゴトン……

 

 

 腰骨に伝わった振動と音……僕は薄く目を開けた。同時に突き刺さる光が、網膜に緑がかった眩みを焼き付けた。明るい、とても明るい場所だ……そして、仄かに漂うこの匂いはたぶん、潮風が運んでくるあの複雑でどこか好ましい香りに違いない。

 

 

 ゴトン……

 

 

 足元でゆっくりと、何かが動いて……今、止まった。この軽い衝撃を自分はよく知っているはずだ。一体何だっただろうか? 身近に、当然のようにあった場所だ。建物の中ではない。かといってこの震動は、馬車の揺れと判断するには静かに過ぎていた。 

 明るさに耐えかねた薄目を足元に向ける。滑らかなクロスの掛けられたテーブルの端……革張りの、柔らかくも固くもない椅子……黒い板張りの床……まだ真新しいそれらを順番に見る。まだ、何かが頭のどこかで引っ掛かっていて、引き出しを開けるのを拒んでいた。

 ここが、彼女の言っていた『僕の記憶のなか』なのだろうか……徐々に目が慣れてくる。

 光の差す方、微かな潮風がやってくる方向に首を向ける。指一本分ほど開いた窓……木の枠に嵌まったガラスの向こう側を覗き込んで、そのまま視線が釘付けになる。

 

 窓枠に四角く切り取られたそれは、サファイア・ブルーに輝く海原と……陸と海を分かつ象牙色の砂浜だった。そして、たくさんの人がいる……砂浜に沿って厚い人垣を形作る、数千、数万という人、人、人……その色とりどりの壁は熱を帯びて、一心に何かを待っているように見えた。

 ……何だろう、群衆の向こう側に見えるモノは……

 あれは、砂浜を横切るようにびっしりと並んだ――騎手たち? 一体、この場所で何が行われようとしているのだろうか? ――いや、僕には分かっていた。あんなに多くの騎手が一斉に並んでいる……「これから彼らがやること」なんて、一つしかない。「競走」、「レース」だ……なのに何故か、自分自身に問いかけてみずにはいられない。

 

 その時、背後に何者かが立った。

 

 

 「……君は何だ? ここで何をしている?」

 

 

 振り返ると、痩せた男が訝しげな表情で立っている。

 よく見ると背はかなり高い。優に一九〇センチはあるだろうか……色のついた縁眼鏡を掛けた顔には皺が深く刻まれていたが、その上に載っている「縁がぎざぎざになったパイ生地」のように妙な髪型と、落ち窪んだ眼窩の奥に光る「少年のような瞳」が、男の年齢を分かりにくいものにしていた。

 呆気にとられたまま目の前の長身を見つめていた僕は、自分が「言い訳」をしなければならない状況に身をおいている事に気づいた。

 

 

 「あぁ……僕は……そう、これを見に来ました」

 

 

 窓の外を指差す。他に言い様が見つからなかった。

 痩身の男は「ふむ……」と漏らした他に何も言わず近づいてきて、僕が座っている椅子の側の窓枠にその棒切れのような身体を立て掛けた。ゆっくりと口を開く。

 

 

 「……三千を越える騎手が集まった。観客は当然それ以上だ……この大陸上に存在する全ての組織、企業、団体、政治……誰もがこれを注視している……今から訪れる、世紀の瞬間を待ち構えている……」

 

 

 男の言葉はほとんど独り言のように思えた。彼はこの場にいる僕に話している訳ではない、自分自身と、さらにもっと大きく、偉大なものに語りかけていた。

 

 

 「そう……人が何かを為すために生きる動物だとすれば、私はこの為にパンを食べ、水を飲み、息をしてきた……全てを捧げた、と言っても良い……その結果、世の中に何が残ったか? 形のあるモノなど何も残ってはいない。新聞広告の片隅に小さく名前が載って、『ああ、あのイカれたイベントの考案者か』と、たまに思い出されるくらいのものだ」

 

 

 だが、それでいい。彼は呟いた。

 それで十分だ……私と彼女とに、そんなに大きな幸福など必要でない……と……

 

 

 【スタート時刻五分前まで迫りましたッ……グリッド内に入る時間はあと三分! 三分以内に各自番号のグリッド内にお並び下さい……】

 

 

