桜花妖々録   作:秋風とも

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第75話「手掛かりの兆し」

 

「はぁぁぁぁ……」

 

 進一を連れて永遠亭まで足を運んだ、その日の夜。妖夢はひとり、頭を抱えていた。

 白玉楼の無駄に広い浴場。夜も更けてきた時間帯に彼女は風呂に入る事にしたのだが、こうして湯船に浸かっていると()()()考え込んでしまうものである。

 いや。考え込むというか、思い出すというか。

 永遠亭の一室で、あんな──。

 

「~~~~っ!!」

 

 ばしゃんと、思わず湯船に顔を叩きつける。鼻にお湯が入ってきた。痛い。

 思い出すだけで心の中が色々と穏やかではなくなってくる。さっきの自分は、傍から見ても明らかに()()()()()()だった。幾ら永琳にそそのかされていたとは言え、まさかあんな風に進一に詰め寄ってしまうとは。

 優雅で品のある人が好みなのか、とか。やっぱり胸が大きい方が良いのか、とか。終いには自分でも色々と訳が分からなくなって泣きだしてしまう始末。どれだけ面倒くさい奴だったんだ、自分は。

 

「やっちゃったなぁ……。進一さんにも呆れられちゃったかなぁ……」

 

 一応事態は収拾したのだけれども、だからと言ってすぐさま立ち直れるほど妖夢は単純じゃない。今日の妖夢は、色々なベクトルで暴走し過ぎなのである。今朝進一の布団に潜り込んだ事も然り。

 

(で、でも、さっきのは永琳さんも悪いよね……? あんな事言われたら、誰だって……)

 

 口元まで自分の身体を湯船に沈めつつも、妖夢は考える。

 結局妖夢は彼女のペースの飲まれっぱなしだった。散々抵抗したのにも関わらず、最終的にはこの体たらく。不覚である。

 本当に何だったんだ。進一の記憶の手掛かりを探る為に永遠亭まで足を運んだはずなのに、どうしてあんな事になったのだろう。もっと永琳や輝夜を警戒しておくべきだったのだろうか。

 

「はぁ……」

 

 妖夢は思わずため息をつく。

 今更悔やんでも仕方がないと、頭では分かっていてもやはり割り切れないものである。さっきからやたらと身体が熱いような気がするのも、きっと風呂に入っている所為だけではないのだろう。

 無論、進一達の前で醜態を晒してしまった事も大きく起因しているのだが──。実のところ、それだけではない。

 

 魂魄妖夢は思い出す。

 それは、永琳と輝夜に宥められて妖夢がようやく落ち着きを取り戻した後の事。己の醜態に気が付いて色々と気まずい心持ちになっている妖夢へと向けて、再び永琳が声をかけてきたのだった。

 

 

 *

 

 

「妖夢、少し良いかしら?」

 

 当然ながら、妖夢は警戒度マックスである。一体どの面下げて声をかけてきたのだろう、この薬師は。また何か企んでいるのだろうか? 再び妖夢の不安感を煽り、存分にからかう事でもう一度悦に入ろうという算段なのか?

 そう、そうだ。きっとそうに違いない。自分は永琳には詳しいのだ。

 

「な、何ですか……!? 今度は何のつもりですかッ!?」

「……そんなに警戒しなくても大丈夫よ。さっきのは本当にやり過ぎたって、私だって反省しているのだから」

 

 本当に反省しているのだろうか、この人は。疑わしい限りである。

 そんなこんなで警戒心をまるで解かない妖夢だったが、流石の永琳もそんな態度を見せられては少し参ってきてしまったらしい。難しそうな表情を浮かべ、バツが悪そうに人差し指で自らの頬を掻くと、

 

「貴方、やっぱり意外と頑固よね……」

「わ、悪かったですね……!」

 

 誰の所為でこんなに警戒していると思っているのだろう。

 けれども、まぁ、何と言うか。そんな風に困った表情を向けられると、幾ら()()()()をされた後でも負い目を感じてしまう訳で。そういう意味では、自分はちょっぴり甘いのかも知れない。

