桜花妖々録   作:秋風とも

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第82話「思い出」

 

『……泣いているの?』

 

 失意の底。絶望の果て。

 そんな黒く塗りつぶされた暗闇の中で、彼女の声が響き渡る。幼い印象ながらも、けれどもどこか影がある。理不尽にも苦難を押し付けられて、もがき苦しむ事を余儀なくされて。それでも暗闇を掻き分けて、ついにはこんな所まで辿り着いてしまったかのような。そんな印象さえも抱いてしまう、幼い少女の声。

 

『……どうして、泣いているの?』

 

 再び問い掛けられる言葉。けれどもそんな言葉に対して、首を横に振って答えてしまう。

 

『別に、泣いてないよ』

『嘘だよ。泣いてる』

『そんなこと……』

『君は、絶対に泣いているよ』

 

 そう言うと彼女は、静かに歩み寄ってくる。

 ()()()()()()()()()。彼女は、()()()()()()()()()

 

『…………』

『…………』

 

 元々右端のブランコに座っていた自分。そして真ん中のブランコを空け、左端のブランコに腰かけた彼女。

 気を遣われているのかも知れない。少し、嫌な事があって。自分の方から壁を作るみたいに、自然と拒絶感を振りまいてしまっていたから。きっとその子にもそれが伝わって、だからこうして少し距離を取ってくれたんだと思う。

 

『君は……』

 

 そしてポツリと、彼女が声をかけてくる。

 

『君は、どうして一人なの?』

『……ボクは、他の皆とは違うから』

『違うの?』

『うん……。だから、色々あって……』

『色々あったの?』

『……うん』

『そっか……』

 

 必要最低限の答え。それでも彼女は、あまり深くまで詮索はしてこない。無闇に踏み込もうとしない、絶妙な距離感。けれどもそれは、ただ単に彼女の優しさという訳だけではなさそうだ。

 あまり無遠慮に踏み込むと、傷つける事になってしまうかもしれない。追い込む事になってしまうかもしれない。それが、怖い。だから踏み込むのを躊躇ってしまうのかも知れない。

 

 彼女の表情を覗き込む。するとやっぱり、思った通りだ。

 どう接すれば良いのか。どこまで近づいても良いものか。彼女はそれを、図り切れずにいる。失敗が、怖い。何よりも怖い。そんな感情が、彼女の表情からひしひしと伝わってくる。

 

 ならばなぜ、彼女はこんな自分に話しかけてきたのだろう。

 彼女と自分は面識がない。会ったのはこれが初めてだ。なのにどうして、こうして寄り添おうなどと思ったのだろう。どうして気を遣おうなどと思ったのだろうか。

 ──判らない。

 だったら、コミュニケーションを取るしかない。

 

『……ねぇ』

『……え?』

『キミの方こそ、どうして一人なの?』

『…………っ』

『他に一緒に遊ぶ人、いないの?』

 

 家族以外の人とまともなコミュニケーションを取ったのは、本当に久しぶりだったかも知れない。

 だけれども。そうしなきゃならないんだって、そう思った。そうすべきなんだって、彼女を前にすると自然とそう思ってしまっていた。

 だから、行動に移した。

 

『私、は……』

 

 すると彼女は、答えてくれる。

 まるで悟りを開いてしまったかのような表情。けれども確かに、悲痛をその表情に滲ませて。

 

『えっと……。私も、その、色々あって……』

『……そうなんだ』

『うん……。私の所為で、周りの皆にも色々と迷惑をかけて……。私の一番大切な人さえも、傷つけて……。でも私は、ただ逃げる事しかできなくて……』

『…………っ』

『それで、気がついたらこんな所に迷い込んでたの。右も左も分からない。仲の良い友達だっていない。……だから今は、一人なの』

『……』

『そういう意味じゃ、何だかちょっぴり似ているのかもね。私達……』

 

 こちらに振り向き、そして彼女は苦笑いを浮かべる。それは苦し紛れの、作り笑い──。

 そんな彼女の表情を見て、何となく察した。──ああ、そうか。彼女もまた、どうしようもなく一人ぼっちなのだ、と。一人ぼっちにならざるを得ない事情を、彼女もまた抱えているのだと。

 それ故の共感。それを何となく感じ取って、だから自分はコミュニケーションを図ろうとしたのだ。だから自分は、差し伸べられた彼女の手を握り返そうとしたのだろう。

 

 ──多分、彼女も同じ想いだ。

 ()()()()()()()()一人ぼっち。孤立する事が最適解だと思い込んでいる、それこそ()()()()()()()()子供。そんな存在に共感した。故に、手を差し伸べようとした。

 

 互いに互いの傷を舐め合おうとしていたのかも知れない。そうする事で、自分と言う存在に価値を見出そうとしていたのかも知れない。

 そんな事をした所で、何か状況が変わる訳でもない。結局はその場しのぎ程度にしかならない。そんなの、ちょっと考えれば分かる事なのに。

 だけれども、そう、何も知らない子供なのだ。今はそれ以外の答えなんて、持ち合わせている訳がない。どうすれば正解なのかなんて、そんなのは分かる訳がない。だからこのまま、彼女と傷の舐め合いを続ける事しか出来ないのだ。

