桜花妖々録   作:秋風とも

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第78話「風祝は見た」

 

 その日、東風谷早苗はぼんやりと春空を眺めていた。

 

 雲一つない良い天気だ。眺めているだけでも心地良い。こうしてぼんやりとしているだけでも、時間を忘れそうになってしまいそうである。

 チラリと視界に映る桜の木は、その花をポツリポツリと咲かせている。──が、満開と呼ぶにはまだまだである。ここ一週間は春にしては気温が低い日々が続いた所為か、桜の開花も若干遅れてしまっているようなのである。ひょっとして、外の世界の異常気象が幻想郷にも影響を与えているのだろうか。地続きであって完全な異世界という訳ではないのだ。有り得る話である。

 急に気温が高くなったり、低くなったり。そんな気候の急激な変化なんて、外の世界じゃ最早珍しくもないだろう。地球温暖化だとか、エルニーニョ現象だとか。そんな異常気象が原因で、日本が誇る四季のバランスが大きく乱れているという話も聞いた事がある。そのうち、のんびり花見を楽しむ事も出来なくなってしまうのではないだろうか。そう考えると何だかちょっぴり寂しい。

 

 ──枝葉的な思考だ。ぼんやりとしている所為で、今はあまり重要ではない事柄に思考を割いてしまっている。他にもっと、考える事──。例えば、今現在直面しているこの謎についてとか、そっちに思考を回した方が余程有意義だろうに。

 

「……お? 早苗じゃないか。何そんな所でぼんやりしてんだ?」

 

 変わらずぼんやりとしていると、不意にそう声をかけられた。それに釣られて視線を向けると、そこにいたのは見知った少女。

 白と黒の特徴的な衣服。金色の髪。そして片手には箒と、もう片方の手には何故だか分厚い本を抱えている。人里の書店か何かで買ってきたのか、はたまたどこかからか()()()()()のか。彼女なら、後者でも十分にあり得てしまうのだけれど。

 

「何だ、魔理沙さんじゃないですか」

「何だとは、随分なご挨拶じゃあないか」

 

 不満気な言葉。けれど彼女が浮かべる表情は、人懐っこそうな笑顔である。早苗が思わず零してしまった失礼な言動もまるで気にしていない。そんな彼女の態度を前にすると、何だかこちらも毒気を抜かれてしまいそうだ。

 早苗は改めて思考を現実へと戻し、魔理沙へと向き直った。

 

「ご、ごめんなさい。ちょっと、ぼんやりしてて」

「ま、お前はナチュラルに失礼というか、辛辣な事があるからな。もう慣れたもんだぜ」

「な、ナチュラル……」

 

 何だそれは。そんな印象を抱かれていたのか。

 だとすれば大変だ。守矢神社のイメージダウンにも繋がってしまう。気を付けなければ。

 

「私は日用品のお買い物ですよ。その途中で、ちょっと休憩してただけです」

「へぇ、買い物か」

「魔理沙さんこそ、こんな所で何をしてるんですか?」

 

 早苗は周囲を見渡してみる。

 ここは人里の一角。人里の中でも魔法の森寄りに位置する、ちょっぴり開けた広場のようになっている場所である。道端に植えられた桜の木が、小さく花を咲かせ始めている様子が目に入る。そんな道花に備えられたベンチに座って、早苗はちょっぴり一休みをしていた。

 

 再び魔理沙へと視線を戻してみるが、やはり気になるのはあの本。魔導書か何かの類だろうか。そんな物を人里に持ってくるなんて、中々どうして物騒である。

 

「うん? この本が気になるか?」

「ええ、まぁ……。どこかから盗んで来たんですか?」

「人聞きの悪い事言うなよな。盗んだんじゃない。パチュリーから借りたんだ」

「へぇ……?」

 

 パチュリーと言えば、紅魔館の地下図書館を根城にしている魔法使い、パチュリー・ノーレッジの事で間違いないだろう。早苗にとってあまり接点のある人物ではないが、確か頻繁に窃盗の被害に遭っていると聞いた事がある。犯人は勿論魔理沙だ。死ぬまで借りるとかなんとかいって、半ば強引に本を持って行ってしまうらしい。外の世界なら普通に犯罪一歩手前である。

 

 まぁ、そんな事はこの際置いておく事にして。

 

「でもどうして人里に魔導書なんかを……?」

「一言でいえば人捜しだな。魔導書ってのは、様々な魔術式が記載されていたり、そもそも魔力そのものが封じられたりしている本の事を示す訳だが、こいつはその前者にあたる。で、この本に記載されている魔術式の中には、かみ砕いて言えば特定の霊力だとか魔力だとかを探知するってモノがあるんだ」

「えぇと、つまりその魔術を利用して人捜しを? 一体、誰を……?」

「そんなもん、決まってるだろ」

 

 「ですよね……」と早苗も呟く。何せ彼女もまた、()()()が原因でこうしてぼんやりしてしまっていたのだから。

 

「霍青娥さん、ですか……。この一週間、殆ど何の足取りも掴めてませんからね……」

「ああ。本当、全く持って厄介だぜ」

 