 

「……進一の記憶喪失。治療方法がない訳でもないわ」

 

 これ以上永琳のおふざけに乗ってやるものかと、そう心に強く決め込んでいた妖夢だったが、不意に放たれた予想外の言葉を前に思わず思考を止めてしまう。

 永琳に向き直ると、彼女が浮かべるのは至極真面目な表情である。正真正銘、おふざけなんて欠片もない。今の彼女は一人の薬師として、こうして妖夢と向き合ってくれている。

 

 急な態度の変化に戸惑う妖夢だったが、それでも何とか彼女へと聞き直す。

 

「そ、それって……」

「あー、勘違いしないで頂戴。私はさっき、きっぱり無理だと言い放ったけれど、それが嘘だったって訳じゃないから」

 

 妖夢が言葉を紡ぐよりも先に、永琳がそう補足をしてくる。妖夢は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 確かに、ついさっきまでと言っている事がまるで違う。進一の記憶喪失を診察し、その結果治療は無理だと彼女は下した。けれど、にも関わらず()()()()がない訳でもないのだと彼女は言うのである。

 それはつまり、一体どういう意味なのか。

 

「知っての通り、私は薬師よ。あらゆる薬剤を調合し、それを投与する事で患者の怪我や病気を治療しているの。けれど私が行っているのは、厳密にいえば薬を作る事だけ。例えば怪我の治療の場合、その薬の効力により体細胞や生命力を活性化させているのに過ぎないのよ。つまり私は()()()()()のではなく、あくまで回復を()()()()()()だけって事。そこまでは分かる?」

「……ええ。何となく」

「で、亡霊である進一は既に死んじゃってるから、そもそも体細胞を活性化させる事なんて不可能。生命力に関しては、端からそんなもの存在しないから活性化以前の問題。だから……」

「永琳さんのお薬が効かない……という事ですか」

 

 「そういうこと」と言いつつも永琳は頷いた。

 そこまでは──まぁ、何となくは分かる。永琳には以前、怪我の治療等もして貰った訳だが、彼女の本職はあくまで薬師なのである。

 八意永琳は確かに天才だ。けれど全知全能の神などではない。死者を生き返らせる事なんて出来ないし、無から有を作り出す事だって出来ない。

 死者である進一。止まってしまった彼の時間を動かす事など、幾ら永琳の力でもそこまでは及ばないのである。

 

 それ故に、無理なのだと。

 彼女はさっき、そう結論付けたはずなのだが。

 

「……でもね。薬剤の投与だけが、治療の全てという訳じゃないわ。そうでしょう?」

「えっ……?」

 

 八意永琳は続ける。

 岡崎進一の記憶喪失。その治療方法。永琳の力では実現できない、一つの可能性を。

 

「妖夢。貴方という存在が、彼の記憶を呼び起こす鍵と成り得るのよ」

「わ、私、ですか……?」

「ええ。この幻想郷……。と言うか、この時代で生前の彼の事を知っているのは、貴方だけよ。岡崎進一という男の子を最も理解しているのは貴方で、岡崎進一という男の子と最も長い時間を共有したのも貴方。そんな貴方と、もう一度時間を共有すれば……」

「……進一さんの記憶が、戻ってくるかも知れないと。つまり、そういう事ですか?」

 

 妖夢の確認。永琳はそれに頷いて肯定した。

 自分が鍵。自分ならば、進一の記憶を呼び起こすきっかけと成り得るかも知れない。そう永琳に告げられた妖夢だったが、けれどそれは真新しい情報という訳ではない。

 生前の進一の事を知っているのは妖夢だけだ。そんな妖夢と一緒にいれば、進一の記憶は刺激され、目を覚ますかも知れない。──それは真っ先に妖夢だって考えた可能性なのである。

 

 しかし。

 霊夢にだって、言われたじゃないか。

 

