地底世界に広がっている旧都というこの巨大都市は、地上の人里等とはあまりにも勝手が違う。
根本的な話、これは当然と言えば当然なのだが人間は一人も住んでいない。この地底という世界は地上から追いやられた
その上地霊や怨霊が蔓延る、大凡人間が生活できるとは言えないこの環境。地上ではまず見られない光景だろう。
そして雑多に満ちている事も特徴の一つであろう。地上の人里も商業地区に当たる場所は比較的ごちゃごちゃしている部分もあるのだが、この旧都はそれ以上である。数多くの露店が立ち並び、鬼を中心とした様々な妖怪達が行き交っている。
四六時中喧騒で支配された、賑やかで活気に満ちた都市。訳アリ妖怪が主に住まう都市とは思えないほどに賑やかな都である。
しかしやはり、そこは妖怪の巣窟。賑やかで活気に満ちているとは言っても、地上の人里とは趣が全く違う。喧騒は時に、力と力のぶつかり合いが発生源となる事も多い。
「がはッ!?」
派手な物音を立てて近くの積荷に激突したのは、一人の鬼の青年である。
怪力自慢の鬼らしく、大柄でがっちりとした体格。並みの妖怪の攻撃程度じゃビクともしなさそうな程に筋骨隆々な印象だが、そんな彼でも
鬼の青年は悔しそうに顔を顰めている。口元の鮮血を大雑把に拭いながらも、彼は隠す素振りも見せずに苛立ちを露呈させていた。
「クソッ!」
八つ当たりよろしく振り下ろされた彼の拳が、積荷だった材木を粉砕する。そんな彼を呆れた様子で見降ろすのは、頭に一本の角を生やした着物姿の女性だった。
「何だい、もう終わりかい? 思ってたより歯ごたえがないねぇ」
既にボロボロな様子の鬼の青年とは対照的に、赤い盃を持った彼女は実に涼し気な様子である。
体格は長身。女性らしく起伏に富んだ体格の人物で、肩まで肌けた着物姿という事もあって色っぽい印象を受ける。しかし自信に満ちた気の強そうなその表情と、こうして鬼の青年をいとも簡単に下した事からも分かる通り、彼女は決してか弱い女性という訳ではない。
その性格は豪快にして奔放。鬼らしく真っ直ぐで気前の良い人物で、この旧都に住まう妖怪の中でも特にさっぱりとした性格の持ち主である。
けれどもやはり鬼としての性と言うべきか、非常に好戦的かつ血気盛んな一面もある。売られた喧嘩は必ず買うし、暴れられるのなら存分に暴れる。故に力が物を言うこの地底世界は、彼女にとってまさにある種の楽園であった。
まぁ、それでも無闇に力を振りかざしている訳ではない。
妖怪の賢者達と交わした約束は守る。この地底世界での生活を謳歌する代わりに、地底に落とされた怨霊や血の気の多い妖怪達を鎮めるのは自分達の役割だ。
怨霊に関しては地霊殿の覚妖怪とそのペットが管理している。故に勇儀は、もっぱら妖怪達の相手が専門である。小難しい妖術やら呪術やらがあまり得意でない勇儀にとっては、こっちの方が分かりやすくていい。
「チッ……! 調子に乗りやがって……!」
「調子に乗ってたのはアンタの方だろう」
忌々し気に舌打ちをする鬼の青年へと向けて、勇儀は告げる。
「確かにここは旧都だ。私ら鬼が作り上げた、力が物を言う地底都市。だから多少の無茶なら目を瞑るさ」
「だったらッ……!」
「それでも限度ってもんがあるだろう。この混沌の地底都市は……。いや、混沌だからこそ、絶妙なバランスの上で成り立ってるんだ。それなのにアンタが行ってきた行為は、下手をすればそのバランスを崩しかねないものだった」
ここ最近、旧都で必要以上に力を振るい続ける鬼がいるという話を勇儀は耳にしていた。
ただの喧嘩なら特段変に関与する事はしない。この旧都にとって、多少の小競り合いなど日常茶飯事だからだ。例えば地上の人里からして見れば考えられない光景だろうが、旧都にとってはそれは普通だ。故にそれだけなら問題視する必要はない。
しかし、この鬼の青年が行っていた暴挙は旧都の常識からも逸脱するものだった。
力を振るうのは構わない。それは鬼としての本能のようなものだ。ひと暴れしたいと思うその気持ちは、勇儀にだって理解出来る。
ここで問題なのは、その力の
「アンタ、ここ最近は誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けていたそうじゃないか。それも相手が無抵抗だろうとお構いなしに。それどころか略奪のような窃盗行為まで……。まぁ、それじゃあ喧嘩というより一方的な暴力だね。そんなもの、フェアな力の使い方とは到底言えるもんじゃない」
「…………ッ!!」
「アンタがやっていた事は、単に他人の尊厳を踏みにじって自分だけ悦に入る勝手な自己満足だ。それじゃあ、流石に正々堂々って称する事は出来ないんじゃないかい?」
つまるところ、この鬼が行ってきたのは無差別暴行事件である。
確かに喧嘩は上等だが、彼のやっていた事は最早喧嘩ではない。この旧都には例えば鬼のように獰猛で好戦的な妖怪が多く住んでいるのだけれど、しかし争いを好まない住民だって確かに存在している。全員が全員、鬼のように戦闘狂のような感性の持ち主ではないのだ。
鬼と言うのは本来、正々堂々という思想を重んじる種族だ。けれどもこうして地底へと移り住む事になってから、そういった思想から足を踏み外してしまう鬼も出てきてしまっている。
戦う意思のない者にまで暴力をぶつける。物理的にも、発言力的にも特に力の強い鬼がそんな暴挙に及んでしまったら、この旧都の絶妙なバランスは敢え無く瓦解してしまう。
故に、度が過ぎる場合には
それこそが、この旧都における星熊勇儀の役割の一つ。
「この
しかし鬼の青年は嫌悪感を抑えない。一度勇儀に殴り飛ばされても尚、彼は身を引くつもりはないらしい。