 大袈裟気味に肩を窄めながらも、魔理沙が言う。そう、彼女の言う通り、本当の本当に厄介なのである。全く、それにしてもまさか()()()()とは。

 

「成る程な。それでお前もこんな所でぼんやりしてた訳だ。ちょっぴり休憩のはずが、何もしていないとどうしても色々と考えちゃうって訳か」

「だって、気になるじゃないですか。あれだけ詮索しても、何も出てきませんでしたし……。それに……」

 

 そう、それに。

 

「この一週間、あっちから何かを働きかけてくる事もなかったんですよ。一見すると平穏無事で、何事もなく幻想郷の時間は流れて行って……。何だか、逆に不気味なんです」

「……ああ。そうだな」

 

 突如として大量の神霊が幻想郷に溢れ出た『異変』。その解決の為に命蓮寺まで赴いて、その先の新霊廟で妖夢が豊聡耳神子の“覚醒”に手を貸して。そして神霊騒動が一応の収束を見せてから一週間。あれから早苗達も青娥の足取りを追ってみたものの、結局何の手掛かりも掴めず終いだった。

 あの日は結局霊夢との合流は叶っていない。翌日になってしれっと博麗神社へと帰ってきていた所を捕まえて話を聞いてみたのだが、どうやら霊夢も特に進展はなかったらしい。彼女の勘さえも空振りに終わってしまった今、いよいよ打つ手がなくなってきてしまったのではないだろうか。冗談でも何でもなく、本気でそう思い始めた今日この頃である。

 

 何よりも気味が悪いのは、あれからこの一週間特に何も起きなかったという点に他ならない。()()として神霊騒動などを引き起こしておいて、あれだけで終わりという事はないはずなのに。

 

 結局早苗は、あちらから尻尾を出してくれるのを待つことしか出来なくなっている。こうして淡々と、この奇妙な程に平穏無事な日常を過ごしながらも──。

 

「何だか、私達は今も尚その青娥さんって人の掌の上で踊らされているような気がして……。そう思うと妙に不安というか、何と言うか……」

「だからこそ手をこまねいている訳にもいかないだろ。このまま奴の思い通りなんて、そんなのは真っ平ごめんだぜ」

 

 そんな事を口にしつつも、魔理沙は懐からごそごそと何かを探し出す。そして程なくして引っ張り出したその手に握られていたのは、いわゆる試験管だった。

 外の世界では中学だとか、高校だとかの理科の実験でよく使うあれ。なぜだかそれを持ち歩いていたらしい魔理沙は、これ見よがしに早苗の前で懐から取り出して。

 

「何ですかそれ?」

「何だと思う?」

「……試験管ですね」

「正解だ。よく知ってるな」

「……私は中身を聞いたんですけど」

「ああ。こいつはあの宮古芳香とかいうキョンシーの髪だぜ」

「……へ?」

 

 ──何だって?

 

「だから、宮古芳香の髪だって。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 いや、そんな説明で納得できる訳がないだろう。

 確かに良く見ると、あの試験管の中身は少なくとも液体じゃない。目を凝らしてよく観察すると、細長い糸のような物が見えるのだけれども──。

 

「何でそんな物を持ち歩いてるんですか。魔理沙さんの趣味か何かですか?」

「んな訳ないだろアホか。この魔導書の魔術式を使うのに、こいつが必要なんだよ」

 

 冗談めかして言ってみると、魔理沙からはそんな答えが返ってきた。

 この魔導書の魔術式。それはつまり、先程も口にしていた人捜しにも応用できる魔術の事だろうか。確か、ある特定の魔力だとか霊力だとかを探知できるという──。

 

「妖夢から聞いた話じゃ、あの宮古芳香ってキョンシーは霍青娥が使役してんだろ? だからアイツの衣服だとか、髪だとか、まぁ何でも良かったんだか……。兎にも角にも、そこには青娥(ヤツ)の霊力の痕跡が残っている可能性がある。だからそいつを利用して、この魔術式で青娥の足取りを追おうとしてた訳だ」

「成る程……。それで、成果は?」

「……ご覧の体たらくだぜ」

 

 嘆息しつつも、魔理沙は答える。

 

「やっぱそんな痕跡なんて残してないよなぁ。霍青娥の足取りを追おうにも、この髪じゃ宮古芳香の情報が強すぎる。せめて青娥本人の髪だとかが手に入れば良かったんだが……。どうやらそんな()()をやらかす程、相手はポンコツじゃないみたいだな」

「うーん、そう簡単には行きませんか……」

 

 そう。これまでだって、その霍青娥なる人物は早苗達の前に何の痕跡も残していないのだ。

 霊力は勿論の事、その髪の一本に至るまで彼女に繋がる“何か”は徹底的に隠匿されてしまっている。当然持ち物を落とすような事もないし、今や状況は完全にその姿を消してしまっているのと同義である。

 