 窓の外から響く、拡声器で増幅された音声――誰かが選手たちに怒鳴っている。砂浜の端まで聴こえているのだろうか。スティールはその声を聞いて「さて……」と呟いた。

 そうか、彼がこの『レース』を……幾重にも年輪を重ねた樹木を思わせる横顔を見ていると、たったいま聴いた不明瞭な彼のモノローグにも感慨深いものがあった。いや……それ以上に、目の前に広がるこの景色は言いようもなく綺麗で、とても懐かしい空気が漂っていた。

 

 

 「スティールさん? もうスタート時刻ですが……外で来賓が待っています。審判や記者もです。あと十分もありませんよッ……」

 

 

 男の背後から、慌ただしくバタバタと足音をさせて、小さな男が現れた。何処かで見覚えがある……彼は僕と「スティール」(と呼ばれた男)を交互に見て、これまた訝しげな表情になっている。

 窓枠から身を離したスティールは手を大きく振りつつ小男に言う。

 

 

 「わかったわかった、今行くから待てよ……双眼鏡あるかい?」

 

 

 はぁ、と頷く男から双眼鏡を受け取ったスティールは、それをそのまま僕に手渡した。

 

 

 「この『汽車』はレースの展開を追う……いや、招待状も記者証も持っていない君を、本来乗せる訳にはいかんが……別にいい……ぜひ楽しんでいってくれ。君が誰であろうと、それだけが私の望みだ。見ていきたまえ、この第一ステージ『一万五千メートル』を」

 

 

 それだけ言い残すと、スティールは並んだ椅子の向こうへ姿を消した。

 その時唐突に、僕はここが「汽車の中」であることに気づいた。通路を挟んでもうひとつ二人がけの椅子……窓枠……間違いない。

 汽車の窓の外から、スティールの声が聴こえてきた。

 

 

 「皆様方、お待たせしました! さ、どうぞお乗りになって……列を乱さずに……」

 

 

 しばらくして、きらびやかな格好をした紳士淑女たちが僕の座席の前を通り過ぎていった。皆手にはオペラグラスや双眼鏡を持っている。どうやら、この列車は「レース」の観覧席になるらしい。一通りジェントルマンの列を眺めてから、僕は窓の外に視線を戻した。先程まで確かに「居た」はずの暗い部屋から、ここに跳んできた理由は何だろう? あのレミリア・スカーレットが言っていた「精神の形」の、その奥底に揺らいでいたのが、目の前にある光景なのだろうか。確かに、どこか埃を被ったように霞んだ、しかし眩く強烈な景色だ。この窓からの眺めは、とても……

 まだ繋がりが見えない。これはいったい、いつの記憶なのだろう? そう思った時だった。

 不快さを伴わない甲高さで、女の声が聴こえてきた。仔猫の笑うような音。

 

 

 「失礼……席をご一緒しても良いかな? 空いていないものでね」

 

 

 小さな女の子が偉そうな言葉遣いをしている――それって何だったか、意味するところを考えながら振り返ろうとして僕は凍りついた。まさか――この何とも言えない甘い空気は。

 

 

 「君もいる……来たのか、この場所に」

 「ふふ、そもそも貴方がここに来ることを可能にしたのは私だからね。確かにここは貴方の精神世界――どうやったのか、って? いや、理屈は訊いてくれるな、貴方の心が私を受け入れたのだから――私も半分ばかりは概念的存在だからね」

 

 

 ゆったりとしたドレスに身を包んだ、気品漂う幼子――レミリアだった。

 彼女の「座っても?」との再度のお伺いに、僕はただ黙って頷いた。それ以外に為す所はない。

 向かいの席に座り、肘をテーブルの上へ突き立てて言う。

 

 

 「さてと。何か質問は?」

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 【いよいよスタート時刻二分前! 参加者総数三六五二名!……各馬、グリッド内に入って行きますッ……列の向こう側が見えません……】

 

 

 実況らしい大音声が響く中、レミリアは僕の問いに答えた。

 

 

 「……つまり貴方の質問は『精神の形とは何か?』 という事かしら?」

 「そう……僕はそれが知りたい」

 

 

 僕の爪。この精霊が、有形の精神が持っている力だ。

 精神の形が全てを知っている。この景色がそうであるらしい。

 僕のそばにいるこれは何だ。小さいながらも超常的な現象を起こすこれは何だ。

 そう訊いた。答えは速かった。

 

 

 「私も結構長く世に在るが、そういうものは初めて見た……見たことは無いんだが、直感的に判るんだよ。これはヒトの魂の現れだ、って」

 

 

 胡散臭げな自称「超能力者」とか「まじない師」「吸血鬼ハンター」は腐るほど見てきたがね、と彼女は言う。それらは殆ど魔道に片足を突っ込んでいるか、でなければ詐欺師か……といったところらしい。「弱いし、醜いんだよ」と名も無き彼らを嘲るヴァンパイア。