「……でも、進一さんは未だに記憶を取り戻していません。進一さんの記憶喪失は、そんなに軽い症状という訳じゃないんです。私と一緒に行動する。その程度の出来事では、進一さんの記憶は……」

「戻らない、と? ……ふぅ。急に随分と弱気ね、貴方」

「…………ッ」

 

 弱気にもなる。だって、状況は芳しくないのだから。

 進一と一緒に、彼の記憶を取り戻す。確かに妖夢はそう決意したのだけれども、それでも胸中の不安を完全に払拭出来た訳ではない。映姫や幽々子や紫、そして永琳でもどうにも出来ないとなると、いよいよ打つ手がなくなってきたのではなかと。無意識の内に、そう考えてしまう。

 無論、諦めるつもりなんて毛頭ない。ない、のだけれども──。

 

「だったら、簡単な話じゃない」

「え?」

「貴方との再会を果たし、そして行動を共にする。確かに()()()()の出来事では、進一の記憶は戻らなかったのかも知れない。なら、単純に()()()()()()出来事を試してみれば良いんじゃない?」

「き、強烈な出来事、ですか?」

「ええ」

 

 強烈な出来事。そう言われても、正直いまいちピンと来ない。

 果たして彼女は、何をどう示して強烈だと称しているのか。一体何を想定して、妖夢にそんな言葉を投げかけているのだろうか。

 

 そんな事を考えている内に、永琳が再び口を開く。

 

「妖夢」

 

 名前を呼び、そして指を指される。

 物々しい雰囲気。相も変わらず感情表現の乏しい表情で、永琳はそれを醸し出す。そんな気迫に威圧され、妖夢は生唾を飲み込んで。

 糸を張ったような緊張感の中、八意永琳の次の言葉を待っていた妖夢だったのだけれど。

 

「貴方、進一とデートしなさい」

「……は、はい?」

 

 ──いや、いきなり何を言い出すのかと思えば。

 デート? それはひょっとして、あのデートか? 恋人同士の男女が、時間や日時を決めて一緒に遊んだり、買い物に出かけたりするという、あの?

 

「…………」

 

 いや。

 待て。

 それはつまり、彼女が言いたい事とは。

 

「ふえ!? で、でででデート!? な、なな何を言ってるんですかいきなり!?」

「えっ、何そのやたら初心な反応。貴方達付き合ってるんじゃないの? そんなのもフワフワした関係だったの?」

「そ、そういう訳じゃ、ない、ですけどぉ……!」

 

 そうだ。そういう訳じゃない。そういう訳じゃないだろう。

 何だ、デートって。一体どこからそんな単語が出てきたんだ。やっぱり妖夢をからかうつもりなのか、彼女は。

 けれど永琳が浮かべるのは、やっぱり真面目で真剣な表情である。流石にふざけているような様子はない。

 

「何でいきなりデート? とでも言いたげな顔をしてるわね」

「あ、当たり前じゃないですか!」

「ふぅ……。いい? 進一の話を聞いた限りでは、貴方と一緒にいる時に最も大きな想起の兆しが見られたようじゃない。だったら行動を共にする事に越したことはないわ。それに加えて、もっと強烈な出来事が必要だというのなら……。これはもう、デートが最適解なのよ」

「う、うん? え、えっと……。……、い、いややっぱりおかしくないですか!?」

 

 何だろう、どこか観点がずれているような気がする。いや、確かに永琳の言っている事は間違ってはいないのかも知れないけれども。

 

「それにしても、まったく……。まさかそこまで初心な反応されるとは思わなかったわ。恋人らしい事をまともにしていないとは聞いてたけど、その様子じゃキスどころか手を繋いだ事すらも……」

「ば、バカにしないでくれます!? そ、それくらい……!」

「え? したの?」

「……っ、え、えっと……」

 

 有り体に言えば、キスならした事がある。けれどそれを堂々と宣言するのも、何と言うか──。

 結局言葉にできず、妖夢はモジモジするだけで終わってしまう。そんな彼女の様子を見て永琳は怪訝そうに首を傾げるのだけれど、それ以上の追求は飛んでこなかった。

 果たして彼女は、妖夢のこのリアクションをどういう風に捉えたのか。

 妖夢がそれを考察するよりも先に、永琳は再び口を開く。

 