 

 ──でも。

 だけれども。

 

『……なあ』

 

 声が、響く。

 

()()()、そんなところで何してんだ?』

 

 ──ああ。そうだ。そうだったのだ。

 あの日。あの時。あの場所で。

 

 ボク達は。

 ()()()()()は、出逢ったんだ──。

 

 

 *

 

 

「…………ッ!」

 

 岡崎進一は弾かれるように目を覚ました。

 殆ど反射的に上体を持ち上げ、進一は被っていた掛け布団を払いのける。バクバクと五月蠅いくらいに心臓が高鳴って、まるで全速力で走った後みたいに激しく息を切らしてしまって。けれども目覚めたばかりのちょっぴりぼんやりとした頭では、この状況をすぐさま理解する事が出来なかった。

 進一は、殆ど無意識の内に自らの頭を利き手で押さえる。

 

(っ、今のは……)

 

 ──何だ?

 夢、である事くらいは分かる。けれどもただの夢ではない。夢にしては妙にリアリティで、そしてどこか懐かしい。深層心理のその先に確かに眠っていたはずなのに、今まで目を向ける事さえも出来なかった。()()は確かに自分の中に存在していたはずなのに、今まで欠片も気に留める事すら出来なかった。

 そんな、ともすればあまりにも頓珍漢で、そしてあまりにも漠然とした感覚。

 これは。

 記憶、なのだろうか。

 

「────っ」

 

 上手く思考が働かないままで、進一は周囲を見渡す。

 見覚えのある部屋。ここは、白玉楼の一室──普段から進一が寝起きをしている部屋である。そこまで認識した所で、進一はようやく今の状況を()()()()事が出来た。

 

「そうだ、俺は……」

 

 それはつい昨日の事。妖夢とのデートの帰り道。進一は突然激しい頭痛に見舞われて、そして成す術なく意識を手放した。憂慮に満ちた妖夢の悲痛な呼び声にすら答える事が出来ず、進一は倒れ込んでしまったのだ。

 そして。その後は、確か──。

 

(妖夢の手も借りて、何とか白玉楼まで戻って来れたんだよな……)

 

 意識を手放したと言っても、あくまで気を失いかけたというだけだ。かなり朦朧としていたとはいえ、完全に昏倒してしまった訳ではない。

 ギリギリの所で何とか意識を持ち直して、フラフラとした足取りで白玉楼まで帰ってきて。幽々子にも酷く心配をかけてしまった挙句、今に至るという訳だ。

 

 当然ながら食事もまともに喉を通らず、早々に床に就く事になってしまった。頭痛が激しかったという事もそうだけれど、何よりも頭の中が酷く混乱してしまって。とてもじゃないが、それ以外の事に気を回す余裕なんてなかったのだ。

 妖夢にも、幽々子にも、心配をかけてしまっただろう。大した事はないと言葉では強がってみせたものの、表面上も平静を保てていたかのかと問われると微妙な所だ。

 だとすればいつまでもこんな所で寝てはいられない。ようやく幾分か落ち着いてきたのだ。二人にも、話さなければ。

 

「よし……。大丈夫、大丈夫だ……」

 

 自分にも言い聞かせるように呟いて、進一は立ち上がる。今は何時頃なのだろう。日の高さから察するに、少なくとも早朝という訳ではなさそうだ。ひょっとしたら既に昼を過ぎてしまっているのかも知れない。だとしたらあまりにも大寝坊である。

 軽く身体を伸ばした後に、進一は部屋の襖を開け放った。そしてフラフラとした足取りで、そのまま部屋の外の廊下へと出る。

 

「……あっ。起きてる」

「え?」

 

 直後に声をかけられて、進一は思わず足を止めてしまった。

 あまり聞き馴染みのない声である。弾かれるように振り返ると、そこにいたのはやはりあまり馴染みのない一人の少女。

 

「…………っ」

「……何?」

 

 ──いや、待て。そうだ、思い出した。

 一瞬だけ呆けてしまった所為で、彼女からは怪訝そうな表情を向けられている。けれどもぼんやりとした思考でも記憶の中を必死に探れば、彼女という存在をしっかりと認識する事ができた。

 最初に会ったのはつい昨日だ。金色の髪に、黒い衣服。そしてクールでちょっぴり暗い雰囲気の少女。

 

「えっと……。ルナサ、だったっけ」

「……そう。正解」

「……いや、なぜお前がここにいる?」

「何、その反応……。随分なご挨拶ね」

 

 嘆息交じりにそんな事を言われた。

 進一の反応は尤もだ。この少女──ルナサ・プリズムリバーは確かに騒霊の少女だが、けれども白玉楼の住民という訳ではない。そもそも騒霊は厳密に言えば幽霊や亡霊とは根本的に別の種族に分類されるらしく、冥界にいるというこの状況だって決して自然とは言い切れないのである。

 そういう意味でも彼女の登場はあまりにも意外だ。困惑するのも無理はない。

 