 唯一、宮古芳香に関しては未だに命蓮寺で保護されたままであるが、そちらに関しても情報の収集はあまり期待できなさそうである。

 彼女はただ淡々と霍青娥の命令に従っていただけだ。当然ながら有益な情報なんて最初から持たされていなかっただろうし、こうして髪を毟り取ってみても結局は骨折り損のくたびれ儲け。事態は一向に好転しないどころか、変化が訪れる兆しすらない。一体全体、何がどうなっているというのだろうか。

 

「木を隠すなら森の中って事で、人里に潜伏している可能性も考えてこうして来てみた訳だが……。ああ、畜生、やっぱり今回も収穫なしか……」

 

 どうやらその魔術とやらは()()が近ければ近いほどより高い効果を発揮する事が出来るらしく、その為彼女はこうして場所を変えて何度も()()を試みているらしい。

 けれども、駄目だ。

 やっぱり手掛かりは掴めない。幾らパチュリー・ノーレッジが所有している魔導書の力でも、あの邪仙の──霍青娥の力には、及ばない。

 

「もうっ、一体何なんですか青娥さんって。こんなの最早チートですよチート」

「……何だよ、チートって?」

 

 ここまで進展がないのだから、そんな愚痴も言いたくなる。

 

「はぁ……。霊夢さんや妖夢さんは、今頃どうしているのでしょうか……」

「それだよなぁ」

 

 霊夢も霊夢で霍青娥の足取りを追っているようだが、けれどもやはり今日までまるで進展はない。その所為なのか、ここ最近は彼女も随分と躍起になっているようだ。

 ──いや。躍起というよりも、単にムカついていると表現した方が正しいか。

 散々好き勝手やっておいて、ここに来てピタリと手が止まったのだ。そんなモヤモヤは霊夢にとって苛立ちの種でしかない。まぁ、彼女らしいと言えばそうなのかも知れないけれど──。

 

 そして、()()()()()()だ。

 神霊騒動が収束した以降も彼女とは何度か話をしたが、けれど早苗は何か強烈な違和感──等と表現してまうのは乱暴だが、とにかく何か決定的な相違点を感じていた。

 ただし、悪い意味ではない。

 寧ろどちからというと──良い傾向なんじゃないかと、早苗はそんな漠然とした感覚を感じている。

 

「まぁ霊夢はともかくとして、妖夢は色々と忙しいんじゃないか? 白玉楼の事もあるだろうし、『異変』にばかり気を遣うのも難しいんだろ」

「そう、ですよね……」

 

 『異変』。そう、『異変』だ。

 今回の『異変』もまた、当然ながら魂魄妖夢は綿密に関わってしまっている。そもそも神霊騒動という事で真っ先に冥界を疑ったのは自分達なのだから、こちらから彼女を巻き込んでしまったと捉える事も出来るだろう。本人曰く、早苗達が来ても来なくても自分は『異変』の解決に向かうつもりだったそうなのだけれども──それでも、だ。

 

(妖夢さん……)

 

 妖夢にはこれ以上、『異変』の解決に身を投じて欲しくない。

 

 今の早苗が抱く気持ちをストレートに言葉にしてしまうと、そういう事になる。

 無論、妖夢の事を侮っている訳では決してない。戦闘能力に関しては寧ろ早苗の方が足手まといになってしまうだろうし、洞察力に関しても彼女の方が上だろう。手掛かりもまともに掴めていないこの状況では、少しでも協力者が多い事に越したことはない。それは分かっている。

 

 だけれども。それでも、だ。

 東風谷早苗は知っている。この二年間、妖夢が何を行ってきたのか。どんな風に、()()()()()()()()()()()()()()。断片的ではあるものの、それでもそんな情報は早苗にも届いている。

 

 理由は分からない。事情だって理解できていない。

 けれども彼女は頑張っていた。──頑張り過ぎていたのだと、それくらいなら早苗にだって十分理解できるから。だから少しくらい、休んでも許されるのではないか。少しぐらい、頑張る事を止めたって良いのではないかと。お節介にも、早苗はそう思ってしまう。

 だから出来る事ならば、今回の『異変』だって彼女の力に頼らずに解決してしまいたい。無論、言葉にするほど容易ではないという事くらい分かっている。だがそれでも、やはり意地になる。

 

 だから、早苗は──。

 

(…………ん?)

 

 そこまで考えた所で。不意に視覚が“何か”を捉えて、早苗の思考は中断される事となる。

 魔理沙の話を聞いて、また()()と考えてしまって。そしてぼんやりと視線を前へと向けた辺りで、それは唐突に早苗の視線に飛び込んで来た。

 広場の先。人が行きかう大通りとなっているそこ。一瞬だったから見間違いだった可能性もあるのだけれども。

 

(今のって……)

 

 小柄な体格。白銀色の髪。そして雪のように白い肌。

 魂魄妖夢だ。一瞬、彼女の姿を視線に捉える事が出来たような気がする。──いや、()()()()等という曖昧な表現ではいけない。何だか普段とは雰囲気が違うような気がしたが、あれは間違いなく魂魄妖夢だった。そんな彼女が、あの大通りを人並みに紛れて通過していったのだ。それは見間違えなんかじゃなかったはず。