「まぁ兎にも角にも、彼の症状が回復するか否かは貴方の頑張り次第って事。残念だけど、私は催眠療法とかは管轄外だしね」

「うぅ……。で、でも、デートって……」

「恋人らしい事、したいんでしょう? だったら丁度いい機会じゃない」

「そ、それは……!」

 

 ──確かに、そうかも知れない。だがこのタイミングでいきなりデートしろ等と言われても、幾ら何でも困ってしまう。心の準備とか、その他諸々全く持って整っていないのである。

 

「こういうのって、本来ならば男の子の方がリードするんでしょうけど……。でも彼は記憶喪失で、そうでなくとも外の世界の人間だしねぇ……。幻想郷の地理にだってさっぱりだろうし、ここはやっぱり貴方の方から働きかけるしかないわね」

「そ、そんな事言われましても……」

「まぁ、困っちゃうわよね、貴方の性格から考えて。それじゃあ、そうねぇ……」

 

 何やら考え込むような素振りを見せる永琳の横で、妖夢は内心頭を抱える。

 永琳の提案は中々に唐突感があるが、それでも決して的外れという訳ではない。確かに現状のままでは進一の記憶は戻って来ないのかも知れないが、それなら()()()()()()()を試してみればいい。単純な話だ。

 

 けれども。

 だとしても、デートだなんて。

 そんな事を急に言われても、正直今の妖夢にはどうしようもできない。ハードルが高すぎる。いや、今朝にあんな事をしておいて、今更何を躊躇しているんだという話だけれども。それはそれ、これはこれである訳で──。

 

 そんなこんなで妖夢が完全に言葉を見失っていると。

 

「……プリズムリバー楽団」

「……へ?」

 

 不意に永琳が口にした予想外の名前を前にして、妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまった。

 何なんだ。彼女はいきなり、何の事を言っているのだろう。

 

「知っているでしょう? 貴方も」

「え? え、ええ、まぁ……」

 

 プリズムリバー楽団。確かに、その名前は知っている。

 騒霊(ポルターガイスト)に分類される三姉妹で構成された楽団である。比較的アップテンポかつ勢いの激しい曲調の楽曲を好んで演奏しており、幻想郷でも()()()には少しばかり名の知れた楽団であると聞く。白玉楼でも以前に演奏を披露して貰っており、妖夢も彼女達とは何度か顔を合わせた事がある。

 しかし、なぜこのタイミングで彼女らの名前が出てくるのだろう。

 ──いや。まさか、とは思うが。

 

「ちょっと風の便りで小耳に挟んだのだけど、近々彼女達がライブを行うそうね。どう? それを話の種に進一を誘ってみるというのは?」

「ら、ライブ、ですか……?」

 

 やはりそういう話だったか。

 確かに、()()()()()に関してあまり──というか全くと言っていいほど知識のない妖夢では、自分ひとりだけの知識でデートに誘う口実を考えるなど不可能だ。けれど何か具体的なイベントか何かが存在すると言うのなら、多少なりともハードルは下がる。

 しかし。

 

「で、でも、そんな……。ライブ、だなんて……」

「……いつまでウジウジしているのよ。そもそも、彼女達が奏でる音色は、今の進一に良い影響を与える可能性もあるんじゃない?」

「……えっ?」

 

 何だって?

 彼女達──プリズムリバー楽団の奏でる音色が、進一に良い影響を与える?