「大体、テメェの事は前から気に入らなかったんだよ! 四天王だが何だか知らねぇが、デカい顔してふんぞり返りやがって……! 何様のつもりだテメェはよ!?」
「って、言われてもねぇ……。私は別に、ふんぞり返ってたつもりはなかったんだけど……」
ざわざわと、周囲の野次馬が騒ぎ始めている。耳を澄ませてみると、聞こえてくるのは「おい、あいつ命知らずなのか……!?」だとか、「一度勇儀さんにボコられた直後に啖呵を切るとか、ヤベェなあいつ……」だとか、そんな声ばかりである。
一様に、星熊勇儀という女性に対してある種の畏敬の念を払うような言葉ばかり。別に、勇儀はそこまで偉そうな態度を取った覚えはないのだが──。けれども彼女くらいに強大な力を持ち始めると、その人となりとは関係なく自然とこんな傾向に陥ってしまうものである。
(まったく……)
何とも背中がむず痒い。変に畏敬の念を向けられるのも、それはそれで居心地が悪いものである。
「俺ァ絶対に認めねぇぞ、星熊勇儀……!」
そんな中、ゆらりとした足取りで鬼の青年が立ち上がる。
怨みやら妬みやらを剥き出しにした表情。パルスィが見たらある意味喜びそうな感情を抱きつつも、鬼の青年は勇儀を睥睨する。
「へぇ。認めない、ねぇ……。だったら、どうするんだい?」
「どうするもこうするもねぇ!」
吐き捨てるように怒号を口にする青年。
その直後。
「ぶっ潰すに決まってんだろッ!!」
力強く地を蹴り上げて、彼は一直線に勇儀へと向けて突進してきた。
何の策も講じていない。それは言わば、ただ単なる力任せの猛進。頭に血が昇っているとはいえ、真正面から突っ込んでくるその思い切りの良さは悪くない。けれども流石に相手が悪すぎた。
並大抵の妖怪が相手なら一撃で下す事も可能であろう剛腕が、勇儀へと襲い掛かる。けれども彼女は、青年のそんな一撃に迫られても尚、その表情を崩す事はない。
──青年の剛腕は、勇儀によっていとも簡単に受け止められた。
手に持っているその盃から、一滴の酒を零す事もなく。彼女は軽々しくも、
「へぇ……。悪くない一撃だ。嫌いじゃないよ、こういうの」
「なっ……!?」
「でも、これじゃ……」
そしてそのまま、大きく身体を捻らせて鬼の青年を持ち上げる。かなり大柄な体格の持ち主である鬼の青年だったが、勇儀の前ではそんな体格など意味を成さない。
青年の身体が地から浮かぶ。屈強な鬼の青年を、勇儀はまるで羽毛でも振るうかのように。
「全然足りない、よっと!」
「ッ!?」
いとも簡単に、彼女は鬼の青年を片手で投げ飛ばした。
驚愕に染まる青年の表情。けれども呻き声一つ上げる余裕も残されていない。そのまま石製の建物の壁に激突し、鈍い音を周囲に響かせる。肺の空気が一気に吐き出され、青年の顔が苦痛に染まった。
「これに懲りたら、もう無抵抗な奴にまで暴力を振るうのは止めておくんだね」
ゆらりと倒れ込み、意識を手放していく青年へと向けて、勇儀はそう口にする。
「もしも暴れ足りないって言うのなら、その時は私の所に来な。いつでも相手になってやるからさ」
勇儀がそう告げるのと青年が気を失うのは、ほぼ同じタイミングだった。
勇儀は軽く息を吐きだし、そして盃に注がれていた酒を呷る。あの鬼の青年に彼女の言葉が届いたかどうかは、正直微妙な所だ。彼は意識を手放すその瞬間まで、反省の色を見せる事はしかなった。
彼が最後まで抱いていたのは、星熊勇儀という鬼に対する反骨心である。時に行き過ぎた連中に対して体裁を加える事のある勇儀の姿は、他の鬼からして見れば面白くなく映る事もあるのだろう。
まぁ、でも。そんな感情に対して一々過剰に反応していては埒が明かない。
勇儀には勇儀の信念がある。鬼としての最低限の節度は守り、常にフェアな立場を重んじる。この街の均衡を著しく乱す奴が現れるのなら、その度に何度だって相手になろう。
それが、星熊勇儀という鬼の一つの信条なのだから。
「おー! 相変わらず力持ちだね!」
「ん?」
酒を呷って一息ついた所で、勇儀は不意に声を掛けられる。
先程まで野次を飛ばしていた奴らではない。もっと無邪気で、そして可愛げのある子供の声。反射的に視線を落とすと、そこにいたのは年端もいかない一人の少女の姿だった。
勇儀のような鬼ではない。当然ながら人間でもない。群青色の管で繋がれた
鴉羽色の帽子。所々にフリルがあしらわれた上着。花の柄が描かれたスカート。そして突然現れたかのようなこの感覚を加味すれば、彼女が誰であるかなんて一目瞭然だった。
「何だ、地霊殿の所の妹ちゃんか。こんな所にいるなんて、意外と珍しいんじゃないかい?」
「え? そうかな?」
彼女──古明地こいしは、勇儀の言葉に対して小首を傾げていた。
この旧都の真ん中に存在する灼熱地獄跡。その上に建てられた地霊殿と言えば、旧都の住民の中で知らぬ者はいないだろう。その洋館の主である古明地さとりは、覚と呼ばれる特殊な妖怪であると同時にこの旧地獄に漂う怨霊の管理も任されている。
怨霊の管理者にして、覚妖怪。そういった二つの意味で、古明地さとりは旧地獄ではちょっとした有名人である。必ずしも良い意味で、という訳でもないのだが──。
ともあれ、だ。
目の前にいるこの少女は、古明地さとりの妹にあたる人物なのである。勇儀も彼女とは面識があった。
放浪癖のあるこいしは一箇所に留まっている事の方が少なく、地上へと出かける事も少なくないと聞く。意外とこの旧都の中をフラフラとしている事の方が稀で、ここ最近は専ら地上にいる事の方が多いそうだ。
「今日は地上に行かなくてもいいのかい? ここ最近は、地上で何かやってるそうじゃないか」