「いや、だって……お前な……」

「何でそんなにも納得できないようなリアクションなの……。と言うか、あなたを白玉楼(ここ)まで連れてくるのに私だって手を貸したでしょ」

「あー……。えっと、そう、だったか……?」

「……忘れたの?」

「い、いや、すまん……! わ、忘れたというか、その、そこまで気が回らなかったというか……」

「はぁ……。まぁ、いいけど」

 

 そうだ、そうだった。そういえば、確かに彼女も手を貸してくれたのだった。

 昨日、あの場には確かにルナサも居合わせていた。目の前で人が倒れたのに放っておくなんて目覚めが悪い、と口にしつつも彼女が肩を貸してくれた事を進一は今更ながら思い出す。

 つまりルナサは進一にとって恩人である。幾ら意識が朦朧としていたと言えども、そんな彼女の厚意を忘れてしまうなんて。流石に薄情が過ぎるのではないだろうか。

 

「……本当にすまなかった。その節は、お前にも迷惑をかけたな……」

「だから、別にもう謝らなくてもいいって。……それより、あなたの方こそ起きても大丈夫なの? 具合は?」

「ああ。お陰様で、普通に立ち上がれるくらいには回復したぞ」

「……そう」

「助けてくれて、ありがとな」

「…………」

 

 相も変わらず感情の起伏が乏しい様子のルナサだが、それでも本気で進一の事を気にかけてくれている様子が見て取れる。確かに彼女はクールで暗いのかも知れないが、それ以上に優しい性格の少女なのだろう。こうしてちょっと話しているだけでも、それはひしひしと伝わってくる。

 

「……そう言えば、お前の方こそ大丈夫なのか?」

「……何が?」

「妹達の事とか、その他諸々だ。こうして白玉楼まで来ちまって、心配をかけてるんじゃないか? それに、楽団の活動だって……」

「そんな事、あなたが気にする必要なんてない。一度帰って、妹達には事情を連絡済みだし……。それに、楽団の活動だってそこまで切羽詰まってる訳じゃないしね」

「……そうなのか?」

「そう。……それに」

 

 そこでルナサが、一歩こちらに近づいてくる。

 対格差故にルナサの方が進一をやや見上げるような体勢となる。そんな彼女はこちらの何かを窺うかのように、ジッと進一の顔を覗き込んできた。無言かつ無表情。つられてこちらも言葉を飲み込みそうになってしまう。

 覚えのあるシチュエーション。今のルナサから向けられる瞳は、つい昨日にも彼女に向けられたそれと同質のものだ。無表情で感情表現に乏しいのだけれども、必ず何らかの意図があるかのような。そんな印象の表情。

 

 ──けれども今日のルナサは、ただ一方的に無言で視線を向けるだけに留まらなかった。

 

「それに……」

 

 ポツリ、と。

 

「……やっぱり、少し気になるしね」

「気になる?」

「うん。気になるのよ。……あなたの事」

「……えっ?」

 

 意味深な言葉。進一は思わず息を呑む。

 しかしそれは、例えば意中の相手が気になるだとか、そういったニュアンスと大きくはかけ離れている。彼女の意図は、更に別。彼女が()()()()()()()のは、岡崎進一という青年の人間性ではない。

 もっと別の、性質だ。

 

「……あなたって、()()()()()じゃないんでしょ?」

「なに……?」

 

 ──まるで、刃でも首筋に突き付けられたかのような。そんな心地だった。

 

「あなたが亡霊だって事くらい、一目見れば分かった。でも、あの時。昨日、あなたを初めて認識したあの瞬間、私はあなたに対して小さな違和感を覚えたの」

「違和感、だと……?」

「うん、違和感。……あなたは確かに亡霊そのもの。だけど、違う。何かが、違う。根本的に、あなたは幽霊や亡霊の定義から微妙にずれてしまっている……ような、気がする」

「…………っ」

「ま、だいぶ曖昧で漠然とした感覚だったけど」

 

 ──何だ。一体何なのだ、この少女は。

 ルナサ・プリズムリバー。騒霊の三姉妹。その長女。これまで進一は彼女の事を単なる楽団のリーダーくらいの認識でしかいなかったのだが、今やそんな印象など瓦解しつつある。只者ではない何者かを相手にしているかのような、覚えるのはそんな緊張感ばかりである。

 ただの楽団のリーダー等ではない。そんじょそこら妖怪や幽霊等とも違う。

 

(こいつ……)

 

 一体、何を知っている? 果たして進一の何に気付いたというのだろうか。別に疚しい事など隠したつもりはないのに、進一は思わず身構えてしまう。

 そんな彼の様子に気付いたのか、ルナサは軽く嘆息しつつも肩の力を抜いていた。

 

「別に警戒しなくていい。偶々私が、()()()()()に関してちょっぴり敏感だったってだけだから。何もあなたに妙な疑いをかけてる訳でもないし……」

「……っ。そう、なのか……?」

「うん。それに、あなたの事情に関しては、昨日の内にあの庭師やこの屋敷の主にほんの少しだけ聞いた。……記憶喪失なんでしょ、あなた」

「あ、ああ……」

「つまり自分がどういった存在なのかも上手く理解出来ていない。……その認識で合ってる?」

「……ああ。その認識で構わない」

 