 プリズムリバー三姉妹。騒霊。魑魅魍魎に属する彼女達が奏でる音色は、当然ながら人間のみで構成された楽団のそれとは違う。もっと非科学的で、もっと非常識的で──もっと幻想的。

 そうだ。確か、彼女達の音色は──。

 

「プリズムリバー三姉妹。その長女と次女が奏でる楽器の音色。それは耳ではなく、精神に直接響き渡るのでしょう? そして進一は亡霊。実体はあるけど肉体はない。いわば超高濃度の精神体とも言える存在よ。()()()()()()()()が停止している彼に対して、私の薬は意味をなさないけれど……。でも、騒霊の奏でる音色が、彼の精神に何らかの影響を与えられるのだとすれば……」

「……進一さんの、記憶の復活に繋がると。そう仰りたいのですね?」

 

 妖夢の確認。永琳はそれに頷いて答えた。

 本当に、永琳は色々知っている。確かに彼女の言う通り、プリズムリバー三姉妹の長女と次女──ルナサ・プリズムリバーとメルラン・プリズムリバーが奏でる音色は、精神に直接影響を及ぼす効果がある。

 騒霊に分類されるだけあり、彼女達が演奏に使う楽器もまた霊体。そんな楽器から放たれる音は、厳密にいえば“音”の定義から外れてしまっている。音の幽霊、とでも称すべきか。

 兎にも角にも、ただの音楽ではないのである。そんな音が、岡崎進一という亡霊──その精神に、直接響き渡りさえすれば。

 

「た、確かに……。よい兆しが見られる可能性はある、かも知れません……」

「でしょう?」

 

 その通りだ。決して無駄な行動ではない。

 それならば。寧ろこれは、積極的に誘うべきなのではないだろうか。あの永琳でも、進一の記憶喪失は直接治療出来なかったのだ。だったら今は、どんなに些細な可能性でもかけてみるしかなかったじゃないか。

 藁にも縋る思い。そんな中で、一つの可能性が提示されたのである。それならば妖夢がすべき事は一つじゃないか。

 

(う、ううう……!)

 

 迷う。迷う、が──それでも。

 妖夢だって、誓ったのだ。進一の記憶を、必ず取り戻すと。その為なら、どんな無茶だって貫き通すのだと。そう心に決めたじゃないか。

 だったら。

 だったら。妖夢は。

 

「どうするの? やるの? やらないの?」

「わ、私……」

 

 覚悟を決める。心を固める。信念を貫く。

 進一の記憶を取り戻す為。彼を元の時代に帰す為。そして彼の魂を、あるべき場所で供養する為に。

 

「わ、分かりました……」

 

 そう。

 これは決して、遊びじゃない。

 

「わ、私……」

 

 今度は妖夢が、進一の事を助ける為に。

 

「進一さんを、デートに誘います……!」

 

 彼女は力強く、そう決意するのだった。

 

 

 *

 

 

 ──そう。決意、したはずなのだが。

 

「う、うう……! うううう……!!」

 

 魂魄妖夢、相も変わらず湯船の中で絶賛悶え中である。

 決意はした。──いや、決意はした()()()だった。でもいざ実行に移そうと思うと、やはりどうしても恥ずかしさが先に込み上げてしまう訳で。結局妖夢は、こうして風呂の時間まで進一をデートに誘えていないという訳である。

 

(い、いや、デートと言ってもこれはあくまで進一さんの記憶を取り戻す為であって、決してそんな浮ついた話じゃないと言うかああでもデートって結局そういう事と言うか何と言うか……!!)

 

 頭の中が五月蠅い。冷静に思考する事が出来ない。支離滅裂だ。

 身体中が熱い。色々と考え込んでいた所為で、早くものぼせてきてしまった。湯船に浸かってからまだそう時間は経っていないはずなのに、何なんだこれは一体。これからの事を考えれば考えるほど、ますます体温が上昇してきてしまって。

 

「……と、取り合えず出よう」

 

 本当にのぼせてダウンしてしまっては元も子もないので、妖夢はこのタイミングで風呂から上がってしまう事にする。

 

 浴槽から上がって軽く身体のお湯を拭い、そして脱衣所に出てから改めてバスタオルで身体を拭く。熱めのお湯によって軽い蒸し風呂状態と化した浴室とは違い、この脱衣所は少しひんやりとした空気が立ち込めている。文字通り頭を冷やす事の出来た妖夢は、僅かだが冷静な思考能力を取り戻しつつあった。

