白玉楼のとある広間。その中央部分にどっしりと置かれたテーブルの上に、所狭しと昼食のメニューが並べられていた。
今日のメニューはどちらかと言うと和風寄りだ。しかし例えば懐石料理のような本格的な和食という訳ではなく、所謂“一般的な家庭でも作れるような料理”というヤツである。二年前に外の世界に飛ばされてからというものの、妖夢はこういった趣向の料理を作る頻度もそれなりに高くなってきている。どうにもこのような料理を作る感覚が、身体に染みついているようなのである。やはり外の世界で過ごしたあの四ヶ月間は、彼女の中でも強烈に印象付けられている、という事なのだろう。
先に断っておくが、妖夢は何も手を抜いている訳ではない。西行寺幽々子が望む料理の最適解を求めた結果、この家庭料理はその解に極めて近い事が判明したのである。作る頻度が高くなったのも、それが一つの要因となっている。
──などと壮大な表現をしたが、要するに幽々子がこの手の料理をいたく気に入ったという事だ。たまに彼女の方からも、「もう一度作って欲しい」というリクエストが届くくらいである。確かに幽々子は白玉楼の現当主であるお嬢様だが、けれども感性は意外と庶民派だ。見た目の豪華さだとか、材料の高価さだとかは微塵も気にしない。
その証拠に、幽々子は現在も美味しそうに昼食を口へと運んでいる。相も変わらず食べる量は半端じゃないが、そこまで幸せそうな表情を見せられるとこの苦労なんて大した事ないように思えてくるから不思議だ。いやはや、主の笑顔はある意味で魔性である。
「んー! やっぱり唐揚げは最高ねぇ! このカリッとしててジューシーな感じがたまらないわ!」
ほっぺたが落ちそうな表情とは、まさにこの事なのだろう。まさに至福の笑み。見ているこちらも清々しい。
そんな幽々子の様子を妖夢と共に見ていた進一もまた、思わず頬を綻ばせている。あの唐揚げは、進一も手を貸したメニューなのである。だから尚の事、幽々子があんな表情を見せてくれて嬉しいのだろう。
「本当、よく食べるよな。幽々子さんは」
「当然よぉ! 食べる事とは即ち、私にとって一番の生きがいなのよ! 一日三回の至福の一時、存分に堪能しなきゃ……!」
そう言いつつもガツガツと昼食を口に運ぶ幽々子。死んでいるのに生きがいとは中々に違和感ありまくりな表現だが、その突っ込みはこの際無視する事にしよう。
それよりも気になったのは一日三回という言葉だ。彼女は間食だって凄まじい量を平らげるのに、あれは“食べる事”に含まれないのだろうか。それとも朝昼晩のご飯とおやつを別々にカウントしているのだろうか。──そこまで考えた所で、妖夢は思考を放棄した。主の食事事情に余計な思考の介入など無駄でしかないのである。
「ちょっと幽々子! あんた幾ら何でも食べすぎよ! 唐揚げ、もう殆ど残ってないじゃない!」
「あらあら、早い者勝ちよ? モタモタしている方が悪いわ」
そして相変わらず食べるスピードも凄まじく早い。あんなにも沢山あった唐揚げが、いつの間にか指で数えられる程度にまで激減しているのである。油物をあんなにも一気に沢山食べて、胃がもたれないのだろうか。──そんな心配、あの主には無用なのだろうけれど。
「なぁにが早い者勝ちよ! 大体あんたね、どうせ毎日妖夢の料理たらふく食べてるんでしょうがっ! だったら今日は私に譲りなさい! もう散々味わってんでしょ!?」
「ふっふっふ……。残念だったわね! この唐揚げは進一さんのお手製よぉ! だからまだまだ全然味わえてないわぁ!」
「くっ……。この腹ペコ亡霊めっ、ああ言えばこう言う……!」
なぜだか得意気な表情を浮かべる幽々子。因みに進一は揚げる工程の担当であり、あの唐揚げの味付けをしたのは妖夢だったりする。──まぁ、外の世界で進一や夢美が教えてくれた味付けをベースにはしているのだけれども。
そんな幽々子の態度が気に入らなかったのか、向かい側に座る
(──って、)
いや。
ちょっと待て。
「なっ……何で霊夢がさらりと一緒にお昼食べてるのッ!?」
「あん?」
いつの間にかさも当然の事であるかのように同席していた紅白巫女──博麗霊夢への渾身の突っ込みは、気だるげな反応で受け止められてしまった。
何なんだ一体。やたらと堂々としている所為で、思わずスルーしそうになってしまったじゃないか。彼女は霍青娥の足取りを追っていたはず。それなのに、どうして。
「何よその超今更な反応。普通に最初からいたんだけど。まさか今まで私の存在に気付いていなかったとでも言うワケ?」
「い、いや、気付いてなかったというか……。あまりにも自然に溶け込み過ぎてて違和感を覚えるのに時間がかかっちゃったというか……」