 頷いて答えると、ルナサは肩を窄めた。

 

「だったらあなたにあれこれと尋ねても非建設的だろうしね。そんな無茶ぶりをするつもりなんてない」

「…………」

 

 ──この少女。一体、何が目的なのだろう。

 ルナサの言葉に不自然な点は見受けられなかった。進一を疑っている訳ではないという言葉も、あれこれと尋ねるような無茶ぶりをするつもりなんてないという言葉も。嘘や誤魔化しなんて、微塵も含まれていなかったように思える。

 しかし、だとすればなぜ、彼女は進一に近づいてきたのだろうか。実は進一の事が心配なだけだった──なんて、今更そんな事を言い出す訳でもあるまい。それなら態々あんな意味深な物言いなどしないだろう。

 

 ──判らない。

 考えていても埒が明かない。こんな調子じゃ、徒に懐疑心が膨らむばかりである。

 

「……妖夢や幽々子さんから、俺の事情を聞いたって言ったな」

「……うん」

「どこまで聞いたんだ……?」

「どこまでって……。あなたが記憶喪失だって事くらい? それ以上の話は聞いていない。……別に、あなたの知らない所で変な詮索なんてしてないわ」

「……そうか」

 

 口振りから察するに、どうやらルナサは進一のタイムトラベルに関しては認識していない様子。流石にそこまで気付いてしまった訳ではなさそうだ。

 

「そういえば……。記憶、戻ったんじゃなかったの?」

「え?」

「昨日……。倒れる直前、言ってたじゃない。()()()に向かって、はっきりと」

「……っ」

 

 ()()()

 誰を示しているかなんて、そんな事は明白だ。

 

「こいし、か……」

 

 昨日。無名の丘の林道で、進一達の様子を陰から覗いていた彼女。──いや。厳密に言えば、彼女は人里にいる時点からずっと進一達の後をつけてきていた。

 魔理沙や早苗だけじゃない。あの少女もまた、妖夢の事が気がかりで。魔理沙達とはまた違った方法で、進一達についてきていたのである。そんな彼女を、進一は()()見つける事が出来た。

 

 そう。あれは、彼女という存在をしっかりと認識した直後の事だった。

 黒く塗りつぶされたはずの記憶が、激しくざわつき始めたのは。

 

「どういった経緯があるのかは知らないけど、あなたはあの子と以前にも会った事があるんじゃないの? 昨日の様子から察するに、あなたはそんな記憶を思い出したかのように見えたんだけど」

「それは……」

 

 進一は口籠る。

 確かに。彼女を見て、頭の中が激しくざわついたのは事実だ。そしてざわついた記憶の中から、“こいし”という名前を引っ張り出した事に関しても。

 しかし、だ。

 

「判らない……」

「え?」

()()を、記憶が戻ったと判断してしまっても良いのか……。確かに俺は、あいつの事を“こいし”と呼んだ。だがそれは、あくまで“何となくそう思った”程度の認識に過ぎないんだ。はっきりと、失った記憶が戻って来た訳じゃない。だが……」

 

 だが、そうだ。

 進一は夢を見ていた。それはあまりにも現実味が強くて、あまりにも印象深くて。高が夢じゃないかと、そんな風に笑い飛ばす事なんて出来そうにない。あれは、そういった種類の夢だ。ちょっと思い出そうとするだけで、進一の心は再び静かに掻きむしられる。

 

 夢の中には幼い自分がいた。どこか公園か何かの、三つ並んだブランコの右端に進一は座っていたのだ。おおよそ子供が抱くには重すぎる感情を、その表情に滲ませて。彼は独りぼっちで、ただブランコに座っているだけだった。

 そんな時に現れたのが()()だった。

 彼女もまた、進一と同じように暗い表情を浮かべていて。けれどそれでも、進一の事を気遣うような素振りを見せていて。不器用ながらも、彼女は進一に寄り添おうとしていた。──底の知れない寂しさを、少しでも紛らわそうと。そんな想いが、彼女からは伝わって来たのだ。

 

(そうだ……。あいつが……)

 

 あの少女こそが、こいしだった。

 あれはどこだ? いつの出来事だ? どうして幼い自分とあの少女が一緒にいる? どういった経緯で、あんな場面に繋がるのだと言うのだろう。そもそも自分は、一体どこから“こいし”という名前を引っ張り出してきたのだろうか。

 ──それが、判らない。

 肝心な部分は、やっぱり何も思い出せていない。

 

「……別に、無理して説明なんてしなくても良い。その様子だと、自分でもまだ整理できてないんでしょ? 一度落ち着いて、まずはしっかりと自分の状態を把握する事ね」

「あ、ああ……。すまないな……」

「……だから、別に謝らなくても良いって」

 

 ルナサにそう言われ、進一は一度思考を止める。

 ここで幾ら考え込んでもきっと泥沼だ。彼女の言う通り、今は一度落ち着いてしっかりと自分の状態を把握すべきだろう。

 こいしと出逢って、激しい頭痛の所為で倒れて、それから奇妙な夢を見て。果たして自分は、本当に記憶の一部を取り戻せたのか。タイムトラベルの手掛かりを、多少なりとも掴む事が出来たのだろうか。──その点も含めて、きっちりと整理をしなければなるまい。