 そう。

 妖夢は決して、遊んでいる訳ではない。進一の記憶を取り戻す為、沢山の人の力を借りてまでこうして前に進もうとしているのである。

 それなのに。本当に自分は、いつまでウジウジしているのだろう。いつまでこんな思考を続けるつもりなのだろうか。

 

「…………っ」

 

 進一の事を助けるのだと、そう心に決めたじゃないか。

 だったら妖夢がすべき事はひとつだ。

 

「よしっ……」

 

 寝間着に着替えつつも、妖夢は意を決する。

 やってやる。やってやろうじゃないか。散々奥手だとか何だとか言われてきたが、妖夢だってやる時はやる少女なのである。それを今夜、示して見せようじゃないか。

 寝間着に着替えた妖夢は、一人心の中で強く意気込む。この決意、最早揺るぎはしない。

 

「……善は急げ、だよね」

 

 しっかりと身だしなみを整えた後に、妖夢は進一を捜そうと脱衣所を後にする。

 この広い白玉楼。この時間だと、果たして彼はどこにいるのだろうか。自室か、それとも食事を取る際にも用いる広間か。幽々子の話し相手になっている、という可能性も存在する。

 けれどいずれにしても、妖夢の思いは揺るがない。流石に今回という今回は、やると決めたら必ず実行に移すのだ。気まぐれなんて許さない。是が非でも、何が何でも、万難を排してでも。魂魄妖夢は、貫き通す。心に決めた、この思いを──。

 

「……妖夢じゃないか。風呂から上がったのか?」

「ひゃいっ!?」

 

 変な声が出た。

 不意に声をかけられた。色々と脳内でシミュレーションしていた所為で、意外と視野が狭くなっていたらしい。弾かれるように振り返ると、そこにいたのは今まさに妖夢が捜し求めていた人物。

 

「し、進一、さん……!?」

「? ああ、そうだが……。何をそんなに慌てている?」

 

 そりゃ慌てもする。いや、確かに彼の事を捜していたのは事実だけれども、それでもこちらから見つけるのではなくあちらからいきなり声をかけてくるのはまた違うというか何というか云々かんぬん。

 いけない。また頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。ここは深呼吸しよう。今一度、この状況をしっかりと飲み込んで──。

 

「…………。あの、えぇっと……」

「……ああ」

「……進一さん。どうしたんですか、その恰好……?」

「うん?」

 

 ──少し冷静になってみたら、進一の服装がいつもとは違う事に気が付いた。

 上着の袖を捲り、その上から身に着けるのはエプロン。そして頭の上にはバンダナ。片手に持つのは掃除用具と、最早完全に清掃員スタイルである。

 何なんだ。一度気が付くと、気になってしまって仕方がない。

 

「ああ、これか? ちょっと掃除をしてたんだよ。白玉楼は広いからな。掃除のし甲斐がある」

「え、えっと……。そもそも、どうして掃除なんて……?」

「……これでも俺は居候の身だからな。世話になりっぱなしなのも悪いじゃないか」

 

 成る程。それで、掃除なのか。確かに彼は姉が不在の時などは一人で家事も熟してしていたようだし、掃除に関しても意外と器用に行うのだけれども。

 そういえば、進一と再会したあの時も、彼はこの格好だったような気がする。あの時は完全に気が動転していた所為で、そんな事に気を回す余裕などなかったが。

 しかし、幾ら居候という身分とは言え、こんな時間まで掃除の為に白玉楼を駆け回る事もなかろう。生真面目というか何と言うか。

 

 ──いや。よく考えてみればぶっちゃけ二年前の妖夢も似たようなものだったし、あまり人の事などとやかく言える立場ではないのかも知れないが。

 

「でもまぁ、確かにそろそろ時間も時間だしな。掃除はこの辺で切り上げて、俺も風呂に入っちまうとするか」

「…………っ」

 

 妖夢は息を呑む。

 急な進一の登場により面食らってしまったが、しかしこれは千載一遇のチャンスである。彼をデートに誘うのならば今しかない。この機を逃せば、きっとこの先チャンスは完全に断たれてしまうだろう。自分の性格的に。

 よし。大丈夫だ。覚悟は既に決まっている。後はちょっとの勇気を絞って、一歩前に踏み出すだけ。この程度、造作もない事のはずだろう?