 

 

 「代わりに『コイツは何か違う』って人間と会ったことはあるけどね。貴方のそれ――名前は『爪』でいいかな?――は、そういう『オーラを持ったヒト』の感覚に似てるかも。名の通った英雄とか、賢者と呼ばれる連中とか。でも不思議なのは、今の君『自身』からはそういう気配が匂わないということかな。いや、『凡人』という意味ではないよ? それだけはっきりとしたエネルギーを従えているんだ、その主もただの人間ではないに決まっている」

 

 

 見たところ、と語を継ぐレミリアは思案顔だが、どこか楽しそうだった。

 

 

 「見たところ、貴方の精神の根底たる像でさえ『記憶の全て』は知らないようだ。この眺めはどこかぼやけているし、大昔の遺物のような感じだから……全て取り返すことは可能なのか? だとしたら、一体どうやったら取り返せる? そこまで判るようだったら私も苦労しないし、君の行く先が見えないからこそ興味を持ってここまで付いてきた」

 「僕の運命が見えない?」

 

 

 愕然として問い返すと、幼い吸血鬼はまたもや笑顔になる。

 

 

 「まさにそこなんだよ、今の私の興味は……誰が相手だろうとある程度『読める』このレミリア・スカーレットが、貴方からは非常にぼんやりしたビジョンしか感じ取れない……おそらく、君はまだ空っぽなんだよ。その運命さえもね」

 

 

 貴方は空っぽ……その言葉には説得力があった。

 時折、何をすればいいのか分からなくなって、自問しようとする……普通の人はたぶん、そういう風にして色んなことを上手くやっている。僕には出来ない。答えは問いかけても、大抵返ってこない。自分でもよくわからないくらいに大きな穴が心の何処かに空いていて、そこへ吸い込まれていく感じだった。その穴が大きすぎるせいで、きっと僕は空っぽなのだ。

 かつて僕がこのレースで「経験」したことは、僕の記憶の隙間を埋めてくれる。

 

 

 「ありがとう。『案内』してくれて」

 「どういたしまして。しかしここは明るすぎるね、いくら夢うつつの世界とはいえ身体が焼けそうだ」

 

 

 やや冗談めかした口調に苦笑したときだった。

 

 ややくぐもった銃声のような音が数発、車窓の向こうで破裂した。同時に轟く、遠い地響き……そして歓声が沸き立ち、空気が震える。身体の下で列車が揺れ、ゆっくりと進みだした。

 

 

 【花火が上がりました! スタートの合図です――! 一八九〇年九月二十五日、午前十時〇〇分……北米大陸横断レース、『スティール・ボール・ラン』が遂に動き出しました――】

 

 

 スティール・ボール・ラン――あの言葉が今叫ばれた! そして、『一八九〇年……』この数字は――はっとして、レミリアを見る。

 

 

 「勇気、野心、生命の躍動を鉄に見立て、それらを熱狂で融かして鋳た鉄球が大陸を疾走する、かぁ。なかなか詩的だね。さて……数あるコレクションの中から例のワインを引き当てたのは偶然か、それとも……ふふん」

 

 

 とても嬉しそうに窓の外を眺め、にやついていた。こういうところは本当に子供っぽいと思う。

 ――砂浜を駆け抜け、灌木の疎らな草地に入る騎手たち……蹄が地を鳴らす。連続した音が地平線の向こうまで連なって、まるで太平洋の大波がそのまま押し寄せてきたようだ。

 この塊が、大陸を横断する旅路に挑む――あぁ、想像もつかないくらい過酷な旅路になるだろう。 

 

 目を閉じて想像する。灼け付く砂漠の太陽。見渡す限りの雪原、聳え立つ白い山脈。いくつもの河、農園の中の畦道、そして一日の終わりに見えてくる、遠い街の暖かな光。全てはっきりと脳裏に浮かぶ……きっとそういうものが待っているに違いない。

 

 鮮明なイメージ。

 

 ぱちん、と思考の泡が弾けた。何故だろう……「知っている」気がする……

 と、お飲み物や軽食のサービスですー、などと声がする。通路側を見れば、先程の小男が台車を引いて、サンドイッチやワインを配って回っていた。やけに良い待遇だな、と思ったが、ここは来賓席だ。当然といえば当然か。

 

 レミリアはといえば、オペラグラスを取り出して、一丸となって走る馬の群れを見ている。

 