 

「……それじゃ、私はもう行くから。多分、また来ることにはなると思うけど」

「帰るのか?」

「うん。一先ずあなたの状態は把握出来たし、今日はお暇させて貰うわ」

「……俺の状態って」

 

 そんな物を把握して、一体どうしようと言うのだろう。

 

「……結局、お前は何をしに来たんだ?」

「何って……。あなたの様子を見に来ただけなんだけど」

「なぜだ?」

「いや、なぜって……。目の前であんな風に倒れられたら、そりゃあ気にもなるでしょ……」

「まぁ、だろうな……。でもそれだけが理由って訳じゃないはずだ。違うか?」

「…………っ」

 

 少し踏み込んで言及すると、ルナサは口籠ってしまう。相変わらずの無表情。けれども微かにバツの悪さを滲ませて、彼女はプイッと視線を逸らしてしまった。

 踵を返して背を向ける。それから彼女は淡々と、進一へと言葉を投げかける。

 

「……これ以上の詮索は悪趣味よ。まぁ、私も人の事を言えたものじゃないけど……」

「……確かに、趣味は悪いのかも知れないな」

「うん。それに……。あなたは早く彼女の所に行ってあげるべきなんじゃないの? すっごく心配してたと思うんだけど」

「……そうだな」

 

 彼女。言わずもがな、妖夢の事だろう。

 ルナサの言う事は尤もだ。進一はこんな所で立ち話を続けている場合ではない。目を覚ましたのなら、今すぐにでも妖夢の所へ行って彼女を安心させてあげるべきだろう。いつまでも余計な心配をかけたままなんて、そんな事はあってはならない。それでは恋人失格だ。

 

 だから納得は出来る。ルナサの主張は何も間違ってはいないのだと、すんなりと受け入れる事だって出来る。

 けれども結局、誤魔化しだ。

 彼女は何かを、隠している──。

 

(だが……)

 

 それでも。

 

「お前の言う通りだ、ルナサ。俺は一刻も早く妖夢に会いに行きたい。だからこれ以上、お前とのんびりお喋りを続ける余裕はなさそうだ」

「……そう」

「ああ。だからこの話はお終いだ。これ以上、俺も無理に詮索なんてしない」

「…………」

 

 軽く相槌を打つだけで、ルナサは何も喋らない。言葉通り、進一はそんな彼女からこれ以上何かを聞き出すつもりは既になかった。

 確かに、彼女が何を考えているのかは気になる。けれどだからと言って、嫌がる本人も意に介さずに無理矢理詮索するのも違う気がする。ルナサの言う通り、そんなのはそれこそ悪趣味だ。進一の柄じゃない。

 

 ──そして、進一もまた踵を返す。

 

「それじゃ、俺も行くよ。色々と迷惑をかけて、悪かったな」

「……」

「……またな」

 

 やっぱりルナサは何も答えない。けれども今は、それでも良い。ひらひらと手を振りながらも、進一の方から立ち去る事にした。

 ──多少強引かも知れないが、これで良かったはずだ。確かにルナサは何かを隠しているのかも知れないが、少なくとも彼女は悪人ではない。それはこれまでの彼女の行動や態度から察するに確実である。

 それならば、隠している事に何か事情があるはずだ。進一には話す事ができないような、そんな事情が──。

 

 だったら進一は、やはり詮索なんてしない。嫌がる相手から無理矢理情報を聞き出そうとするなんて。

 好きじゃないと、そう思った。

 

「……っ。だから、」

 

 そんな中。踵を返して立ち去ろうとする進一の背中に、声がかけられる。

 

「謝らなくても良いって、言ってるのに……」

 

 そんなルナサの呟きを苦笑で受け止めつつも、進一は妖夢のもとへと向けて足を進めるのだった。

 

 

 *

 

 

 白玉楼の厨房は、食欲をそそる香ばしい香りに満ちていた。

 時間帯はもうすぐ昼。ちょうど昼食を作っている最中である。ぐつぐつと鍋で何かを煮込む音と、包丁で食材をカットする音が響いている。黙々と昼食の準備を進めるのは、半人半霊の小柄な少女。健啖家な主である西行寺幽々子を満足させるには、生半可なボリュームではあまりにも不十分だ。だからこうして、集中して料理を進めなければならない。これも彼女の、立派な仕事の一つなのだ。

 

 ──そう。仕事だ。それは果たさなければならない、最低限の責務。それ故に、こうして集中力を高めて黙々と作業を進めている。

 本当は、彼の傍にいたい。でも駄目だ。彼の事は勿論大切だけれども、しかし彼女にとって主の事も同じくらいに大切なのである。どちらか一方を優先して、どちらか一方を蔑ろにするなんて出来ない。そんな事、それこそ彼だって望んではいないはずだ。だから今は、やるべき事をしっかりと熟す事が最優先。

 

(……でも)

 