 

「それにしても、今日も中々に濃い一日だったよな。幻想郷ってのは、個性的な連中が多いらしい」

「……」

 

 心臓が五月蠅い。息が苦しい。緊張感が凄まじい。

 けれども妖夢は諦めない。例えこれから実行に移す行為が、自分にとってどれほど困難なものであろうとも。

 ──抗って見せる。

 

「し、進一さん!」

「……ん?」

 

 声をかける。顔を上げる。彼と視線がぶつかる。

 高揚する頬。ますます激しくなる動悸。そんな息苦しさを振り払って。

 

「あの、その……。わ、私、と……!」

 

 魂魄妖夢は、前に出る。

 

「私と……デート、してくれませんか……?」

 

 ──言った。

 言ってしまった、遂に。この、一言を。

 

 何だろう、この感じ。恥ずかしさとか、息苦しさとか、最早そんな言葉程度では表せない。視界がぐるぐる回っているかのような感覚。どちらが上で、どちらが下か。それさえも分からなくなりそうなほどの狼狽。

 大袈裟な、と笑う者もいるかもしれない。だけれど魂魄妖夢という少女は、元来奥手な性格なのである。それも筋金入りの、だ。

 

(ひやあああああ!? い、言っちゃったああああ!?)

 

 頭の中が五月蠅い。さっきよりも、断然五月蠅い。

 

(だ、だだだだ大丈夫だよね!? 急にこんな事言って、進一さんに変に思われてないよね!?)

 

 彼の顔を確認してみる。

 ぽかんと呆気に取られたかのような表情。まるでこの状況をいまいち飲み込む事が出来ていないような。

 ──そりゃそうだ。記憶喪失で大変なのに、いきなりこんな事を言われて混乱するなと言う方が無理な話である。だとするとやはり自分の取った行動は失敗? ひょっとして、まさかの藪蛇?

 

「あっ! あ、ああああの、いや、す、すいませんいきなり変なこと言って……! き、急にこんなこと言われても、その……。迷惑、ですよね……?」

「あ……。い、いや、すまん。少し驚いただけだ。まさかお前の方からそんな事を言われるとは思っていなかったというか、何と言うか……」

 

 進一の口調もややしどろもどろになりつつある。思わずといった様子で妖夢から視線を逸らし、くすぐったそうにそんな事を言っている。

 彼もまた、少し動揺しているという事なのだろうか。それはつまり、少なからず妖夢の事を意識してくれているという訳で。

 

「……ど、どうして急に、デートなんて?」

「そ、それは、その……。ほら、進一さんの記憶を取り戻す為の一環、と言いますか……! 近々、プリズムリバー楽団という方達が演奏会を開くんですけど、その人達の奏でる音色は精神に直接作用する効果がありまして……! で、ですから、例え些細な事でも、進一さん記憶を取り戻す為の手掛かりに成り得るのではないのかなぁ、と……」

「あ、ああ……」

「だ、だから、その……。え、えっと、ですね……。そ、その演奏会に……、わ、私と、一緒に……」

 

 ──最早自分が何を言っているのか、半分自分でも分からない。混乱が酷くなってきた。

 結局何が言いたいんだ、自分は。完全に話の着地点を見失っているではないか。素直に「一緒に演奏会に行こう」と言えば済む話なのだが、それが実行に移せない。まったく、自分はやっぱり()()()()()()だ。もっとずばりと決断出来たのなら、どれほど楽だった事か。

 まぁ、今更ないもの強請りなどしても、仕方がないのだけれども。

 

(あーもうっ! はっきり言ってよ私! 何でこんなにしどろもどろになっちゃうの……!?)