「妖夢ー! お米! ご飯おかわりー!」
「幽々子様はもう少しこの状況に疑問を抱いてくれませんかッ!?」
「はぁ。まったく、あんたは細かい事まで気にし過ぎなのよ。もぐもぐ」
妖夢の事など意に介さず、霊夢は食事を再開する。この図太さは、確かに霊夢らしいと言えばらしいが──。
それでも中々に状況がカオスな事になってきた。幾ら妖夢でも流石に捌ききれない。
「……幽々子さんのおかわりは俺がよそおう」
「あら、そう? それじゃ、大盛でお願いね、進一さん」
「ああ」
そんな中でも割と自然体で幽々子の相手が出来る進一が羨ましい。彼は元々順応性が高い一面があったが、亡霊になってからそんな一面がより強くなっているような気がする。最早この程度のゴタゴタでは、彼の調子は崩れないようだ。色々な意味で頼もしい。
「ほら、よそったぞ。……それで? お前の要件は何なんだ霊夢? まさか昼飯を食う為だけに白玉楼まで来た訳じゃないんだろ?」
「ん? あぁ……。まぁ、そうね」
どんぶりによそった大盛のご飯を幽々子へと渡しつつも、進一がそんな疑問を霊夢へと投げかける。
当の霊夢は残った唐揚げを一つ口の中に放り投げ、もぐもぐと咀嚼して飲み込んだ後に改めて口を開いた。
「進一さんが倒れたって話を聞いたから、気になって様子を見に来たのよ」
「……それって、進一さんの事が心配になったって事?」
「心配というか……。って、何よその反応。何でそんなにも意外そうな顔してんのよ」
「あっ、いや……! 霊夢がそんな気遣いするなんて、珍しいなぁ、なんて……」
「地味に失礼な奴ねあんた……。まぁ確かに、どっちかって言うと事態に進展があったんじゃないかっていう方が気になってたのは事実だけど」
肩を窄めつつも、霊夢はそう答える。
彼女の言う通り妖夢は思わず失礼な反応を示してしまったが、確かに霊夢は何事に対しても全くの無関心な少女という訳でもない。彼女だって、変わってしまった妖夢の事を心配してくれていたのだ。ちょっぴり関心が薄いというだけで、誰かを思いやる気持ちは彼女の中にも確かに存在しているはずである。
まぁ、大抵はその思いやりが表面に出る事はないのだけれども。
「ご、ごめん……。別に、霊夢を貶したりするつもりはなくて……」
「あー、別に良いわよ謝らなくたって。全く気にしてないし」
「う、うん……。えっと、それで、進一さんが倒れたって話を聞いた、って言ってたよね? 誰に聞いたの?」
「紫よ紫。何か割と余裕がなさそうな感じだったから、どんなにヤバイ状況なのかと思ったけど……」
そこで霊夢は、ちらりと進一を一瞥して。
「こっちに来てみたらあなたってば普通に起きてるし、しかもお昼ご飯作ってんだもん。何だか拍子抜けだったわ」
「そ、そうか……」
霊夢が嘆息交じりにそう口にすると、進一は少しバツが悪そうに苦笑いを浮かべていた。
──それにしても。紫にはまだ事情を話してはなかったはずだが、まさか彼女が既に進一の状態を認識していたとは驚きだ。ひょっとして、彼女もまた昨日の様子をどこかで見守っていたのだろか。『境界を操る程度の能力』などという、やたらと汎用性抜群な能力を持っている彼女の事だ。そんな行動を取っていても不思議ではないが。
「紫にも、心配をかけてしまったという事か……」
「うーん、でもあいつって意外と心配性が過ぎる性質があるし。多分ちょっと大袈裟に捉え過ぎてるだけだと思うから、別に気にしなくてもいいんじゃないの?」
「……霊夢って、紫に対しては意外と辛辣だよな」
「はん。こちとら雑用やら何やらを日頃から色々と押し付けられてる訳だし、これくらいお相子よ。今回だって、そんなにも進一さんの事が心配なら自分で様子を見に行きゃ良いのに、まるで代わりに見てきて欲しいと言わんばかりに私にあんな態度取っちゃってさ。あなたの様子から察するに、本当に来てないみたいだし」
「確かに、紫とは会ってないな」
霊夢の言う通り、少なくとも白玉楼では紫の姿を一度もみかけていない。まぁ、スキマの陰からこっそりと様子を窺っていた可能性もゼロではないが。
「どうせまた閻魔サマにビビってんでしょ。妖怪の賢者としての名が泣いてるわ」
「そう言えば、苦手だって言ってたな」
八雲紫の『境界を操る程度の能力』は、四季映姫の『白黒はっきりつける程度の能力』とは壊滅的に相性が悪い。そうでなくとも映姫は
──何だかここ何日かで紫のイメージが瓦解しつつある。胡散臭くて掴み所のない大妖怪とは、一体何だったのだろう。
「まぁ、紫の事に関しては今はどうでもいいでしょ。兎にも角にも、私は進一さんの様子を見に来た。でも目的はそれだけじゃない」