 それでもやっぱり気になってしまうのは、恋人として仕方がない心理なのだろう。こればかりはどうしようもない。

 

(進一さん……)

 

 彼女──魂魄妖夢の手が止まる。

 昨日。演奏会の帰り道、進一は突然倒れた。激しい頭痛に見舞われた様子で、彼は妖夢の目の前で崩れ落ちたのだ。

 なぜあんな事になってしまったのか。その原因は──。

 

『お前、は……』

 

 そうだ。彼はあの時、()()()に向かって確かに口にしていた。

 

『こいし、なのか……?』

 

 そう。

 こいし、と。

 

「…………っ」

 

 あれからルナサの手も借りて意識が朦朧としていた進一を何とか白玉楼まで連れて帰る事は出来たのだけれど、当の進一は床に就いた切りこの時間まで起きてきていない。

 彼は酷く疲労しているように見えた。食事も殆ど喉を通らない様子で、すぐに自室に戻ってしまって。それこそ気を失うみたいに、すぐさま眠りに落ちてしまったのである。

 

 ──心配にならない訳がない。

 大した事はないのだと、彼はそんな事を頻りに口にしていたのだけれども。あんな様子で大した事ないなどと言われても、説得力の欠片もない。そんな様子を目の当たりにして妖夢の不安は余計に煽られ、そして今も尚この胸中を蝕んでいる。不安で、不安で、仕方がない。

 

(こんな時、どうすれば……)

 

 果たして自分に、何が出来るのだろう。

 けれども幾ら考えた所で、納得のいく答えはまるで見つからない。今の自分に出来る精一杯の事なんて、進一を信じて待つ事くらいだ。何も出来ないこの状況が、本当に歯痒くて仕方がない。

 

 でも。

 やっぱり、信じて待つしかないじゃないか。

 

 何も出来ないのなら、せめて祈りたい。進一が、一刻も早く目を覚ましますように。一秒でも早く、普段通りの彼を見せてくれますように。そんな祈りを胸中に込めて、妖夢はただ直向きに待ち続ける。

 待って、待って、待ち続けて。それでも決して諦めなければ、きっと──。

 

「……何だか、良い匂いがするな」

「……っ!」

 

 あまりにも不意だった。

 気を取り直して、昼食作りに再び集中しようとして。そして炒め物を作り始めた直後の事だ。厨房に、不意に響いたそんな呟き。妖夢の耳に届くのは、どこか安心できる青年の声だ。弾かれるように振り返ると、丁度彼が厨房の中へと足を踏み入れている所で。

 

「朝食……って、時間でもないか。昼食か? 相変わらず凄い量を作ってるな……」

「……っ、え……?」

 

 瞬時に状況を飲み込めない。軽く混乱してしまって、何か言葉を発する事すらできなくて。その瞬間だけは頭の中が真っ白になりかけるが、けれどもすんでの所で妖夢は何とか意識を現実に繋ぎ留める。

 目の前にいる青年。彼の姿を認識すると、モノトーンカラーだった妖夢の世界にジワリと色が広がり始めた。

 

「あっ……」

 

 ああ、そうだ。聞き間違える訳なんてない。見間違える訳なんて決してない。今の妖夢が彼の事を誤認するなんて、そんな事はあり得ない。

 

「進、一さん……?」

 

 そう。

 岡崎進一。

 彼が、目の前にいる。

 

「進一さん……!」

 

 彼の名前を思わずもう一度口にする。居ても立っても居られなくなって、昼食作りの手を止めた妖夢は気が付くと進一へと向かって駆け出していた。

 無我夢中だった。自分でも無意識の内に、進一へと駆け寄っていて。あまりにも慌てるものだから、足が縺れて前のめりに転びそうになってしまった。思わず「わわっ……!」と声を上げるが、直後にぽすんっと身体を支えられる。

 

「おっと。大丈夫か? 転ぶと危ないし、あまり急に走らない方がいいぞ」

「……っ!?」

 

 彼の声が耳に入って、そこでようやく進一に抱き留められるような形で身体を支えられている事に気が付いた。

 途端に高まる羞恥心。ぼふっと頬を赤らめて、妖夢は慌てて身を引く。

 

「ご、ごめんなさい……!」

「……謝らなくても良い。妖夢が無事ならそれで充分だ」

 

 進一の声が、妖夢の中へと響く。羞恥心を払拭しつつもおずおずと顔を上げると、そこにはいつも通りの彼の姿があった。

 ついさっきまで眠りに落ちていたはずなのに、苦し気な様子なんて表面上では既に消え去っていた。自分の方が大変だったはずなのに、今は転びそうになった妖夢の身を優先して案じてくれている。いつも通りの優し気な表情。いつも通りの温かい気持ち。

 

 ──進一だ。

 ともすれば呆気ない程に普段通りな彼が、そこにいた。

 

「進一さん……」

「ああ。何だ?」

「……もう、起きても大丈夫なんですか……?」

「そうだな。ぐっすり寝たし、今はすっかり万全だぞ」

 