 

 終いには心の中で自分で自分に突っ込みを入れ始める始末。

 しかし、やはり頭の中で想定するのと実際に行動に移すのでは、あまりにも勝手が違い過ぎる。ああ、何だか恥ずかしさやら何やらで進一の顔もまともに見れない。これでは結局奥手である事に何ら変わりはないじゃないか。

 

 こんな調子じゃ駄目なのだと、今更悔い改めてももう遅い。穴があったら入りたい。時間が戻せるのなら戻したい。やり直しが許されるのなら、今度こそもっと器用に立ち回りたい。

 

 そんな非生産的な事に思考の大半を費やしていた妖夢だったが。

 

「……妖夢」

 

 ポンっと、頭の上に何かが乗せられる。

 どことなくぎこちない。けれども確かな温かみのある感覚。反射的に顔を上げると、そこで丁度進一の視線とぶつかった。

 どうやら妖夢は、彼に頭を撫でられているらしく。

 

「し、進一さん!? な、ななな何を……!?」

「いや、何て言うか……。すまなかったな、無理をさせちまって。こういうのって、本来ならば男の方から誘うのが筋なんだろうが……。すっかり、出遅れたな……」

「ふ、ふえ……!? そ、そんな、進一さんは記憶喪失な訳ですし……。こ、今回は、そのて……! わ、私が勝手に決めた事でして……!」

 

 ──察するに、彼は男である自分の方からこういう話を持ち出せなかった事をちょっぴり悔やんでいるらしい。てっきり妖夢の急な誘いに対して困惑しているのではないかと思っていたが、そんな予感とは裏腹に彼が抱くのは至極真面目な想いである。

 そうだ。彼はそういう人だったじゃないか。

 ちょっぴりクールでぶっきらぼうな印象もあるけれど、でも根は真面目で優しくて。そんな彼の優しさに、妖夢は惹かれたんじゃないか。

 

 そんな彼の人となりは、例え記憶を失っていても変わってなどいない。

 

「あー……。だが、その、なんだ」

 

 ぽりぽりと、頬を掻きながらも彼は言う。

 何だかちょっぴりこそばゆそうに。

 

「確かに、男である俺の方から誘うべきだったんだろうが……。でも、お前がこういう話を持ちかけてくれて、嬉しかったという気持ちだって確かに存在しているんだ。それは後悔なんかより、ずっとずっと強い気持ちだったから……」

 

 彼もまた、先程の妖夢と同じように。

 「だから」と。精一杯に、口にして。

 

「……デート、するか?」

 

 ──ああ。やっぱり彼には、敵わない。

 彼だって、そこまでグイグイ来るようなタイプではない。奥手と言うよりも少し鈍感な部分があって、不器用な一面もあって。彼だって、この手の事には慣れてないだろうに。それでも妖夢の気持ちを汲み取ってくれた。

 そんな彼の優しさに、甘えてばかりではいられない。それは分かっている。分かっているのだけれども。

 

(それでも……)

 

 それでも、この一時ばかりは素直になっても良いじゃないか。

 自然と妖夢は、心の中でそう結論づけて,

 

「……はいっ」

 

 余計な気の迷いを、払拭して。

 

「行きましょう、デート!」

 

 紆余曲折の末、魂魄妖夢はようやく素直な気持ちを口にする。記憶を取り戻す為だけじゃない。彼との時間を過ごしたいのだと、そんな心を自然と彼女は受け入れる。

 

 進一の温もりが、妖夢を素直にしてくれる。

 ちょっぴり我儘を言っても良いのだと、そんな気持ちにしてくれる。

 

 無理を言っても良いじゃないか。

 だって、そうだろう?

 

 この時間は永遠じゃない。そう遠くない未来、終わりは必ずやってくる。

 なぜなら、彼は。

 岡崎進一という青年は、亡霊で──そもそもこの時間の人間ではないのだから。

 

 本来いるはず時間に、帰るべき存在なのだから。


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