「……そうか」
「ええ。この際だから、もう単刀直入に聞いちゃうけど」
そこで霊夢は箸をテーブルの上に置いて、改めてに進一の事を見据え直す。
凛とした表情。回りくどい寄り道が嫌いな霊夢らしい、真っ直ぐな瞳だ。緊張感が漂い始めて、周囲の空気も緊迫してきて。妖夢が息を呑むのと霊夢が次の言葉を発するのは、ほぼ同じタイミングだった。
「……記憶、戻ったの?」
「…………」
これまで黙々と昼食を口に運んでいた幽々子が、ぴくりと反応を見せる。言葉通りにストレートな問いかけを突き付けられた当の進一は、一瞬だけ息を詰まらせている様子だった。
ある程度予想は出来た質問だ。進一が倒れた事を知っているのなら、その原因だってある程度認識しているはずなのだから。博麗の巫女として、『異変』に関わる
進一の記憶。
その話題に関しては、実のところ妖夢も幽々子も把握出来てない。状況を共有する為にも、まずは互いに気持ちや情報の整理が必要だと判断した為である。何せ昨日の今日の出来事だ。いきなり全てを話せと言うのも酷な話である。
けれどもこうして日を改めて、皆で昼食をつついて。そして折よく霊夢が足を運んできたのだ。タイミング的には、丁度良いのかも知れない。
「進一さん……」
「……ああ。そうだな」
そんなやり取りだけで自分の意図が彼に伝わってくれたらしい。頷き、そして彼もまた博麗霊夢に向き直ると。
「……分かった」
そして彼は、ポツリポツリと話し出す。霊夢だけじゃない。幽々子や妖夢へも、視線を漂わせて。
「話すよ。分かる限りでの、今の俺の状態を」
*
「……ふぅん。成る程ねぇ」
進一が説明を終えた後の第一声は、鼻を鳴らした博麗霊夢のこんな一言だった。
「つまり進一さんは生粋のロリコンだったという事ね」
「いや何故そうなるっ」
博麗霊夢の突拍子もない一言を前にして、進一が透かさず抗議をする。あまりにも一方的な評価を突然下されて、流石の彼も納得が出来ないらしい。
けれども霊夢はそんな彼の抗議など物ともしない。「ふんっ」と、何やら苛立ちを滲ませた表情で鼻を鳴らすと、
「だってそうじゃない。何でいきなりこいしの名前が出てくるのよ。記憶喪失なのにそんな反応を示したって事は、生前のあなたはこいしに対して強烈な印象を抱いてたって事でしょ?」
「ま、まぁ、確かにそうなるのかも知れんが……」
「はっ! 妖夢の彼氏なのに、他の幼女と浮気するなんて良い度胸ねぇ……?」
「いやだからそこからどう解釈したらそんな結論に至るんだよっ」
「ロリコンは簡単には直らないって本当だったのね……! ちょっとこっちに来なさい進一さん! そんなあなたの腐った性根を私が直々に叩き直してあげる……! グーで殴った後パーで引っ叩いて、その後またグーで殴るから!」
「流石に理不尽過ぎやしないかッ!?」
今日の霊夢は中々の暴君だ。チョキが出てきてない辺り、まだ手加減しているのかも知れないが。
──そんな阿呆な事を考えている場合ではない。妖夢は慌てて割って入って、霊夢を落ち着かせようと試みる。
「お、落ち着いて霊夢……! いきなり暴力は良くないよ……!」
「放しなさい妖夢! 大丈夫よ、この人は殴られて悦ぶ特殊な趣味の持ち主だから……!」
「……それ否定したよな?」
どうどうと、妖夢は霊夢を必死で抑える。
中々に飛躍した解釈だ。妖夢の為を思って怒ってくれているのかも知れないが、それでも流石に一方的過ぎである。幾ら進一が亡霊とは言え、博麗霊夢にグーで殴られた後にパーで引っ叩かれ、その後またグーで殴られたら唯では済まないだろう。彼女は加減という物を知らないのである。
「何よ。あんたは何とも思わないワケ? 一歩間違えれば修羅場まっしぐらでしょ、これ」
「さ、流石に飛躍しすぎだよっ!? ほ、ほら、まだ情報の整理は終わってない訳だし……。ここで霊夢が暴れたら収拾がつかなくなっちゃうよ……!」
「……まぁ、それはそうかも知れないけど」
「で、でしょ? だから落ち着いて……。ね?」
「はぁ……。判ったわよ」
そこで霊夢は身を引いて、ようやく元居た座椅子まで戻ってくれる。そして嘆息交じりに腰を下ろすと、
「まぁ良いわ。進一さんが本当にロリコンなのかどうかは、話を聞けば嫌でも分かる訳だし」
「だから別にロリコンではないと……」
──先が思いやられる展開である。
閑話休題。
一先ず進一の状態は本人の口から直接説明して貰った。しかし進一本人の認識でも不明瞭な部分が多いらしく、与えられた情報はどれもどこか虫食いである。それでもそんな情報を懸命に繋ぎ合わせ、取り合えずはっきりとした部分だけストレートに述べてしまうと。