 ジッと進一の顔を見る。

 嘘や強がりを言っているような様子はない。少なくとも、昨日の「大した事ない」と今の彼の言葉は、雰囲気がまるで違う事が分かる。時間帯的には朝寝坊も良い所だが、けれども一晩ぐっすりと眠った進一は文字通り万全だった。

 それは彼の表情からも、しっかりと伝わってくるから。

 

「良かった……」

 

 震える声で、妖夢は思わずそう零す。

 

「本当に、良かった、です……!」

「お、おい、妖夢……?」

 

 嗚咽混じりの声。ホッとした途端、気づかぬ内に頬から涙が零れ落ちていた。

 頬を拭って、自分でも少し驚いた。けれど一度零れ始めてしまったら、後はもう止まらない。まるで堰を切ったかのように、ポロポロと涙が溢れてしまう。拭っても、拭っても、切りがない。

 そんな彼女の様子を見て、進一がわたわたと慌て始める。

 

「ちょっ、な、泣くなって……! ほら、俺なら大丈夫だから……。な?」

「うっ、うう……。わ、分かってます、違うんです……。安心して、気が抜けたら、勝手に……」

 

 自分でもまるで抑えが利かない。こうして進一が目を覚ましてくれて嬉しいはずなのに、けれども涙は勝手に溢れてくる。

 

「あ、あれ……? お、おかしいな……。ぜ、全然止まんない……」

 

 びっくりして腰が抜けた時と似たような原理なのだろうか。兎にも角にも、流石の妖夢もこれには参った。こんなみっともない姿なんて、いつまでも進一の前で見せる訳にはいかないのに。

 

「妖夢……」

 

 そんな妖夢を見かねたのか、進一が優しく彼女の名前を口にする。けれどそれでも、彼女の頬には涙の雫が零れ落ち続ける。

 ──けれども、その直後の事だった。

 涙を零してばかりだった妖夢の身体が、ふわりと、優し気な温もりに包まれたのは。

 

「えっ……?」

 

 覚えのある感覚。心の底から安心できるような、そんな優しい温もりだ。妖夢の小柄な身体は、そんな温もりに支えられている。

 そこでようやく、気が付いた。

 抱きしめられているのだ。他でもない、進一に──。

 

「……心配かけて、すまない。本当に、悪かった……」

「進、一さん……?」

「でも、本当にもう大丈夫なんだ。俺はちゃんと、ここにいる」

「……っ」

 

 進一の声が響く。妖夢の心へと、深く、深く。

 先ほど不可抗力で抱き留められてしまった時は、慌てて身を引いてしまったのだけれども。けれど今は違う。進一の優しさに、温もりに、もう少しだけ浸りたい。甘えたいと思ってしまって。

 そして妖夢もまた、自然と進一の背中に手を回す。そっと、進一の事を抱きしめ返した。

 

「あの、進一さん……」

「何だ?」

「もう少しだけ、このままで居てもいいですか……?」

「……ああ」

 

 せめて、この涙が落ち着くまでの少しの間だけで良い。このまま彼の傍にいたい。このまま彼を感じていたい。進一の無事が知れて、安心して、そしてこうして抱きしめられたからだろうか。自分らしくないくらいに、純粋な我儘が胸の奥から溢れてしまって。

 

(でも……)

 

 けれども、良いじゃないか。今くらいは、ちょっと我儘を言っても許される。この瞬間くらいは、ちょっと自分の気持ちを優先しても誰にも文句は言われないはずだ。

 だから。

 だから本当に、ほんの少しだけでも良い。

 

 こうして進一と、このままで──。

 

 

 *

 

 

 そして昼食が一品駄目になった。

 

「……」

「……」

「……こいつは、あれだな」

「……ええ。あれ、ですね……」

 

 進一と揃ってその惨状を目の当たりにする。火をつけっ放しにして放置した所為で、お肉を主とした炒め物が一品、真っ黒焦げである。全く食べられないという訳でもなさそうだが、それでも焦げてしまった部分の大半が生ごみとして処理される事になるだろう。中々どうして、料理での久しぶりの大失敗である。

 

 いや、まぁ、何と言うか。

 進一に抱きしめられて、そして「もう少しこのままで居たい」と妖夢が言って。そのタイミングでは完全に、妖夢の頭から昼食作りの事が抜け落ちてしまっていた。──焦げ臭い香りが厨房に充満し始めて、やっとこさ気付いたくらいだ。

 そして慌てて火を消したのだが、それでも結果はご覧の惨状。どこかに引火して火事になるという最悪の事態だけは逃れる事は出来たが、それでも大失敗である事に変わりはない。一歩間違えれば、それこそもっと大変な大惨事になっていたかも知れないじゃないか。

 

 ──幾ら何でも気を抜き過ぎだ。猛省である。

 

「す、すまん……。完全に、俺が料理の邪魔しちまったよな……」

「い、いえ、そんな……。ボーっとしちゃってたのは、私の不注意でしたし……」

 

 失敗した料理を片付けつつも、妖夢は苦笑いを浮かべて進一にそう答える。

 そもそも料理を作っていたのは妖夢なのだ。であるのなら、最後まできちんと気を抜かずに作り切るべきだっただろう。進一の優しさに思わず甘えてしまった自分が悪い。

 そう思い、一人で片付けを進めていたのだけれども。

 