 

 丁度妖夢の事を考えていたタイミングで、まさか本人を見かける事になるなんて。中々に奇跡的な偶然だが、けれども妖夢だって食材等の買い出しの為に頻繁に人里まで足を運ぶ身。故に人里で出くわす事だってあり得ない話ではないだろう。現に早苗は、これまでだって何度か人里で妖夢を見かけた事がある。

 

 そう。確かにタイミングはばっちりだったが、だからと言って特段驚く要素ではない。別に、変な感情なんて抱く理由なんてないはずじゃないか。

 そう、そうだ。変な感情なんて、抱くはずが──。

 

「…………っ」

 

 でも、違う。東風谷早苗の心は、静かに、けれども確かにざわつき始めている。

 思わず呆けたような表情を浮かべてしまう。一瞬思考が停止してしまっているのに、それでもなぜか心臓の鼓動が早くなる。ドキドキ、ドキドキ。不意に現れた光景を前にして、早苗の脳内がそんな状況を処理しきれていないのだ。必死になって、思考を回す。

 

 ──何だ。

 確かに彼女は魂魄妖夢だった。それは最早間違いない。けれども違う。()()()()()()()()

 

 彼女は一人ではなかった。

 彼女の隣。そこには、()()()()()()()()──。

 

「!?」

 

 そこまで理解した所で、早苗の心臓が一際大きく飛び上がった。

 それに合わせるかのように、早苗は思わずベンチから立ち上がる。難しい顔をして魔導書を眺めていた魔理沙がビクッと驚いたように本と試験管を落としかけていたが、そんな事に気を回す余裕なんて今の早苗にはない。

 いや。待て。何なんだ。

 たった今、早苗が目撃したあの光景は一体──。

 

「お、おい早苗。急に立ち上がるなよな。魔導書落として魔術式が誤発でもしたらどうすんだよ」

「ま、魔理沙さん! い、今……!」

「……は? 今?」

「今……! 妖夢さんが、そこに……!」

「妖夢?」

 

 早苗が指差した方向に、魔理沙もまた顔を向ける。けれども既に妖夢の姿は人並みの中に埋もれてしまっていて。

 

「うーん、見逃したか? でもアイツが人里にいるのなんて別に珍しくもないだろ。食材の買い出しとかもしなきゃならないだろうし」

「そ、そうじゃなくて! い、今、妖夢さんが……!」

「? 妖夢が、何だって?」

「よ、妖夢さんが……!」

 

 そう。妖夢が。

 

「お、男の人と、一緒に歩いてたんです!!」

「……っ。は?」

 

 興奮気味の早苗。訳が分からず、首を傾げるだけの魔理沙。温度差が凄まじい。

 いきなり何言ってんだコイツ? とでも言いたげな魔理沙の表情。まぁ、無理もないだろう。いきなり慌てふためき始めたかと思ったら、急に口にするのはあまりに唐突過ぎる言葉。彼女が困惑するのにも頷ける。

 けれど早苗は落ち着けない。これは事件だ、大事件。スルーなんて出来る訳がない。

 

「えっ、嘘……どうして!? どうしてですか妖夢さんッ……!」

「お、おい落ち着けって。何でそんなに興奮してんだ」

「逆に何でそんなに落ち着いてるんですかッ!? 妖夢さんが男の人と一緒に歩いてたんですよ!? 大事件じゃないですか!!」

「いや大事件ってお前」

 

 何を大袈裟な、と魔理沙はジト目を向けてくる。どうやら彼女は事の重大さに気付いていないらしい。

 だったら説明せねばなるまい。早苗が目撃したあの光景に、どんな意味があったのかを。

 

「良いですか魔理沙さん! あの妖夢さんが、男の人と一緒に歩いてたんですよ!? 奥手で大人しいはずのあの妖夢さんがです!」

「……だから何だよ?」

「だからって……! ピンと来ませんか!?」

「……いや。お前、まさかとは思うが……」

 

 早苗の圧に押されたのか、たじたじとした様子で魔理沙が聞き返してくる。

 

「妖夢に、男ができたとでも思ってんのか?」

「そう! それです! ああ、やっと分かってくれたんですね魔理沙さんッ!!」

「…………」

 

 食い気味に肯定するが、魔理沙が浮かべるのは未だ困惑した様子の表情である。その感情は妖夢というよりも、酷く興奮した様子の早苗へと向けられているように思える。

 だが、当の早苗はそんな事になど気付かない。未だ落ち着きを取り戻す気配すら見せない様子で、矢継ぎ早に言葉を発する。

 

「ね!? ね!? 大事件でしょう魔理沙さん!?」

「い、いや、だから落ち着けって! 流石にちょっと短絡的過ぎるんじゃないか?」

 

 どうどうと、魔理沙は早苗を宥めつつも。

 