「結局、進一さんの記憶はまだはっきりと戻った訳じゃないという事ですか……?」
「……ああ。そうだな」
妖夢のそんな確認に対し、進一は頷いてそれに答える。
「今の俺に訪れた変化は、頭に浮かんだ“こいし”という名前と、そして今朝に見た“夢”に関する事だけだ。生憎、生前の記憶が完全に戻った訳ではないらしい……」
「“夢”って……。外の世界の公園? みたいな所で、こいしちゃんらしき子と出逢ったって言ってた、
尋ねたのは幽々子だ。小首を傾げつつも、彼女はそんな確認を進一へとぶつけている。
その話も今の進一の説明に含まれていた内容だ。彼はこうして目覚める直前、少し奇妙な夢を確かに見ていたという。夢であるが故にその内容はぼんやりとしか覚えてないらしいが、その中でも一つの断片が強烈なインパクトとして彼の中に残っていた。
「ああ、そうだ。……俺は多分、
「ちょっとタイム。それ、色々とおかしな点があると思うんだけど」
異議がある様子で、霊夢が割って入って来た。
「夢の話でしょ? それが現実に起きた出来事だって、どうして言い切れるのよ?」
「それは……すまん、完全に俺個人の一方的な感覚の問題なんだ。ただ……」
「……ただ?」
「……あの場面に対して強烈な“懐かしさ”を覚えた。それは疑いようのない事実だ。デジャヴとか、そんな曖昧な感覚なんかじゃない。もっと強烈で、鋭い感覚……」
どこか遠くを見るような瞳で、進一がそう説明をする。
適当な事を言っている訳ではない。はっきりとしないぼんやりとした感覚だけで、そんな言葉を並べている訳でも決してない。
彼の意思は、はっきりとしている。
それは単なる妄想や夢幻の類などではないのだと、そんな確信を彼は確かに抱いている。
そんな進一の気迫に、心が動かされたのだろうか。霊夢はそれ以上、進一の“感覚”に対して否定的な意見を述べる事はなかった。
「……仮に、それが実際に起きた事だったとして」
その代わりに彼女が口にするのは、また別の
「今の話だと、あなたは子供の頃に
「……ああ。そうだな」
「それだとあの子はフツーに博麗大結界を超えてる事になるんだけど。幾ら何でもガバガバ過ぎない? 博麗大結界は、そんなにヤワな結界じゃないはずだし……」
「……そうなのか?」
「そうよ。いい? “常識”と“非常識”、そして“現実”と“幻想”を明確に隔離するのが博麗大結果の役割なのよ? そんな“現実”に“幻想”がほいほい混入したり、逆に“非常識”に明確な“常識”が頻繁に関与してしまった場合、どうなると思う?」
──言わずもがな均衡が大きく崩れる事になるだろう。博麗大結界という境界が有耶無耶になってしまったが最後、最悪の場合この幻想郷という存在が消失してしまう結末に繋がりかねない。
それを避ける為の博麗大結界だ。外の世界の一般人や幻想郷の並みの妖怪が簡単に解析出来てしまう程、この結界は単純な構造をしていない。
「えっと、つまり霊夢はこう言いたいの? こいしちゃんの力じゃ、博麗大結界を超えられる訳がないって……」
「ええ。そういう事」
「でもちょっと待ってよ。こいしちゃんは、『無意識を操る程度の能力』を持ってるんだよ? 博麗大結界の効力は、意識のないモノには作用しない。だったら、こいしちゃんが『能力』を上手く応用すれば、結界の穴を突いて抜け出す事だって……」
「ま、確かにね。でもそれはあくまで理論上の話よ。確かにあの子の力を使えば、博麗大結界を途中まで
「……っ」
「言ったでしょ? 博麗大結界は、そんなにもヤワな結界じゃないって」
霊夢の言い分は分かる。
彼女は博麗の巫女だ。故に博麗大結界の管理にも綿密に関わっている。この場で博麗大結界に最も詳しい人物は間違いなく霊夢であるはずだし、その彼女が言うのなら博麗大結界の効力はそれこそ絶対的なのであろう。
しかし。それでも妖夢は、疑問を抱く。
だって。
「……でも霊夢。それなら私だって、前に言ったはずだよ」
何故なら妖夢は、この目でしっかりと見ているからだ。
「八十年後の京都……。私はあの“外の世界”で、こいしちゃんやお燐さん達と出逢ったんだよ」
「……っ。それは……」
「経緯は分からない。でもあの二人は、間違いなく博麗大結界を超えて外の世界にやってきている。つまり結界を超えるのは、絶対に不可能って訳じゃないはずだよね?」
霊夢の歯切れが悪くなる。歯に衣着せない様子が普段の霊夢にしては珍しい。思わずといった様子で妖夢から視線を逸らした彼女の表情からは、若干の動揺が見て取れた。
どうにも落ち着かない。そんな様子で、霊夢は息を飲み込むと。
「でも……。そんなのって……」
「……ねぇ、霊夢。今日の貴方、ちょっとらしくないんじゃない?」