「……昼食作り、まだ途中だったんだろ?」

「え……?」

「手伝うよ」

 

 そう口にしつつも、進一が妖夢の側へと歩み寄って来た。

 妖夢は思わずたじろぐような反応を見せてしまう。

 

「あ、あのっ! え、えっと……」

「……何だ? やっぱり俺じゃ足手纏いか? そりゃあ、妖夢に比べりゃ俺の料理の腕なんて足元にも及ばないかも知れんが……」

「そ、そうじゃなくて……! 進一さん、さっきまで意識を失ってたんですよ……? それなのに、手伝わせるなんて……」

「……何だ、そんな事か」

 

 まるで何でもないかのように、進一は表情を綻ばせる。妖夢の心配とは裏腹に、彼はいつも通りの余裕のある笑みを浮かべていた。

 

「別に気にする必要はない。料理を一品駄目にしちまった責任は、俺にもあるしな」

「そ、そんな……」

「それに、幾ら慣れてるとは言っても、幽々子さんの食事を一人で作るのも大変だろ? 二人で作れば、それだけ早く終わる」

「そ、そう、かも知れませんけど……」

 

 しかし妖夢は中々引き下がらない。理由は今しがた進一に言った通りである。

 彼はつい先ほどまで意識を失っていた身だ。今は確かに回復したのかも知れないが、それでも彼の体調が他の亡霊と比べても不安定である事に変わりはない。もしもまた何かあったらと思うと、ゾッと背筋が寒くなってしまう。

 

 しかし。

 それでも彼は、引き下がらない。

 心配ばかりで表情を曇らせる妖夢の姿を見て、進一は少し大袈裟気味に肩を窄めると。

 

「……なぁ、妖夢。お前は何か勘違いをしているぞ」

「え……?」

「俺にも責任がある、なんて、そんなのはぶっちゃけ建前だ。俺は単にお前の力になりたいだけなんだよ、妖夢」

「私の、力に……?」

「ああ。ほら、あれだ。彼氏として、彼女には良い所見せたいってヤツだ。要は俺の我儘って事だな」

「……っ」

「だからさ、妖夢。今は少しだけ、俺の我儘に付き合ってくれないか?」

 

 照れ臭そうに笑いつつも、進一は妖夢にそう告げる。そんな彼の言葉を聞いて、妖夢はこれ以上首を横に振る事が出来なくなってしまった。

 まったく。そんな言い方は、ちょっぴり卑怯だ。これでは本当に、無下にする事が出来なくなってしまったじゃないか。

 

 ──きっとあれこれと気にする妖夢を見て、進一はあえてこんな言葉を選んでくれたのだろう。妖夢の不安感を、少しでも和らげようと。妖夢が少しでも責任を感じずに済ませようと、彼はあえて“我儘”という言葉を使った。

 ああ。それが判るからこそ、やっぱり拒絶なんて出来ない。

 折角彼が、妖夢を想って手を貸してくれたのに。そんな厚意を無下にするなんて、妖夢にはどうしたって出来なかった。

 

「……まったく、仕方がない人ですね。分かりました。進一さんの我儘に、私も付き合いますよ」

「ああ。すまんな」

「いえいえ」

「……」

「……ありがとうございます、進一さん」

 

 彼に聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな呟き。色々と思うものはあるのだけれど、しかし妖夢の“想い”はその一言に集約されていた。

 進一が妖夢の事を想ってくれている。進一が妖夢の為に、こうして寄り添おうとしてくれている。それが、妖夢にとっても素直に嬉しい。

 

 だから妖夢も、妖夢が出来る事をやる。このお礼は、その一歩だ。

 進一が妖夢の事を想ってくれているのなら、妖夢もまた、進一の事を──。

 

「さてと。そうと決まれば、さっさと作っちまおう。幽々子さんも首を長くして待っているだろうしな。まずは腹ごしらえだ」

「ええ、そうですね。私も流石にお腹空いてきちゃいました」

「ああ。……それに、()()と話したい事とか、聞きたい事もあるしな」

「……そう、ですね」

 

 ()()

 そうだ。妖夢もまた、進一に()()と話したい事、聞きたい事が沢山ある。

 昨日。演奏会からの帰り道。無名の丘のあの林で、一体何があったのか。その後はどうなったのか。その件も含めて、大事な話が妖夢達にはある。

 だからその為にもまず、腹を割って話す場が必要だ。

 これはその為の下準備。昼食を経て、気持ちを整理して、そしてこの()()を共有する。今の妖夢達には時間が必要だった。

 

(進一さん……)

 

 きっと彼だって、まだ頭の中の整理が完全に終わった訳じゃない。それは妖夢だって同じだ。

 何が起きたのかは分からない。そしてこれから何が起きるのかなんて、そんなものは皆目見当もつかない。感覚だって釈然としない。真実をこの手に手繰り寄せる事ができた訳でもない。

 だけど。

 それでも、この状況ではっきりとしている事が一つある。

 

 古明地こいし。

 

 覚妖怪であるあの幼い少女が、何らかの鍵を握っている──。


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