地霊殿のペットから聞いた話だが、何でも最近は地上のとある寺に通っているらしい。殆ど在家という形で入門したのだとか、何とか。──まぁ、小難しい事はよく分からないが。
「うん。今日はちょっと、ここで待ち合わせしてるんだ」
「待ち合わせって……旧都で? 一体、誰と……?」
「半分幽霊のお姉ちゃんとだよ!」
「……半分幽霊だって?」
何だ、その表現は。
半分幽霊──という事は、半人半霊という種族の事を示しているのだろうか。しかし半人半霊の少女など、この旧都の住民の中にはいなかったはず。となると、考えられるのは地上からの来訪者という事になるのだが。
「その半分幽霊のお姉ちゃんってのは、地上で知り合った奴なのかい?」
「うん。確か、冥界の偉い人に仕えてるって言ってたかなぁ」
「へぇ……」
そう言えば、以前にも一度半人半霊の少女が地霊殿を訪ねていたという話を聞いた事がある。勇儀はその少女とは直接会った事はなかったのだが、こいしの言う“半分幽霊のお姉ちゃん”と同一人物なのだろうか。
「……因みにその子、強いのかい?」
「え? どうだろ……。でも地上での異変を解決した事もあるみたいだし、それなりに強いとは思うけど」
「成る程ねぇ……」
異変解決の実績持ちか。となると、一定以上の実力は期待できそうである。
俄然興味が湧いてきた。一度手合わせ願いたいものだ。
「む……。勇儀お姉ちゃん、何だかワクワクしてそうな表情になってる」
「うん? そうかい?」
「そうだよ。ダメだよ、喧嘩しちゃ。今日は私達と約束してるんだから」
「はいはい、分かってるよ」
どうやら見空かれていたらしい。まぁ、勇儀だってその辺の節度はきっちり守る。いきなり喧嘩を吹っ掛けるような真似などしない。
──と、そんなやり取りをこいしと交わす最中に。
「おい、聞いたか?」
「ああ。何だかドンパチやってるみたいだな……」
「……ん?」
不意に周囲の住民がざわつき始めた事に気づき、勇儀は顔を上げる。
聞き耳を立てると、どうやらまたどこかで騒動が起きている様子。それだけなら旧都では別に珍しくもないのだが、けれども住民達の妙な反応が気になった。
「何でもここいらじゃ見かけない連中が、鬼をばったばたと蹴散らしているらしいぜ。どうやら相当な手練れらしい」
「マジかよ……! そいつらは鬼じゃないんだよな?」
「ああ……。仕掛けたのは鬼の方らしいが、結果は返り討ちだ。今もまだやりあってるみたいだが……」
「すげぇな……! おい、見に行ってみようぜ!」
「…………」
中々に気になる話を聞いてしまった。
どうやら旧都では見かけない連中が、絡んで来た鬼達を返り討ちにしているらしい。鬼の中でも個々の実力は千差万別だが、それでも並みの妖怪よりは強大な力を持っている事は確実である。そんな連中を、敢え無く返り討ちにしているとは。
一体、何者なのだろう。旧都ではあまり見かけないという事は、地上からの来訪者である可能性も──。
「……まさか」
「ねぇ、勇儀お姉ちゃん。今の話って……」
勇儀が状況を察するのと、こいしがそう声をかけてくるのはほぼ同じタイミングだった。
勇儀は頷いてこいしの問いに答える。恐らく、
鬼の中にも、地上の妖怪を毛嫌いしている連中がいる。そんな連中が地上からの来訪者を見かけた場合、何かと因縁をつけて喧嘩を吹っ掛けてもおかしくはないだろう。
しかし、そんな鬼達が返り討ちとは──。
「こりゃ、想像以上に面白い奴なのかもねぇ」
「ニヤニヤしてる場合じゃないよ! 私達も行ってみようよ!」
こいしに手を引かれるような形で、勇儀はその騒動とやら起きている現場へと足を向けるのだった。
*
旧都というこの街はかなりの危険地帯だという話は事前に聞いていたのだが、足を踏み入れるなり進一達はその所以を身をもって知る事となった。
「おい。アンタら、ここれじゃ見かけねぇ顔だな」
見るからにガラの悪い様相の連中が、いかにもと言った様子でそう声をかけてくる。
がっちりとした体格に、何よりも目を引くのは頭に生えた角。俗にいう鬼という種族と見て間違いないだろう。
旧都と呼ばれるこの街は、鬼が中心となって作り上げた地底都市であると聞いた事がある。当然ながら鬼が住民の大半を占めており、この旧都を牛耳っていると言っても過言ではないらしい。つまるところ、進一達が出会う第一街人が鬼であるのは何ら不思議ではないのだけれども。
「え、ええ。私達、旧都の住民ではありませんので……」
「するとやっぱり、地上からの来訪者って事か」
妖夢がそう答えると、リーダーと思しき鬼の女性は露骨に威圧感を醸し出している。女性と言えども、その迫力は背筋に悪寒が走るほどだ。流石は鬼、という事か。
正直、あまり穏便な雰囲気ではない。歓迎されていないのだろうか。
「なぁ。俺達が地上の住民だと何か問題でもあるのか?」
「はっ! 大アリに決まってるだろ!」
威圧感はそのままに、鬼の女性が進一の問いに答える。
「ここは力が物を言う地底都市、旧都だ。それなのに、アンタらみたいなヒョロガキにウロチョロされると迷惑なんだよ! ここは地上のひ弱な連中が来るような所じゃねぇんだ!」
「そうだそうだ!」と取り巻きの鬼もそれに同調している。
中々に強引な因縁である。いや、進一に関してはひ弱である事は否定できないのだが、それでも喧嘩を吹っ掛ける程なのだろうか。血の気が多いにも程がある。
「……なにこいつら。暑苦しいんだけど」
「ちょ、ルナサ姉さんっ。あんまりそういうこと口にしない方が良いんじゃないかな……? まぁ、気持ちは分からなくもないけど」