口籠り気味な霊夢に向かって、そう言葉を投げかけたのは幽々子である。
ピクリと霊夢の方が震える。直後にチラリと幽々子を一瞥したようだが、けれどもすぐには何も言い返さない。息を呑み、目を逸らし、そして膝の上に乗せた拳をギュッと握りしめて。
少しの沈黙を経た末に、程なくして彼女はようやく口を開く。
「……何よ、らしくないって」
「何だか、ちょっぴり焦っているように見えたから」
口数が少なくなった霊夢とは対照的に、幽々子はすぐさま言葉を返した。
「私は紫ほど普段の霊夢を見ている訳じゃないから、貴方の本質を丸っきり理解出来ている訳じゃないわ。だけどそれでも、貴方が何かに焦っているって事くらいは分かる。そう、まるで不安に苛まれているみたいにね」
「…………」
「ねぇ、霊夢。貴方は一体、何を不安に思っているの?」
優しく、それこそ子供を安心させるかのような口調で、幽々子は霊夢に問いかける。私で良ければ話を聞くからと、そんな意思が込められた声色である。
──西行寺幽々子は意外と世話焼きだ。普段から幽霊達とも真摯に向き合っているだけあって、包容力だとか母性だとか、そういった気質が時に強く滲み出る事がある。今回だって、いつもとちょっぴり様子の違う霊夢の姿を前にして、口を挟まずにはいられなくなったのだろう。
そんな思いを向けられた霊夢が浮かべるのは、居心地が悪そうな表情である。そういった思いを向けられるのに慣れていないというか、免疫がないというか。兎にも角にも、彼女は少しくすぐったそうに息をつくと、
「……勘よ」
それでも意外とすんなりと、霊夢は“不安”の要因を説明した。
「ここ最近、妙に嫌な予感がする事があるのよ。胸がざわつくというか、何というか」
「嫌な予感? 具体的には、どんな予感なのかしら?」
「具体的、って聞かれると困るんだけど……。まぁ、そうね……」
あまり釈然としない雰囲気だ。霊夢自身、自分が感じる“嫌な予感”とやらに対し、はっきりとした心当たりを見つける事が出来ていないと見える。
それでも彼女は、何とか言葉を絞り出す。納得は出来てないのだとしても、それでも霊夢は強引に。
「妖夢の言葉が正しければ、確かにこいしやお燐達は博麗大結界を超えて外の世界へと足を踏み出している事になるわ。それが未来の出来事なのだとすれば、今から七、八十年後の結界は一体どうなっているの? 本質が変わったのか、それとも管理者の方針が変わったのか……。とにもかくにも、今の幻想郷とは有り様が大きく異なっている可能性がある。百二十年以上も続いたこの楽園の、法則が……」
「それって、つまり……」
「つまり強引に纏めると、こういう事よ」
幽々子の問いかけに対し、尚も釈然としない様子で霊夢は答えた。
「この先、幻想郷の本質を揺るがす程の何かが起きる。……そんな気がするの」
「……
「ええ。言ったでしょ、
「…………っ」
霊夢の口調は自嘲気味である。我ながらなんて馬鹿馬鹿しいのだろうと、そんな雰囲気を醸し出して彼女は肩を窄めている。
けれども妖夢は知っている。霊夢の勘は絶対だ。それは単なるおまじないだとか、そういった気休め等とは違う。博麗の巫女が代々受け継ぐ異能なのか、それとも霊夢元来の才能か。詳しい部分は分からないが、それは最早一つの『能力』と言ってしまっても差し支えない程だ。
軽視なんて出来ない。
彼女は不安に思っている。博麗大結界の本質が、変わってしまう事を。だからあんな風に、現状の結界の性質を頑なになって信じ切ろうとしてしまっていた。“変化”という可能性から、目を逸らして──。
霊夢がそこまで博麗大結界──延いては幻想郷の有り様を気にするのならば、妖夢達も警戒するに越した事はない。幻想郷という楽園を守りたいという気持ちは、妖夢達の中にだって確かに存在しているのだから。
(それに……)
そもそも、それ以前に。
「……笑わないよ。私は」
「えっ……?」
毅然とした面持ち。そんな態度で妖夢がそう告げると、霊夢からは怪訝そうなリアクションが返ってくる。自分ではおどけたつもりだったのに、こんな反応が返ってくるとは意外だったのだろうか。
それでも妖夢は、やっぱり軽い気持ちで受け止める事なんて出来ない。霊夢が不安感を抱いてしまっているのなら、妖夢は──。
「大丈夫、なんて気安く言い切る事は出来ないけど……。でも霊夢が一人で頑張る必要なんてないはずだよ。私だって、出来り限り協力するから……。だから一緒に、この『異変』を解決しよう?」
「う、うん……。まぁ、それはありがたんだけど……。どうしたのよ、いきなり……」
「……え? いきなりって?」
「い、いや、何か急に改まっちゃってさ……。別に、そこまで深刻に捉えなくても良いと言うか……。大袈裟、と言うか……」