 

 「色んな種類の馬がいるねぇ……私が欧州にいたころはあんなにバリエーション豊かじゃなかったんだが……うわぁ、ラクダなんかもいる! 随分大きな図体だけど、ちゃんと走れるのかな?」

 

 

 スティールから渡された双眼鏡を目に当てがって、彼女の指差す方を覗けば、なるほど最前列をラクダが走っている。砂漠の生き物というイメージがあるが……いや、あの強靭な脚、並の競争馬の倍近くある。体躯の巨大さもあいまって、混戦のレースでは他の騎手たちにとって大きな脅威になるだろう。

 分析しつつ、やっぱり僕は馬乗りだ、と確信した。一頭一頭の馬や騎手たちのうごきを注意深く見ていくと、だんだん「クセ」や「ムダ」が分かってくるのだ(ラクダはともかくとして。というか、あれはルール上アリなのか?)。僕だったらこうするのに……と考えている自分がいる。

 

 そして……スティールによれば「一万五千メートル」だったか? だったら……

 僕はテーブルの上のサンドイッチを一つ取って頬張った。瑞々しいレタスの歯ごたえと、揚げた牛肉の重厚な旨み。僕の心の中の世界だというのに、本物のようだ。

 

 

 「あれ? 見てなくていいの? 貴方に関係する何かが見つかるかもよ?」

 

 

 首を傾げているレミリアに説明してやる。

 

 

 「こう混戦じゃあ、細かいことは分かりはしないよ。三千人以上いるんだぜ? それにこのコースは一万五千メートル、終盤まで脚を温存しなければ馬がつぶれる。ましてや『大陸横断』と言ったか? この第一ステージの先に待ち構えているのはとてつもない距離に違いない……レースが動くのは終盤だろう。根を詰めて見ていてもしょうがないよ」

 「ふぅん……随分詳しいのね?」

 「うん、こういう事は知っている……きっと僕は馬乗りだったんだ」

 

 

 じゃあのんびり出来るか、と呟いて、幼い少女はサンドイッチを手に取った。きらり光る白い歯を覗かせて、かぷりと食いつく。と同時に渋面になった。

 

 

 「……ピクルス入ってる。嫌いなのに」

 「…………」

 「やっぱり咲夜のがいいや。あいつならもっと鉄分の多い食材を入れてくれるもの」

 

 

 あからさまに嫌そうな顔で頬張る姿すら絵になっているところが笑いを誘うが、流石にこらえておく。相手はこれでも吸血鬼なのだ。怒らせたら何をされるか。

 

 

 「……口直しにワインでも……」

 

 

 そう言って、彼女のグラスにワインを注ごうとした瞬間、大きなどよめきが列車を走った。

 興奮した実況が聞こえてくる。

 

 

 【解説を聞いている間に一頭だけ! 三千六百の群れから飛び出したものがいるぞッ!】

 

 

 馬鹿な。

 傍らに置いた双眼鏡をひっ掴んで、レースの集団、その中央を見る。

 

 

 そこには、後続を遥か後方へ置き去りにせんとして疾走する騎手の姿があった。

 

 

 「あら、貴方の予測は外れたようね……あれは無謀、かしら?」

 

 

 レミリアの声をよそに、僕はその騎手を注意深く観察した。

 馬種は恐らくストックホース……持久力はある。しかし、スタートからまだ千メートルも来ていない。ステージで一位になれば、何かしらアドバンテージがあるのだろうが……ここで飛ばすのは「自殺行為」だ。鞍の上で真っ直ぐに前を見つめて走る男――つばの広いカウボーイハットを被った、背の高い男だ――彼は一体何を考えて……

 

 

 得体の知れない震えが全身を駆け抜けていく。

 つばの広い帽子……? 靡く長髪……? 痩せた長身……?

 僕は彼を知っている。そう、彼こそがあの【鉄球の男】だ。じゃあ、あの時の「僕」は、彼のいるこの場所に存在した――?

 

 【ゼッケンはBの636!! 636と確認しました……】

 

 

 そして聴こえてきたその名前は、鋭い矢となって僕を貫いた。

 

 

 

 【ZEPPELI……『ジャイロ・ツェペリ』と記録されていますッ! 凄いぞ! ゼッケン・Bの636、ジャイロ・ツェペリが群れを抜け出た――ッ! 単独!一万五千メートルを逃げ切るつもりだァ――ッ!……】

 

 

 

 

 

 

 













 本当はもう少し長くなる予定でしたが、短縮しました。
 



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