ルナサは鬱陶し気な表情を浮かべている。そんな彼女の態度が気に食わなかったのか、鬼の女性の眉がピクリと動いた。
「あ? アンタ、アタシらに喧嘩売ってんのか?」
「……別にそんなの売ってない。ただ呆れてただけでしょ」
「チッ……! このガキ、こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって……!」
苛立ちを隠す素振りも見せず、鬼の女性が拳を振り上げる。それはまるで、気に入らない障害を排除するかのように。
──いや、比喩ではない。彼女の目は本気だ。本気でルナサに体裁を加えようと、彼女は拳を振り上げている。鬼という種族特有の剛腕で、細身なルナサを容赦なく。
「おい……!」
流石にそれはまずい。反射的に手を伸ばした進一だったが、そんな彼よりも早く行動に移した少女が一人。
「ちょっとちょっと!」
「なっ……!?」
ガキンと、そんな音が周囲に響く。容赦なく振り下ろされた鬼の剛腕だったが、けれどもそれはルナサを捉えるのには至らなかった。
彼女の拳は、
「いきなり暴力を振るうのは良くないんじゃないかな!? 怪我とかしたら大変だよ!」
「な、何だアンタは……!?」
鬼の女性は慌てて身を引く。振るった拳が痺れているのか、思わずと言った様子で仕切りに摩っていた。
取り巻きの他の鬼達も、ざわざわと騒ぎ始める。
「おい、どうした!?」
「判らねぇ……! 拳が、何かに阻まれて……! アンタ……何をしたッ!?」
「今はそんな事どうでも良いでしょ!? 暴力反対!」
困惑する鬼達に対して、メルランは果敢にもそう言い返している。けれどもそれは、却って鬼の頭に血を昇らせる結果にしかならなかった。
「こいつ、調子に乗りやがって……! おい!」
「ああ! 一気に袋叩きにしてやる……!」
「ちょ、ちょっと! 私の話を聞いてよー!」
取り巻き達がわらわらと集まってくる。メルランの言葉を受け入れるどころか、ますますやる気にさせてしまったようだ。
徒党を組んだ鬼達が、一斉に拳を振り上げるが──。
「もうっ! いい加減に……」
メルランが、腕を振るう様な動作をすると。
「してー!」
「ぐはッ!?」
徒党を組んだ鬼達が、
何が起きたか判らぬまま、複数の鬼達が倒れ伏せる。一方的にメルラン達に襲い掛かっていたはずなのに、気がついたら鬼の方が返り討ちに遭っているような状況である。ただ一度、大きく腕を振るっただけなのに。それだけで大柄な鬼達は、抵抗も出来ぬまま吹き飛ばされてしまった。
「もう怒っちゃったんだから! そっちがその気なら、こっちにだって考えがあるんだからね!」
鬼をぶっ飛ばした衝撃的な光景とは裏腹に、ともすれば可愛らしい雰囲気でプリプリと憤慨している様子のメルラン。
そんな様子を目の当たりにして、進一は。
「……は?」
腕を伸ばした状態のまま、思わず間の抜けた声を上げてしまっていた。
あんなにも大柄な鬼達が、いとも簡単に吹っ飛ばされたのである。進一の頭の中では、鬼達が一方的にルナサ達に危害を加えるビジョンしか見えてなかったはずなのに。けれども現実は、そんな想像とはまるで正反対。一体何が起きたのか、瞬時に理解する事が出来ない。
進一が唖然としている横で、リリカは苦笑いを浮かべていた。
「うわぁ……。メルラン姉さん、相変わらず……」
「……いや。待て、ちょっと待て。何だ、あれ……?」
「何って……。魔力を使って超局所的に突風を発生させただけでしょ」
答えたのはルナサだった。まるで唖然とする進一の方がおかしいみたいに、彼女はあくまでもただ淡々としている様子で。
「いや、そういう事じゃなくてだな……」
「え……? ああ……最初に鬼の攻撃を受け止めた事? あれもあの子の魔力の賜物。自分を中心として、限定的に物理的な結界を張ってるようなイメージで……」
ルナサは意外と律儀にも説明してくれるが、進一は困惑している理由はそこじゃない。
魔力の賜物、と言ったか彼女は。という事は、つまり。
「メルランって、そんなに強い魔力を持ってたのか……?」
「今更……? って、あなたそういうの探るのとか苦手なんだっけ……」
思い出したかのように一人得心すると、ルナサは説明を再開する。
「……メルランの持つ魔力量は、私達の中でも特にずば抜けている。アレくらいの攻撃ならあの子の魔法壁で十分に防げるだろうし、その魔法を攻撃に転じればある程度の反撃だって可能だと思う」
「魔法って……。そもそも、騒霊なのに使うのは霊力じゃないのか?」
「……騒霊と、幽霊やら亡霊やらは厳密に言えば別種の存在。私達という存在の所以は、とあるマジックアイテムが……って、今はそんな事よりも」
不意にルナサの説明が中断する。
メルランの反撃により数体の鬼が吹っ飛ばされたものの、その程度で簡単に諦めるほどヤワな連中ではないのである。素早く体勢を立て直し、メルランの魔法を強引に突破してきた鬼が一人。
「テメェら! 調子に……!」
「……五月蠅い」
「うっ……!?」
そのままの勢いでルナサに殴りかかろうとしたらしい鬼だったが、けれどもそんな攻撃さえも彼女には届かない。
素早く鬼へと片手を突き出すルナサ。そしてルナサが発動させたらしい何等かの魔法が鬼へと襲い掛かり、その攻撃の手を強制的に止めさせられる。
飛び掛かろうとしたはずの鬼が、空中で身動きが取れない状態となってしまっている。まるで、念力か何かによって体を拘束されてしまったように。
「……それじゃ、さよなら」
「がっ!?」
そのままルナサが腕を振るうとそれに連動するかのように鬼は大きく投げ飛ばされ、激しく地面に叩きつけられてしまった。