「……大袈裟なんかじゃないよ」
迷わず妖夢はそう言い放つ。
そうだ。決して大袈裟などではない。この気持ちは、確かに妖夢の中に存在している。妖夢はただ、それを言葉として伝えているだけなのだから。
「私にとって、霊夢だって大切な友達の一人なんだよ。そんな友達が困っているのに、放っておく事なんかできない」
「と、友達って……」
「……ちょっと前。進一さんの事で色々あって、自暴自棄になっていた私を霊夢は助けようとしてくれた。だから今度は、私の番なんだよ。私だって、霊夢の力になりたいから……」
「…………っ」
そこまで口にすると、霊夢はバツが悪そうにプイッと視線を逸らしてしまった。一見すると、少し不貞腐れてしまっているようにも見える。
ひょっとして、余計なお節介だったのだろうか。あまりにも一方的過ぎる厚意は、必ずしも好意的に捉えられるとは限らない。あんたの力なんて借りなくなって、私なら一人でも十分だと。霊夢ならそう考えていてもおかしくはないかもしれない。
「あっ……え、えっと……。別に、霊夢の事を侮っている訳じゃなくて……」
慌ててフォローを入れようとするが、返ってきたのは小さな呟き。
「な、何よ……。調子、狂うじゃない……」
「……へ? 今、何て?」
「な、何でもないっ!」
「ふえっ……!?」
よく聞き取れなかったので聞き返すと、食い気味にそんな事を言われた。驚いた妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまう。
何なんだ。ひょっとして地雷でも踏み抜いてしまったのだろうか。妖夢の方も、一応気を付けていたつもりだったのだが──。
「ど、どうしたの霊夢……!? わ、私、何かまずい事言っちゃった……?」
「い、いや、別に、まずい事という訳じゃないけど……!」
「あらあら、珍しい事もあるものね~。まさか霊夢が、そんな顔をするなんて」
「そこっ! 余計な事を言う前に黙りなさい! 退治するわよ!?」
「た、退治って……! ほ、本当にどうしちゃったの霊夢……? 何を怒っているの……?」
「だぁー! 何であんたはいきなり鈍感な感じになるのよっ!? そういうのは進一さんの役割じゃなかったの!?」
「……よく分からんが、ナチュラルに蔑まれた気がするぞ」
中々どうして、理不尽な怒りをぶつけられたような気がする。霊夢は意外と喜怒哀楽の激しい一面もあるにはあるのだが、それにしてもこれほどまでだっただろうか。
「と、とにかく、この話題はもういいでしょ……! 余計な事くっちゃべってないで、さっさと話を戻すわよ……!」
「う、うん……。そうだね……」
まぁ、これ以上追求を続けると本当に収拾がつかなくなってしまうような気がする。ここは素直に霊夢の意思に従った方が良さそうだ。──何だか幽々子がさっきからニヤニヤしているのが気になるのだけれども。
「えっと、随分と遠回りしちゃったけど……。要するに一つ言える事は、現代と八十年後じゃ幻想郷の有り様が異なっている可能性があるって事。少なくとも、こいしやお燐がある程度楽に結界を超えられる程度には、ね」
「……俺の話、信じてくれるのか?」
「別に進一さんを疑ってた訳じゃないわ。ちょっと、個人的に納得出来なかっただけ。でもあなたの話を聞いた限りじゃ、子供の頃にこいしと出逢った事があるってのも単なる夢って訳じゃなさそうだしね」
気を取り直した様子の霊夢が、肩を窄めつつも進一へとそう告げる。
妖夢達とのやり取りを経て、ようやく彼女も吹っ切れたという事なのだろう。先程まで醸し出していた不安感は殆ど鳴りを潜め、今はある程度柔軟に物事を見極めようとしている。この様子なら、これ以上の心配は本当に不要そうだ。
そんな中、幽々子が首を傾げつつも進一へと問いかける。
「えーっと……。それで、進一さん。それ以外に何か思い出した事って、本当に何もないのかしら?」
「……ああ。やっぱり、それ以外に関しては何も思い出せないみたいだ……。これじゃあ、記憶喪失が治ったとは到底言えないな……」
「……そう」
「……すまない。結局大した手掛かりも、掴めなくて……」
「う、ううん! 進一さんが謝る事じゃないわ……!」
そんな二人のやり取りを横目に眺めつつも、妖夢は思案する。
(進一さんとこいしちゃんの関係、か……)
岡崎進一は古明地こいしと面識を持っている。それも一番最初に二人が出逢ったのは、進一が幼少の頃──。
そんな話は妖夢だって初耳である。少なくとも、生前の進一からそのような話を聞いた事など一度もない。こいしに対する彼の態度だって当初は余所余所しい印象だったし、彼女に対して何か特別な想いを抱いている様子だって欠片もなかった。