「男の人と歩いてただけなんだろ? でもだからといって、相手が恋人だとは限らないだろ。お前の盛大な勘違いだったって可能性も……」

「いいえ! そんなにも浅い関係ではないはずです! だって妖夢さん、いつもと何だか雰囲気が違ったんですよ!? 何て言うか、こう、甘酸っぱい感じでしたし!! だから最早これは確定事項! 衝撃的な展開なんです……!」

「寧ろ私はお前の雰囲気の変貌っぷりの方が衝撃的なんだが……」

 

 魔理沙が何かを呟いていたが、そんな言葉など早苗の耳には届かない。

 一大事だ。それならば早苗のすべき事は一つ。

 

「こうしちゃいられません! 魔理沙さん、様子を見に行きましょう!」

「……は? 様子をって、ひょっとして妖夢のか?」

「当たり前でしょう! それ以外に何があるんですか!?」

「えぇ……?」

 

 二人の間の温度差は、相も変わらず凄まじいままだ。やたらと奮起している早苗とは対照的に、魔理沙は多少の焦りを滲ませた表情を浮かべている。

 

「お、おい、やめとけって。そっとしておいてやった方が良いんじゃないか……?」

「なーにビビってんですか魔理沙さん! 百聞は一見に如かず! 真実はこの目でしっかりと見極める必要があるんですよ!?」

「いやだからそもそも見極める必要があるのかって話でだな……」

 

 完全に委縮してしまっている魔理沙。らしくない。普段の『異変』は自ら首を突っ込む癖に、なぜ今日に限ってそんなにも消極的なのだろう。やめておけだとか、そっとしておいてやった方が良いだとか。

 甲斐性がないというか何と言うか。ひょっとして、()()()()()に関しては酷く奥手なのだろうか。

 

「つべこべ言わずに行きますよ魔理沙さん! 善は急げです!」

「ちょ、ちょっと待て! そもそも何で私まで一緒に行く事になってんだよっ! 勝手に話を進めるなって!」

「もうー! 何でそんなにイジイジしてるんですか! まったく、これだから処女は……!」

「お前いい加減はっ倒すぞ……! つーかお前だってどうせ処女だろっ! 棚に上げんな!」

 

 ギャーギャーと言い合いを続ける二人。何だか話の趣旨が微妙にズレてきているような。

 ──こんな事をしている場合ではない。早い所追いかけないと、妖夢の事を見失ってしまうかも知れないではないか。今は一刻も早く行動に移すべきだ。口を動かしている暇もない。

 

「ああ、早く追いかけないと完全に見失っちゃいます……! 急がないと!」

「あ、おい! ま、待て早苗! ほ、本当に行くのか……? マジなのか……!?」

「マジもマジです! 大マジです!!」

 

 この期に及んで何を言っているのだろうこの少女は。行くに決まっている。それ以外の選択肢なんて有り得ない。ここで見逃してしまったら、気になって夜も眠れなくなってしまうじゃないか。

 

 だから早苗に躊躇いはない。未だに否定的な表情を浮かべる魔理沙を引き摺るような形になりながらも、早苗は妖夢の後を追いかけるのだった。

 

 

 *

 

 

 幽々子に見送られつつも白玉楼を出発してから数十分。進一は妖夢と共に、人間の里へと足を運んでいた。

 人間の里。その名の通り、主に人間が生活基盤を築いている場所らしい。当然ながら住民の大半が人間で、大通りは中々の賑わいを見せている。今の進一は亡霊なのでこんな所にいるのも場違いではないのかと最初は思ったが、どうやら別に妖怪の侵入が禁止されている訳ではないようだ。

 現に半霊などという、進一よりも余程人外としての特徴が見て取れる妖夢が普通に出入りしているのだ。死神である小野塚小町だって、頻繁に人里まで足を運んでいるらしい。どうやらそこまでガッチガチのルールに縛られている訳でもないようで、例えば人殺しのような非人道的な行為に及ばなければ退治される事はなさそうだ。その点においては特に進一は問題ない。別に誰かを祟ってやろうだとか、そんな気なんて微塵もないし。

 

 ともあれ、人間の里──もとい人里である。プリズムリバー楽団の演奏会は人里とはまた別の場所で行われるのだが、開演までまだ時間がある。演奏会が始まるのはお昼過ぎ。それまでの間はこの人里を見て回ろうと、今日はそんな予定となっていた。

 幻想郷に来てから一週間。実はこうして人里を訪れたのは初めてだったりする。そういう意味でも、進一はこの日を心待ちにしていた。

 

「へぇ、ここが人里か」

「ええ。幻想郷の人間が集まっている里なだけあって、結構広いんですよ。外の世界みたいな感じとは違いますけど、それでも色々と見て回るものはあるはずです」

 

 ぐるりと見渡した感じ、何とも古風な印象を受ける里である。生前の記憶がない為に具体的に断言はできないが、やはり外の世界とは文化の赴きが違うのだろう。

 それでも、何だか妙に落ち着く。やはり日本人としての性なのだろうか。確かに外の世界と比べると多少不便なのかも知れないが、こういうのも悪くないと進一は思う。

 