旧都の舗装された地面が砕け、砂埃が舞い上がる。大柄な鬼がいとも簡単に弾き飛ばされるその光景は、迫力を通り越して背筋が凍るほどである。あまりにも予想外過ぎる光景を立て続けに目の当たりにして、流石の進一も言葉を失う他にない。
「…………っ」
「おぉ、流石ルナサ姉さん。魔力の絶対量はメルラン姉さんに劣るけど、でも
リリカが横で感心している。それに対して進一は、最早一周回って感心よりも呆れに似た感情が渦巻き始めていた。
──何なんだ、この姉妹。こう言っちゃ何だが、戦闘能力に関して彼女らはそれほどでもないイメージを進一は勝手に抱いていた。だって彼女らは音楽家で、人外とは言え戦いの専門家という訳ではない。戦いに身を投じる姿など、想像も出来なかったのだけれども。
「だいぶ強かったんだな、お前らって……」
「うん。まぁ、それなりに? 少なくとも、並みの妖怪程度なら一捻りってくらいの力は持ってるかなぁ。意外だった?」
「意外、と言えば意外だな。……やっぱり、リリカも強いのか?」
「私? 私は、ほら、姉さん二人が戦ってくれるし。後方支援専門、みたいな?」
などと言いつつ、リリカは特に援護を行っているような様子はない。姉二人に戦わせて、自分は半ば見物状態である。この少女、案外狡猾なのかも知れない。
「チッ……! 妙な術ばっかり使いやがって……!」
メルランとルナサから手痛い反撃を食らっていた鬼達だったが、けれども流石は幻想郷でも最高レベルの力を持つ種族。吹き飛ばされてもすぐに立ち上がり、そして挫けずに向かってくる。舌打ち交じりに悪態を吐いたのは最初に声を欠けてきた鬼の女性で、悔しそうに身体に被った砂埃を払っていた。
「やはり、魔法で中遠距離から一方的に攻撃するのは卑怯だと仰いますか?」
「当たり前だ! ……と、言いたい所だが」
妖夢の問いかけに対し、しかし鬼の女性は意外にもあっさりと首を横に振る。
「それがアンタらの戦い方だってんなら、卑怯だ何だととやかく言うつもりはねぇよ。拳でぶん殴る事だけが全てじゃねぇって事くらい、アタシだって分かってる。それに、こっちだって大人数で取り囲んじまってるしな」
「……一方的に因縁をつけてきた割に、意外とフェアな思想をお持ちなんですね。てっきり、気に食わない連中に好き勝手されて、もっと怒っていると思っていましたが」
「ケッ……! ナヨナヨとしたアンタら地上の住民が気に食わないのは確かだ。でもそんな連中を相手に、アタシらが後れを取る結果になっちまっている。そいつに関しちゃ、アタシら鬼の落ち度だ。アンタらに当たり散らしても意味はねぇ」
地上の連中は気に入らないが、それでも力を交える場では相手の実力を最低限尊重する。
──中々に難儀な思想だ。いや、そのフェアを重視する思想こそ、鬼本来の本質なのかもしれない。地上と地底との確執が未だ根強く広がっているが故に、こうして少々威圧的な態度になってしまっているけれど。
鬼と言う種族は元来、獰猛だが誠実な妖怪であると聞いた事がある。彼らはただ、鍛え上げたその力を振るって正々堂々と戦いたかっただけだ。そんな思想が穏便を求める地上の人間と相容れず、結果として鬼の方から身を引く事となってしまったらしい。
そんな
「でもな、このままで終わるなんて事になるのも納得できねぇ……! ここで引いたら、鬼としてのアタシらの名が廃るんだよ……!」
「……あなた達鬼が、闘争を重んじる種族だという事は理解しています。そんなあなた達が、基本的に平穏を良しとする幻想郷という世界が気に入らないという事も……。ですが、私達だって軽い気持ちで地上から地底へと足を運んだ訳ではないんです。郷に入っては、郷に従え。あなた達の尊厳を、踏みにじるような真似なんてするつもりはありません」
「はっ! 一丁前に言うじゃねぇか。だったら、どうするつもりだ?」
「……真剣勝負がお望みなら、私はそれにお答えします」
そう言うと妖夢は、腰に携えた楼観剣を抜き放ち、鬼の女性へと一歩近づく。
正直、喧嘩を吹っ掛けられたのはだいぶ理不尽な理由である。鬼達による一方的な思想の押しつけなんて、無理に買う必要はないのだけれども。
しかし魂魄妖夢にだって、西行寺幽々子に仕える剣士として筋の通った思想がある。だからベクトルは違えど、鬼の女性が抱く気持ちも何となく理解できるのだろう。故に彼女は、こうして彼女の意思を汲み取る事を選択した。
「妖夢、やるのか?」
「……はい。すいません、進一さん。ちょっとだけ待っててもらえますか?」
「……ああ。俺の事なら気にしなくても良い。お前はお前の好きなようにやればいい」
短いやり取り。けれど今の進一と妖夢にとって、意思を伝え合うのにはその言葉だけで十分だ。
そして妖夢は、剣を構えて改めて鬼へと向き直る。
「へぇ、剣士か。面白い……!」
「……予め言っておきますが、私達は待ち合わせの約束をしているんです。ですので戯れている時間はありません。一気に行きます」
「へっ! 上等だ……!」
先に動いたのは鬼の女性だった。
小細工なんて弄しない。自慢の怪力による脚力を使って、彼女は一気に接近してくる。そして振るわれるのは剛腕。接近の勢いも上乗せして、その威力は鋼鉄さえも砕ける程に跳ね上がる。
「オラァ!」
しかし攻撃そのものは単調である。ギリギリまで引き付けて、瞬時に身体を捻る事で妖夢はその攻撃を躱す。直撃を許せば致命傷だが、躱してしまえばどうという事はない。
「チッ……! まだまだぁ!」
けれども一度攻撃を躱された程度で彼女が諦める訳がない。
勢いはそのままに、再び腕を振るって次なる攻撃へと転じる。強引な力技だが、怪力自慢の鬼だからこそ、その攻撃は有効打と成り得る。
「────ッ!」