けれど、どうだろう。今の進一は夢という形で、幼い事にこいしと出逢ったという記憶を思い出している。この幻想郷でこいしを前にしたあの瞬間に、進一の記憶は激しく揺さぶられたのである。
妖夢の知っている進一との記憶の食い違い。果たしてこれが、一体何を意味するのか。
(単純に考えて、進一さんが幼い頃の記憶を忘れてたって推測が妥当だろうけど……)
岡崎進一は幼い頃、自身の持つ『能力』の所為で色々と苦労をしていたと聞く。それこそ、心にトラウマを抱えてしまうくらいに──。それ故に、こいしの事まで覚えていなかったと考えれば一応納得できる。
しかしそうなると、気になってくるのは進一ではなく
『お前はどうして俺の『能力』を知っていたんだ?』
あの日。八十年後の未来の世界で、進一とこいしの間で交わされたやり取りを思い出す。
『あれ? 前にも言わなかったっけ?』
『……企業秘密、だろ? でも俺が求めているのはそんなふざけた答えなんかじゃない。もっと具体的な手段だ』
『……ふぅ。やっぱりそうくるよね』
あの世界における古明地こいしは、何故だか進一の『能力』を既に認知している様子だった。その件について理由の追求をしてみると、彼女は露骨にその答えを濁そうとする。
なぜそんな行動を取っていたのかは分からないが、しかし少なくとも彼女の方は覚えていたのだろう。幼い進一との、出逢いの記憶を──。
「……まぁとにかく、アレよね」
そこまで考えた所で、霊夢のそんな一言により妖夢は現実に引き戻される。
「ここであれこれと推測してもこれ以上の進展は見込めなさそうだし、今は次なる行動を起こすべきだと思うのよね。具体的に言えば、進一さんとこいしをもう一度対面させてみる、とか……」
「……そうだよね」
霊夢の提案は尤もである。
進一はこいしと対面する事で記憶の一部を取り戻した。プリズムリバー楽団による音楽も多少なりとも影響を与えていたのかも知れないが、それでも強烈なトリガーはやはり彼女との出会いであろう。
それならば、もう一度こいしと対面すれば更なる記憶が蘇る可能性だってあるだろう。故にこの状況において、最も理にかなっていると思われる対応だ。
「それは俺も同意見だ。もう一度、あいつと会ってみたい……」
「進一さん……」
「妖夢。昨日、あの後こいしはどうなったんだ?」
進一の問いかけ。別にはぐらかす理由もないので、妖夢は素直に答える事にする。
「こいしちゃん、急に倒れた進一さんを見て、かなり動揺した様子でした……。ひょっとしたら、自分が何かをしてしまったんじゃないかって……」
「そう、か……」
「……ですので、こいしちゃんの事は水蜜さんにお任せしました。ルナサさんがメルランさん達に連絡して、まだ会場に残っていた所を連れてきてくれたみたいで……」
「水蜜って……あのセーラー服を着た子の事だよな? こいしの知り合いなのか?」
「はい。水蜜さんとこいしちゃんは、どちらも命蓮寺というお寺の修行僧なんです。と言っても、こいしちゃんは殆ど在家のような形となってるみたいですけど……」
あのままの状態のこいしを放っておく訳にはいかず、けれどだからと言って倒れた進一の事だって蔑ろに出来ない。そんな風に途方に暮れていた妖夢だったが、そこで起点を利かせてくれたのはルナサだ。この子の保護者か知り合いが会場に来ていた可能性はないのかと、そう訊かれて妖夢は水蜜の事を思い出した。
「ムラサか……。ま、あの子に任せておけば一先ず安心でしょうね。結構面倒見も良いみたいだし」
「そ、そうか……。なら良いんだが……」
「兎にも角にも、進一さんにもその意思があるなら話は決まったようなものよね」
ちらりと霊夢が視線を向けて同意を求めてくる。それに妖夢が小さく頷いて答えると、彼女は言葉を続けた。
「進一さんを連れて命蓮寺に行く。そこでもう一度こいしと対面するのよ」
やはり、それが一番手っ取り早いだろう。
無論こいしが命蓮寺に通う日を狙って訪ねる必要はあるが、その点は白蓮に事情を説明して聞けば教えてくれるはずだ。放浪癖のあるこいしとの偶然の遭遇を狙うより、そちらの方が確実だ。
「なら、決まりね~」
ぽんっと手を叩きつつも、幽々子が話を纏め上げた。
「次は命蓮寺に行って進一さんをこいしちゃんと会わせてみる。それで、今度こそ何か手掛かりが掴めると良いんだけれど……」
*
ルナサ・プリズムリバーは白玉楼の玄関口から外へと足を踏み出していた。