「……それにしても」

 

 チラリと進一は妖夢の事を一瞥してみる。

 これまでの普段着とは違い、今の妖夢が身に纏うのは外の世界で購入した衣服である。色合いに関しては普段の印象通りだが、やはりデザインが現代風なだけあって里の人間達と比べると少々浮いている。だが、それは進一だって同じ事。そんな事など気にしない。

 

 気になるのは、その衣服がどちらかというと薄着であるという点だ。春に着る分には問題ないのだろうけれど──。

 

「なぁ、妖夢。大丈夫か?」

「へ? な、何がです?」

「いや……」

 

 小首を傾げて聞き返してくる妖夢。けれどその仕草はどこかぎこちない。小さな体を、更に小さく縮こまらせているようにも思えて。

 

「その恰好、ちょっと寒くないか? 今日は思ったより気温が高くないみたいだしな」

「え、ええ……。そう、ですね……」

 

 苦笑いを浮かべながらも、妖夢は頷いた。

 そう。冥界は比較的春らしい気候だったので全く気を回す事もできなかったが、けれど幻想郷に入った途端にこれだ。

 幻想郷は、少なくとも外の世界と比べると冥界との繋がりが強い場所ではあるけれど、しかし同一の世界という訳ではない。故にこうした気候の差だって存在してもおかしくはないのである。それを完全に失念していた。

 

 ここ最近の顕界は、春にしては気温の低い日が続いている。それは今日だって例外ではない。

 ──デートに浮かれすぎて、すっかり頭の中から抜け落ちていた。顕界を訪れるのはこれが初めてではないのだし、それくらいなら多少なりとも予想は出来たはずなのに。

 けれどそれは妖夢だって同じ事。だからこそ、彼女はこうしてちょっぴり困ったような笑顔を浮かべている。

 

「あはは……。ちゃんと、()()()()の気候も確認しておくべきでしたね。完全に抜けちゃってたなぁ……」

「……ああ。俺もだ」

「あ、でも大丈夫です! このくらいならへっちゃらです。すぐ慣れちゃいますよ」

 

 「私、鍛えてるんで!」と得意気な様子の妖夢だ。けれど彼女のやせ我慢なんて、進一にはすぐに分かってしまう。

 そんな様子の妖夢を前にして、進一が放っておける訳がない。風邪を引いたら大変だ。幾ら剣術鍛錬等で鍛えているとはいえ、寒がっている彼女を放置して良い理由になんてならない。

 

 だから進一は自分の上着を脱いだ。Tシャツの上に羽織っていたジャケットを、だ。それを未だ小刻みに震える妖夢の肩へと羽織らせる。

 

「へ……? し、進一さん……?」

「……まぁ、このジャケットも大して厚くないけど。でも多少はマシになるんじゃないか?」

 

 驚いた様子の妖夢へと向けて、進一はそう告げる。彼女は目をパチクリとさせていた。

 進一だって、冥界の気候に合わせた服装である。故にそこまで厚着ではない。このジャケットを羽織らせた所で、気休め程度にしかならないのかも知れないけれど。

 だけどやっぱり、放っておけなかった。震える女の子をそのまま放置するなんて、そんなのは男としてあってはならない。そんな意地のようなものが、進一を突き動かしていた。

 

 しかし、やはり余計なお世話だっただろうか。現に妖夢は、未だ状況が呑み込めないようなきょとんとした表情を浮かべている。羽織らされたジャケットと、そして進一本人の顔。行ったり来たり、視線を泳がせてしまっている。

 けれども進一が微かな不安を抱き始めた、その直後。

 ぼふっと、妖夢は顔を真っ赤に染め上げて。

 

「ひゃわ!? し、ししし進一さん!? だ、ダメですよ、こんな……!」

「……こんな?」

「こ、こんなの、そ、その……」

 

 モジモジと妖夢は途端に俯いてしまう。そして蚊の鳴くような小さな声で、言葉を続けた。

 

「し、進一さんも、寒いんじゃ、ない、ですか……?」

 

 ──まったく。いや、まぁ、何と言うか。

 自意識過剰だと言われればそれまでなのかも知れないが、けれど今の進一には何となく妖夢の気持ちが分かる。察してしまえる。この反応は、明らかに照れ隠しである。

 今更ながら、中々にキザな事をしてしまったなと自分でも思う。けれど後悔はない。妖夢のこんなにも可愛らしい反応を見れて、確かな充足感を得る事が出来たのだから。

 けれどそれでも、そんな事を考えている自分が何だかちょっぴり恥ずかしくて。だから進一もまた、思わず照れ隠しで妖夢の誤魔化しに乗っかってしまった。

 

「……ああ。いや、大丈夫だ。俺は亡霊だからな。別に薄着だろうとどうってことない」

 

 嘘である。実は結構寒い。

 既に死んでしまっている癖に、何で寒さまでも感じるんだろう──なんて。そんな疑問など今更抱かない。空腹感だとか、無理矢理記憶を呼び覚まそうとした時の頭痛だとかと同じ理由だろう。