だが、妖夢だってそう簡単に直撃を許す訳ではない。
圧倒的な瞬発力。鬼による激しい連撃を瞬時に見切り、最低限の動作のみで次々と攻撃を躱していく。これまで伊達に鍛錬を続けていた訳じゃない。あの『眼』で攻撃を見切る事に関しては、進一と別れてからの二年間で血の滲むような努力を重ねてきたと聞く。
故に、読み切れる。今の彼女ならば、あの程度など造作もない。
「そこっ……!」
「なっ……!?」
そして、タンッと。一際強く地を蹴り上げたかと思うと、一瞬の隙をついて妖夢は女性の背後へと回り込む。一瞬でも標的を見失った鬼の女性が慌てて妖夢へと向き直ろうとするが、そのタイミングでは既に遅すぎた。
女性が身体を反転させるよりも先に、振り上げられた楼観剣が瞬時に振り下ろされる。
そして響くのは鈍い金属音。その直後に一瞬だけ静寂が周囲を支配し、張り詰めた緊張感が駆け抜ける。時間が止まったとでも錯覚してしまいそうな雰囲気の中、鬼の女性の身体が揺れた。
「畜、生……!」
絞り出すように悔しそうな声を上げる鬼の女性。その言葉を最後に、彼女は糸が切れたように倒れ伏していく。
「……峰打ちです。それでも、加減をしたつもりはありませんが」
楼観剣を納刀しつつも、妖夢はそう口にする。
「私の勝ち、ですね」
直後、鬼の女性は完全に倒れた。
──一瞬である。鬼に攻撃をギリギリの所で躱し続け、隙を見つけた瞬間にあの一太刀。この幻想郷に迷い込んでから実際に妖夢が戦っている所を見たのは意外と始めてだったが、想像以上の実力を前にして進一は思わず舌を巻いていた。
というか、早すぎて何が起きたのかぶっちゃけ良く分からない。妖夢の実力に関しては霊夢も一定の評価を抱いているような印象だったが、それにしてもまさかここまでとは。
「さて! これで終ーわりっと!」
「……鬼の割に意外と大した事なかったね」
ほぼ同時期にメルラン達の喧騒も終わる。気が付くと、徒党を組んでいたはずの鬼達は、揃って地に伏せて気を失っていた。
暴力反対などと言っておきながら、それでも危害を加える相手には意外と容赦がないメルランである。ルナサもやる気なさげに見えて、降りかかる火の粉を払う事に関しては隙がない。しかしそれにしても、複数人の鬼を相手にここまで余裕を持って勝利を収めてしまうとは。
ひょっとしたら、自分はとんでもない姉妹と関わってしまったのではないかと。今更ながらそう認識を始める進一なのであった。
「お、おぉ! すげぇぞあの嬢ちゃん達!」
「鬼を相手にあそこまで一方的に……! ここいらじゃ見ない顔だが、一体何者なんだ……!?」
いつの間にやら周囲に集まっていた野次馬達から歓声が上がる。街中で突然起きた喧騒に対して、不満や不安を抱くまでもなくある種のエンターテインメントのように楽しもうとしてしまうとは。この旧都という地底都市は、どうやら聞いていた通りに混沌とした街のようである。
「な、何か盛り上がっちゃってる……?」
「ああ……。だが、特に何もやってない俺からしてみれば、微妙に肩が狭いというか何と言うか」
「気にしなくても良いんじゃない? 私だって似たようなものだし。彼氏さん、戦う力を持ってる訳じゃないんでしょ?」
旧都の住民の盛り上がりっぷりに若干の困惑を見せているものの、基本的にリリカはさっぱりとした様子である。特に戦いに参加しなかったのは彼女だって同じ事だが、どうやらリリカ本人はそれについて全く気にしていないらしい。
彼女の割り切りの良さがちょっぴり羨ましい。女の子に戦わせておいて自分は見てるだけとか、それは男としてどうなんだとか。そんな事を考えてしまう辺り、自分にもやはり見栄っ張りというか負けず嫌いな一面があるという事なのだろうか。
「あっはっは! いやぁ、凄いじゃないか。思った以上だよ」
「……うん?」
──と、そんな中。盛り上がる野次馬の中から、一際気持ちの良さそうな笑い声を上げる青い着物を身に纏った女性が歩み寄って来た。
振り向いてその姿を確認すると、まず目に入ったのは額の上から生えている一本の角。つい先ほど襲い掛かって来た鬼達と同じように、彼女もまた立派な角を携えている。この女性も間違いなく鬼なのだろうが、けれども妖夢達が戦っていた他の鬼とは
上手く言葉には出来ないが──。身に纏う闘志、とでも言おうか。それがあの鬼達よりも一際強いように感じる。霊力やら妖力やらが殆ど探れない進一でも、彼女の纏う
──この人、只者ではない。
そんな彼女は、先程の笑い声に見合った楽し気な表情を浮かべていて。
「まさか地上に、こんなにも強い奴がまだ残ってたとはねぇ。思わず武者震いしちまうよ」
「……えっと」
「ああ、すまないね。強い奴を前にすると、ついね……。それにしても……」
そう口にすると、彼女は難しそうな表情で妖夢やルナサ達へと視線を巡らせる。
「思ったよりも大所帯? えぇっと……半分幽霊のお姉ちゃんってのは、アンタの事かい?」
「え? え、えっと……。確かに、私は半人半霊ですけど……」
意外な呼称が飛び出してきた。ちょっぴり困惑気味な様子で、妖夢はそれに頷いて答える。
半分幽霊のお姉ちゃんと言えば、確かこいしが妖夢に対して良く使っている呼称である。そんな呼称が彼女の口から出てくるという事は、この女性はこいしの知り合いか何かなのだろうか。
「おお! 成る程ねぇ……。半人半霊の二刀流剣士って所か。さっきはそっちの短い方の剣は使ってなかったみたいだけど」
「あ、あの。あなたは、ひょっとしてこいしちゃんのお知り合いなんですか?」
「ん? ああ、まぁね。アンタの事は、さっきあの子から聞いて……」
「妖夢!」