進一の無事を確認してから半ば一方的に踵を返し、妖夢や幽々子達とも会わずにこうして外に出てきてしまった。まるであの場から逃げ出すみたいに、ただ直向きに。それでもこの期に及んでちょっぴり気になってしまって、ルナサはそこで一度足を止めてしまった。振り返り、白玉楼の外装をぼんやりと眺める。
昨日、自分達の演奏会を聴きに来てくれていた半人半霊の少女とその恋人。彼──岡崎進一を初めて前にした時の“違和感”は、ルナサの心の中で静かに燻り続けていた。
それはほんの僅かな違和感。ひょっとしたら自分か、或いはメルランくらいにしか分からないような、そんな小さな小さな違和感。それを感じ取ったルナサでさえも、漠然とした感覚しか残らない程に。
そんな物がズルズルと気になってしまうなんて、我ながらちょっぴり馬鹿らしいとは思う。けれども、仕方がないじゃないか。一度気になり始めたら、確認せずにはいられない。はっきりとさせないと気が済まない。
だって──。
「……おや? 貴方は……」
不意に声をかけられて、ルナサはハッと我に返る。反射的に振り返ると、そこにいたのは一人の少女であった。
深碧色の髪。青を基調とした豪勢な衣服。そして手に持つ悔悟の棒。
彼女の事は知ってる。忘れるなんて、有り得ない。
「閻魔様……?」
四季映姫・ヤマザナドゥ。幻想郷を担当する二交代制の閻魔様。その片割れ。
なぜ彼女がこんな所に──とルナサは一瞬だけ思ったが、ここは冥界である。それも管理者である西行寺幽々子が住まう白玉楼。彼岸の裁判官である彼女が訪れても、状況としては不自然ではない。
「なぜ貴方がここに、と言いたい所ですが……。成る程、そういう事ですか」
「……何の事ですか?」
何やら一人で納得している映姫に向けて、ルナサはそう訊き返す。すると映姫は、嘆息しつつもそれに答えてくれた。
「……プリズムリバー楽団の演奏会。その会場で、進一が倒れたと聞きました。大方、貴方は彼をここまで運ぶのに手を貸してくれたのでしょう?」
「……知ってるんですか? あの亡霊のこと」
「ええ。それは勿論。彼は……まぁ、その、色々と問題がありますので」
「問題……」
この口振り。進一が倒れたという話をどこから聞きつけたのかは知れないが、映姫もまたそんな彼の様子を見に来たという事で間違いないだろう。
──裁判官たる彼女が、高が一介の亡霊の様子を見に来るとは思えない。となると、岡崎進一という亡霊はやはり
本当に、彼は一体何者なのだろう。ルナサが感じた違和感も加味すると、ますます気になって仕方がなくなるが。
(まぁ、でも……)
それを彼女に聞いた所で、満足のいく答えが得られるとは思えない。閻魔様も絡んでいるという事は、彼の抱える秘密はそれなりに重大なものという事なのだろう。そんな情報を、映姫がルナサに話してくれるとは思えない。
「……それじゃあ、私はこれで」
「もう帰るのですか?」
「はい。彼に関してはもう大丈夫だと思いますし……。それに、次のライブの準備もありますので」
適当な理由をつけて、ルナサは立ち去ってしまう事にする。
長居は無用だ。この閻魔様に関わると、下手をすればまた説教に巻き込まれる事もあるかも知れない。流石のルナサもそれは遠慮させて貰いたいのである。
ルナサは歩き出し、映姫とすれ違うような形で白玉楼を後にしようとする。妙な疑惑を抱かれてしまう前に、さっさと妹達のもとへと帰ってしまって──。
「……彼は」
──しかし。ルナサの想像とは裏腹に、映姫は。
「……進一は、
「えっ……?」
そんな言葉を、ルナサに投げかけてきた。
ルナサは思わず足を止める。息を呑み、目を見開き、けれども振り返る事はしない。頭の中で考える。映姫の言葉が、一体何を示しているのか。
「貴方は、それが気になっているのでしょう?」
「…………っ」
ルナサは何も喋らない。──否、何も喋れない。
結局、彼女には全てお見通しだという事か。幾らルナサが感情表現に乏しい性格をしているのだとしても、映姫の前では隠し事なんて出来やない。誤魔化しなんて、通用する訳がない。
進一は、
別に、何かを期待していた訳じゃない。何かを欲していた訳でもない。
ルナサは今の生活に満足している。これ以上の変化なんて、彼女は最早求めていない。それはきっと、妹達だって同じ事。このままの平穏が続くなら、それ以上なんて何もいらないのだ。
だからやっぱり、首を突っ込むべきではないのかも知れない。関りを持つべきではないのかも知れない。
幾ら
それでも、ルナサは──。
「……そうですか」
素っ気なくそれだけを言い残し、ルナサは今度こそ白玉楼から立ち去った。
感慨深げな視線を送る、映姫に見送られながら──。
「……まったく」
そんな映姫の呟きは、ルナサには届かない。
「貴方達姉妹にも、困ったものです」