 まぁ、でも。

 ()()だ。

 寒さなんて無視してしまえば良い。男として、格好がつかない所なんて見せられない。そんなちょっぴり子供っぽいプライドのような物が、進一を意固地にさせている。

 

 大丈夫、大丈夫だ。

 この程度、何の問題もない。

 

「進一さん……」

 

 心配そうな妖夢の声がする。進一が妖夢の心境を察する事が出来たように、妖夢にもまた進一の心境がばれてしまっているのだろうか。

 生真面目な彼女の事だ。自分一人がぬくぬくと温かいと知れば、きっと遠慮してジャケットを返してくるに違いない。だから進一は、寒さなんておくびにも出さないようにする。

 

「さ、寒く、ないんですか……?」

「ああ。寒くない」

「……本当に?」

「本当だとも」

「そうですか……」

 

 「そっか、そうですか」という妖夢の声が耳に届く。

 どうやら納得してくれたらしい。表情を窺われないようにそっぽを向いていたのが功を奏したか。割とにべもない態度になってしまった事は反省点だが、それはこれから挽回していけばいい。

 何はともあれ、これで多少なりとも妖夢の寒さを和らげる事が出来れば──。

 

「そ、それなら……。こうしましょうっ」

「……え?」

 

 ふわりと、甘い香りが進一の鼻をつく。そしてその直後、進一の左腕が温かい感触に包まれた。

 息が詰まる。何が起きたのかその一瞬では理解できなくて、進一は思わず惚けてしまう。それでも何とか思考を働かせて、進一は自らの視線を落とした。

 すぐ近くに、妖夢の顔がある。頬を真っ赤に染め上げて、恥ずかしさを必死に我慢するような表情で進一の事を見上げている。

 

 ──そして左腕を包み込むこの柔らかい感触。そこまで認識してしまえば、幾ら進一でも状況を判断する事くらいなら出来る。

 抱きつかれているのだ。左腕を、妖夢に。

 故にこうして、これまで以上に彼女と密着する事になっていて──。

 

「!?」

 

 いや、だからと言って冷静に状況を飲み込む事なんて出来ない。

 ()()()()()()()()

 そう認識した途端、確かな動揺が進一の中を駆け抜けた。そして同時に、あるはずのない心臓がドキドキと激しく波打ち始めた──気がした。

 ──何だ。何なんだ。

 進一はいつの間にか、立ち尽くしたまま動けなくなってしまっている。

 

 そんな、いつまで経っても何も言えないばかりの進一へと向かって。ちょっぴり心に余裕を持ち始める事が出来たらしい妖夢が、悪戯っぽく微笑むと、

 

「……ほら。こうすれば、二人とも温かい」

「……あ、ああ……」

 

 頷く事しか出来ない。

 ドキドキ、ドキドキ。()()()()()()。進一のではなく、妖夢の。密着した妖夢から伝わってくる、精一杯の勇気の証。

 けれど多分、もしもここにいる進一が『生命』ある人間だったとしたら、きっと同じように鼓動を高鳴らせていた事だろう。──ちょっぴりの恥ずかしさと、大きな大きな嬉しさによって。

 

「ダメ、ですよ?」

「……な、何が?」

「本当は寒いのに、やせ我慢する事です。……なーんて、ついさっきまで同じ事をしていた私が言うなって話かもですけど……」

 

 妖夢は微笑む。恥ずかしさで頬を真っ赤に染めたままだけれども、それでも彼女は嬉しそうに微笑む。

 やった。上手く出来た。

 そんな気持ちが、想いが、彼女からありありと伝わってくるみたいで。

 

「ふふっ。私に隠し事なんて出来ませんよ? 私、進一さんの事なら何でも分かっちゃうんですから」

 

 えへんと、ちょっぴり得意気な様子でそんな事を口にする妖夢を見て。

 ──ああ。ダメだ。これは、いけない。

 

(な、何だ……)

 

 思考が、どんどん、働かなくなって。

 

(何なんだこの可愛い生き物は……!?)

 

 ──死にそう。もう死んでるけど、色々な意味でもう一回死にそう。

 ひょっとして、これはあれか。胸の奥がキュンキュンするというヤツか。まさかこうして、そんな状況に自分が直面する事になろうとは。ひょっとしたら、生前の自分も想像出来ていなかったんじゃないだろうか。

 ヤバイ。これは、割と本気で、本当の本当に──ヤバイ。

 

「…………っ」

 

 最早ボキャブラリーなんて消失してしまいそうになるレベルで動揺を極めているが、けれどやっぱりいつまでもこんな心境のままじゃいられない。何とかして平静を取り戻さなければ。

 こんな時は取り合えず深呼吸だ。息を吸って、吐いて。そしてまた吸って、吐いて。そうしている内に、段々気持ちも落ち着いてきたような気がする。よし、これなら何とかなりそうだ。

 

「あー、まぁ、うん……そうだな。これなら二人とも温かい」

「そ、そうですよね?」

 