青い着物の女性がそこまで口にした所で、再び人混みの中から声が聞こえてきた。
妖夢の名を呼ぶ声。進一も聞き覚えのある、幼い少女の声である。そんな彼女が、トコトコと人混みの中から駆け寄ってくる。
鴉羽色の帽子。フリルがあしらわれた上着。花の柄が描かれたスカート。彼女こそ、進一達がこの旧都で待ち合わせをしていた人物。
「良かった! ちゃんと合流できた!」
「わわっ……! こいしちゃん?」
彼女──古明地こいしは、駆け寄るなり妖夢にひしと抱きついていた。
いきなり抱きつかれてちょっぴり驚いた様子の妖夢だったが、けれどもすぐにこいしを受け入れて微笑みを零す。そんな彼女に甘えるように、こいしはすりすりと頬擦りをしていた。
本当に、こいしは妖夢によく懐いている。彼女は誰に対しても甘え上手な所はあるが、妖夢に対しては特にである。
「ちょっぴり心配してたんだよ? 何だか騒ぎに巻き込まれてるって聞いて……」
「あー……。うん、心配かけてごめんね。でも大丈夫だから」
「うん! 見てたよ! 一瞬だったよね! すっごく強いね!」
「あはは……。ありがとう」
無邪気な様子で、彼女は目をキラキラさせている。眩しいくらいに、実に楽し気な様子だ。
「……お前は相変わらずだな、こいし」
「あっ! お兄ちゃん! お兄ちゃんも、大丈夫だった?」
「……ああ。まぁ、少し驚いたけどな。でも妖夢達のお陰でこの通りだ」
こいしの問いかけに対し、進一はそう答える。
実際、かすり傷一つ負わずにあの場は切り抜ける事が出来た。戦ってくれた妖夢やルナサ達には感謝である。我儘を一つ言うのなら、自分も何か力になれれば良かったのだが──。けれども先程リリカも指摘していた通り、進一は戦う力を持っていない。それ故に、生憎だがああいった戦いの場では進一は力になれなさそうである。
戦う力を持たないのなら、下手に出しゃばって状況を引っ掻き回す訳にはいかない。この恩は、進一が出来得る事で返させて貰う事にしよう。
「ところで……」
そんな中、こいしはルナサ達へと視線を向けつつも疑問を呈する。
「お兄ちゃん達、どうして楽団のお姉ちゃん達と一緒にいるの?」
「ああ……。まぁ、偶々成り行きで。こいつらも旧都に用があったみたいだから、途中まで一緒に行く事にしたんだ」
「へぇ……! そうなんだ!」
そう言うと、こいしは今度はプリズムリバー三姉妹へと歩み寄って行く。
進一が倒れた際、確か会場にいた水蜜をメルラン達がこいしのもとへ連れてきてくれたのだったか。その際に、彼女らとも交流があったのだろう。こいしは普段通りの人懐っこい様子で、三姉妹へと会釈を交わす。
「楽団のお姉ちゃん達、こんにちは!」
「こんにちは、こいしちゃん! 元気だった?」
「うん! メルランさんも、相変わらず元気だね!」
「えへへ! 私はいつだって元気だよ!」
主にメルランがこいしの相手をしているようだ。
彼女の明るい性格的に、こいしのような子供には好かれそうである。ルナサはウザい等とたまに言っているようだが、メルランという少女の人となりが時に笑顔を届けている事もまた事実なのだ。
「へぇ……。あの様子ならあの子、地上でも上手くやってるみたいだね。良かった良かった」
「ええ。皆さん、親切な方ばかりですから……。あの、ところで、あなたは……?」
「ん? あー、そういやまだ自己紹介してなかったね」
そう言うと青い着物の女性は、コホンとやや大袈裟気味に咳払いをする。それからニッと、人の良さそうな笑顔を浮かべると。
「私の名前は星熊勇儀。まぁ、見ての通り鬼だよ。よろしく!」
「はい。私は魂魄妖夢です。よろしくお願いします」
「俺は進一だ。岡崎進一。よろしく頼む」
星熊勇儀と名乗った女性と、軽く自己紹介を交わしておく。先程感じた底の知れない闘志とは裏腹に、彼女の人となりは実に爽やかな様子である。まさに竹を割ったような性格。少なくとも、同じ鬼でも先程の連中のようにいきなり襲い掛かってくるような事はなさそうだ。
鬼は獰猛な一面も強いが、けれども気に入った相手に対しては非常に情が厚い種族であると聞いた事がある。彼女の場合、そんな情の厚さが全面的に窺える人となりをしているようである。
「ところで、妖夢って言ったね。アンタのさっきの剣、凄かったねぇ……! あんな早業、初めて見たよ」
「あ、ありがとうございます……。でも、私だってまだまだ修行中の身。これでも半人前の域ですよ」
「いやいや、謙遜なんてしなくていいよ。いやぁ、一度手合わせ願いたいくらいだね! 私、強い奴と戦う事に関しちゃ目がないからさ」
やたらと楽し気な様子で、勇儀はそう述べている。
この反応。どうやら彼女、根っからの戦い好きであるらしい。まぁ、確かに見た感じの第一印象でも暴れまわる事が好きそうな様子である。実に鬼らしい女性であると言える。
──と、そんなやり取りを勇儀と妖夢が交わしていると、何やら少し慌てた様子でこいしが駆け寄って来て。
「ちょっと勇儀お姉ちゃん! 妖夢と喧嘩しちゃダメって言ったでしょ! 今日は私達が最初に約束してたんだから!」
「おっと、こいつは失礼。大丈夫だよこいしちゃん。流石にこいしちゃんの約束を横取りしようだなんて事は考えてないからさ」
「むぅ……。本当に?」
「ああ、本当だ。私は嘘が嫌いだからね」
不満気に頬を膨らませて勇儀へとジト目を向けていたこいしだったが、彼女の「嘘は嫌いだ」という言葉を聞いて納得した様子。それ以上不平を述べる事はなく、こいしは身を引いていた。
嘘は嫌い。勇儀のその言葉は、単に子供を納得させる為の出任せなどではないように聞こえる。鬼と言う種族は、元来誠実な種族だ。誠実であるからこそ、嘘をつくのような卑怯なやり口は特に嫌うと聞いた事がある。