 確かにそうだ。現に妖夢も進一も、身体がポカポカ熱くなってしまっている。その証拠に顔は真っ赤だ。真っ赤っ赤だ。まさに効果覿面。これで寒さに凍える心配はないだろう。

 ──まぁ、別の意味で色々と心配事はあるのだけれども。

 

「……なぁ、妖夢」

「な、何ですか……?」

「いや、その……。なんて言うか、だな……」

 

 これは──果たして、指摘すべきなのか否か。

 ここまで密着されてしまうと、妖夢の身体の感触がダイレクトに伝わってきてしまう。確かに彼女は自分でも称する通り小柄であり、普段から鍛えているが故にスラッとした体格をしているのだけれども。しかし大前提として、彼女だって女の子なのだ。

 ──有り体に言えば、胸が当たっている。どくん、どくんという彼女の鼓動よりも前に、慎ましくも確かに柔らかいこの感触の方が気になってしまう。

 

 一瞬気付いていないのかとも思った進一だったが、けれども彼女は以前に寝ている進一の布団の中に潜り込んできた事もある少女である。その前例を考えると、意図的に押し当てている可能性も否定出来ない。酷く奥手な少女に見えて、彼女は時に大胆だ。現にこうして抱き着いてきたのは彼女の方じゃないか。

 

 だとすると指摘するのも変な感じである。──というかそもそも、自分達は今デートの最中ではなかったのか。だとすれば、このくらいのスキンシップなら案外普通なのかも知れない。

 

(ふ、普通、なのか……?)

 

 正直よく分からないが、だが、しかし。

 だとすれば、やっぱり進一は平常心を保たなければならない。幾ら男なら疚しい感情の一つや二つ抱いてもおかしくはない状況だったとしても。それでも進一は、普段通りの彼を貫き通すべきなのである。

 

 大丈夫。大丈夫だ、落ち着け岡崎進一。同じように輝夜に抱き着かれた時は、それなりに平静を保てていたじゃないか。だから行ける、問題ない。そのままもう一度深呼吸して、ゆっくりと心臓を落ち着かせて。

 

「…………」

 

 よし。今度こそ落ち着いた。

 

「……プリズムリバー楽団の演奏会まで、まだ時間はあるよな?」

「へ? え、ええ……。そうですね……」

「だったらまずは、コートか何か……そんな上着類を買っておくか? やっぱり風邪を引いたら大変だしな」

 

 亡霊である進一は風邪を引くような事はないが、けれど妖夢は半人半霊。体調管理を怠れば、普通に病気にかかる事だってあり得る。

 確かに今は()()()が、それでも用心は必要である。彼女には白玉楼での仕事もあるし、余計に身体を壊す訳にはいかないだろう。

 

 故に、上着は必要だ。

 ──動揺を誤魔化す為に話題を転換した訳ではない。決して。

 

「そ、そう、ですね……」

 

 進一の提案に対し、ちょっぴり何かを考えるような仕草を取る妖夢。そして程なくして、うんっと小さく頷くと。

 

「確かに、風邪を引いたら大変ですよねっ」

「ああ」

「でしたら行きましょう、お買い物!」

 

 意外にもノリノリな反応だった。「進一さんとお買い物……!」と満面の笑みで呟いている。どうやら進一と一緒にショッピングできる事が心の底から嬉しいらしい。隠す素振りなしだ。

 ──何だ。何なんだ。この少女は、どこまで進一を悶えさせたら気が済むのだろう。そろそろ平静を装うのも厳しくなってきたじゃないか。ああ、このままじゃヤバイ。何故だか無性に叫びたい。それは流石に自制するけれども。

 

「……よし。じゃあ、行くか」

「はいっ!」

 

 何とか自分を保ちつつも、妖夢と腕を組んだままで進一は歩き出す。何だか徐々に周囲の視線までも集めているような気がするが、今更そんな事など些末な問題である。一々気にする事ではない。

 チラリと再び視線を落とす。そこにいる妖夢が浮かべるのは、先程と変わらず楽し気な表情。そんな彼女を見ているだけで、こちらまでも何だか胸がポカポカしてくる。妖夢が嬉しければ自分も嬉しいし、妖夢が楽しければ自分も楽しい。そんな心境である。

 

 生前の記憶がない癖に、どこまで妖夢に惚れているんだと。そんな風に自分でも少々呆れそうになってしまう程だ。けれど仕方がないじゃないか。例え記憶がなかろうとも、この気持ちは本物だ。色褪せる事なんて有り得ない、絶対的な想いなのだ。

 だから自分の気持ちに嘘なんてつかない。ちょっぴり意地になって、どうしても表面上は平静を保とうとしてしまうのだけれども。それでも進一が胸中に抱く妖夢への想いは、どこまでも一筋だった。

 

 そんな心境のままで、進一は妖夢と共に歩く。春にしてはちょっぴり寒い人里で、けれどもポカポカとした心境で。こうして身を寄せ合って、二人は歩みを進めていく。

 

「…………っ」

 

 ちらり、と。

 物陰から様子を窺う少女の姿が目に入った。


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