星熊勇儀も、例外ではないのだろう。
正々堂々と戦う。その確たる信念を言葉として表した結果が先程の発言だ。その言葉は重く、同時に強く信頼を置く事が出来る。
「まぁ、妖夢と手合わせする事は諦めるとして……。そっちのアンタらはどうだい? さっきの様子じゃ、アンタらだって相当の実力者だったように思うけど?」
「……え? 私達?」
そんな勇儀が次に興味を示したのは、プリズムリバー三姉妹である。
然程強大な力を持っている訳ではなかったとは言え、それでもあの数の鬼を一方的に下したのだ。勇儀が興味を示さない訳がない。
けれども当の三姉妹──特にルナサは、まるで乗り気ではないような様子だった。
「どうだい? 私と戦ってみないかい? 何なら三人纏めてかかってきても良いけど?」
「……嫌。面倒くさい」
「私もあんまり戦うのは好きじゃないかな!」
「姉さん達直球……。まぁ、私もどっちかって言うとメルラン姉さんと同意見だけど……」
プリズムリバー三姉妹は、あくまで降りかかる火の粉を払っただけだ。何も彼女らだって、好き好んで戦いの場に身を投じた訳じゃない。幾ら高い戦闘能力を持っているのだとしても、彼女らの本業は音楽を奏でる事。出来る事ならば争い事は避けたい主義なのだろう。
「そうかい。まぁ残念だけど、無理強いはできないよねぇ」
「……話が通じるようで何より」
ルナサ達が否定的な反応を示すと、勇儀はあっさりと身を引いてくれた。
「それじゃあ、お兄ちゃん達! 私のお姉ちゃんに用があるんでしょ? 早く行こうよ!」
「ん? ああ……。そうだな」
不意にこいしに袖口を引かれる。
そうだ。地底に足を運んだ最大の理由は、古明地さとりの持つ『能力』を頼る事。色々と足止めを食らってしまったが、目的の地霊殿はもう目と鼻の先である。これ以上の寄り道は、協力要請を受け入れてくれたさとりにも失礼にあたる。
「……進一さん」
「分かってる。こいしの言う通り、早いところ地霊殿に向かおう」
「うん? 何だい、アンタらさとりに用だったのかい」
「……ああ」
興味を示した勇儀に対し、進一は頷いてそれに答える。
こいしとも顔なじみだったのだ。恐らく、その姉であるさとりとも知り合いなのだろう。そんな勇儀は、進一の頷きを見て少し意外そうな表情を浮かべていた。
「へぇ、あのさとりに地上からの客人かぁ……」
「ちょっと勇儀お姉ちゃん。その反応、どういう意味かな?」
「へ? あー、いや、すまない。別に、変な意味じゃないんだ」
またもやこいしに不満気そうな声をかけられて、勇儀は慌てて言葉を訂正する。
それから彼女は、一度肩の力を抜いて表情を正す。先程までのような緩い表情じゃない。どこかしんみりとした感情を滲ませて、先程までにはない
そして勇儀は、「ただ──」と言葉を繋げる。
「あの子とも……。さとりとも、仲良くしてやってくれると嬉しいな」
「……? あ、ああ……」
勇儀な意味深な反応。それに対して、進一はただ困惑気味に頷く事しかできなかった。
はっきりとは判らない。勇儀が何を想い、そして何を望んでその言葉を口にしたのか。何となく察する事は出来ても、はっきりと理解する事は今の進一には出来ない。
ただ、それでも。
その想いを受け入れたいと、進一は思う。戦う力を持たぬなら、せめてそれくらいはやり遂げたいと。そう切に感じている。
しかし仮に、もしもそうでなかったとしても。
やっぱり受け入れたい。受け入れなければならないと、自然とそう思うはずだから。
だから進一は、古明地さとりと会う前に改めてその心境を整える事とする。
「……行くの?」
「ああ。お前ら楽団は、旧都でライブだったな」
「そうだよ! もう目いっぱい盛り上げちゃうんだから!」
「という事は、ここで一端お別れですね」
ここまで共に来たプリズムリバー三姉妹と、進一達は一時の別れを告げて。
「そっか。また帰りも一緒になれると良いね」
「……そうだな。その時はよろしく頼む」
「うん! 今度また、二人も私達のライブを観に来てくれると嬉しいな!」
「ええ。機会があれば、是非」
それぞれはそれぞれの目的の為に、足を進める事となる。
進一達は地霊殿。そしてプリズムリバー三姉妹は、旧都のライブ会場へ。
「……ねぇ」
「ん?」
しかし最後に、こっそりと進一は呼び止められる。
声をかけてきたのはルナサだ。彼女はまるで、内緒話でもするかのような声調で。
「……記憶、戻ったらちゃんと私にも教えて」
「……何だ、そんな事か。分かってる。お前にも、色々と迷惑をかけちまったからな。ちゃんと報告するつもりだ」
「……そう」
「別に、態々内緒話で話す内容でもないと思うんだが……」
「…………」
「? ルナサ……?」
微妙な反応。それが少し気になって、進一は思わずルナサの名前を口にするが。
「ちょっと姉さん! 置いて行っちゃうよ!?」
「お兄ちゃん! 早く行こうよ!」
「……呼ばれてるな。お互いに」
「……そうね」
待たせる訳にも行かないだろう。気になると言えば気になるが、それは後から幾らでも聞ける事だ。ここで急く必要はない。
それから勇儀とも軽い会釈を交わし、進一は急かすこいしと共に地霊殿へと向かう事にした。ルナサもまた妹達と合流し、ライブの準備を行う為に会場へと向かう。
色々な意味で、気になる事はある。けれども今は、目の前ではっきりとしている問題に立ち向かう事が最優先だ。失われた記憶を取り戻し、そしてタイムトラベルの手掛かりを掴む。今は一先ず、それだけに集中すべきなのである。
そう、改めて自分に言い聞かせつつも。
進一は旧都の中心部へと足を進めるのだった。